第5話 貧婚

 友人の万由子に会った瞬間から、美佳は罵詈雑言を吐き出していた。

 いくら言っても言い足りず、腹の虫も口惜しさも収まらない、恋人だった男の裏切りだった。


「朝が早い日なんか、モーニングコールまでしてあげてたのよ! こっちだって仕事あって、眠いのにさ、それにドライブへ行くときなんか、絶対にお弁当作ってあげて、渋滞に巻き込まれても助手席で寝た事もないし、仕事の愚痴も、夜中でも朝からでも、嫌がらずに聞いてあげてさ」


 ふぅんと美佳の話に相槌を打ちながら、万由子はコーヒーをちびちびと飲んでいる。窓が広く、採光を取り入れた明るいカフェの店内。

 そこで平和に過ごしている他の客から、この2人のいるカウンター席だけが切り取ったように呪詛が渦巻いている。


「それがさ、その女19才だって。バカじゃないの? 自分何才と思っているんだろ、浩司の奴、31だよ。完全あっちにして見れば、オジサンじゃないの。遊ばれてるの、分からないかなぁ? カノジョと別れて下さいって泣かれたって、絶対ゲームだって。絶対に遊ばれてるんだって」


 ようやく、万由子の口が開いた。


「30過ぎた男が、仕事の出張にまでモーニングコールまでしてやらないと起きられないのか。めんどくさい人だね」


 美佳は鼻白んだ。

 全く、万由子のコメントはいつも的外れだ。恋というものから無縁な生活を送っているせいだろうか。

 この場合、失恋した友達にかけるべき語彙が全く含まれていない。

 その事が、更に美佳の神経を軋ませる。


『美佳は全然悪くない』『辛いだろうね』『もっと素敵な人が出てくるって』何でそれくらいの気使いが出来ないんだろう、もう25のくせに。

 同じ25才で独身の女同士なのだ。心情を察しろよと思う。

 もっと言えば、そんなに鈍感で人の機と心のひだを読みとることが出来ないから、描くキャラクターに奥深さを生みだせない、いつまでたっても売れない漫画家なんだ。


 25才の女と、31才の男。

 独身同士、出来上がりかけていた1つの将来の形が木端微塵になった。

 その意味をもっと考えて欲しいと、美佳は万由子に思う。


「その19才の女だって、全然可愛くないのよ、見てよねえ! こいつよこいつ」

 インスタにある画像を、万由子に突きつけた。

 お花見のものらしい。19にしては幼い丸顔が、桜の下で笑っている画像だった。


「どうよ、全然私の方が可愛いじゃないの。こんな娘、ダサくて、服装のセンスもないし、化粧だって下手だし、19才なだけじゃん」

「……そんなにブスかな」


 感想を投げる万由子に、美佳は反省した。

 もう少し空気を読めて、この失恋の痛みが理解できる相手を呼び出すんだった。

 しかし、周囲は皆、彼氏持ちだ。急には呼び出せない。

 そんな急の呼び出しに応じられるのは、漫画家の卵で、彼氏がいなくてバイトもほとんどせずに、アパートにずっとこもっている、短大からの友人の万由子だけだ。


 しかし万由子は悪い子じゃないが、こういった男女間の機知に鈍感だ。それは服装にも現れている。

 流行の場所やちょっと垢抜けた場所では、いつも万由子は浮いていた。

 今でも万由子の格好は浮いている。大衆スーパーの2階の服飾品売り場で揃えたような服装、夜店で買ったビニールバック。


 女らしさより無頓着さをアピールしている髪は、ロングヘアというより長髪だ。

 短大の頃から、もう少しお洒落して女らしくしようよと、何度か忠告はしているのだけど、万由子はそれを聞く事はなかった。

 当時から万由子は漫画家を目指していて、それ意外に興味はなかったのだ。


 社会人となっても就職をせず、バイトすらほとんどせずに漫画に明け暮れていた。

 バイトをする時間があれば、漫画を書きたい。

 そんなお金があれば、食費に回す。

 そこまでして、ようやく2年前にデビューしたが、芽は出ていない。


「……何か、頼む?」


 何だか空しくなった美佳は、万由子の空になっているコーヒーカップを見て、メニューを取った。


 『おごるわよ』と言葉の裏に匂わせると、万由子はすぐに察してケーキセットを指差す。

 貧乏暮らしのせいか、万由子はそういう事には聡い。


「ケーキセットを2つ。パンプキンタルトとベリーのタルト、両方ホットコーヒーで」


 2人分のケーキセットを注文すると、カウンターの中で店員が頭を下げた。


「あ、申し訳ありません、そのパンプキンタルトはもうお終いです」


 好物のパンプキンタルトが売り切れ。美佳はつい声を上げた。


「え、さっきショーウィンドウの中に1個……」


 言いかけて、気がついた。タッチの差だ。大きく落胆した時だった。

 涼しい声が飛んで来た。

 

「すいません、じゃあ、私の方をキャンセル。そのタルトをこちらの方に差し上げて、私は違うケーキにして頂ける?」


 同じカウンターに座っている女性が、こちらを見ている。

 美佳はその女性に慌てて顔を振ったが、彼女は柔らかに笑った。


「さっき気が変わったの。やっぱり違うのが食べたいから、貴女、引き取って下さる?」


 

 女性はアンヌといった。

 ケーキをゆずってもらったのがきっかけで、親しくなった。

 毎週土曜日、恋人と別れて暇になった美佳は、万由子をこのカフェに呼び出している。アンヌは毎週このカフェに来るのが習慣らしい。いつもいて、隣に同席するようになった。


 そうなると、美佳を奪われた形になった左隣の万由子は、何となく居心地悪い顔をしているが、美佳は構わない。


「私ね、ほんっとに今の彼と結婚したかったんですよ」


 美佳は、彼女に本心をぶちまけていた。


「今の環境に飽きたっていうか、このまま会社にずっといても仕方が無いって、そう思うようになったんです。だって毎日毎日同じ事の繰り返しだし……正直、私ってあんまり会社勤めるのに向いてないなぁってそう思うんですよ」


 短大を出て、大きくはないが小さくはない文具品メーカーに勤めて、美佳は5年になる。

 新入職員の頃は、可愛い新米の位置にいればいいが、5年ともなるといつまでもその地位に甘んじてはいられない。

 先輩と後輩に挟まれて、中間管理職的な気分にさせられる場面が多々出てくる。


「仕事好きで、管理職目指したいって人はそうすればいいけど、私はそこまで能力無いし、その気もないし……外で働くよりも、家の中で好きな人の帰りを待ちたいなぁって」


 そう思うと、美佳にとって会社の仕事は只のルーティンワークとなる。

 好きな仕事ではなく、スキルや成長の糧となる訳でもない。

 単なる虚無な作業だ。


「適材適所って言葉があるでしょ。それを思うと、すごく勿体ないじゃないですか。私って料理も掃除も好きで、家事はこまめなんですよ。学生時代に、お花見とかハイキングとか行く時って、私が皆の、全員のお弁当作っていたし」


 家事が好きで、それを好きな人のためなら、尚嬉しいと思う。

 そうだった、可愛くて家庭的な女の子として、学生時代、サークルでは男子に一番人気だったのだ。


「だから、好きな人見つけて結婚したいって、そう思ったから私、すっごく頑張ったんですよ。コンパがあったらって声を掛けまくって、お見合いパーティ行きまくって、街バル情報も欠かさずチェックして、出会いのチャンスというチャンス、全部逃さなかったんだから」


 ファッション誌や恋愛エッセイを何十冊も読み、愛されコーデから愛され髪、愛されしぐさと『愛され』の入った指南全て集結して、日々の鍛錬にいそしんで来たのだ。

 そして、浩司とコンパで知り合った。

 名の通った広告代理店の社員で、収入も学歴も良く、結婚式で読み上げる新郎のプロフィール、彼ならさぞかし気分が良いだろうと思わせた。


「頑張ったのね。そうね、あなた、可愛いもんね」


 美佳に向かって、そう微笑む彼女も美しい。

 綺麗な女性から、可愛いと評されて美佳はちょっと有頂天になった。


「彼と付合って、半年以上……1年弱かな。その間、彼にもすごく尽くしてあげたっていうか」


 浩司は広告代理店の営業マンだだった。

 依頼主の意向と企画、市場調査に媒体やメディアの付合い、どうやってモノを売るのか、宣伝するのか、消費者の気まぐれと日々変化する流行の尻尾を握りしめる仕事だ。目に見えにくいものを相手に戦略を練る仕事だから、当然時間は不規則で、ストレスも多い。


「彼には会いたい会いたいって我儘も言わず、疲れている時にはそっとしておいてあげたし、記念日を強要した事もないし、愚痴はちゃんと聞いてあげて、いわゆる癒し系って奴?」


