【第三章】 渡来人の村 —— 飛鳥と蘇我氏

■ 飛鳥へ


桜井から明日香村へ移動する。


このあたりは、レンタサイクルで回った。広々とした平坦な道が続く。十月の晴天、風が心地よい。田んぼと溜め池が多く、食べ物屋はあまりない。途中でコンビニを見つけたときは安堵した。


飛鳥は、六世紀末から七世紀にかけて、日本の政治の中心だった場所だ。推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子。日本史の教科書に出てくる名前が、この土地で活動していた。


だが、当時の宮殿や邸宅は、ほとんど残っていない。飛鳥の都は、今は田んぼの下に埋まっている。地上に見えているのは、古墳と、いくつかの寺院だけだ。


■ 飛鳥寺


飛鳥寺は、日本最初の本格的な仏教寺院とされる。五八八年、蘇我馬子が建立した。


境内に入ると、飛鳥大仏が安置されている。日本最古の大仏。六〇九年、鞍作鳥(くらつくりのとり)という渡来系の仏師が造ったとされる。


正直に言うと、あまり感動しなかった。


入館料を払い、堂内に入る。大仏は確かにそこにあるが、何か俗っぽい印象を受けた。観光地化された寺院特有の空気。土産物、パンフレット、説明書き。春日大社や大神神社にあった、神聖な空間の緊張感がない。


もちろん、飛鳥大仏に罪はない。千四百年以上、ここに座り続けてきた仏像だ。ただ、その周囲の環境が、歴史的な重みにふさわしくない気がした。


飛鳥寺を出て、自転車を漕ぎながら考えた。蘇我氏とは何だったのか。


■ 蘇我氏と渡来人


蘇我氏の出自には謎が多い。


記紀では、武内宿禰(たけのうちのすくね)の子孫とされるが、実際には渡来系氏族だったのではないか、という説が根強い。彼らは仏教を積極的に受容し、大陸の先進技術を導入し、渡来人を重用した。


飛鳥の土地を歩いていると、その説に説得力を感じる。


飛鳥寺を建てたのは、百済から招いた技術者たちだった。寺院建築、仏像彫刻、瓦の製造。すべてが渡来人の技術だ。蘇我氏は、その技術を取りまとめる立場にあった。


石舞台古墳に向かう。


■ 石舞台古墳


石舞台古墳は、蘇我馬子の墓とされる。


六世紀後半から七世紀初頭の築造。現在は石室がむき出しになっているが、その理由は分かっていない。もともと墳丘があったが後世に剥がされたという説と、最初から土を盛らなかったという説がある。前者なら蘇我氏への報復かもしれないし、後者なら意図的に石室を見せる設計だったことになる。


自転車を停め、古墳に近づく。


大きい。


三十個以上の巨石を積み上げた、日本最大級の横穴式石室。総重量は二千トンを超えるという。天井石だけで七十トン以上。こんな巨石を、どうやって持ち上げたのか。


石室の中に入ることができる。入ってみた。


薄暗い空間に、巨石が迫ってくる。天井を見上げると、その重量感に圧倒される。これだけの石が、千四百年以上、崩れずに積まれている。


ここに、蘇我馬子が葬られたとされる。石棺も遺骨も現存しないが、石室から見つかった凝灰岩の破片から、かつては家形石棺が安置されていたと推定されている。


馬子は、物部守屋を滅ぼし、崇峻天皇を暗殺し、推古天皇を擁立した。日本史上、最も権力を持った豪族の一人だ。その権力の象徴が、この石室だった。


だが、この石室が示しているのは、馬子個人の権力だけではない。これは「社会の力」の証明だ。


巨石を切り出し、運び、積み上げる。それは、一人の人間にはできない。多くの人々を組織し、技術を結集し、膨大な労働力を動員しなければならない。それができるのは、大きな社会を統率する権力だけだ。


石舞台古墳は、蘇我氏がそれだけの社会的動員力を持っていたことの証拠だ。巨石を動かす技術自体は、弥生時代の吉備・楯築遺跡などが示すように、日本にもともとあった。蘇我氏はそうした在来の技術と、渡来人がもたらした新しい文化を結びつける立場にいたのだろう。


