第3話 貧格

 会社で仲の良い同期と集まって、休日にバーベキューをする事になった。

 当日の天気は最高だった。月並みだが、青空とそよ風が『外に出ようよ、レジャーしようよ』と人間を外に誘っているかのような天気。


 俺はポール・スミスの新作で全身コーディネートを決め、集合場所のドライブインへ新車BMWで颯爽と乗りつけた。他の同期とは違う、育ちの良い好青年の印象をミス営業課の由美香ちゃんに見せつける絶好の機会だ。

 そして、集合場所に揃ったメンバーの顔に、俺は仰天した。


 同期の田野がいた。

 まさか、と俺は目を疑った。

 間違いない、田野だ。

 あのチンチクリンのデブ体型は、見間違いようがなかった。

 田野は他のメンバーから少し離れて、ドライブインに並ぶ自動販売機を眺めながら、行ったり来たりしていた。


 俺は信じられない思いで、幹事の姿を探した。行事に参加するメンバーの、最終的決定権は幹事にある。

 当然、呼ぶメンバーにも細心の注意を払うのが幹事というものだろう。

 そのイベントが成功するかどうかは、場所や店、内容よりも、参加者の品性や相性が重要なのだ。


 当然トラブルメーカーは排除し、仲が悪い同士を呼ぶ事は無い。

 楽しい場をぶち壊す可能性があるものは、事前に摘み取るのが幹事による気使い、イベント成功のコツなのだが。


「おい! なんでアイツがいるんだ?」


 俺は今回のバーベキューの幹事、総務部の風上に詰め寄った。


「今までの幹事からイベント開催の注意として、申し送り事項に必ず入っているだろう!」


 俺は、過去の社内イベントを思い出して身を震わせた。

 田野は今までに参加した行事やイベントを、必ず恐怖と混乱に陥れてきた男なのだ。

 同じ課で同期入社なので、一緒にイベントに参加した事もある。

 そして噂にも聞いている。身にも耳にも染みている。 


 風上は、ワゴン車にビールを詰め込む手を一度止めた。


「お前も怯えてるんだな」


 首にタオルをかけた風上は、再びワゴン車にビールを詰め込みながら肯いた。


「分かってるよ。あいつが参加した社員旅行は、必ず悪天候で中止になるんだろ」

「それだけじゃない!」


 雨が降るくらいなら、傘を持っていけば良いだけの話だ。


「3年前の、営業課のハイキングの話を聞いているだろ」

「ああ、田野がハイキングコースで迷子になって、探しに行った皆まで二次遭難って奴だろ。営業課全員が日曜、その日の内に下山できずに野宿して、皆ハイキングの格好のまま、月曜に山から直行で出勤したんだよな」

「まだまだあるぞ」


 俺は身震いした。


「田野がお茶会の準備役になって、給湯室で湯を沸かしたら、原因不明の大爆発を起こして、共有の冷蔵庫が吹っ飛んだ」

「確か、田野が幹事をした忘年会は……店の宴会コースで集団食中毒が起きたんだっけ」


 風上がしみじみと肯いた。


「ついてないよな」

「食中毒なんか、まだマシな方だ」


 食中毒菌より、もっと恐い事があったのだ。


「今年の新入職員の歓迎会の店で、リアル仁義なき戦いが起きたんだぞ! 参加者全員が最前列で観る羽目になった。これも、田野のせいだ」


 俺は思い出して身震いした。 

 あれは、中華料理店だった。

 次々と運ばれてくる大皿料理、それを取り分ける肉用ナイフを、田野が手を滑らせてすっ飛ばしたのだ。

 それは隣のグループ客のテーブルの上に、がちゃんと落ちた。隣の大皿がひっくり返り、料理が飛び散った。


 悲鳴が上がった。


『てめえら、何のつもりだぁ!』


 隣のグループ客の中で、ひと際目つきの悪い男が怒鳴り声を上げて立ち上がった。そして、何やら勘違いしたらしい。

 何と、原因となった田野を素通りし、俺たちではない別のグループにイチャモンをつけたのだ。

 当然、濡れ衣だと相手は怒る。そしてそのグループも、目つきが悪い男どもの集団で……。


「そういうなよ。悪気があったわけでなし、気の毒じゃないか。確かにアイツが参加したイベントは、必ず厄災が起きる。でもそれは天候やとばっちりで、アイツ自体が仕組んだものじゃないんだ。田野自身は害もないし、毒も無い」

