【第二章】 蛇神の山 —— 大神神社と山の辺の道

■ 三輪山へ


JR桜井線に乗り換え、三輪駅で降りる。


駅を出ると、目の前に三輪山がある。標高四六七メートル。円錐形の美しい山容。この山そのものが、大神神社の御神体だ。


大神神社(おおみわじんじゃ)には本殿がない。拝殿から三輪山を直接拝む。これは、神社建築が発達する以前の、原始的な祭祀の形を今に伝えている。社殿に神を祀るのではなく、山そのものを神とする。日本の信仰の最も古い層が、ここには残っている。


参道を歩く。長い。両側に杉の巨木が並び、木漏れ日が落ちる。十月の空気は澄んでいて、肌寒いほどだ。


春日大社の参道も長かったが、質が違う。あちらは観光客で賑わい、土産物屋が並んでいた。こちらは静かだ。人は少なく、聞こえるのは自分の足音と、風に揺れる木々の音だけ。


拝殿に着く。正面に三輪山。その山肌を、しばらく見上げていた。


何かがいる、と感じる。


それが「神」という言葉で呼ばれるものなのかどうかは分からない。ただ、この山には何かが宿っていて、古代の人々はそれを感じ取り、畏れ、祀った。その感覚だけは、千数百年を経ても変わらずにここにある。


■ 大物主神と蛇


大神神社の祭神は大物主神(オオモノヌシノカミ)。記紀神話では、大国主神の「幸魂奇魂(さきみたま・くしみたま)」、つまり大国主の魂の一部とされる。


大国主神は出雲の神だ。国譲り神話で、武甕槌命に国を譲った側の神。つまり、春日大社の祭神に敗れた神である。


だが、この大神神社の歴史は、春日大社よりはるかに古い。ヤマト王権が成立する以前から、この土地には三輪山をご神体とする信仰があった。大和朝廷は、土着の神を「大国主の魂」として神話体系に組み込んだ。征服ではなく、吸収。それがヤマト王権の宗教政策だった。


大物主神は蛇神としても知られる。境内には「巳の神杉(みのかみすぎ)」があり、蛇の好物とされる卵が供えられている。


蛇は、世界中の古代文明で、死と再生の象徴とされてきた。脱皮を繰り返し、何度でも新しい姿になる。その生態が、不死や復活のイメージと結びついた。


三輪山の蛇神信仰も、おそらくは農耕以前、縄文時代にまで遡るのだろう。稲作が始まり、弥生時代になると、蛇は水神としての性格も加わる。水田に水をもたらす存在。あるいは、水害をもたらす恐ろしい存在。どちらにしても、人間の生死を左右する力を持つものとして畏れられた。


■ 箸墓古墳と百襲姫


大神神社から少し北へ行くと、箸墓古墳がある。


全長約二八〇メートルの前方後円墳。三世紀後半の築造とされ、最古級の大型前方後円墳の一つだ。被葬者は、記紀に登場する倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)とされる。


この古墳には、魏志倭人伝に登場する卑弥呼の墓ではないか、という説がある。築造年代が卑弥呼の没年(二四八年頃)に近いこと、規模が「倭人伝」の記述と合致することなどが根拠だ。学術的には確定していないが、可能性としては排除できない。


百襲姫には、大物主神との悲恋伝説がある。


百襲姫のもとに、夜ごと通ってくる男がいた。姫は男の正体を知りたいと思い、朝まで残ってほしいと頼んだ。男は承諾し、翌朝、姫が櫛箱を開けると、中には小さな蛇がいた。驚いた姫が悲鳴を上げると、蛇は恥じて三輪山へ去っていった。姫は悲しみのあまり箸で陰部を突いて死んだ。その墓を箸墓という。


凄惨な話だが、ここに古代の信仰の核心がある。


神は、人間の前に姿を現さない。見てはならないものを見た者は、罰を受ける。これは世界中の神話に共通するモチーフだ。ギリシャ神話のオルフェウスとエウリュディケ、日本神話のイザナギとイザナミ。神と人間の間には、越えてはならない境界がある。


百襲姫の死は、その境界を越えたことへの代償だった。


実際に箸墓古墳を訪れると、拍子抜けするかもしれない。田んぼの中に、木の茂った小山がある。それだけだ。質素な鳥居が立っているが、看板はほとんどない。観光客で賑わっているわけでもなく、土産物屋も出ていない。