 大きくため息を美佳はついた。


「最近の男性の、お嫁さんにしたい理想タイプは、癒し系なんですよ。そんな風に浩司に接していたら、結果的に甘やかして、つけ上がらせたんですよね」

「でも、あなたみたいな可愛い子なら、他の男性が放っておかないんじゃない?」


 ああ、そうそうこれだと、美佳は思う。

 彼女は、分かってくれる。

 そう、こんな慰めが欲しかったのだ。

 傷ついたプライドを優しく撫でてくれて、持ち上げてくれる言葉。


「その浩司さんって人以外に、誰かいないの?」


 長い黒髪、白い肌。

 レモンイエローのワンピースに白いサンダルとバック。

 そのままファッション誌を飾れるような姿。

 女らしい姿に似合わない、武骨な腕時計をつけていた。ローレックスのオイスターだった。「夫の時計を借りているの」その一言に、美佳は激しく羨望した。


「いない事は、ないけど……」


 出会った中で一番良い条件の男は、浩司だった。


「私はね、結婚したいけど、現実的なんです」


 あら、とアンヌの目が微笑んだ。


「その場限りの、期間限定のふわふわしたお付き合いじゃなくて、ずっと人生を共にする相手を探しているんです。年収と職業に、家庭環境も重視すると、絞られてくるんです。計算高い、イヤな子に思われるかもしれないけど、自分の人生に真剣だからこそ、相手の現実的なバックボーンが気になるんです」

「そうねえ、お金は大事だもの」


 アンヌの吐息に、美佳は満足した。

 黙ってアイスティーを啜っていた万由子が、顔を向けた。


「じゃあ、人柄は? 一緒に住むには、性格の良し悪しだって重要でしょ。こないだから、あんたが結婚したかったっていう浩司の話を聞かされていたけど、面倒くさい男じゃないの」

「そりゃあ、人柄だって条件の1つだけど、昔は相手の顔を知らないまま結婚していたっていうし。現実的な生活に不必要って証明されているじゃない。それに、恋愛感情は擦り切れていっても生活できるけど、お金はないと生活できないじゃない」


「結婚の条件に、人柄と経済力は切り離すってことね……何か、相手にマイルドな人格否定じゃん。目に見えない大事なものってあるんじゃない?」


 万由子は頭を傾げた。


「この人なら、一緒に苦労しても良いって。それが結婚相手の基本でしょ」

「愛こそが全て、年収や職業、家庭環境なんか関係ないって考え方こそが、相手を否定しているじゃないの」


 爪に鮮やかな色彩の乗せられたアンヌの手と、マニキュアもせず、ハンドクリームで手入れする事のない万由子の手は、女の格差をくっきりと示している。


「年収や職業って、自身の力で手に入れた人生の戦利品でしょ。戦利品を否定するの? 私お金が無くても豊かな暮らしは出来るって考え方、欺瞞だと思う」


 アンヌが小さく笑っている。

 好意的な響きに、美佳は一層調子が上に上がる。


「たまに雑誌の投稿や、テレビの特集で出てくるじゃない。お金をかけない、豊かな暮らしとか何とか。お金より愛情をかけてやることが大事です。お金が無くても家族の幸せは作れる。愛があれば貧乏でも楽しいのよって、遊園地やテーマパークに行くよりも、手作りお弁当を持って近所にピクニック。おやつも手作り。子供の服はネットオークションかフリーマーケット。何だか、貧乏の言い訳のような気がしない? それって本当にしたくてしているのって。お金あったら、本当はどうしてる? って聞いてやりたいよね。見ていて、生活が停滞しているっていうか、貧しさの澱が溜まりそうじゃない。子供が小さい内はそれで良いけど、大きくなって、お洒落とか遊びに目覚める年頃になっても、それで通せるのかな。私、子供には新品のお洋服を着せて、テーマパークへ連れて行ってあげたい人なのよね」

「……うーん」


「特にその典型が、ずっと前に流行った大家族スペシャルって奴ね。家族の絆とか、愛と人情とか平気で語るあの誇らしげな顔見たら、ぞっとするのよ。お金がないって、こういう事なんだって。収入とか経済力とか、目に見える武器を持てない家族って、目に見えず、あてにもならない人の心を頼りにするしかないんだなって、そう思う」

「人の幸せの形は、それぞれだし……本人たちがそれで満足なら、良いと思うんだけど」

「そう。幸せの形はそれぞれ。私の結婚生活の幸せは、目に見える経済力がどうしても切り離せないの」


 美佳は言い放った。

 高価なアンヌの装いと持ち物に、美佳は憧れざるを得ない。

 アンヌは結婚生活について語らない。

 いつもショーメのマリッジリングをはめた指を組み合わせ、微笑んでいる。

 その裏に、経済力のある夫の姿が見え隠れする。


 アンヌの指が、シャーリー・テンプルのストローをつまむ。

 計算して合わせたのだろうか、ドリンクの鮮やかなベリー色と、マニキュアの色が同じだった。

 アンヌは一口飲み、顎を手で支えながらストローを回した。


「お金では買えないものがあるっていうけど、お金では買えないものは、大抵の人は普通に持っているのよ。健康とか、友達とか、愛情」


 そうでしょ? とアンヌは万由子に微笑みかけた。

 万由子が複雑な顔になった。


「まあそうですけど、相手に対してそこまで経済力を特化するのも、何だかなって」

「でも、お金持ちと結婚したら、実際に楽よ。人生で一番心配な項目が解決されるんだもの。万由子さんは、お金の事で苦労したくないって思わないの? 楽はしたくない?」


 万由子が、ふと目を反らして床を見た。

 踵が高く、工芸品のようなアンヌの靴と、中学生が履き古したようなニーカー。

 万由子の今のバイト先はお弁当屋だ。デビューして2年、いまだに漫画で食べていく事は出来ないが、仕事の注文が来たら断る事は出来ないので、必要最低限の生活費を稼げるシフトしか入れない。