「害や毒そのものは無いけどよ、おい、バーベキューだろ?」


 火を使うのだ。そして、車に乗るのだ。行くのは人里離れたレジャー施設なのだ。

 俺は、思いつく限りの可能性、不安要素を提示した。


「道が100キロの渋滞くらいなら良いよ。だけど事故に巻き込まれて、ハリウッド映画並みの爆発炎上に巻き込まれたらどうする? バーベキューが大火災につながったら? 湖畔のほとりでおなじみの、アイスホッケーマスクかぶった不審者が出たら?」


 ううむと、風上は呻いた。

 そして、ちらりと田野のもっさりした後ろ姿をみやった。俺と同じ年で、まだ30も手前なのに後ろ姿はジジイだ。


「今から帰らせる訳にはいかないだろ」

「可哀想だけどさ、お前、幹事として参加者の安全を守る義務があるだろ」


 俺は、目の隅でミス営業課の由美香をとらえた。

 そして、買ったばかりのBMW。


「あいつだって、分かっていたんだよ」


 風上は言った。


「実は俺、はっきり言ったんだ。申し訳ないが、お前の噂は聞いているって。そう言ったら、今度こそ大丈夫だ、寺巡りをして御祓いもしたし、滝にも打たれて来た。お願いだから参加させてくれって泣いてせがまれてね。そして、奴は言ったんだ。もしも当日が大嵐なら、僕は一生イベントには参加しない。その代り、晴れたら参加させてくれって。そこまで必死だと、俺も人の子だ。ほだされるじゃないか。」


 風上はドライブインの駐車場で、他の同期と笑いさざめく由美香へ首を振って見せた。


「今回は、小柳さんが来るからだろうね。田野も必死だったんだよ。ただの業務連絡と、書類の受け渡しにも真っ赤になってるからな。まるで中坊の恋だよ」

「うー」

「それにさ、悪い事ばかりじゃないんだ」


 風上は声をひそめた。


「安野さんは、田野が参加すると聞いて自分の参加を取り消した。田野を見たら、オーラを攻撃されるらしい」


 安野ソノコは、御年38の独身女。前世はアトランティスの神子で、霊感をお持ちの金髪ツインテールのデブ。しかも酒乱で酔うとキス魔だ。


「ふむ、それは功績だな」


 以前ソノコに唇を奪われかけた俺は、メンバーの女性たちがたむろっている方向を見た。

 確かに、巨大な女の姿はいない。

 代りに目に入ったのは、工藤由美香の姿だった。

 こそこそとした素振りで、田野が由美香に近寄ろうとしているのが見える。


 しかし、悲しいかな、卑屈な存在は姫君の後光に気後れして、一定距離以上が詰められない。

 かえって挙動不審な動きで、由美香の周囲を徘徊しているだけだ。

 ミス営業課の由美香の、今日の出で立ちはジーンズと白いシャツ。


 野暮ったい会社の制服ですら可憐に着こなしてしまう由美香だが、それが私服となると更に可愛い。白と紺のシンプルな取り合わせが、さらさらした栗色の髪とあいまって、清潔感と愛らしさを振りまいていた。

