山羊の絵

香久山 ゆみ

山羊の絵

 昼間の動物園をぶらぶら歩く。

 べつに何に興味があるわけでもない。シマウマもカバ舎もペンギンも全部素通りして。見たいものなど見つけられないままふらふら歩いて、いつの間にか敷地の端まで来てた。閑散としている。引き返そうとしたところ、「メェ~」と鳴き声がして、振り返るとあいつがいた。


「こんな所で描いてんの」

 声を掛けると、シロは振り返りもせず「うん」と答えた。

 学校の写生会で、動物園に来た。皆はわいわいとゾウやキリンやライオンの絵を描いているのに、一人離れた場所に座るこいつを見つけた。

「何描いてんの。ここ、ヤギしかいないじゃん」

『ふれあい広場』の看板の下には『おやすみ中』の紙がペラリと貼られていて、ウサギもモルモットもいない。いるのはヤギだけだ。

 数頭のヤギが柵にもたれかかるようにしてだらりとしゃがんでいる。何も食べてないのに、ずっと口をくちゃくちゃ動かしている。

「うん。ヤギ描いてる」

 シロは、画用紙の上で鉛筆を動かしながらそっけなく答える。

「鉛筆で描いてんの」

 シロの手元には、黒鉛筆と、「いらないから」と同級生からもらった白鉛筆の二本しかない。

「ヤギは白と黒しかいないから」

「茶色もいるじゃん」

「黒と白まぜれば茶色になるし」

「なるほど」

 俺も大概馬鹿だったから、それで納得した。そうだ、黒と白で茶色になるなんて思っていたのだから、それはまだ小学生低学年の頃だった。

 俺も、あいつの隣に並んで座った。白黒の絵には勝てると思ったんだろう。

 けれど、ちらっと隣の画用紙を覗き込んで、目を奪われた。

 鉛筆で描かれたヤギはその毛並みに触れられそうなくらいにリアルで、でも目だけは大きく力強く描かれていて、黒水晶のような瞳に吸い込まれそうだった。痩せっぽっちでぎょろりと目の大きいシロに少し似ている気がした。

「すご」と思わず漏らすと、シロは照れくさそうに笑った。

 勝ち目のないことを悟った俺は、シロに倣って鉛筆一本でパンダの絵を描いた。

「パンダなんていないのに!」

 あいつは教室では見せないような楽しそうな顔できゃっきゃと笑った。先生には注意されたけど、べつに怒られやしない。日頃要領よくしてるので、「ばかね」と笑われただけだ。

 絶対にコンクールの金賞を獲ると思ったシロの絵は、しかし教室の隅に皆と一緒に貼られてそれでおしまいだった。学校代表には、ごちゃごちゃと色を散りばめた絵が選出されて、入選しましたと全体朝礼で校長から表彰されていた。

 それで、俺はクリスマス会のプレゼント交換に、24色入りの色鉛筆セットを持っていった。貧しくて色鉛筆も買えないあいつのために。

 けれど、あいつは来なかった。

 プレゼントを準備できなかったからかと思ったが、新学期になってもあいつは学校に姿を現さなかった。「ヨニゲしたらしい」とクラスメイト達は噂していた。

 俺は行き場のなくなったまっさらな色鉛筆を学校の焼却炉にばらばらと投げ込んだ。カラフルな煙でも出るかと思ったけど、煙突からはもくもくと黒い煙が出るばかりで、用務員のおじさんに見つからないうちに逃げ出した。なぜか、黒と白の鉛筆だけは燃やさずにポケットに入れていた。


