【第一章】 藤原の庭 —— 春日大社と奈良公園
近鉄奈良駅を降りると、すぐに鹿がいる。
奈良公園の鹿は、春日大社の神使として保護されてきた。観光客が鹿せんべいを買い、鹿がそれを奪い合う。のどかな光景だが、この鹿たちが「神の使い」であるという設定には、政治的な意図がある。
春日大社の主祭神は、武甕槌命(タケミカヅチ)と経津主命(フツヌシ)。どちらも武神だ。神話では、天照大神の命を受けて出雲に降り、大国主神に国譲りを迫った神々である。
この二柱は、もともと常陸国(茨城県)の鹿島神宮と香取神宮に祀られていた。それを奈良に「勧請」した——つまり、分霊を迎えて新たに祀った——のが藤原氏だ。八世紀、藤原不比等の時代のことである。
なぜ藤原氏は、遠く関東から武神を呼び寄せたのか。
ここで、もう一柱の祭神に注目する必要がある。天児屋根命(アメノコヤネ)。この神は、天岩戸神話で祝詞を奏上した神であり、藤原氏の祖神とされる。春日大社は、武神二柱に藤原氏の祖神を加えた、三位一体の構造を持っている。
武力と祭祀権の両方を、藤原氏が掌握したことの宣言。それが春日大社の本質だ。
実際に歩いてみると、春日大社は驚くほど整然としている。朱塗りの社殿、規則正しく並ぶ燈籠、手入れの行き届いた参道。すべてが計算されている。「システム化された宗教」という言葉が浮かんだ。
心地よい。美しい。だが、どこか物足りない。
怖さがないのだ。
神社というものが本来持っていたはずの、得体の知れないものへの畏怖。それが、ここにはあまり感じられない。藤原氏は、神々を政治の道具として洗練させすぎたのかもしれない。
春日大社の背後には御蓋山(みかさやま)がある。この山そのものがご神体だという。だが、その山は立入禁止で、遠くから眺めるだけだ。山岳信仰の形式は残しつつ、参拝者と神体の間には明確な距離が置かれている。
ここは出発点としては正しい。律令国家が完成した後の、整理された神道の姿を見ておく。そこから遡ることで、その「整理」以前の混沌が、より鮮明に見えてくるはずだ。
奈良公園を後にして、南へ向かう。
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