 流石に学生時代に雑誌モデルをしていただけあって、着こなしのセンスも他の同期の女たちより飛び抜けている。


 田野にとっては、叶わない恋というものだった。

 姿形自体が災厄の、白い饅頭のようなちびなのだ。

 当然由美香どころか、他の女子社員からも相手にもされていない。

 美女と野獣ではなく、美女と妖怪。だけど、想うだけなら許されるからなと俺は思い、そして哀れんだ。

 由美香は、俺に気があるのだ。


 可哀想に、風上に泣きついてまで参加したのに。

 俺と由美香はこのバーベキューで更に新密度を増す予定なのだ。その姿を見れば、田野は打ちひしがれるに違いない。

 今この瞬間にも、俺は田野の元へ走って由美香は諦めろと、大声で言ってやりたかった。



 風上のワゴン車と、俺のBMWでメンバーは別れて乗った。

 嵐どころか、渋滞さえなかった。

 実に順調な滑り出しで、当り前だが女たちは四人共、俺のBMWに乗りたがった。もちろん、由美香も俺のBMWに目を見張り、すっごおいと素直に感嘆してくれた。


「スゴイ、BMWのニューモデルじゃないの。素敵、乗ってみたかったの」


 運転席が良く見えるようにと、当然俺は由美香を助手席に乗せた。

 後ろの女2人のおしゃべりがやかましかったが、仕方がない。だが近い内、この助手席は由美香のものとなるのだ。


 到着した都市公園は、広大な敷地の中に湖畔があり、オートキャンプ場や展望台、遊戯施設も併設されている。

 俺たちが利用したのは、日帰りでも使えるバーベキューコーナーだった。

 道具も全てレンタルできるので、食材を持っていくだけで気軽にバーベキューが楽しめる。


 すぐ傍に湖畔があって、水面を飛び跳ねる光の景色に、皆が歓声を上げた。

 アイスホッケーマスクの不審者もいない。全てが平和の中にある。

 さっそく肉や野菜が焼かれて、ビールを開ける。

 俺は機嫌が良かった。日頃もそうだが、BMWとポール・スミス効果。さっきから由美香が俺のそばにべったりとついて、離れないのだ。


 ちらりと俺は田野を見た。

 田野は話の輪にも入らず、せっせと肉と野菜を網で焼いて、料理番兼、皆の胃袋の奉仕役と化している。

 その後ろ姿は有難い奉仕精神よりも、皆に媚びる卑屈ないじめられっ子じみていた。


 今のところ、バーベキューの網に、火柱が立つ気配は無い。


「飲めよ、田野ぉ」


 同じ営業の川元がいきなり、ビールを田野の頬に押しつけて絡んだ。


「汗だくじゃねえか。水分補給しろ、それとも火のそばにいるのはわざとか? サウナにいるつもりか? 自分の脂肪燃やしたいか」

「いや、僕、そんなに酒に強くないんだ。ウーロン茶でいい……て、いうか川元、君、車乗って来たんだろ? 酒飲んでいいの?」

「心配するなよ。帰るまでには、酒抜けるさ」

「……やっぱり、俺……」


 ぼそぼそと田野が呟く。

 そのはっきりしない語尾に、酔っぱらい川元が怒った。


「ああ? 聞こえねーよ、お前もっとでかい声出せよ!」


 田野が泣きそうな顔になった。

 会社でも上司から怒鳴られてこの泣き顔になるのだが、子供ならとにかく、大の男が浮かべる表情じゃない。

 そんな顔するから、人をいらつかせるのだ。


 いっそ、根性がねじ曲がっていて礼儀知らずなら、堂々と嫌える。

 だけど基本的にはお人好しだった。そうなると、荒い態度を取ればこっちが悪役になってしまう。

 その狭間に立たされるせいで、俺はこいつがたまに鬱陶しい。


「田野、良かったなぁ。お前がいるのに快晴じゃないか」


 冗談めかして声をかけると、川元から逃れるように田野が俺を向いた。

 年の割に少ない髪の毛が、汗でおでこにぺったり張りついていた。


「ああ、良かったよ」


 心底安堵した声だった。田野はオレンジジュースを片手に空を見た。


「雲ひとつない、いい天気だね。こんな良い天気でイベントを迎えたのって、生まれて初めてだよ」

「……良かったな」

「来るまでに渋滞も事故もなかったし、火事も起きていないし、キャンプ場だけど、今のところ何も起きてないみたいだ。パトカーがいない」