 生活はきついだろう。

 下着を買うのに、一食抜くような経済状態だ。スーパーに行くたびに、このカゴに何も考える事なく、ポイポイ商品を入れてみたいと言った事がある。

……なのに。


「結婚して楽するより、漫画を描きたいですね」


 万由子が嘆いた。


     ※


 万由子はそうでも、自分は違う。

 万由子は友達の中では一番の変わり者だった。

 でも方向性は違っていても、熱意は一緒ではないのか。

 売れっ子漫画家になりたい万由子、お金持ちと結婚したい美佳。


 そう思うと、職場に通勤して、一日を労働に費やす時間が無駄に思えてくる。

 こうしてルーティンワークをこなしている間に、自分の武器である容姿が加齢によってどんどん目減りしていく気がする。

 今、窓の外に運命の人が歩いているかもしれないのに、すれ違っている想像までしてしまうのだ。


 そんな過敏になっている時に、職場の同期の結婚式に出席するのは美佳は正直、厭だった。

 だけど、3ケ月前に『出席』に丸をつけて出したのだから仕方が無い。

 あの頃は、浩司と付き合い始めで幸せまっただ中、自分より幸福な女はいないと、披露宴の招待状くらい平気だったのだが。


『新郎新婦のご入場です。皆さん拍手でお迎え下さい』


 結婚行進曲と共に入場して来た同期の千鶴と、その相手の姿を見た瞬間、驚愕のあまり、美佳はテーブルの上のワイングラスを引っくり返しかけた。

 同期の千鶴は、はっきり言ってオカメだ。

 ふやけた輪郭に細い目、背も低くて太り気味、ウェディングドレスはデザインよりもサイズで選ぶしかないと、自分で笑っていた程だ。


 雑用係としては重宝されていたが、男性職員の人気は美佳の方が段違いだった。

 飲み会は美佳がお姫様で、千鶴はお笑い担当。

 そんな位置だったのだが。


「あれ、本当に千鶴の? 間違えているんじゃないの?」


 新婦の千鶴と共に入場する新郎を見た瞬間、思わず美佳は隣に座っている後輩へ首をぶん回した。


「替え玉とか、役者とか!」

「そんなはす、無いでしょう。これ式の本番ですよお」


 美佳は、愕然となった……凄い美形だ。

 背も高く、スタイルも良い。

 何でこんな男が、千鶴のようなチンチクリンのブスと結婚する気になったのだ。

 知らなかった。千鶴がこんな相手と付き合っていたなんて。

 千鶴は、あまりプライベートを話さないタイプだったせいもある。


「旦那さん、S銀行に勤めているんですって。銀行員ですよ」


 日本有数のメガバンクの名が、美佳の頭を横殴りした。


『えー、新郎の上原くんは、この春にニューヨークの支店への異動が決まっていて……』


 スピーチがトドメを刺した。

 なんとこのハンサムな銀行員は、ニューヨークに異動するのがきっかけで、千鶴にプロポーズしたというのだ。


『2、3年くらいすれば、日本に戻ってくる。でも異国にいる間に、千鶴さんが他の男に奪われてしまうかもと、居ても立ってもいられなくなったそうです』


 場内が笑う。

 愕然としているのは、美佳だけだった。

 美佳は失意に崩れそうな身体を一生懸命支えた。

 何で、この人と出会うのが私ではなかったんだろう。


 1回でも、いや、3秒でも良い、私と会って話していれば、千鶴から私に乗り換えたかもしれないのに。

 こんな事になると分かっていれば、もっと千鶴と接点をもっていたのに。

 もしかしたら、と想像すれば、きりがない。

 頭の上を乗り越えて、他の女に行ってしまうハンサムな銀行員を美佳は見つめた。


 披露宴で出されたのは、フランス料理のフルコースだったが、皿に手をつける気にはなれなかった。

 ワインの酔いは、厭な回り方をした。


 披露宴の後、千鶴はフランスへ新婚旅行に旅立った。

 こんなに自分を惨めに思わせた女と、どうせ手に入らない男を乗せた飛行機など、墜落すればいいのにとすら、美佳は祈る。

 しかし、周囲は美佳を同情もしてくれなかった。


「披露宴の平野さんのあれ、もう私、あの人怖くなりましたよお」


 終業後、1度会社から出たものの、ポーチの忘れ物をして引き返して来た美佳は、ロッカー室のドアを開けかけて、自分の噂話に固まった。


「今までは、可愛いだけのズレた人だったけどねえ」

「あんな事言うひとだったんですね。私、あんな酷い文句初めて『結婚にまで持っていけるなんて、相手のどんな弱み握ったんだろう』なんてさ」

「川井次長、顔が真っ白になっていましたね」


 よく知っている声。美佳の後輩の2人だった。

 今までに、聞いた事のない口調。

 丸出しにした敵意と嘲りの口調に、美佳の足は震えた。

 結婚式の披露宴だ。


 千鶴の結婚相手を見たショックで、ワインをがぶ飲みしている内に気分が高揚したのを憶えている。

 何を言ったか、叫んだ気はするけれど、思い出せない。

 あの時、飲み過ぎて気分が悪くなった。

 気が付いたらホテルの控室に寝かされていた。


 披露宴が終わって出社した今日、社内全てが冷淡で、いつもは『美佳ちゃんのファン』と公言する男性社員ですら、美佳と目を合わせてくれないのは気のせいだと思いたかったけれど。

 何を言ったんだろう、一生懸命記憶をかき混ぜるが、底は見えない泥沼だ。

 声は次々と、ドア1枚隔てた美佳を糾弾する。


「キャンドルサービスの時、新郎に向かって『あんた美人とブスの区別がつかない呪いにかかってんの?』なんて言った時なんか、非常識を越えて、もうコイツ死ねって思ったわ。職場の後輩ってことだけでも恥ずかしい」


 憶えていない。

 だが、あの声は沙智子だ。

 美佳の1つ下の後輩で、入社当時、面倒を見てやった子。


「でも、千鶴さんの旦那サマ、すごかったですね『いいえ、呪いではなくて祝福です』なんて、神対応ですよ」


……美佳は呼吸を忘れた。

 一番下の、京香だ。自分を慕ってくれていると思っていた子だ。


「その後、ワインがぶ飲みして、披露宴の最中のテーブルの上にゲロぶちまけてさあ。もう、あのテーブルの皆は料理食べられなくなったんですよ」


……でも、川井次長は今日、何も私に言わなかった。

 披露宴の最中に悪酔いするなんて、よくある話だと思ってくれたのかしら。


「さすがに酷過ぎると、もう何も言えなくなるよねえ」

「今日だって、しらっと出社して来たじゃないですか。本人も気にしていないんでしょ」


 体中の細胞という細胞が、羞恥と怒りで発火した。


「先を越されて、悔しいのは分かるけどさ」


 沙智子の冷たい声に、京香の嘲り声が続く。


「今の彼氏と絶対に結婚するって、ずっと言ってましたからね。でも、最初は可哀想かなって思っていたけど、散々相手の女罵り倒して、ずっとそれ聞かされていると、もうムカついてくるんですよ。じゃあアンタに、落ち度はないのかよって」


 京香、そんな風に思っていたの? 

 親身に聞いてくれていると、そう思っていた。

 沙智子の声。


「落ち度があるって、反省するような人なら男に捨てられないよ。だってあの人、良いのは顔だけじゃん」

「そうですよね。顔は可愛いけど、何だかこずるいんですよ。だってあの人、お客さんにお茶を出すことあっても、使い終わりのコップは絶対に洗わないんですよね。洗いものは、私たちに押しつけてきませんか?」


「洗いものはしないくせに、飲み会で『私、結構家庭的なんですよ』笑わすなって」

「そうそう、家庭的って意味、取り違えていますよね」


 一番下の京香に嘲られる屈辱に、美佳は震えが止まらない。


「家庭的な人って、料理や家事が得意って意味だけじゃなくて、無償の精神持つ人だと思うんですよ。だって家庭の家事って、外からの評価にはつながらないでしょ。別に評価されるとか抜きに、誰かのためにって思いやれる人が、家庭的って言えるんじゃないですか。あの人、その辺りを全然取り違えていますけど」

「だから、彼氏が捨てたんじゃない」


 笑い声が爆発した。

 思わず、美佳は会社を飛び出した。

 あんまりだ、ヒドイ、信じられない。

 会社を出て、泣きながら携帯を取り出した。

 だが、万由子はつながらない。


「アンヌさん、会いたいんです」


 メールアドレスを交換した時に、いつでも連絡して良いのよといってくれたのは本当だった。


『すぐ行くわ』


 そして、待ち合わせ場所、横づけされた高級外車から出て来たアンヌに、美佳は驚愕のあまり悲しみを落としてしまった。


「あの、この車……アンヌさんの?」

「そう。ジェームズ・ポンドが乗っていたでしょ。映画が好きなの」


 アストン・マーチンだ。

 浩司がカタログを見て、ため息をついていた。

 連れて行かれたのは、ホテルの最上階にあるバーだ。

 美佳はアンヌの後ろを気後れしながらついて行った。


 流行のチェックをかかさないとはいえ、高級品を買える訳じゃない。

 安物の通勤服では気後れするが、アンヌの目は美佳に優しい。


「……聞いて下さい。ひどいんです、皆……」


 どんな素敵な場所に連れてこられても、思い出すと悔しい。

 すすり泣きながら、美佳は訴えた。

 さすがに披露宴の失態は言えずにぼかし、その分、後輩2人の言動は包み隠さずに訴えた。


「ヒドイです」この言葉を、美佳は何度使ったか。

 ハンカチを差し出された。


「じゃあ、見返しましょ」


 目に痛いほど白い、繊細なレースのハンカチから、美佳は目を上げた。

 アンヌの慈愛に満ちた笑顔。


「見返すって、どうやって……?」

「彼氏に捨てられたんだって、馬鹿にされたのなら、また彼氏を取り戻せばいいんじゃないの?」

「やってみました」


 惨めな告白に、美佳の胸は軋む。


「会って欲しいって、何度もメールしたんです。でも、全然出てくれないし、ラインもブロックされました」

「ああ、じゃあ丁度いいわ」


 アンヌは美佳の頬を、そっとハンカチでぬぐった。

 花のヴェールをまとったような、ジャン・パドゥの香りがした。


「彼と復縁したいのなら、それでいいのよ。しばらく身を隠すの。メールも禁止よ。最低半年は、ほったらかしにしないとね」

「そんな事したら、彼、私の事忘れます。それに、何もしないその間に、新しい女と彼が、どんどん進展していったらと思うと、すごく心配で怖いんです」

「ああら、良いのよ、放っておきなさい。1度、あなたと彼はちゃんとリセットする必要があるの。出会い直すのよ」


 意味が分からない。

 だが、アンヌの自信に満ちた声が、今は気弱になっている美佳を惹きつける。


「結婚したいって、そう言ったわね。前の彼は、条件が一番良かったって。一石二鳥じゃないの」

「どうしたら、良いんですか?」

「教えてあげるわ」


 夜景を見下ろすスツールから、流れるようにアンヌが降り立った。

 伸ばされた白い手の持ち主を、美佳は呆然と見上げる。


「いらっしゃい」


 アンヌが微笑んだ。 


『まあ、後輩も裏で意地悪と言えばそうだけどね。所詮、他人の失恋なんてそんなものでしょ。それで、ちゃんと新婦と、同じテーブルにいた人達に酔い潰れた事は謝ったんでしょうね』


 万由子の言葉に、美佳はクッションを床に叩きつけたくなった。

 これだけ悔しい思いをしたというのに、言う事はそれか。

 やっぱり万由子はずれている。


「謝る必要はないって、アンヌさんもそう言ってくれた」

『……そうかなあ』

「だって、今現在、私は傷ついているのよ? 何をどう言われようと、結局千鶴は幸せじゃないの。それに、おめでたい席で飲み過ぎるなんて良くある話だから、ホテル側だって介抱するの、慣れているわよ」