「シロ!」

 動物園の隅で懐かしい顔を見つけた時、思わず当時のままで呼び掛けていた。

 振り返った男もまた、驚いた顔をして「りくろうくん」と当時の呼び名で俺を呼んだ。

 あれから二十年。もう三十になる男が「シロ」「りくろうくん」と呼び合ったことに、互いに苦笑した。

 シロはひょろりと背が伸びて骨ばった印象だし、俺は十代のサッカー少年だった頃と違って今は分厚い筋肉を付けている。お互いよくも一目で気付いたものだ。

「久し振り」

 ヤギの柵の脇に小さな折畳み椅子を置いて、シロが座っている。

 その対面に置かれた椅子に腰を掛ける。

「まだ描いてんの」

 足元に立てられた小さな看板に視線を落とす。『似顔絵 一枚五〇〇円』と描かれている。

「うん。趣味みたいなものだけど」と、シロがはにかむ。平日は会社員をしていて、休日に絵を描いて、たまに動物園へ行ったり、似顔絵描きをやったりしているらしい。

「りくろうくんは?」

「営業」とだけ答えた。普段なら、聞かれなくても企業名や役職や扱う製品まで述べるところだが、なんとなくそんな気にならなかった。

「……白と黒だけ?」

 シロの手元には、黒い木炭と丸められたパン屑があるだけだ。

「ああ、出張中だから」

 充分な道具もないまま、絵を描きに来たのだ。平然と答えるこいつを見て、記憶のずっと奥深い場所から二十年前の感情が再び現れる。

 それは、羨望のようであり、嫉妬のようであり……。


「すご」

 目の大きなヤギの絵を褒めた時、少年はさっと頬を染めてはにかんだ。自分の絵が褒められた喜びを噛み締めるように。

「まじですげえよ」

 もっと喜ばせたくてそう言ったはずなのに、すぐ隣で長い睫毛を伏せて恥らうシロを見て、妙な感覚になった。幼い自分にはまだその感情に名前を付けることはできなかった。

「色鉛筆、ほしい?」

 目の前の才能を開花させるには、明らかに道具が足りない。

「うん」

 本人もそう考えているのであろう、素直な返事が返ってくる。

「おれが買ってやろうか」

「えっ、いいの」

 まるで本人が描く絵のように、シロの瞳が大きく輝く。

「ヤギのまねしろよ。そしたら、クリスマス会の時に持ってってやる」

「うんっ」

 一瞬の躊躇もなく、「めぇ~」とシロは鳴いた。その時、自分の中にぞくぞくと電気が走った。周りに人がいないのを確認して、俺はさらに言った。

「鳴き声だけじゃまねにならない。ちゃんとヤギの格好をして」

 足元で四つん這いになって動きも真似るよう指示した。

 今度は、一瞬の逡巡の後、それでも素直にシロは四つん這いになった。周囲の視線を確認することもせず。ただ、自分自身の才能だけを信じているのだ。

「お前の目、ヤギに似てる」

 目の前の絵描きに言う。四つん這いの彼がその双眸でこちらを見上げる。

「ヤギの目、好きだよ。いつも笑ってるみたいで」

「悪魔の目だろ」

 吐き捨てるように言ってやったのに、小さな絵描きは目を細めて笑った。本当に、悪魔と契約して好きなだけ絵を描ければいいのに、と。

 自分だって、小学校に上がる前から地域のサッカークラブに入っている。サッカーは好きだ。幼稚園の卒園文集には将来の夢『サッカーせんしゅ』と書いた。けど、俺の夢と、シロの夢は、決定的に何かが違う。小器用な自分は、いつしか与えられた「」というものをわきまえていた。けど、シロはどこまでも貪欲に天から与えられた「才能」を信じて究めようとしている。

 なんでも適当に要領よくこなしていたのに、こんな屈折した感情が芽生えたのは、シロのせいだ。だから、その贖いを求めるように、俺はシロを見下ろしてさらに指示を出した。

 結局、そのことを怒られた記憶はないから、動物園の片隅でひっそりと行われた光景は、誰に見られることもなかったのだろう。

 けれど、俺の中の何かを決定的に変えてしまった。それが性癖というものだと理解したのはずいぶん後になってからだ。

 24色の色鉛筆を贈ることで、自分とシロの関係は決定的になるはずだった。

 けれど、シロは来なかった。

 クリスマス会は冬休みに入ってすぐだった。本当に夜逃げのせいで来なかったのかどうか、俺は知らない。

 その時ポケットに突っ込んだ黒と白の鉛筆は、今も実家の学習机の引き出しの奥に眠っているだろう。


 色鉛筆のことなんてすっかり忘れていたのに、再会した男を見て、机の奥に失くしていた色鉛筆を思いがけず見つけたような心持ちになる。

 自分は高校生の時にサッカーには見切りを付けたのに、こいつは未だに絵を描き続けているのだと思うと、微かに体の芯がちろちろと燃える気がする。

「りくろうくん、描こうか?」

 スケッチブックの新しいページを捲って、シロが悪魔の目を向ける。黒と白で、俺の似顔絵を描こうかと。

「……や……」

 答えようとしたところ、遠くで俺を呼ぶ声が聞こえた。

「パパー!」

 妻の手を離れて、娘がこちらへ駆けてくる。

 シロが眩しそうにそちらを見つめた。

「ああ……。娘さんを描こうか?」

 結婚して、娘が生まれて、休日には家族で動物園に遊びにくる。仕事も順調だ。申し分のない幸せだ。けれど、いつも何かが足りないような不安がつきまとう。気のせいだと払拭するように、筋トレに励み、無駄に筋肉は付いた。子どもの運動会でたまに活躍する以外は、何の役にも立たない。ただただ筋肉の鎧を重ねていく。向かう先も分からないまま。

「いや」

 娘は似顔絵に興味がありそうだったが、断った。

「ヤギの絵、描いて」

「え?」

「茶色いヤギ」

 そう告げると、シロは驚いたように目を大きくした。やはりあの時のヤギの絵によく似ている。頷くと、目の前のスケッチブックに木炭で線を引き始める。

「わあ、すごーい」

 目の前でくちゃくちゃ口を動かすヤギの姿をスケッチブックに写し取っていく様子に、娘が感嘆の声を上げる。

 あの頃よりも繊細な描写で少し固いヤギの毛の質感さえ伝わってきそうだ。しかし、あの時のようにぐりぐりと大きな瞳は描かれない。目の前にある通りの、平凡なヤギの瞳が写し出される。

 じきに飽きて「レッサーパンダが見たい」と娘がぐずるので、絵の完成を待たずにその場を離れた。絵描きはまだ瞳の部分に黒を重ねていた。それがどうなるのか、どうもならないのか、俺は知らない。

 連絡先も交換しなかった。

 帰宅して、妻と娘が風呂に入っている間に、スマホでSNSを開く。

『似顔絵』の看板の隅にQRコードが貼り付けてあった。検索すれば、シロのSNSが出てくるかもしれない。

 ――そこにはヤギの絵がアップされていて、茶色だといったのに、眩しいくらい鮮やかな色彩が使われている。けれど確かにそこに描かれているのは不安げに佇む一頭の茶色いヤギ。いや、やはり、黒と白だけで表現されたあまりにも哀しい茶色いヤギかもしれない。

 孤独だと思った絵描きには、十万のフォロワーがいて、百万のいいねが付いて、千万の閲覧があるかもしれない。

 そんなことを夢想してみたが、どのみち俺はフォローもしないし、いいねの痕跡をつけることもないだろう。

 だから、懐かしい絵描きのSNSを検索することはせずに、代わりに娘に読み聞かせる絵本を本棚から抜き取る。表紙では、茶色いヤギがお手紙を失くしたとメーメー鳴いている。

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