第2話 恋は安心安定であるべきか

山口さんに連れられて、すぐに出版社「イタリア書院」が入った雑居ビルに向かう。


(行動経済学の講義内容については、後で聖奈ちゃんに聞いておこう)


そんなことを考えながらイタリア書院のオフィスに入ると、タヌキのようにぽやぽやした顔の女子社員が、泣き腫らして目を真っ赤にしているのが見えた。

僕の姿を認めると、飛び上がらんばかりに立ち上がって、会議テーブルに頭をこすりつける。

椅子から転げ落ちそうな勢いだった。


「ほ、ほんっっっとうに、申し訳ありませんでした……!」


 深々と頭を下げるタヌキ社員の額が、テーブルにごりごりとこすり付けられる。

 そのまま倒れ込みそうな勢いで、彼女は必死に手と頭をテーブルにくっつけている。


 綿野ツムギ。二十三歳。

 出版社に入社してまだ一年にも満たない、どこか社会人感の薄い新人社員だ。


 ぼんやりした目元に、常に半拍遅れてくる反応。山口さん曰く、悪気は一切ない。ただ、致命的に注意力が散漫らしい。


「書籍化用資料の、本名と顔写真が載った書類を……コンビニのコピー機に……」


 語尾が震え、今にもまた泣き出しそうになる。


「……その、コピーして……はい……そのまま……」


「まぁまぁ落ち着いて……」

 僕はとにかくツムギさんをなだめる。


 会議室に沈黙が落ちた。


 隣で腕を組んでいる山口貴子は、しばらく天井を見つめてから、ため息をひとつ吐いた。


「つまり、コピーして、忘れて帰ったのね」


「は、はい……!」


「しかも官能小説家の本名と顔写真入り」


「はいぃ……!」


 僕は胃のあたりがきゅっと縮むのを感じていた。

 百ノ木ハチト。本名・鈴懸正人。

 この二つが一枚の紙で結びつくことの意味を、ここにいる全員が理解している。


「……で、資料は?」


 山口さんが淡々と尋ねる。


「戻ってきました……!コンビニの店員さんが保管してくださってて……すぐに取りに……」


「誰かに見られた形跡は?」


「分かりません……」


 山口さんは一瞬、ツムギさんをじっと見たあと、肩をすくめた。


「やってしまったことは、もう仕方ないわ」


「……え?」


 ツムギさんが顔を上げる。目に涙をいっぱい溜めたまま。


「責めたところで時間は戻らない。問題は、これからどうするかよ」


 そう言ってから、山口さんは僕のほうを見る。


「先生。今のところ、実害は出ていません。ただし……」


「ただし?」


「ゼロリスクではなくなった、ということです」


 その言葉が、妙に重く胸に落ちた。


 結局、ツムギさんは何度も頭を下げ、山口さんは「次からは三重チェック」と言い、会議は解散した。

 資料は戻った。最悪の事態は避けられた。

 ……はずだった。


 その日の夕方、僕のスマホに一通のメッセージが届いた。


> せんぱーい♥

> 先輩の秘密、私知っちゃいました。

> 周りに言われたくなかったら……

> とにかく明日会えませんか?


 心臓が跳ねた。


 差出人は、文学サークルの後輩、鴨下京子となっている。


 冗談だろう、と思いたかった。

 でも、あまりにタイミングが悪すぎる。


> 何のことか分からないが、とにかく明日会おう


 そう返信して、明日を待つことにした。


 翌日。

 大学の中庭で、京子は僕を待っていた。


 人懐っこい笑顔。短めのスカート。まっすぐこちらを見る視線。

 いつも通りの彼女だ。


「先輩、来てくれてありがとうございます」


「……鴨下、あのメッセージは」


「はい。ちょっとお話ししたくて」


 ベンチに並んで座る。

 京子は、少しだけ間を置いてから口を開いた。


「安心してください。自分で言うのもなんですが、大したことじゃありません」


 息を詰めていた肺から、空気が一気に抜けた。


「……じゃあ、何の秘密なんだ」


 京子は、楽しそうに微笑んだ。


「まず先輩が、堂本聖奈先輩を好きだってことです」


 頭の中が、真っ白になった。


「な、何を……」


「否定しないんですね」


 京子は即座に言った。

 逃げ道を塞ぐような言い方だった。


「というか大学生にもなって好きな子をバラすってなんだよ。脅しにもなってないというか……」

 笑って誤魔化そうとするが、


「そこは今いいんです」

 彼女はピシャリという。

 

「どうなんですか」


「……」


「やっぱり」


 彼女は頷く。


「どうしてそう思うんだ?」


「文章、ですよ」


「文章?」


「先輩の書く短編。批評の仕方。聖奈先輩が関わる話題のときだけ、言葉が慎重になる。感情を隠そうとしてるのが、逆に分かりやすいんです」


 文学サークルの後輩として。

 一人の読者として。

 彼女は、僕を『読んで』いた。


「で、私、考えたんです」


 京子は指を一本立てる。


「聖奈先輩が、先輩を好きかどうかは分かりません」


 次に、二本目。


「でも、先輩が聖奈先輩を好きなのは確定です」


 三本目。


「そして」

 彼女がじっとこちらを見る。


「私が先輩を好きなのも、確定です。

 つまり先輩は私と付き合うべきです」


 彼女は、そこで指を下ろした。


「おい、鴨下……」

 一瞬遅れて、言われたことを理解する。


 告白。付き合ってほしい、ということ。


 顔が急に火照ってくる。ラムネ、噛まないと。


「先輩。恋愛って、不確定要素が多いじゃないですか」


 笑顔のまま、声は冷静だった。


「だったら、確定しているところから選ぶほうが、合理的です」


「……つまり」


「だから先輩は、私を選ぶべきなんです」


 その言葉は、脅迫でも命令でもなかった。

 あくまで『提案』だった。


 安全で、正しくて、逃げ場のない提案。


 僕は何も言えず、ただベンチの木目を見つめていた。


 京子の声が、優しく追い打ちをかける。


「大丈夫ですよ、先輩。

 私、先輩の文章、ちゃんと好きですから」


 それが、何よりも怖かった。

 僕は、とりあえずラムネを取り出し、口に含んだ。

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