「……」

「中学の林間学校で、森で腐乱死体が出て来た事があってね」


 今回も不安だったんだよと、田野は呟いた。笑えない。

 これ以上聞くと、恐ろしいものが出てくる気がする。

 俺は話題を変えた。


「良いTシャツ着ているな」


 田野は、全身ポール・スミスの俺を眩しげに見上げた。


「ええと、せっかくだから、一番新しい服にしたんだよ」


 シャツにでかでか印刷された、ビールのロゴとキャッチコピー。

 どうみても、ビールの景品でもらったTシャツだ。からかった方が悲しくなった。

 田野にとって一張羅の条件がセンスではなく、新しいである事に何だが涙が出そうになる。


「やっと、こういう場所に出られるようになったのは、何年ぶりかな」


 田野はしみじみと言った。


「皆に、迷惑かけるし……それに、お金にも余裕が無くて」

「何に使ってるんだ?」


 俺は呆れつつ、聞いてみた。

 ウチの会社は、一応は名の通ったメーカーだ。

 それなりに給料は出るし、田野は独身。恋人がいると噂もないし、その服装といい、金のかかる点が見当たらなかった。


「金を稼いでも、追いつかなくてね」

「借金か?」


 色々とね、と田野はうつむいた。


「借金もあるし、治療費もあったし、賠償もあったし、弁償に慰謝料にローンに詐欺に引っ越し代と、まあ色々……僕、ついてないから」


 俺の方が背も高いので、田野が頭を垂れると、薄い頭髪が目にさらされた。

 この打ち明け話で、一層の生理的な苦手感が沸いた。

 デブでちびでハゲ、カエルのような容姿で、金銭的にも恵まれておらず、センスも最悪。哀れみも度を超えると、触れてはならない禁忌と化す。近くにいれば、不幸が感染しそうな気がする。


「やだぁ、クニくんと田野さんが、仲良くしてるぅ~」


 どんっと体当たりして、腕にしがみついてきたのは由美香だった。

 頬はほんのり桜色の染まる、いつもは清楚で可憐な美女。

いつも社内では、俺の苗字をさん付けなのに、今は下の名前で、しかもそれがクニオの「クニくん」とは、積極的だ。

 想い人がアルコールによって他の男へ大胆アピール、それを目の前でかまされてた田野が、ショックを受けてたじろいだ。


 すまない田野と、罪悪感抜きで俺は謝った。心の中で。


「だめよぉ、田野さんより、私の方がクニくんとお似合い~、カエルの王子サマは、クニくん以外の、違うお姫さま探してねぇ」


 侮蔑を含んだ、愛らしい声。

 その言葉で、皆の笑いが爆発した。

 田野は呆然となっている。

 ひでぇな、と内心俺は皆に呆れた。


 田野が由美香に恋しているのは、周知の事実だったようだ。由美香も気が付いていたに違いない。自分への恋心、それを笑い者にするとは。

 清楚に見えても、やはり美人は残酷だ。

 だけど、俺みたいな男であれば、田野はそんな残酷な仕打ちを受ける事はなかっただろうと、田野をいっそう哀れんだ。


 だけど「カエルの王子サマ」とは同情するが、笑ってしまう。

 田野がカエルに似ていると、やっぱり皆もそう思っていたのか。

 皆、笑っていた。川元なんか、腹を抱えて笑っている。


「あ……」


 田野の顔が、白くなった。

 饅頭のように丸い二重あごをブルブルふるわせた。その風情で、流石に皆が思ったようだ……ヤバい、笑い過ぎた。

 張本人、由美香の笑いも固まる。

 皆が硬直した。その中で、田野の悲鳴が轟いた。


「何で、キミがそこにいるんだぁ!」

「私から、逃げるからよ!」

「え?」


 誰だ? 田野の視線の方向、皆と一斉に、俺は振り返った。

 そして、完全硬直した。


「あんなことくらいで、私があなたを諦めるとでも思った?」


 バーベキューコーナーのウッドデッキに、ヒールの音を響かせて女がやってくる。


「逃がさないわ! 私には、あなたが必要なのよ!」


 凛とした声で、女は田野へ叫んだ。

 その女を見た途端、俺は思わず、腕にしがみつく由美香を振り払ってしまった。

 美しすぎる。

 

