第5話『三分間の立哨 〜スープの湯気が教えてくれた、今の居場所〜』
「――カイル。座るな。立ったまま、その揺れる湯気を見つめていろ」
ルキウスの峻烈な声が、静かな小屋に響いた。
カイルは、ふらつく足を踏ん張った。胃の腑は裏返るほどに空っぽで、意識の端が白く霞んでいる。目の前の黒い鉄鍋からは、ゴボウに似た根菜『土精(どせい)』の滋味深い香りが立ち上り始めていた。
「ルキウス……もう、限界だよ。椅子に座らせてくれ。宮廷じゃ、食事なんて五分で済ませるものだった。座って待つことさえ、許されないのか?」
「黙れ。座ればお前はまた、過去の悔恨か未来の不安に意識を飛ばす。お前という器は、今ここには不在になる」
銀の匙がチリリと鳴り、鍋の上の空気を切り裂く。
「三分だ。火にかけてから、最も美味くなる瞬間の頂(いただき)まで、あと三分。その間、お前はここで『立哨(りっしょう)』しろ。自分の命を見張る番人になるのだ」
カイルは、重い瞼をこじ開けた。 パチパチと爆ぜる薪の音。窓の外で吹き荒れる冬の風が、壁の隙間を鳴らす「ヒュウ」という悲鳴。そして、鍋の中で踊る黄金色のスープ。
一分。 不思議な感覚がカイルを襲った。 今まで、自分の人生に「ただ待つだけの三分」なんてあっただろうか。 宮廷では、魔法陣を書きながらパンを口に押し込み、歩きながら報告書を読んでいた。常に「次」の予定に追いかけられ、今この瞬間の空気の色も、自分の鼓動の速さも忘れていた。
「……静かだ。こんなに静かな三分の使い方が、あったんだね」
「そうだ。お前は今まで、人生を『こなして』きた。だが、生きるとは『味わう』ことだ」
二分。 香りが変わった。 ただの野菜の匂いから、土の温もりを封じ込めたような、深く、甘い香気へと変容していく。 カイルの鼻腔をくすぐるその香りは、枯れていた彼の感情に、じわりと血を通わせていくようだった。
「……ルキウス。僕、思い出したよ。子供の頃、母さんが作ってくれたスープも、こんな匂いがした。あの時、僕は確かに幸せだった。数字も、役職も、承認欲求も、何一つ持っていなかったのに」
「それはお前のコップに、まだ『純粋な水』だけが満ちていた頃の記憶だな」
三分。 魔導時計が、小さく清らかな音を立てた。
「よし、カイル。器に注げ。お前の『待った時間』という最高の調味料が、今、完成した」
カイルは震える手で、木のお玉を握った。 琥珀色のスープを、浄化魔法で磨き上げた木の器に注ぐ。 立ち昇る湯気が、カイルの顔を優しく包み込んだ。
一口、木匙(きさじ)を口に運ぶ。
「…………っ」
熱い。けれど、驚くほど優しい。 野菜の繊維が舌の上で解け、凝縮された大地の生命力が、喉を通って全身の細胞へと駆け巡る。 指先の冷たさが消え、強張っていた肩の力がふっと抜けた。 それは、ただの料理ではなかった。 「待つ」という行為によって、カイル自身が世界と折り合いをつけた、和解の味だった。
「美味しい……。ルキウス、こんなに美味しいスープは、生まれて初めてだ」
カイルの目から、温かな涙がぽたぽたとスープの中に落ちた。 それは悲しみの涙ではない。 「自分は、今、ここに生きている」という、当たり前で尊い事実に触れた喜びの涙だった。
「カイル。生きることは、急いで目的地に着くことではない。……目的地に向かう道すがら、立ち止まって湯気を眺める。その余裕こそが、聖域を創る種火になるのだ」
ルキウスの声が、今度は深い慈愛に満ちて響いた。
「……わかったよ。僕はもう、急がない。……三分間、立って待てる自分を、誇りに思いたい」
カイルは最後の一滴まで、大切にスープを飲み干した。 外はまだ深い雪の中。けれど、カイルの心のコップには、温かで、透き通った「生きる意欲」が、なみなみと注ぎ直されていた。
――完。
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