 披露宴での醜態は、流石に美佳はややぼかしていた。

 千鶴への暴言を知られたら、万由子の漫画ネタにされそうだ、なんとなく。


「ワインを飲み過ぎて、気分が悪くなってホテルの人に介抱された。それを男に捨てられて自棄になったからだと、後輩たちか揶揄して自分を笑っている」

 と、いう事にしてある。

 別にウソじゃない。


『それでも、マナー違反には変わりないでしょ。お酒を飲み過ぎて介抱されたなんて、迷惑じゃないの。下手したら、主役の新婦より目立つでしょ。それってマナー違反よ』


 美佳は思う。

 確かに自分がやった事はマナー違反かもしれないが、その背景を万由子は知っているはずだ。

 同情してくれてもいいじゃないか。


「でね、アンヌさんが言うの。浩司を取り戻せって」

『やめとけば?』

「それでね、そのためには、私がもっと魅力的になって彼の前に現れることが大事なんだって。もう一度、彼と出会い直すの」


『……』

「一度恋人同士になったって事は、私は浩司にとって魅力的な存在だったっていう実績はあるのよ。それにね、地球上の何十億という人間の中で、お互いが相手を選びだして、恋に落ちた。それ自体が奇跡なの。だから、その縁を大事にしなさいって、アンヌさんがアドバイスしてくれたのよ」

『美佳は結婚したいの? 浩司が好きなの?』


 執着しているだけなんじゃないの、と低い声を出す相手に、美佳は憤然となった。


「あんた、少女漫画家でしょ! 人の恋愛に対して、なにそんな水を差すような事言うかな!」

『そりゃあ、少女漫画家だからよ。恋愛の現実をちゃんと知っているから、夢物語が描けるんじゃない。はっきり言うよ、あんたは相手を好きなんじゃない、執着しているだけ。浩司にあれだけ尽くしてやったのに、文句はそればっかりじゃないの。無駄に終わった労力が、悔しいだけでしょ』


「じゃあ、何? 万由子は見返りを求めない愛が本当にあると、そう思っているの? それだって、夢物語じゃないの」

『……』


 万由子の沈黙を、美佳は自分の勝利ととる事にした。

 そして、愛想良く切り出した。


「それでね、お願いがあるの。万由子の漫画家仲間に、森井さんっていたわよね? あの人の連絡先、教えてくれないかな」


 あの夜、ホテルの高級バーの後に美佳は同じホテルのエステルームに連れて行かれた。

 清廉な白と、豪華な金色で出来上がった部屋だった。

 漂うハーブの香りが、カクテルを飲んだ美佳を更に酔わせる。

 天使のような手を持つエステシャンの一流の施術を、美佳は受けさせられた。


「素敵……」


 美佳はうっとりとなった。他人の手から肌を愛撫される、まるで宝物を愛でるように、繊細に優しく……性交とは違う、だが悦楽は同じだった。


「こういう時こそ、自分を大事にしてあげないとね。でないと、美しさを保てないわ」


 アンヌは、隣のベッドで同じように施術を受けていた。

 その肌は、体温をもつ極上の陶磁器だった。


「女の最大の魅力は、幸せ感よ。失恋の最大のデメリットは、それを失う事。恋をしている時なら、高揚感やトキメキ感で、それは常にチャージされているものなんだけど、それを失うと、魅力が一気にかさついちゃうの。だから、それを一時的にでも補わなくちゃ」


 アンヌの声を聞きながら、美佳はうっとりと目を閉じる。

 まるで自分が溶けて流れるようだった。


「綺麗になるのよ。世界中の男性の視線を集めるためにね」


 そしてその夜、ホテルのスイートルームに、そのままアンヌと宿泊したのだ。


「これから最低5人とデートしなさい。彼に会わない、半年の冷却期間の内にね。そうやって、どんな相手であれ、最高の自分を演出するのよ。そして、彼の賛辞や熱い視線を浴びながら、一緒に楽しく過ごすの」


 男性とのデートによって、疑似恋愛を楽しみ、女の自信をつけなさいという事だ。

 美佳は思い悩んだ。

 短大の頃はサークル仲間、社会人なら口説いてきた相手、それなりにデートする相手もいたが、今はそれぞれ環境が変わり、疎遠になっている。


「誰でも良いのよ。美佳ちゃんみたいに可愛い子なら、デートしたがる男性なんかいくらでもいるわ」 


 その夜のアンヌのレクチャーで思い出したのが、森井克己だった。

 1度、万由子を交えて飲んだ事がある。確かあの日、メールアドレスも交換したのだが、酔っぱらった時にうっかり削除してしまった。

 彼もまた売れない漫画家で、昼は本屋でバイトしている。


 メールで誘うと、すぐに乗って来た。

 バイト終了後に会って、一緒に夕食をという流れになった。


『ええ~マユちゃん抜きで、美佳さんと2人きりですか。キンチョ―するなあ。俺、そんな洒落たお店知らないし』

『居酒屋大好きですよ~、いつか3人で飲んだところ、良かったじゃないですか』

『でも、せっかく美佳ちゃんと一緒に過ごせるんですよ。俺、頑張って店探します』


 美佳は森井のメール越しの反応に気を良くして、日時と待ち合わせを決めた。

 待ち合わせは、金曜の夕方。森井のバイト先の本屋だった。

 本屋といっても、ターミナル駅のすぐ外にある大型書店だった。

 繁華街に近く、すぐに遊びに出られる。

 ちょうどいい待ち合わせ場所だった。


 少し早めに着いた。

 美佳は雑誌コーナーで、時間をつぶす事にした。

 お気に入りの鞄と、さっき買ったばかりのペットボトルを平積みにされた商品の上に置いて、発売されたばかりの雑誌をめくる。

 飛び込んでくる色とりどりのファッションの中に、アンヌと同じ服を見つけた。エルメスのワンピースだ。


「……一体、どんな女性なんだろう」


 ハイブランドの新作のワンピースを身につけて、乗っている車はアストン・マーチン。そしてお酒を飲んだから、今夜は車で帰れないと高級ホテルのスィートに気まぐれで宿泊。

 女社長といった風ではない。でもあれだけの金を使えると言う事は、相当な財産家だろう。


 結婚指輪をはめているところを見れば、お金持ちの奥様という説が濃厚だ。

 好奇心もあって、アンヌの生活や背景をさりげに聞き出そうとしたが、毎回ひらりひらりとかわされてしまう。

 でも、あのアンヌの暮らし方を見ていると思うのだ。きっと夫は会社社長とか、財産家で、忙しく飛び回っている。

 妻は何もせずとも、その間に美しいものや贅沢に囲まれて美貌と身体を磨き、夫を待てばいい。


「正に女としての成功者、夢の生活よね」


 美佳は吐息をついた。そして、自分はその成功者と親しく、直にアドバイスをもらえる立場だ。気を引き締めた。

 ふと、気配に気がついた。


「あ、森井さん」


 少し離れたところで、森井が立ってこちらを見ている。


「なんだ、声をかけてくれればいいのに」


 美佳はとびきりの笑顔を作って、平積みされていた本の上に置いた鞄と、ペットボトルを取った。

 ペットボトルは水滴で濡れていた。


「いや、読書中を邪魔しちゃ、悪いかなって」

「何を言っているんですか、森井さんを待っているんですよ」

「そうだね」


 何となく、森井の歯切れが悪い。

 一応はデートなのだが、身につけている衣服は安物で、あまりお洒落に慣れているとは言えない人だった。

 顔は悪くないのだが、万由子の同類だ。

 そして自分からやや目を逸らし気味の森井に、ちょっとお洒落し過ぎたかなと美佳は思った。



「で、第一回目のデートは、どうだったの」


 アンヌが美佳に微笑みかける。

 毎週土曜日の午後、初めて会ったカフェでアンヌ、万由子と顔を会わせるのが、習慣になりつつあった。


「最低です」


 何となく、万由子を睨んでいた。

 万由子に森井を投影してしまったのだ。だが万由子はそれに構う事なく、つまらなそうな顔でカフェ・オレを飲んでいる。


「あそこまで盛り上がらないのって、生まれて初めて!」

「美佳からお誘い受けたって、喜んでいたんだけどね、森ちゃん」

「確かに、メールじゃそれっぽかったけど、実際に会って話せば、すごく失礼な感じ。なんかすごくよそよそしいのよ」


 うーんと呟く万由子の横で、アンヌが助け船を出した。


「体調が悪かったんじゃないの?」

「別に、顔色は普通でした」


 ふんと鼻を鳴らした。


「連れて行ってくれたお店も、ちょっと女の子の意見を取り入れましたって感じの、大したお店じゃないし、おまけに漫画の仕事が入ったって、一軒目で帰っちゃったんですよ」

「美佳ちゃん可愛いから、相手が気後れしたんじゃないの?」


 いや、アイツはそんなタイプじゃない……と口を動かす万由子を、美佳は睨んだ。何か絶対に森井から理由を聞かされている。

 言わないだけだ。


「まあ、そういう事もあるって」


 上っ面をなぞるだけの、その慰め方も腹が立つ。

 知っているなら言いなさいよと、美佳は視線を強くした。

 この間から、なんとなく分かって来たのだが、万由子は相手に対して冷たいのではなく、無関心なのだ。

 しかも、観察しているフシがある。


「でも、まあいいやって」


 スマホをバッグから取り出して、スクロールした。


「アプリで色んな人から、デートのお誘い来ているし。森井みたいな売れない漫画家のコトを、何だったんだろうってずっと思っていても、仕方がないですよね! 次行きます、次!」