古墳を出て、周囲を見渡す。のどかな田園風景。その中に、この異様な石の塊がある。千四百年前、ここは日本で最も先進的な土地だった。大陸の技術が流入し、新しい宗教が広まり、古い秩序が壊されようとしていた。


■ 橘寺と聖徳太子


石舞台古墳から少し移動すると、橘寺がある。


聖徳太子生誕の地とされる寺院だ。太子の父、用明天皇の別宮があった場所という。


橘寺を訪れて、まず驚いたのは、石舞台古墳との距離の近さだった。歩いてもすぐの距離。つまり、聖徳太子は蘇我馬子の墓のすぐ近くで生まれ育ったことになる。


考えてみれば当然だ。聖徳太子の母は、蘇我馬子の姪にあたる。太子は蘇我氏の血を濃く引いている。蘇我氏の拠点で育ち、蘇我氏の政策を推進した。仏教の導入、冠位十二階、十七条憲法。これらは蘇我氏の路線の延長にある。


太子を「蘇我氏に対抗した改革者」と見る史観があるが、地理を見ればその解釈には疑問が生じる。太子は蘇我氏の一員であり、蘇我氏の政策を実行した人物だった。


さらに南へ移動すると、キトラ古墳がある。


■ キトラ古墳と高松塚古墳


キトラ古墳と高松塚古墳は、七世紀末から八世紀初頭の古墳だ。


石舞台古墳より百年ほど後、蘇我氏も物部氏も政治の表舞台から消えた後の時代になる。被葬者は皇族か高位の貴族とされるが、確定していない。


この二つの古墳で注目すべきは、その壁画だ。


キトラ古墳には、四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)、十二支像、そして精密な天文図が描かれている。高松塚古墳には、四神と、有名な「飛鳥美人」と呼ばれる女子群像がある。


どちらも、唐や高句麗の影響が濃厚だ。渡来文化が最も成熟した時期の産物といえる。


キトラ古墳の近くには、壁画を展示する施設がある。実物は保存のために非公開だが、精巧な復元が見られる。四神図の線の確かさ、天文図の精密さに見入った。


そして、改めて周囲の地図を確認して、驚いた。


キトラ古墳は、石舞台古墳から近い。橘寺からも近い。このあたり一帯は、渡来人が集住していた地域とされる。檜隈(ひのくま)と呼ばれ、東漢氏(やまとのあやうじ)など渡来系氏族の本拠地だった。


つまり、こういうことだ。


石舞台古墳(蘇我馬子の墓)も、橘寺(聖徳太子の生家)も、キトラ古墳も、すべて渡来人の村の中か、そのすぐ隣にある。


聖徳太子は渡来人だったのではないか。


もちろん、これは学術的に証明された説ではない。だが、地理的な近接性は、何かを示唆している。蘇我氏も聖徳太子も、渡来人と極めて密接な関係にあった。彼らが性急に外来文化を導入しようとして、物部氏ら旧勢力の反発を受けたのは、当然の成り行きだったのかもしれない。


■ 天理教


石上神宮を訪れたとき、印象的だったのは天理教の存在だ。


石上神宮のすぐ近くに、天理教本部がある。巨大な木造建築群が並び、独特の景観を作っている。街を歩くと、「天理教」の文字が入った揃いの服を着た人々とすれ違う。


天理教は幕末に誕生した新宗教だ。教祖・中山みきが神がかりを受けたのは一八三八年。以来、この地を本拠地として発展してきた。


天理教は「陽気ぐらし」を説く。人間が互いに助け合い、明るく楽しく暮らすことが神の望みだという。穏やかな教えだ。


ここで注目すべきは、天理教本部の立地だ。石上神宮のすぐ近く、物部氏ゆかりの古代聖地と重なっている。


偶然ではないだろう。


この土地には、古代から霊的な力があると信じられてきた。物部氏が呪術を行い、神宝を祀った場所。そういう土地に、近代になって新しい宗教が生まれた。土地の霊性が、新しい器を得たと言えるかもしれない。


古代の「山の辺の道」に、現代の宗教都市が融合している。その景観は、奇妙だが、どこか納得がいく。

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