 全てが場違いだった。

 背中まである黒い髪、シルクのブラウスとタイトスカートは、高級ホテルかバーでならとにかく、カジュアルなレジャー場には、反則級の高級感。

 この超絶美女が、何故? 田野が逃げた? で、何故俺たちはこんな場面を見せられているのだ。

 混乱と疑惑で引っくり返った空気の中で、田野が叫んだ。


「僕の幸せを、キミが邪魔するからだ!」


「えええええっ」俺以下、男メンバーの驚愕。

 いや、こんな美女に執着される事が幸せでないとするなら、お前の幸せの定義はどこにある? 狂っているのか。

 はっと田野が、皆の愕然ぶりに気が付いた。


「ちょっと来い!」


 美女の白い手を乱暴に掴み、ウッドデッキから飛び降りるように走り去る。俺の足が勝手にそれを追う。

 田野は、バーベキューコーナーの裏手にあるゴミ捨て場で止まった。美女がその丸い背中にしがみついた。


「私の気持ち、分かっているはずよ」

「やめてくれ。僕は君から離れたいんだ」


 田野は、美女を一瞥もしない。


「……本気なの?」

「本気以外、どんな気なんだよ」


 俺は陰からそれを見つつ、髪をかきむしった。

 追いすがる美女をつれなく扱い、涙を浮かべさせるなど、一般市民には許されない行いで、男の夢でもある。

 それをまさか、ブサイク田野がするなんて。

 舞台装置が、ゴミ捨て場という部分もリアリティがあり過ぎる。

 斜めになった俺の視界の向こうで、田野が美女を振り払った。


「もう、僕の事なんか放っておいくれっ」


 そして、田野は駆けだした。砂埃を巻き上げて、猛スピードで遠ざかっていく。


「待って、あなたを逃がさない!」


 美女が田野を追う。

 美神の背中と、球体が遠ざかっていくのを見送りながら、俺はゆっくりと地に倒れていった。

 倒れた視界の中で、他の覗き仲間達も同様に、地に伏しているのが見えた。



 週明け。

 商品の手配にトラブルが起きたと、上司に怒られている田野はやはり田野だった。


「納品が遅れると連絡があって……」

「またか! お前が手配すると、ホントにロクな事起きないんだよ。あのなあ、だからいつもゆとり持って、納品の期限は設定しとけって言っているだろう! 何度言えば分かるんだよ!」