 わずかに万由子の表情に険が入ったが、構わずに美佳はスマホを万由子に突きつけた。


「しかもね、見てよ万由子! ほらほら」


 万由子が、次は呆れの顔になった。

 まじまじとスマホと、そして美佳を見比べる。


「近江先輩? ……ちょっとあんた美佳!」

「別に良いじゃないの。私は今フリーだし」

「いや、あんたは独身でも、あっちは結婚しているじゃないの!」


 ふぅん? と怪訝な表情で、自分と万由子を見比べるアンヌに、美佳は言い添えた。


「短大の時に、つきあっていた人なんです。別の大学だったけど、サークルが同じで」

「……うっわあ、あんた、先輩とデートする約束したの? 既婚者だよ」

「あらあ、良いじゃない、ちょっと会うだけよ」


 二人のやり取りに、アンヌはにこにこと笑っているだけだった。


 思えば、すごくどん底だった。

 自室の鏡を見ながら、美佳は思い出す。

 敗北感に、やりきれなさに嫉妬、不幸感にいじけ心と、負の感情を煮詰めて、人型に固めたような状態だった。

 鏡を見れば、陰鬱な女がいた。


「でも、もう立ち直ったわね」


 つい、笑顔がこぼれ落ちる。

 意識せずとも笑顔がこぼれる自分に、美佳は満足する。


「随分、綺麗になったじゃないの」


 エステに通い始めたおかげで、肌は一皮どころか、作り変えたように美しい。

 まるで赤ん坊の肌だ。それに女の色香を沿えて、えもいわれぬ輝きを放っている。

 通っているのは、アンヌと同じエステサロンだった。もちろん、アンヌの紹介で

 費用はかなりのものだったが、浩司への目標と、綺麗になりたいという意気込みが、迷いを押しのけた。


 万由子に話すと「……え、そんな金額、いいの? 払えるの?」といって絶句し「私にはムリ」と言われたが、万由子なんかに分かりっこないのだ。

 他人をいくら観察したって、他人の心情に沿う事が出来ない相手に、自分を理解できるはずがないと思う。


 アンヌのおかげだと思う。

 彼女のアドバイスのおかげで、失恋から立ち直った。

 アンヌがいなければ、浩司を取り戻す事も考えなかっただろうし、そのために他の男性と疑似恋愛し、女の自信と魅力を磨くなんて、思いもよらなかっただろう。


「もしかしたら、浩司と付き合っていた時以上に、洋服買うのが楽しいかも」


 部屋の中は、紙袋が散乱していた。

 まだ、タグが付きっ放しの服もある。

 紙袋に印刷されたショップのロゴが、床の上で色とりどりの花のようだ。

 以前はどうしても浩司の趣味に合わせて服を買っていたが、今は違う。


 複数のデート相手のことや、それに合わせた自分のイメージを演出するためにも、色々なファッションにチャレンジしている。

 カードの支払いは、いつも収入を上回る。

 だが、金は等価交換の道具だ。その等価が自分の美しさであり、磨けば磨くほどに輝くものであれば、惜しいものじゃない。


 実家で生活しているので、生活費はかからない。

 それにいざとなれば、両親に泣きつけばいい。

 一人娘が、カードの支払いのせいで、社会的信用を無くすくらいならと、補てんしてくれる。


 エステで綺麗になり、デートした相手に褒められる嬉しさも励みになって、美佳の生活は、浩司と交際していた時よりも刺激的でテンションが高くなった。


「今日は、これにしようかな」


 会う相手、近江将弘の引き締まった顔を思い浮かべながら、美佳は買ったばかりのワンピースをクロゼットから選び出す。

 首元から鎖骨までがフォン生地で出来た、グレーのワンピース。

 胸元のシースルーがセクシーだが、ひざ丈のフレアが可愛らしい。


 つきあっていた学生の頃は、カジュアルなものばかりだった。

 数年ぶりの再会なのだ。

 あの頃とは正反対のセクシーさを、相手に見せつけてやろう。

 過去のある相手、しかも既婚者だ。


 いつものワクワク感とは違う、闘争心のようなものまでが沸いてくる。ちょっとした禁忌に触れるスリルだった。

 美佳はワンピースをあてて、鏡に微笑んだ。


 待ち合わせたのは、ターミナル駅にある大型モニターの前だった。

 待ち合わせスポットとなっているそこは、集団から個人まで誰かを待ち、待たせる人が渦巻いている場所だった。

 それなのに、スーツの背中を見た瞬間、美佳は近江将弘が分かったのだ。

 スーツ姿なんか、1度も見たことはないのに。


「近江先輩!」


 口にした名前が、響きが、すべてが懐かしい。

 甘苦しい感覚に、美佳は一瞬目まいすら感じた。

 でも、向こうも同じだったと思う。

 美佳ちゃん、と呼びかけて目が合った瞬間、すごく眩しそうで、それなのに悲しそうな顔になったから。


 将弘の行きつけだというバーで、再会の乾杯をしてから2人は微笑みあった。


「……本当に、失恋したのか? それにしては、すっごく綺麗になったけど」


 上から下まで値踏みする無遠慮さ。そして素直な賛嘆に美佳は満足した。

 店も申し分ない。

 地下で営業している狭い店だが、その分内装が凝っていて、アール・デコ風。

 ほの暗いライトに照らされた、将弘の精悍な顔を見ながら美佳は笑う。


「そ、可愛い女の子に盗られちゃった」

「へえ!」


 自虐的なセリフだというのに、自虐的にならない。

 むしろ、余裕を見せつける風でもある。 ちょっと将弘が目を見張った。

 色々な相手とデートを楽しみ、場数を踏んで来たのだ。学生時代の彼に対して、ドキドキするけどあがったりしない。

 胸の高鳴りやムードの危うさを、掌で転がし、楽しめる程だ。


「どうして俺たち、別れたのかな」


 陳腐な口説き文句だ。そして今の美佳に対する、敗北宣言。

 少し離れた場所から、エサをやる調子で美佳は答えた。


「別れたんじゃなくて、相手がよく見える距離まで、離れたのよ」


             ※


 生活があまりに好調だと、次に嫌な事が来るのではないかと、バランスを取るように不安が心を巣食うこともあるが、そんなものも寄せ付けないほど、美佳の日々は輝き始めた。

 結婚式の失敗の余波は、まだ続いている。


「何か、私に言うこと無い?」


 新婚旅行から帰って来た千鶴の問いに「何が?」と返した事が決定的になって、周囲から敬遠されているが、全く気にならないほどだ。

 男性の賛辞をシャワーのようにじゃぶじゃぶと浴びた、女として充実した時間の流れに、美佳は身をどっぷり浸からせている。


『自分で作った脳内麻薬のせいで、良心麻痺してんじゃない? やって良いことと悪いことの区別、ちゃんとついてる?』


 将弘と再び関係を持った。

 さすがにアンヌには話せない。携帯で万由子に話すと、見事に切り捨てられた。


『彼とは不倫じゃなくて、まさか純愛とか抜かさないわね。損するの、あんたよ。ついでに言えば、あんたが何で近江先輩と上手くいかなかったか、憶えていないの?』

「憶えているから、損なんかしないわよ」


 携帯を手にベッドに転がり、天井を眺めながら美佳はせせら笑った。


「ちゃーんと憶えていますって。近江先輩、女に手が早くて、私とつきあっていた時にも、サークル内外複数の女がいた事くらいね。あんたの言う、女の損とか得とかって、結婚したいとか、別れて欲しいとか、相手を独占したくなった時に出てくる話じゃない。別に私、近江先輩と結婚したいなんか全然思わないし」

『お互いに割り切っている関係なら、大丈夫って思っているワケか』

「言い方を変えれば、お互いが相手の場所を尊重しているっていうかね」


 恋人として連れて歩き、寝る相手としては最高だ。

 それに向こうは既婚者の引け目と美佳の魅力アップに、学生時代の力関係が完全に逆転している。

 そして今の自分が彼にのめり込む事は、まずあり得ない。


「それにさ、聞いてよ。昨日の晩、近江先輩と歩いているところを、浩司とすれ違ってね。こっちは知らん顔していたんだけど、さっき、浩司から連絡があったの! 元気? だって!」

