第3話 氷の下のリフレクション(反射)

北の森の朝は、すべての音が凍りついたような静寂の中にあった。 カイルは、浄化魔法を纏わせたバケツと古びた雑巾を手に、廃屋の裏手に広がる小さな湖へと向かった。


「……ひーー。鼻の奥がツンとする。空気がまるで、薄い刃物みたいだ」


カイルが吐き出す息は、瞬時に真っ白な塊となって空に溶ける。 目の前に広がる湖は、厚い氷に閉ざされていた。けれど、その表面は雪に覆われ、煤け、どこか死んだ魚の鱗のような、どんよりとした灰色をしていた。


「カイル。まずはここを磨け。魔法で一気に氷を溶かすんじゃない。お前の手で、幾度も、幾度も洗い直すんだ」


肩に乗ったルキウスが、冷徹なまでに響く声で命じた。


「……魔法で一瞬で消すんじゃ、ダメなの? 宮廷ではそうだった。汚れなんて、不浄なものはすぐに『消去(バニッシュ)』すればいいって……」


「それは『消した』だけで、『浄化した』ことにはならん」 ルキウスは銀の匙をチリリと鳴らした。 「汚れとは、生きてきた証であり、失敗の積み重ねだ。それを無視して消し去るから、お前の心のコップは濁ったままで溢れたんだよ。向き合え。そして、やり直せ」


カイルは、震える手で氷の上に膝をついた。 冷たさがズボンの生地を通り越し、膝の骨に直接刺さる。彼は魔法のバケツから汲み上げたぬるま湯に雑巾を浸し、氷の表面をなでた。


「……冷たい。でも、温かいな」


カイルは、無心に手を動かした。 一度拭う。汚れが少し落ちる。 二度拭う。煤の下から、深い碧色の氷の層が見えてくる。 三度拭う。雑巾を絞り、冷たくなった水を捨て、また新しく汲み直す。


「……これ、宮廷での僕と同じだ」


カイルの口から、不意に本音が零れた。 「失敗したら、責任をなすりつけられて、その痕跡を消すことばかり考えてた。上司に怒鳴られないように、無かったことにする……。でも、それじゃ何も変わらなかったんだ。僕自身の心に、その汚れが溜まっていくだけだった」


トントン、とリズムよく氷を叩き、表面の細かな傷を魔法の粒子で埋めていく。 それは、気が遠くなるほど地味で、繰り返しの作業だった。 指先の感覚が麻痺し始め、自分の手のひらがどこにあるのかも分からなくなる。 それでも、カイルは止めなかった。


「……よし。最後の一拭きだ」


キュッ、という乾いた音が響く。 その瞬間だった。


東の空から、冬至を間近に控えた低い太陽が、銀の針のような光を投げかけた。 光は、カイルが磨き上げた一点に突き刺さり、そこから氷の奥深くへと潜り込んだ。


パァァァァ……ッ!


「……っ!!」


カイルは思わず、腕で目を覆った。 磨き抜かれた氷の下で、光が乱反射(リフレクション)を起こしたのだ。 灰色の死んだ湖だった場所が、今は万華鏡を覗き込んだような、シャンパンゴールドと蒼の混ざり合う幻想的な光のドームに変わっていた。


「綺麗だ……。なんて、綺麗なんだ……」


カイルの目から、一筋の涙が零れた。 その涙は、氷の上に落ちた瞬間、宝石のように凍りついた。


「ルキウス……。僕、ただ氷を拭いていただけなのに。……何でもないことが、普通にできる。……ただそれだけのことが、こんなに嬉しいなんて、思わなかった」


宮廷での派手な儀式魔法でも、壮大な予算編成の達成でも得られなかった、震えるような充足感。 自分の手で、汚れた過去を「洗い直し」、その向こう側にある輝きに辿り着く。 それは、自分自身を救うための儀式だったのだ。


「気づいたか、カイル。浄化とは、無にすることではない。汚れを認めた上で、本来の輝きを取り戻すまで、何度でも手を差し伸べることだ」


ルキウスの声が、今度は少しだけ、春の風のように優しく響いた。


「……うん。僕の心のコップも、こうやって磨いていけばいいんだね。……失敗してもいい。汚れてもいい。……また、洗い直せばいいんだから」


カイルは立ち上がり、大きく伸びをした。 腰の痛みも、指先の痺れも、今は心地よい勲章のように感じられた。 磨き上げた湖のリフレクションが、カイルの頬を青白く照らしている。


「さあ、帰ろう。……この光を忘れないうちに、廃屋の窓も、もう一度磨き直したいんだ」


カイルの足取りは、来た時よりもずっと軽く、力強かった。 氷の下で、復活の光が、未来を祝福するようにキラキラと踊り続けていた。


――完。


題名:『氷の下のリフレクション 〜洗い直しの魔法、心の輝き〜』

第3話、書き上げました。 文子さんの「何でもないことが普通にできるすごさ」という言葉が、カイルの涙を通じて結晶化したようなエピソードになりました。 失敗を消すのではなく、向き合って磨くことで、想像もしなかった輝き(リフレクション)に出会える。 この気づきが、カイルの「聖域」をより深いものにしていくはずです。


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