第3話 妥協と理想、天秤にかけて
文学サークルの定例会が近づくにつれ、僕の胃は少しずつ確実に痛くなっていった。
京子の言葉が、まだ頭の中に居座っている。
――確定しているところから選ぶほうが、合理的です。
合理的。
行動経済学の講義なら、きっと満点の答えだ。
でも、どうしてだろう。その言葉を思い出すたび、胸の奥がざらつく。
僕は短編を書いた。
書かずにはいられなかった。
主人公は、二つの道の前に立つ。
一つは不確かで、傷つくかもしれない道。
もう一つは安全で、確実に平穏が得られる道。
そして主人公は後者を選ぶ。
「賢い選択だ」と周囲は言う。
主人公自身も、そう言い聞かせる。
書き終えて、僕はファイルを閉じた。
胸の奥に、微かな違和感を残したまま。
サークル当日。
部室の空気は、いつもと変わらないはずなのに、やけに落ち着かなかった。
輪読が進み、僕の番になる。
読み終えたあと、何人かが感想を述べる。
「完成度高いよね」
「構成も綺麗」
「主人公の選択は自然」
どれも間違っていない。
でも、どれも胸に刺さらない。
最後に、聖奈ちゃんが口を開いた。
少しだけ間があった。
彼女は原稿に視線を落とし、それから僕を見る。
「……よく出来てると思う」
僕は、無意識に背筋を伸ばしていた。
「でも」
その一言で、空気が変わる。
「主人公がしたこの選択肢、ホントじゃないと思う」
胸が、どくんと鳴った。
「安定を求めて妥協した結果に見えるし……それじゃ、魅力的なキャラクターにはならない」
一瞬、言葉を失う。
部室が静まり返ったのに気づいて、聖奈ちゃんははっとしたように目を見開いた。
「あ、ごめん!言い過ぎちゃったかも……」
慌てて笑う彼女。
フォローの言葉を探しているのが分かる。
でも、僕の耳にはもう入ってこなかった。
言い当てられた。
正確すぎるほどに。
これは物語じゃない。
僕自身の選択だ。
合理的で、安全で、逃げの一手。
帰り道、夕焼けのキャンパスを一人で歩きながら、僕は考えていた。
京子の提案は、正しい。
否定できないほどに。
でも、聖奈ちゃんは、文章を通して嘘を見抜いた。
そして、容赦なく指摘した。
……やっぱり、この人しかいない。
それは恋心だけじゃない。
作家として、書く人間としての直感だった。
数日後、京子から連絡が来た。
> 先輩、時間あります?
> ちょっと話したいです。
嫌な予感は、しなかった。
大学近くのベンチで会った京子は、いつもより少しだけ軽い表情をしていた。
「先輩」
「……この前の件か?」
「はい。でも、その前に」
京子は一拍置いてから言う。
「“私と付き合え”って話、取り消してください」
思わず目を瞬く。
「……は?」
「冷静に考えたら、ズルいじゃないですか」
彼女は肩をすくめた。
「この状況で付き合われても、妥協で選ばれたみたいで。
それ、私が一番嫌なやつです」
なるほど、と妙に納得してしまう自分がいた。
「聖奈先輩、すごいですね」
京子は、素直にそう言った。
「批評で、先輩を引き戻した。
あれ見て思いました。勝てない、じゃなくて……まだ勝負の舞台にすら立ててないなって」
そして、いつもの調子で笑う。
「だから保留です」
「……勝手だな」
「はい。承知してます」
少しだけ、視線を逸らしてから。
「あ、先輩のこと好きなのはマジです。いつか実力で振り向かせてみせる。言いたいことはそれだけです」
そう言い残して、京子は立ち上がり、去っていった。
ベンチに残された僕は、しばらく動けなかった。
その頃。
どこかの部屋で、一人の女がスマホの画面を見つめていた。
そこに映っているのは、正面から撮られた、少し緊張した表情の男の顔。
「ついに『中の人』発見っす」
女は、楽しそうに呟く。
「んー、可愛い顔」
画面にぼちゅっと口づけし、にやりと笑った。
「正人くん、大好き」
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