『ふーん……で、どう相手にレスしたの?』

「するわけないじゃん。でも明日にでもレスしようかな。もう眠いし」


 結局、浩司にメールを返したのは2日後で、その内容も『元気よ』だけだった。

 すぐに浩司からメール返信が来た。


『時間あったら、会わない?』

 すぐには返信しない。2日後に返事した。

『忙しいの』

 それをアンヌに聞かせると、アンヌは爆笑した。


「それで良いのよ、美佳ちゃん……それにしても、相手からの連絡、ずいぶん早かったわね。まだ半年も経ってないのに」

「別に、すぐに会わなくっても良いかなって気もしてきました……たくさん、デートする相手もいるし」


 実際、将弘とも会っている。

 それ以外の他の男とも、寝る事はないがコンサートやデートの約束もある。

 機が熟すのを待っているというよりも、適当にあしらっている間に半年目が来た。


「そろそろ、会ってもイイかな」


 何回目のお誘いメールで、ようやく施しを与える気になった。美佳はようやく腰を上げた。

 会う場所は、美佳が指定した。

 以前のように、恋人同士の待ち合わせに相応しい公園や店ではなく、仕事で待ち合わせるようなそっけない場所。

 駅の改札で、浩司は待っていた。


「……久しぶり」

「久しぶりね」


 自分に瞠目する浩司に、美佳は笑う。

 もう半年前の自分じゃない。浩司だけの自分とは違い、他の男性から褒め称えられる言葉も、称賛の視線も当り前の、贅沢さを身につけている。もちろん、ファッションも。


 レストランも、美佳が指定した。

 商社マンのデート相手が、連れて行ってくれた場所だった。

 色々な高級店の場所と雰囲気を、足を踏み入れて知った。行動範囲も広がって、店の情報網も倍になっている。


 自分のテリトリーとは違う店に入った浩司は、少し落ち着かないようだった。

 前にいる美佳を見た。

 明らかに、視線の種類が昔とは違う。


「着ているものの趣味が、すごく変わったね」

「ええ、商社にお友達が出来てね。関係者だけのセールとか、情報をくれるの」

「ずっと前に、Gのスクランブル交差点で、腕組んで一緒に歩いていた男? なんか、遊んでいそうな感じの奴で……」

「違うわよ。でも、失礼ね」


 浩司が微かに見せた、嫉妬の響きを美佳は引っぱたいた。


「ヤツって何? あの人は私が昔、お世話になった先輩よ」

「お世話になっただけの相手と、腕組んで一緒に歩くの?」

「少し酔っていたもの。それにあんな人ごみの中で腕を出されたら、ちょっと組む気も起きるわよ」


 美佳は、浩司の目を見つめた。


「……久しぶりに会ったと思ったら、こんな話? この調子で時間過ごすなら、もう帰ってもいい? 本当に私、忙しいのよ。時間が貴重なの」


 そういう貴方も、彼女とはどうなったのかとか、それも聞かない。

 あなたの近況など、関心もないと言わんばかりの強気さは、明らかに浩司をひるませた。

 新しい若い女の事は一切触れず、その日は食事だけで終わらせた。


「あれから、結構、誘いが来るんですよ」


 土曜日のカフェで、美佳はアンヌに携帯を見せた。


「応じるのは、3回に1回、あるかないかですけど。でも食事だけ」

「ずいぶん、以前と態度が違うわね。あんなにモト彼に会いたがって、よりを戻したがっていたのに」

「ん~、まあ、そうなんですけど、今はたくさん遊ぶ相手いるし、あせらなくてもいいかなって気もしてるんですよ」


 美佳は、ちらりと店の窓に映るアンヌと自分の席を見た。

 まるで映画のワンシーンの2人のようだ。


「今、昔の先輩ともデートしているんですけど」

「あら、素敵」

「すっごくカッコ良くて、もてる人だったんですよ。私以外にもたくさん女の人とつきあっていて、嫉妬に疲れてサヨナラしちゃった」


 だけど現在、会って遊ぶ相手とすれば将弘が一番だ。

 遊び慣れているし、身体の相性も合う。

 既婚者だが、別に結婚を望む相手じゃない。

 割り切って会うには、ベストの相手だった。


 そして結婚する相手としてベストなら浩司だ。今現在でも一番条件がいい。

 将弘とつきあって、だからこそ浩司の条件の良さが分かった。


「昔の先輩は、当時私に隠れて他の女と会っていたけど、浩司は好きな人が出来たって、ちゃんと私をフッたでしょ。比べると、違いが良く見えてきたんです」


 19才の今の彼女とどうなったかは知らないが、浩司と将弘を比べれば、浩司のほうがまだ、誠実な気がするのだ。

 美佳に対する浩司の執着心が、会うごとに募っているのが分かる。

 昔に逃がした魚が惜しくなっただけではなく、手に入れてもおかしくない相手が、手に入らないもどかしさで躍起になっている。


「でも、もうちょっと、様子を見てもいいかなあ」

「そうね、じらしちゃいなさいよ」


 アンヌが言い添えた。


「綺麗な女の子の特権よ。最近、この店にいる男性は皆、私よりも貴女を見ているわ……ちょっと悔しいわね」


 美佳は誇らしさと嬉しさに、胸が高まった。


 男のプライドか、礼儀なのか、浩司が口に出すことはなかったが、今の彼女と上手くいっていないことは、空気から良く分かる。

 そして会うごとに昔話が多くなるのは、ヨリを戻したがっている証拠だった。


「美佳は、家庭的だったよな」


 浩司が嘆く。


「部屋を見れば掃除してくれて、朝に起きられないと分かると、モーニングコールしてくれてさ。生活に関しちゃずぼらな俺に手を貸してくれて、それが当り前って感じで。それで、ヘンな気の緩みが出た。それが間違いのもとだったんだなって」

「ああそう」


 そっけなく、美佳はカクテルに口をつけた。

 淡い光に浮かぶ桜色のリキュールと、同色のマニキュアの取り合わせが美しい。

 会えば会うほど弱っていく浩司の態度を、美佳はそっけなく、しかし内心楽しみながら眺める。


「美佳は、会えば必ず手料理を振る舞ってくれただろ。俺、結構好き嫌い多くて困らせたけど、それがどんなに尊いことか、今になって良く分かった」


 今の彼女は、作ってくれないの? それを聞くのは簡単だが、浩司の餌に飛びつく素振りは見せない。

 逆だ。

 餌を投げ返さなくては。


「そうね、苦労したわ。今はそんな苦労ないけど、思えば懐かしいな」


 美佳は小さく笑った。


「アレ嫌い、これ嫌い。限られた食材でレパートリー増やすの、すっごく苦労したのよ。料理本もいっぱい読んだし、ネットも検索して、頑張ったなあ、私」

「今の若い子って、男女同権意識が強いんだよ。男も女も変わりなく、家事も料理も出来て当たり前。だから、俺みたいに家事も料理も全然ダメっていうと、どうして出来ないのって馬鹿にされるんだよ。私が代わりにしてあげるなんか、全然無し」

「じゃあ、出来るようになれば?」

「そういう問題じゃないんだよ。意地悪言うなよ。相手の苦手分野を、素直に認めてくれて、もしもそうなら助けてあげようとか、思ってくれるかどうかの問題じゃないか。思いやりっていうか」

「……」

「美佳に、すごく悪いことをしたと思っているんだ」


 ぐっと手をつかまれる。

 逃がすかと言わんばかりの力。今夜で決めるとばかりの決意。


「今、つきあっている男はいないんだろう?」

「そうよ」


 突き刺さる視線から、美佳は顔をわずかに逸らした。


「誰かさんのせいでね」


 スツールの上の上半身が大きく揺れた。

 不安定な体勢で、美佳は浩司に抱きしめられていた。


「……頼むよ、美佳」


 くぐもった声が耳たぶをくすぐる。

 他の客の目などお構いなしの男の情熱に、美佳は揺さぶられた。


「もう一度、やりなおさせてくれ。もう間違わないから」


 歓喜で、頭が吹き飛ぶ。

 生まれて初めての、完全勝利だった。


 浩司のマンションも久しぶりだった。

 乱雑な部屋の様子から、今の彼女とはもう会っていないという、浩司の言葉は本当らしかった。それでも今夜は美佳を入れるという決意があったのか、浩司なりに部屋は片付いていた。


