第5話 作品と作者は関係ない、と人は言うが
授業が終わり、夕方の電車に揺られて実家へ帰る。
車窓に映る自分の顔は、いつもより少し疲れて見えた。
理由は分かっている。今日の文学サークルでも、あの話題が出たからだ。
官能表現。
露骨な描写。
売れるための刺激。
誰かが軽く笑いながら言った言葉に、私は曖昧に相槌を打って、その場をやり過ごした。
本当は、胸の奥がざらりとするのを感じていたけれど。
玄関の鍵を開けると、見慣れた光景が目に飛び込んできた。
床。
ローテーブル。
ソファの上。
広げっぱなしの雑誌。
表紙に大きく描かれた、肌色の多いイラスト。
無造作に積まれた単行本と、DVDのケース。
私は、小さく息を吐いた。
「……ただいま」
「おかえり、聖奈」
母親が出迎えてくれるが、家で仕事しているはずの父親から返事はない。
娘の私が帰ってきたというのに返事はないって、父親としてどうなのだ。
どうせ、書斎にこもって聞こえないのだろうが。
靴を揃え、視線を落とさないようにしながら居間を横切る。
それでも、どうしても目に入ってしまう。
官能小説。
成年漫画。
アダルトDVD。
子供の頃から、ずっとそうだった。
父は、いわゆるアダルトコンテンツのレビュアー、批評家だ。
文章は分かりやすく、要点を外さない。
感情に流されず、構造と技術を冷静に分析する。
業界内では、それなりに名が知られているらしい。
仕事は、絶えない。
でも。
その仕事のせいで、私は友達を家に呼べなかった。
その仕事のせいで、私はいつも居心地の悪さを抱えて育った。小学校の「おとうさんのおしごと」なんて作文を書く時の気分は最悪だった。
父は悪い人ではない。
ただ、だらしない。
そして、娘の視線に、決定的に無頓着だった。
母はもう、諦めている。
注意しても直らないことを、とうに学習している。
だから、私だけが嫌悪している。
父を。
そして、アダルトコンテンツそのものを。
自室に鞄を置き、制服を着替えてから、台所で水を飲む。
そのとき、ふと、ローテーブルの上に開かれたままの雑誌が目に入った。
閉じようとした。
本当に、ただそれだけのつもりだった。
指が、ページの端に触れる。
……一文だけ。
最初の一文だけ読んで、閉じればいい。
そう思った。
——それは、思いのほか静かな書き出しだった。
派手な言葉も、過剰な比喩もない。
状況説明は最小限で、視点がぶれない。
私は、眉をひそめる。
次の行。
その次の行。
気づけば、ページをめくっていた。
描写は、確かに官能的だった。
でも、それ以上に、丁寧だった。
視線の置き方。
間の取り方。
感情の立ち上がり。
読者の劣情を煽るためだけの言葉ではない。
例えば行為に至るまでの登場人物の内面が、きちんと積み重ねられている。
……ずるい。
私は、そう思った。
こんな書き方をされたら、嫌いでい続けるのが難しい。
読み終えたとき、胸の奥が妙に静かだった。
嫌悪もある。
でも、それだけじゃない。
認めたくない感情が、確かにあった。
……面白い。
……単純に文章が、上手い。
慌てて雑誌を閉じる。
まるで、悪いことをしたみたいに。
表紙の端に、作者名が印刷されているのが目に入った。
私は、無意識にその名前をなぞる。
「……ひゃくのき……はちと?」
口に出してから、はっとする。
嫌だ。
こんなの、絶対に嫌だ。
私は、官能小説が嫌いだ。
そう決めてきた。
そうでなければ、今までの自分が否定されてしまう。
でも。
頭の中に、あの文章のリズムが残っている。
言葉の選び方が、離れない。
違う。
たまたまだ。
自分に言い聞かせながら、私はスマホを掴んだ。
相談する相手は、一人しかいなかった。
数時間後。
大学近くのカフェ。
夕暮れの風が、少し冷たい。
「……でね」
私は、言葉を選びながら話していた。
実家のこと。
父のこと。
そして、今日、たまたま読んでしまった文章のこと。
正人くんは、黙って聞いてくれている。
彼はいつも、途中でやたらと口を挟まない。
「……嫌いだったはずなのに」
最後に、私はそう言った。
「絶対に、受け付けないと思ってたのに……文章として、どうしても否定できなくて」
視線を落とす。
こんな話、誰にでもできるわけじゃない。
でも、正人くんには聞いてほしかった。
「……それで」
少し間を置いてから、彼が言う。
「なんて、作者だったの?」
心が、ひくりと鳴った。
聞かれた瞬間、嫌な予感がした。
理由は分からない。
ただ、言いたくないと思った。
でも、もう遅い。
「……百ノ木」
言葉が、喉に引っかかる。
「百ノ木、ハチト……」
一拍。
二拍。
正人くんの反応が、遅れた。
ほんの一瞬。
でも、私は見逃さなかった。
表情が、固まった。
「……そうなんだ」
ようやく返ってきた声は、少しだけ低かった。
私は顔を上げる。
「どうかした?」
「いや……」
彼は、曖昧に首を振る。
「その……すごい人、なんだね」
違和感が、胸に残った。
でも、その正体を掴む前に、私は目を逸らした。
自分の中の混乱で、精一杯だったから。
どうして、あんな文章が書けるんだろう。
どうして、嫌いなはずのものに、こんなにも惹かれてしまうんだろう。
答えは、まだ出ない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
私は、絶対に認めたくないカテゴリの作家の文章を、確かに「好きだ」と思ってしまった。
夕焼けの中で、正人くんは黙ったまま、遠くを見ていた。
その横顔が、なぜか少しだけ遠く感じられた。
官能小説家であることは絶対に隠したい大学生――でも頭の中では勝手に妄想が暴走、ラムネで理性を保ちつつ、好きな子にだけは純文学作家として胸を張って見せたい僕の、胸キュンと秘密だらけの毎日 すくらった @skratta
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