「ゆとりはもったんですが……」


 あと、ごにゅごにょ続く言い訳に、係長が「分かったよっ」と切れた。


「お前に任すと、ホント、ゆとりを持とうが余裕を持とうが、いつもいつも何かが起こる。火事に出荷ミス、地震に事故! 次に起きるのは何だ、楽しみで仕方がねーよ!」

「……」


 がっくりうなだれる田野。

 いつもなら奴を哀れみの目で見る俺だが、今日は少々違っていた。

 あの美女がチラつく。

 あの美人は、一体何者だ。何故あんな男にご執心なのだ。


 考え抜いても、どこをどう工夫した発想を凝らしても、謎は解けない。本人に聞くのが一番手っ取り早いと、俺は田野を昼飯後の喫茶店に誘った。

 オフィス街の裏手にある、その古い喫茶店はスターバックスなどと違い、いつも過度に混雑することがない。


 窓際に座り、コーヒーを2つ注文してから、俺は田野にバーベキューの話をふった。


「あの時はゴメン。変な奴が来て、ビックリしただろ。しかも、僕、そのまま帰ったりして……その、みんな怒っていないか?」


 怒る事よりあの日の皆は、驚愕と謎と疑惑で感情の許容量を使いきったのだ。

 俺は田野をじっと見た。やはり、田野だ。ちびデブハゲの三重苦、幸薄と貧の影を背負ってよたよた歩いている男。


「あの女性は、その……何なんだ? お前を好きなのか? 何故逃げる? あんな美人なのに、逃げる理由が分からん」


 はっと俺は気が付いた。


「まさか、実の姉か妹? 禁断か?」

「いや」


 田野は首を振った。あ、そうかと俺は思った。こんな奴のDNAが1つでもあれば、あんな美形は出来ない。


「じゃあ、何だ?」

「言いにくい」

「言いにくくても、言えよ」

「言っても、信じてくれない」


「貧乏神よ」

「え?」


 答えが突然、割りこんで来た。

「ひぇぇっ」田野が細い悲鳴を上げた。

 そして、ポケットに手を突っ込んだ。

 引き抜いたのは、ぼろぼろの小袋だ。田野はそれを見てひぃぃっと不気味な悲鳴を上げた。


「お、お守りが! こないだもらって来たばかりの厄除けが!」

「やっと会えたわ」


 あの美女が、田野の席の横に滑り込んだ。

 笑顔の花が咲く。

 妖艶な美女が浮かべる、少女のような笑顔。それは無邪気と艶やかさ、相反する美が互いをくっきりと浮かばせる、正に美神の笑み。


 俺は、ひたすら見惚れた。

 もう、由美香なんて記憶からも抹消して良い。


「あああ、やっぱり……今朝の配送トラブルで、イヤな予感がしていたんだ」


 田野が突っ伏した。


「何で、空輸も船便も陸路も、ドミノ倒しになるんだ。どれか1つが無事なら、ちゃんと期日に間に合ったのに」

「空輸は出発地の空港に届いた爆破予告で全便欠航、船便は100年に一度の海の大時化とエンジントラブル、運転手さんが、トラック配送中に食中毒でダウン、やっぱりあなたって素敵」


 美女は陶然と田野を見つめた。俺も美女にならってじっと田野を見たが、美女の視線を蕩けさせる要素など、恐らく解剖しても見つからない。

 俺は気が付いた。

 この美女は、どこか感性が狂っているのだ。

 でなきゃ、この俺を無視できるはずがない。


 美女は田野の手にある、ボロボロのお守りを取り上げた。


「ねえ、もう諦めてちょうだい。そんなお守り、無駄な抵抗でしかないのよ」


 途端、形を失ったお守りがバラバラと落ちた。


「ああっ先日祈祷してもらったお守り!」

「ダメよ、あんなエセ霊能者に騙されちゃ。そのお守り、素材はポリエステルで原価20円よ。それに、祈りの文句は経文じゃなくて、英語のロック歌詞よ。振り付けはパラパラだし」