「あの娘とは、もう会ってないよ。ここしばらく、メールのやり取りもないし」


 そして、美佳の前で、彼女のメールアドレスを削除した。

 ここまで本気を見せた事に美佳は感激し、浩司の部屋に泊まった。

 4日間、2人きりで可能な限り部屋にいた。美佳は会社も休んだ。


 まずは、アンヌに報告した。

 アンヌは喜んでくれて、結婚式には招待して欲しいと言ってくれた。

 もちろんだった。


「結婚することになったの」


 ようやく帰宅した自分の部屋で、万由子に電話で告げると数秒間の沈黙が漂った。


『……おめでとう』


 万由子の驚愕が伝わってくる。

 美佳は醒めきれない勝利感に酔いしれながら、銀行から届いている通知を、開封せずに破った。

 どうせ引き落としの残高が足りないというメッセージだ。

 また、親に補てんしてもらえばいい。


『で、近江先輩とはちゃんと別れるんでしょうね』

「当り前じゃないの。最初からお互い、そのつもりだもん。第一、近江先輩が女に執着するタイプに見える? 自分は結婚しているのよ」

『そうね。完全に割り切って遊ぶタイプだなあ。自分は別れたくないって、相手の女にごねるタイプじゃない』


 万由子の言うことは、全くその通りだった。


「そりゃ、おめでとう」


 傷ついた風も未練も全く見えない、将弘の言葉だった。

 これがホテルのベッドの中でなければ、ありふれた祝辞なのだが。


「で、日取りは?」


 将弘の両腕と毛布にすっぽり包まれて、美佳は言った。


「半年後くらいかな。私はゆっくり準備すればって言ったんだけど、彼の方が出来るだけ早くってせっかちなの。代理店勤務の情報網を駆使して式場探しているわ」

「じゃあ、これが最後って事で……延長しようか」

「もうこれっきり会わないんだから、泊まりでも良いわよ。彼と親には、今夜は万由子の家って言ってあるし。あの娘にもアリバイもちゃんと頼んでいるし」


 将弘は遊び。

 浩司が本命と割り切っている。

 本命に遊び相手のことを知られないこと。

 そして結婚が決まればきっちりと別れる事。

 それは、美佳にとって浩司への礼儀でもあった。



 結婚が決まった後、両親は、浩司との結婚に大喜びだった。ワガママで困っていた1人娘が、結果的には立派なエリートを捕まえたと、親戚にも吹聴して回った。

 障害は全く無い。悩みも不安も無く、美佳は幸せなスケジュールに追われた。

 結納も終え、式場も決まった。


 人気の高い式場の、ガーデンウェディングを浩司のコネで押さえる事が出来た。これで、映画に出てくるような理想の結婚式が出来る。

 一番痛快なのは、結婚退職の報告に陰口を叩いていた後輩たちの愕然となった顔を見られたことだった。

 逆転勝ちの顔で、後は結婚退職の日までいればよかった。



「結婚祝いを渡したいから、会わないか?」


 将弘から連絡が来たのは、式まで後2ヵ月を切った頃だった。

 待合わせの時間は会社の昼休み時間で、場所は会社の傍の喫茶店だった。

 誰かに見られても後ろめたくも無い。先輩から後輩へのお祝いの受け渡しだ。

 美佳は承諾した。


 会社の制服のままで、美佳は喫茶店に入った。

 4人掛けの席に座っている、将弘の横顔を見つけて声をかけた。


「ああ、久しぶり……平野さん」


 いつもは美佳を名前を呼び捨てなのに、さん付けで他人行儀な呼び方は、きっとけじめだろう。


「久しぶりね。お祝いって、なあに?」

「ええと、その」


 自分を真っすぐ見ようとしない将弘の表情と、その震える手に美佳は気が付く。

 手をかけた灰皿までが震えていた。


「どうしたの?」

「こんにちは、平野美佳さん」


 目の前の将弘の横の席に、女が座った。

 美佳よりも明らかに年上で、見知らぬ女だ。

 だが美佳の結婚後の名前を呼んだその声は、どこまでも冷えていた。

 厭な予感がした。


「はい、結婚お祝い」


 女が数枚の写真を差し出す。

 その写真を見た瞬間、美佳の細胞が瞬間凍結を起こした。

 将弘と自分だった。ホテルへ入る場面、出てくる場面。

 場所と日付を変えて数枚。


「動画もあるわよ。見る?」


 携帯を突きつけられた。将弘と寄り添ってホテル街を歩く自分。その自分の笑顔がはっきりと映し出されていた。

 目の前の将弘は、美佳を見ようともせず、口も動かない。

 ただ震えている。


「自己紹介します。私は近江真弓、将弘の妻です」


 美佳にとって、存在すら考えなかった相手だった。


「お昼休みでしょ。時間が無いだろうから、単刀直入に言うわね……夫と私は結婚生活を解消することになりました。その原因を作ったあなたたちに、私は精神的苦痛を与えられたとして、それぞれに慰謝料を請求します。夫に300万、あなたに200万。証拠はあるし、夫も認めています」


 憎しみや悲しみも無い、事務的な口調が、かえって美佳の背中を冷やした。

 美佳は将弘を見つめた。真弓が述べた。


「支払いを拒否するなら結構。これを証拠に、裁判に持ち込みます」


 その言葉は、美佳の頭を横殴りに叩きつけた。


「もう別れました。会っていません!」


 声がついて出た。

 しかし、逃れるために口からだした言葉は、自白でもあった。

 将弘の顔が跳ね上がり、真っ白い顔が美佳を見つめた。


「ああ、そうらしいわね」


 真弓は、テーブルの上にあった伝票をつかんで立ち上がった。


「知ってた? 浮気の時効って、相手方の浮気を知った時から半年なの。この写真や動画を撮ったのが、3ヶ月前。だからこのお話は成立するのよ。だから、裁判か、否か。ちゃんと2人で話し合ってちょうだい……言っておくけど」


 真弓は視線を、将弘に投げ捨てた。


「写真以外の証拠も、こちらにはちゃんと揃っています。それに私、もうこの人とやり直す事なんか、もうこれっぽちも考えていないの。だから、もう二度と2人で会わないから、許して下さいもないわよ」


 ……真弓は、2人を放り出すように退席した。


 払わないと、将弘との事が明るみになる。

 真弓の態度から、それは明白だった。


「裁判なんかになったら、ばれて破談になるじゃないの!」


 真弓が去った後、美佳は喫茶店で将弘に詰め寄った。

 会社に戻る時間になっていたが、それどころではない。


「払えるはずないでしょ、そんな大金……」


 将弘はただ、うなだれていた。

 もう、妻には完全に愛想を尽かされているらしかった。

 美佳は呻いた。

 真弓が夫の将弘に対して、妻としての愛情が少しでも残っていたら、将弘の今後の反省や誠意で何らかの打開策がある。だけど、もう不用品となった男の今後の反省など、真弓にとっては必要ない。


 金を取る、それだけだ。

 夫の不倫相手の美佳なんて、人間扱いしてすらしていない。

 200万なんか、とても出せない。

 そして、それが浩司にばれたら。

 もう、将弘とは会っていない。そう言っても許してもらえるか? 


 無理だと美佳は頭を抱えた。

 普通の恋愛ではなく、不倫。

 しかも裁判沙汰になるとすれば、浩司は美佳を許さないだろう。


「これって、恐喝だと思わない?」


 境遇が光から闇にひっくり返った。

 その不安と恐怖に耐えかねて、電話したのはやっぱり万由子だった。アンヌに話せるはずなかった。


『貯金は?』

「あるはずないでしょ!」


 全部、エステと服の支払いに消えている。

 結婚資金も親が美佳のためにと、勝手に積み立てていた金だった。

「将弘と私、合計で500万よ。子供がいないくせに、そんなの高すぎるわよ! 第一、将弘とそんなに長く付き合った訳でもないのに、200万って、法外な値段よ! 私が挙式前だから、絶対に恐喝の意味もあるんだわ!」

『自分で撒いた種じゃないの』

「何でそんな意地悪言うのよ! もう、招待状も出しちゃったのよ!」


 不安と恐怖で、押し潰されそうだ。もしも、浩司に知られたら?

 結婚式が取りやめになったら? 

 笑い者だ。想像しただけで、背中が粟立つ。

 涙があふれた。


「浩司と結婚するために、私頑張ったのよ、ここで台無しになんか出来ない!」

『別に、あんた頑張ってないじゃないの』


 言葉の冷水に、美佳の涙と血の気が引いた。

 万由子の口調には、美佳の求める同情も憐憫もなかった。


『いい? 美佳。頑張ったっていうのは、困難を乗り越えて実力を磨いたり、鍛えたりすることを言うの。あんたは、ただ服を買ってエステに行っただけじゃないの』

「……万由子、こんな時に……」


『それにさ、美佳、あんた被害者顔しているけど、先輩と一緒になって、先輩の奥さんを傷つけたことだけは、確かなんだからね』

「あんた、どっちの味方?……ともだちじゃ、ないの?」

『もしかしたら、私はあんたのいう『友達』じゃないかもね』


 淡々とした声は、真弓の口調とどこか似ていた。


『あんたが欲しいのは、トモダチじゃなくて、自分に追従してくれる相手。話を聞いて、うんうんと肯く相手……あのね、どんなみっともない形であれ、ちゃんと自分で責任を取るって事をしなよ。自分の尻も拭かず、相手に黙ってこのまま結婚なんかしてもいいと思ってんの?』


 美佳は、怒りのあまり震えた。通話を切った。


 万由子には、失望した。

 美佳は両親に打ち明けた。

 頼れるのは、味方は親だけだった。


 さすがに両親は怒り狂った。

 殴られるのではないかと思うほど、美佳に向かって泣き、怒鳴りつけたが、結婚を壊したくないという気持ちは、親子3人一致していた。

 母親は娘に対してよりも、真弓に怒り狂った。


「強請りじゃないの! 愛想尽かした亭主とついでに、毟り取れるところからって思っているのよ。交渉出来ないかしら」

「そんな時間はあるか。もしかしたら、相手はそれを狙って、美佳の結婚を壊すことが目的かもしれないんだ。早くカタをつけてしまおう。その代わり、今後一切、美佳に近づかない、そして口外しないと一筆書かせる」


