第8話 『辺境のヒュッゲ 〜冬将軍を退ける、キャンドルの聖域〜』
「――カイル様、外はもう、隣の家さえ見えないほどの白一色です。風が獣みたいに唸っていますよ」
フィーネが、分厚い羊毛のカーテンを少しだけめくって、不安そうに外を覗き込んだ。
窓のすぐ向こう側では、荒れ狂う冬将軍が牙を剥き、雪の礫(つぶて)が「バシバシ」と音を立てて硝子を叩いている。辺境の冬は残酷だ。家を一歩出れば、五分と経たずに命を吸い取られるほどの猛吹雪。
けれど、一歩室内を見渡せば、そこには別世界が広がっていた。
「大丈夫だよ、フィーネ。……さあ、皆さんも、もっと火のそばへ。今日は無理に帰ろうとせず、ここで心を温めていってください」
カイルの声は、暖炉で爆ぜる薪の音のように、穏やかで厚みがあった。 かつての廃屋は、今や村人たちの「避難所」であり、何より「心地よい居場所」――ヒュッゲな空間へと生まれ変わっていた。
「……不思議な家だ。外はあんなに恐ろしいのに、ここに入ると、肺の奥まで解けていくような気がする」
村の猟師が、大きな木の器に入った『ホット・グロッグ』を両手で包み込み、深く吐息をついた。 部屋を照らすのは、魔導灯の鋭い光ではなく、蜜蝋のキャンドルが放つ、小刻みに揺れる柔らかなオレンジ色の光。木の壁に映る人々の影はゆったりと伸び、まるで呼吸を合わせているかのように優しく揺れている。
「カイル様、この『ヒュッゲ』というのは、魔法の一種なのですか?」
フィーネが、カイルが淹れてくれた香草茶(ハーブティー)の香りを楽しみながら尋ねた。
「いいえ、フィーネ。これは魔法じゃない。……強いて言うなら、『家を整える』という祈りの形かな」
カイルは、浄化魔法で磨き抜かれた白樺のテーブルをそっと撫でた。
「宮廷にいた頃の僕は、家なんてただの寝る場所だとしか思っていなかった。でも、自分の手で床を磨き、木の器を乾かし、キャンドルを灯す。そうやって『心地よさ』を一つずつ積み上げていくことは、外からの悪意や不安から、自分の心を守るための盾を作ることなんだ」
「……心を守る、盾……」
「そう。外がどんなに吹雪いても、自分の場所が整っていれば、人は絶望しない。……ルキウス、グロッグの二杯目をお願いできるかな?」
「フン、管理栄養士としては糖分の摂りすぎが心配だが……これほどの寒さだ。今は心の栄養を優先しよう。カイル、シナモンを足せ。香りは脳を浄化するぞ」
銀の匙がチリリと鳴り、スパイシーで甘い香りが部屋に立ち上る。 人々の呼吸が、次第に深く、穏やかになっていく。 昼間の不作への不安や、厳しい寒さへの恐怖が、キャンドルの炎に溶けて消えていく。
「……ねえ、カイル様。私、この家の匂いが大好きです。古い木と、蜜蝋と、それから……『誰かが大切にされている』匂いがするから」
フィーネが目を細めて笑った。 その笑顔は、かつて飢えに震えていた頃とは別人のように、内側から輝いている。
「おいしいね、カイル様」 「うん、本当においしい。……こうして誰かと肩を寄せ合って、温かいものを飲む。……それだけで、僕たちは明日も生きていけるんだよね」
カイルは、窓の外を叩く風の音を聞きながら、自分の中の「心のコップ」を確かめた。 そこにはもう、溢れそうな泥水はない。 ただ、穏やかに揺れるキャンドルの火影のような、温かな光が満ちていた。
「さあ、もう一杯。……夜は長いけれど、僕たちの火は消えませんよ」
外では冬将軍が荒れ狂い、世界を白く塗り潰そうとしている。 けれど、この小さな「聖域」の中では、人々の心がシャンパンゴールドの光に包まれ、静かに、力強く、春の訪れを信じていた。
――完。
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