「そのエセ霊能者にすがる原因が、君だろ!」

「ええ、そうよ。嬉しいわ、また祈祷代を騙し取られたわね。ねえ、もう諦めて、私のために生きて頂戴」


 美女は、熱っぽく囁いた。


「あなたの一生が欲しい」

「やめてくれぇぇっ」「えええええっ」


 田野の悲鳴と俺の驚愕がハーモニーとなった。

 田野が立ち上がった。だが、横の通路側に美女が座っている。

 田野は逃走経路を急きょ変更、横の半分開いた窓から身を乗り出し、植え込みに墜落した。


「田野!」


 ツツジの中に落下した田野は、泥と小枝にまみれて起き上がり、歩道へ出て逃走。

 そしてつまづいた。思い切り派手に転んでダイブ。

 ダイブした先は、緑色の汚水が流れるドブ川だった。

 悲鳴が上がった。


「……田野」


 あまりの不運劇場に、俺は目を背けた。

 背けた先に、田野の座っていた椅子が目に入る。財布が置き去りにされていた。

 コーヒー代だけ抜いて、返してやろう。


「なんてブザマな……」


 嘆く美女。

 だが、その口調は軽蔑でも呆れでもなかった。愛でる事は出来ても、手には入らない芸術品を渇望する、悲嘆と称賛だった。


「あの……」


 俺は、おずおずと美女に話しかけた。

 女に気後れするなど、この俺には考えられなかった事だ。


「何?」


 美女の目が、途端に冷えた。

 正に急速冷凍だ。だが俺はひるまずに聞いた。聞かずにはいられなかった。


「あの、何で田野なんでしょうか? いや、あいつはイイ奴だけど、その、貴女みたいな女性にとって、どこが魅力なんだっていうのか……」


 あんな奴の一生がどうして欲しいんだ! 逆プロポーズ? あなたは正気なのか! それとも騙されている! と本当は叫びたいのだが。


「見た目は平均値以下だし、仕事も失敗続きで『トラブル』ならぬ『タノブル』と裏で言われているし、金も持っていそうにないし、性格も暗いし」

「ちゃんと、私の名を言ったでしょ……貧乏神だって」


 言い放つ美女を、俺は改めて見つめた。


「あのー、バッグはエルメスですね。ブラウスは……そのカッティングはヴァレンティノかな。ネックレスとバングルはショーメ」

「あら、良く分かるわね」

「好きなんですよ。ところで、貴女のどこに貧乏の象徴があるんですか? 貴女ほどゴージャスな美女、見た事がない」


 貢がせまくった過去の男から、浴びせられた蔑称を露悪的に使っているのかと思ったが、こんな美女に貢ぐ立場なら名誉なことだ。


「変な冗談言っていないで、せめて名前を教えて下さい」

「何度も言わないわ」


 美女は立ち上がった。


「言ったでしょう、貧乏神だって」



「言っただろう、貧乏神だって」


 田野は、暗い目で俺を見た。

 22時を回ったオフィスに、人は残っていなかった。

 俺達以外は皆、帰宅しているのだ。

 俺は、田野の残業に付き合っていた。


「僕はついていないんだよ……知っているだろ」


 田野はさめざめと涙をこぼしながら、パソコンを叩いた。

 目の前が涙で濡れようが、咽喉から悲しみの咆哮がほとばしろうが、それでも作らないといけない資料があるのだ。お気の毒に。


「子供の時からそうだ。遠足に行けば大雨が降るし、入学式と卒業式は大嵐になる。修学旅行は列車が脱線して3時間以上車内に閉じ込められるし、どんな大人しい犬も僕には牙を向くし、好きな子の前で肥溜めに落ちて、飛沫が彼女にかかって、口もきいてもらえなくなった。行列に並べば僕の前で売り切れ。道を歩けばヤクザか精神異常者に当たる」

「うーん」


「占い師に言われたよ。僕の不幸な星周りは、100年に一度の逸材だって。もう打つ手はない。それでも人の中で生活したいなら、多少の不運は我慢しろ、それが嫌なら山の中にこもれって。だから、山の中にこもったら山火事に遭った」


 引っ越しをしたら、必ず心理的瑕疵物件か、欠陥住宅に当たるという。


「前の部屋なんか、死んだのは僕の前の前の住人で、前の住人には告知義務はあるけど、僕には知らされなかったんだよ。前の住人には化けて出てこなかったらしい。で、何で僕に出てくるんだよ! 毎夜枕元に出やがって!」


 怒り狂って塩を部屋中にぶちまけてやったら、ポルターガイスト現象を起こされて家具のほとんどを破壊されたという。

 ううっと田野は拳で涙をぬぐった。


「次の引越し先で、子猫拾っちまって……鳴きながら俺の後、ついてくるんだよ。ほっておくわけいかないじゃないか。ペット禁止の物件だから、しばらく預かって飼い主探せばと思っていたら、隣に住んでいる奴が極度の猫の毛アレルギーで、引っ越し5日目で猫がばれて、有無を言わさず強制退去だよ。引っ越し代と敷金礼金、2回分でボーナス吹っ飛んだよ」

「……」


「その猫、しかも病気持ちで動物病院連れて行ったら、とんでもない治療費だ。ペットは保険効かないんだよ。ようやく貯めた定期積金を解約した。スーツ買おうと思っていたのに」

「で、あの女は……」


 馬鹿な小学生でも見るかのように、田野は俺に対して「はぁ」とイヤそうなため息をついた。


「だから、貧乏神」


 俺はつい、殴りたくなった。


「おい待てよ、お前さっきから手前の不幸話ばっかりしゃべくりやがって。俺が何のためにこんな場所に残っていると思っているんだよ?……つか、何だ? その差し出した資料は」

「……僕を手伝ってくれるために、居残ってるんじゃ、なかったの?」


「どあほ! パソコンにヤクルトぶっかけて、明日の会議資料のデータを吹っ飛ばしたの、貴様だろうが! やるのなら早く作りなおせよ! 本当ならさっさと定時に帰って、シャワー浴びてカモのテリーヌとパルマ産生ハムとブルゴーニュの赤開けて、ヒッチコックのブルーレイ観賞してるわ!」


 目撃者がいないのを幸い、俺は思い切り田野の襟元をつかみ上げた。


「お前の不運の元は、その空気読まない気使いの怠惰と、不幸に酔いしれる不気味なナルシズムだあああっ」

「ぐわッ」

「待ってちょうだい!」


 オフィスの窓の外から、人が飛び込んで来た。


「何て乱暴するのよ! 死んじゃうじゃないの!」


 俺から田野を奪い返し、ひっしと抱きしめて叫んだのは、なんと……


「ひ、ひんほうがふぃ!」


 美女の豊満な胸で、呼吸困難に陥った田野がじたばたあがいた。何て事だ、田野が窒息してしまう。そんな幸福与えてたまるか。

 と、いうか……?