 交渉の場には父が赴いた。

 そして、弁護士立会いのもとで、真弓からその通りの念書を書かせて戻って来た。

 口外しないという文に、美佳は安堵のあまり泣いた。


「ごめんなさい。もう軽率な事、しません……浩司さんを大事にして、幸せな家庭を築きます。いい奥さんになる。約束する……」


 父と母の前で、美佳は手をついて感謝し、謝罪した。

 浩司と結婚したい。

 この幸せが危うく壊れかけた事に直面した後の、心の底からの本心だった。


 浩司から会いたいと連絡が来たのは、二人の結婚式の招待状の返事が、そろそろ返ってくる頃だった。

 結婚式場の傍にある喫茶店で、平日の昼間に待ち合わせた。

 会社を抜け出してまで来る用事なんて、何だろうと美佳は喫茶店の入口を見た。


「最近、会ってないからかな」


 仕事が忙しいらしい。でも、結婚したら毎日一緒にいられるのにと思う。

 しかし、浩司は以前よりも美佳に執着するようになったのは、確かだった。

 浩司の姿を待っていた美佳の前に、意外な人物が飛び込んだ。


「アンヌさん!」

「はぁい、お久しぶり」


 アンヌともしばらく会っていなかった。


「すっごい偶然! 良かった、会いたかったんです……招待状出そうとしたのに、住所分からないし、でもメールしたのに、返事くれないんだもの。ええと、住所、教えてくれませんか」

「無駄と思うわよ」


 え? 美佳は、思わずアンヌの笑顔と、聞こえたその言葉をすり合わせた。

 くすくすと、アンヌは笑う。


「結婚式自体が、おじゃんだもの」

「……え?」

「ほら、婚約者が来るわよ」


 浩司がやってくる。

 そういえば、アンヌがなぜ浩司を知っているのか。

 再びアンヌに目を戻すと、姿がない。

 消えたアンヌに狼狽する美佳へ、浩司が切り出した。


「結婚を取りやめたい。白紙にしてくれ」

「え?」


 さっき、何て言った?

 頭の中が真っ白になり、すぐに黒に反転した。

 美佳は叫ぼうとしたが、浩司の口が早かった。


「不倫していたんだってな」

「そんなひどいこと、誰が言ったの?」


 美佳は悲鳴を上げた。

 誰が言った? どこで漏れた?


「噂を聞かされたんだ。だから、興信所に調べてもらった」

「興信所って……私を信じてくれなかったの?」 

「信じたいから、興信所に頼んだんだよ!」


 浩司の声は、悲鳴に近かった。


「美佳はどうせそう言うだろうって、そう思ったから、美佳を信じるために、ちゃんとした裏付けが欲しいと思って興信所に頼んだんだ! そうしたら……それがウソなら、なんで相手の男の嫁に、慰謝料を払ったんだ?」


 声が、声帯の奥で凍りついた。


「……お義父さんが、払ったんだってな。家族ぐるみで、俺を騙そうとしたわけか」


 美佳は頭を振った。そうだけど、違う。

 浩司と結婚したいから、払ったのだ。 


「それにさ、美佳。お前会社で、裏で皆から何て呼ばれているか、知ってるか? 『顔だけの性格はモンスター』だってさ。顔しか取り柄がないって、そういう意味らしいよ。結婚相手の俺、美佳の周りから同情されているんだってさ」

「……ひどい、みんな……」


 千鶴が、京香が、沙智子が……悪意に気が遠くなりかけた。


「これは客観的な、公平な立場から見た報告だ。調査報告読んでいる内に、美佳と結婚する気が失せたよ。取りやめても、良いんじゃないかな。どうせ披露宴の招待客の人数は、大幅に狂うようだから」

「……どういう、意味?」


 声を出すのがようやくだった。


「君の友達、出席するのは1人だけだ。後は、会社の人も友だちも皆、欠席するらしいよ。君の家の親族もほとんど欠席するらしい……よほど、好かれているんだな」


 美佳を見る浩司の目は、完全な蔑みだった。

 いくら美佳が泣いても、世界中が美佳の弁護に回っても、揺るがない嫌悪だった。

 自分の過失だけではない。周囲も、美佳の敵となって浩司との縁談を潰した……それだけ敵を作っていた事実に、美佳は打ちのめされた。

 喫茶店を出ていく浩司を、立ち上がって止める事が出来なかった。


「ね? 言ったでしょ」


 いつのまにか、アンヌが自分の目の前に座っている。


「なんで……? 知ってたの?」

「私、人じゃないから」


 からかわないでと怒る気力すら、摩耗していた。

 どうでもいい。悪魔とでも何でも、名乗ってちょうだい。


「本当はね、私が目をつけていたのは、あなたじゃなくて万由子さんだったのよ。生活が苦しいくせに、好きな事だけに没頭して閉じこもっている。貧乏神にとって、美味しい素材に見えたんだけどね」

「……びんぼうがみ?」


「そ、貧乏神……でも、万由子さん、そもそも貧乏を相手にしていないのよ。作品を作ることが全て。あなたと同じ欲深ではあるけど、他人や物でなくて、自分に対する欲求……向上心て奴ね。そういう人間は私、あんまり好きじゃないのよ」

「なに、言ってるのか、全然分かんないよ……アンヌさん」

「ありがと、楽しませてもらったわ」


 アンヌは、満足げに肯いた。


「ドイツ語でね、貧困は『アーヌ』っていうの。そこから『アンヌ』は名前をもじっているのよ。良い名前でしょ」


 泣いているはずなのに、美佳は笑っていた。

 しかし、その笑いは狂気と空虚が混じっていた。

 笑う美佳をアンヌは笑顔で見つめる。祝福の女神さながらだった。



 結婚式の破談は、新郎新婦の両家を炎渦巻く大戦を引き起こした。

 裁判だ、慰謝料だ、賠償だと怒鳴り合う内に、両者とも精根尽き果てて灰になって終結した。


 結婚はしなかったが、美佳は会社を辞めた。

 浩司によって、針のむしろに気がつかされた場所には、とても耐えきれなかった。

 全部、無くなった……仕事も、お金も、家庭の平和も。


 母親は、毎日泣き暮らしている。

 父親は毎晩泥酔して、見えない誰かを罵倒している。

 美佳は、陰鬱な一階から逃げ出して、自室に閉じこもった。

 そして、日々、ぼんやりと残がいとなった結婚式を見つめていた。


 ドレスの写真、式場のパンフレットに引き出物のリスト。

 そして、招待状の出席の返事。

 浩司の言うとおりだった。皆、欠席だった。

 出席は1人だけだった……万由子。


『あんたが欲しいのは、トモダチじゃなくて追従してくれる相手だよ』


でも、式には友達として参加してくれるつもりだったのだ。

上手いとも言えない字で、自分の名前と『御』にバッテンとつけた出席ハガキに、美佳は目眩を感じた。


万由子から連絡があったのは、美佳の世界が全て壊れて3ケ月ほど経った辺りだった。万由子から連絡があるのは珍しい。

万由子から執拗と言える連絡に、美佳は仕方がなく外に出た。ずっと家に引きこもっていたおかげで顔はむくみ、身体は重い。


「久しぶりね」


万由子を見て、美佳は少し驚いた。

安物で固めた服装は相も変わらずだったが、長かった髪が短くなり、顔の色つやも良くなっている。

待合わせは、お気に入りだったあのオシャレなカフェではない。昭和の色が濃い古い駅前の喫茶店だった。近所のコーヒー好きが集まる店である。


服装に構わなくなり、ジャージしか入らないほど体重も倍加した自分にとっては、誰の視線も集めない、こんな場所が丁度良いと美佳は己を嘲った。

最近、自分自身を見るのもいやだ。

肌と髪の手入れもどころか、鏡そのものを見ない。


流石に今日は出かける前に、数日ぶりのお風呂には入ってきたが、それでも見違えるほど劣化した美佳に、万由子は何も言わなかった。


「単刀直入に言うよ。仕事を手伝って」


万由子が切り出した。


「月刊誌で連載が決まったの。でもアシスタントがいなくて締め切りが大変でさ。PC使って漫画書くソフトもあるけど、できるだけ人の手で書きたいのよね。手伝ってくれないかな。誰でも出来る簡単作業だけど」

「……」


外に出たくない。

誰にも会いたくない。周囲は全て敵で、今でもきっと自分の惨めさを肴にして、知人たちは笑っているのだ。その被害妄想はどんどん範囲を広げて、顔を知らない誰かも自分を馬鹿にしていると思うようになった。


「別に良いじゃん。それがどうした」


万由子の声が頭を殴った。


「噂する奴には、こう思っていりゃ良いのよ。アンタたちの退屈な日常に、話題を提供してやったんだ。感謝しなってさ」


ほら、と万由子が、漫画雑誌を差し出した。

「今、連載しているのがこれ」


漫画のタイトルは『ミカコの場合』

顔とスタイルに自信がある玉の輿志望のヒロインが、手段も常識も枠の外に婚活街道と恋の道を爆走する話だった。金持男とあれば、通りすがりの他人の見合い相手でも横取りしようとする、ヒロインの強引な手口と妄想力の強さがホラーとギャグの間を綱渡りしている。


モデルは言わずもがな。

読みながら、美佳は笑っていた。

怒るべきなのに、それ以上に腹から笑いが邪魔をする。


「やってくれるよね」


万由子がニヤリと笑った。


――2人の合作ともいえる『ミカコの場合』がドラマ化され、映画化されるのはその2年後の話になる。

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貧の女神 洞見多琴果 @horamita-kotoka

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