第4話 理想の作者と理想の読者
夜、スマホが震えた。
原稿を書き終えて、ベッドに仰向けになったまま天井を見つめていたところだった。
画面を開く前から、嫌な予感がしていた。
通知は、見知らぬアカウントからのダイレクトメッセージ。
> 写真、撮れちゃいました
> 正人くん、思ってたより緊張した顔するんですね
心臓が一拍遅れて跳ねた。
添付されていたのは、正面から撮られた写真だった。
大学の構内。背景に見覚えのある掲示板。
間違いなく、僕だ。
背筋が冷たくなる。
> 迷ってるんでしょ
> でも大丈夫ですよ
> 私、付き合ってあげてもいいですから
意味が、すぐには理解できなかった。
付き合う?
誰と、誰が?
喉の奥に、じわりと嫌なものが込み上げる。
冗談だと笑い飛ばすには、文面が笑えなかった。
返信はしなかった。
とりあえず、今日は無視する。
そう決めて画面を閉じる。
だが、数分後。通知が鳴る。
> 今日も文学部棟でしたよね
> 夕方、同じベンチに座りました。
> 気づいてましたか?
息が止まった。
もうこれは、一人で抱えられるやつじゃない。
僕は、二人に相談することにした。
翌日、大学近くのカフェで、聖奈ちゃんと京子を呼び出した。
事情を説明すると、二人の反応は対照的だった。
「学内犯ですね」
京子は即座に言った。
スマホを覗き込みながら、淡々と続ける。
「写真の角度、距離。盗撮というより、知ってる相手を撮ってる。
あと、この言い回し」
画面を指でなぞる。
「『迷ってる』『付き合ってあげる』。
自分が選ぶ側だと思ってる」
「……怖くない?」
聖奈ちゃんの声が震える。
「怖いですよ。でも危険度は高くない」
冷静な声だった。
「暴力的じゃない。
この人、距離を詰めたいだけです」
その言葉に、聖奈ちゃんが小さく頷いた。
「うん。私もそう思う」
彼女は、DMの文章をじっと見つめてから、ぽつりと言った。
「この人、正人くんの『文章の世界』の中に生きてる、気がする」
「……どういう意味?」
「まずこの人、間違いなく正人くんの短編、読んでるね」
胸が、どくんと鳴る。
「しかも、かなり読み込んでる。
文体が、正人くんの影響を受けてる」
聖奈ちゃんは、カップを両手で包みながら続けた。
「作者の気持ちを『分かったつもり』になってる。
だから、現実の正人くんにも踏み込めると思ってる」
思い当たる節があり、僕はスマホを操作し、あるDMを開いた。
「これ。ここ」
> あの同人誌の話、
> あなたがどっちを選ぶか、ずっと考えてました
はっきりと、同人誌に言及していた。
「……完全に、勘違いだな」
僕が呟くと、京子は頷く。
「はい。『自分とのことを書いてる』って誤解してますね」
聖奈ちゃんが、少しだけ眉を下げた。
「……文章って、怖いね」
対応策はいくつかあった。
ブロックして無視。
証拠を集めて、大学に相談。
最悪、警察。
どれも正しい。
どれも、安全だ。
でも。
「……書く」
気づけば、そう口にしていた。
二人が同時にこちらを見る。
「個別にやり取りはしない。
でも、放置もしない」
言葉を選びながら、続ける。
「作者として、線を引く。
ちゃんと、言葉で」
それを聞いて聖奈ちゃんは、静かに微笑んだ。
「文章には文章で向き合う。正人くんらしい」
その夜、僕は短い文章を書いた。
同人誌のあとがき欄。
次の更新に添える形で。
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作者コメント
拙作を読んでくださり、ありがとうございます。
作品は創作です。特定のモデルはいません。
読者が自由に感情を重ねることは、否定しません。
ですが、作品と現実は別です。
作者の人生や選択に、読者が踏み込むことはできません。
その線だけは、はっきり引かせてください。
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公開ボタンを押す指は、少し震えていた。
翌日。
DMが一通だけ届いた。
> ……勘違いでした
> すみません
> でも、いい文章でした
それきり、何も来なくなった。
数日後、また三人で顔を合わせた。
「最適解でしたね」
京子は、いつもの調子で言った。
「被害も拡大してない。
記録も残ってる」
聖奈ちゃんは、少し照れたように視線を逸らしてから言う。
「ちゃんと心から言えば、届くんだね」
胸の奥が、少しだけ軽くなった。
書くことは、届く。
だからこそ、責任もある。
でも、もう一人じゃない。
それに何より、今回の件で「百ノ木ハチト」の名が出ることは一度もなかった。
彼女が追っていたのは、あくまで文学サークルの「鈴懸正人」であり、官能小説家の僕ではなかったのだ。
とりあえず最悪の身バレだけは回避できたのだと、情けない保身ながら、僕は心の底から安堵の溜息を漏らした。
その頃。
どこかの部屋で、一人の女がスマホを見つめていた。
画面には、作者コメント。
「……線、引かれちゃったか」
そう呟いてから、肩をすくめる。
「でも、やっぱり好きだな。もっと知りたくなっちゃう」
画面を閉じ、女は笑った。
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