私は少し迷った。このあたりの道は分かりにくく、田んぼの畦道を行ったり来たりした。稲刈りの終わった田んぼ、点在する溜め池。のどかな風景の中に、三世紀の女王が眠っている。その対比が、むしろこの土地の底知れなさを感じさせた。


■ 物部氏と石上神宮


大神神社から北へ、山の辺の道を歩く。


この道は、日本最古の官道とされる。三輪山の麓から、石上神宮を経て奈良へ至る。古代の人々は、この道を歩いて神社を参拝し、古墳を詣でた。


道沿いには、大和・柳本古墳群が点在する。崇神天皇陵、景行天皇陵とされる巨大な前方後円墳。四世紀、古墳時代前期の築造だ。神話と歴史の境目にいる王たちの墓である。


三輪山を背景に、前方後円墳が並ぶ風景。ここが「日本の中心」であった時代があった。


山の辺の道を歩き続けると、やがて石上神宮(いそのかみじんぐう)に至る。


石上神宮は、物部氏の氏神を祀る神社だ。祭神は布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)。これは神話に登場する神剣、布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)の霊力そのものを神格化したものである。


「フツ」という名前の由来は、刀を振ったときの音だという。フッ、と空気を切る音。その音に霊力を感じた古代人が、それを神として祀った。


春日大社の祭神にも経津主命(フツヌシ)がいた。こちらも同じ語源を持つ。藤原氏が関東から勧請した武神は、もともとは物部氏と関係の深い神だった可能性がある。藤原氏は、物部氏の軍事的・祭祀的権威を、自らのものとして再編成したのだ。


石上神宮の境内には、物々しい空気が漂っている。春日大社の整然とした明るさとは対照的だ。ここには、何か古い、得体の知れないものが残っている。


物部氏は、古代ヤマト王権において軍事と祭祀を司った氏族だ。その「祭祀」とは、単なる神事ではない。彼らは「十種神宝(とくさのかんだから)」という呪具を伝え、死者蘇生の呪術を行ったとされる。


「ひふみよいむなやこと、ふるべゆらゆらとふるべ」


これは石上神宮に伝わる鎮魂の祝詞の一部だ。神宝を振り動かしながら唱えることで、死者の魂を呼び戻すことができるという。


呪術。この言葉が、物部氏の本質を表している。彼らは武器を管理する氏族であると同時に、死と再生を司る呪術者集団でもあった。石上神宮は、その武器庫であり、呪術の根拠地だった。


神宮には国宝「七支刀(しちしとう)」が所蔵されている。四世紀、百済から倭国に贈られた鉄剣で、刀身から六本の枝刃が出ている異形の剣だ。実用的な武器ではなく、呪術的な祭具として作られたものだろう。


物部氏が管理していたのは、こうした「霊力を持つ武器」だった。彼らにとって、武器とは単なる殺傷の道具ではない。霊力の依代であり、呪術の媒介だった。


■ 「モノ」の意味


物部氏の「モノ」とは何か。


現代語で「物」といえば、物品、物体を指す。だが古代語の「モノ」は、もっと広い意味を持っていた。精霊、神、鬼、霊的な存在一般を「モノ」と呼んだ。


「モノノケ」という言葉がある。「物の怪」と書くが、これは「モノ」の「ケ(気配)」である。霊的存在の気配。そういうものを感じ取り、鎮め、あるいは使役する。それが「物部」の仕事だった。


大神神社のオオモノヌシも、この「モノ」と関係がある。「大いなるモノの主」。つまり、霊的存在たちの王という意味だ。


物部氏は、大神神社の祭祀にも深く関わっていた。三輪山の蛇神を祀り、死者蘇生の呪術を伝え、霊力を持つ武器を管理する。それが物部氏の職掌だった。


その物部氏が、六世紀に蘇我氏と激突する。仏教受容をめぐる争いだ。蘇我氏が仏教を推進し、物部氏がそれに反対した。最終的に物部守屋が蘇我馬子に討たれ、物部氏の本宗家は滅亡する。


だが、物部氏が守ろうとしたものは何だったのか。単に外来宗教への排外主義ではなかっただろう。彼らは、「モノ」を祀る古い信仰、呪術的な世界観を守ろうとしたのではないか。


石上神宮の境内を歩きながら、そんなことを考えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る