「あのー、どうやって登って来たんですか? ここはビルの15階で、足場はないですが」

「ああくそ! まだ僕に憑いて回るか!」


 田野が美女の腕の中で絶叫した。


「くっそぉっ、週末と有給全部使って、悪霊退散と厄除けと御祓いに50を超える仏閣を回ったのに! 滝に打たれて風邪までひいたのに! エセもモノホンも構わずにあれだけの御祓い回数こなしたのに、1つくらい霊験ないのかよ! 役立たず!」

「……お前、正気か?」


 美女に見惚れながら、俺は田野に尋ねた。


「悪霊、大いに結構じゃないか?」

「貧乏神だよ! 貧乏神に素敵と言われ、まとわりつかれているなんて、馬鹿にされている以外、何があるんだよ! 更に運が落ちていくし、金は飛んで行くし……」

「どぶの香りがするわ。素敵」


「君のせいで落ちたんだよ! 背広についた匂いが取れなくて、昼からの得意先回りは全部キャンセル! これでまた評価が落ちて、いや、堕ちてボーナス査定が最悪に……」


 美女は、わあっと泣き出す田野を胸に抱いたまま見つめた。

 いくら遠ざけられても、それでも愛おしさを捨てずにはいられない、透きとおった悲しみの瞳で。

 その瞳の色に、俺は激昂した。


 何て事だ、容姿端麗頭脳明晰、実家は金持ちが俺の武器だ。しかし、そんな俺の武器でも手に入らないような美女を、このブ男は不幸を売りにして手に入れている。


「てめえ、田野ぉっ」


 俺は田野を美女の胸から引きはがし、田野の頭を机のノートパソコンでぶん殴った。


「うわあっ、作りかけの書類ぃっ」


 田野は頭より、パソコンの明日の資料のデータに悲鳴を上げた。


「さ、さっきイヤな音したぞ! パソコンのデータが! 保存がぁっ」

「何をいうか、この不幸カエル! そもそも、カエルは縁起物だって知ってんのか! 目出度いカエルがお前のツラのせいで不幸グッズになっちまうぞ、このオタンコナス」

「あー、やっぱり保存出来てない!」

「ああくそ、自分の不幸だけに目がくらみやがって! お嬢さん」


 ノートパソコンを抱きしめて泣き叫ぶ田野を見限り、俺は美女へと向き直った。


「率直に言います。一目貴女を見た時から、俺は貴女を愛している。あいつの一番の不幸は、貴方のような美しい人を見る目が曇っている事だ。不幸のキャパシティ、いや、男の度量も狭い証拠です」

「……そんな」


「正に、貴方は僕の女神だ。女神である、それ以上のことは問わない。不幸、大いに結構。ハズレくじから契約不履行まで、全ての不幸を貴女に捧げよう。それだけの力が、俺にはある」


 ちらっと美女は田野を見た。田野はパソコンを抱いてそっぽを向いた。


「例えば、アイツがどぶにハマって台無しに出来るのは、せいぜい量販店で買った安くて薄っぺらいスーツ。だけど俺ならグッチかアルマーニ、靴だってタニノ・クリスティ」

「……」


「田野は車を持っていないが、俺は持っている。BMW、こするもぶつけるも貴女の自由だ。貴女のためなら、へこみどころかクレーターにしても良い。いや、スクラップだ。そしてすぐ買い替えよう、そしてぶつけよう。電柱でも塀にでも、人間以外なら」


 彼女の白い手を、俺は握りしめた。

 手でつなぎとめ、甘く口説き落とす。神でも悪魔でも、性別が女である以上、炎のごとき男の熱情に勝てるはずがない。

 美女は俺の顔を見上げた。田野を見た。そして顔を伏せた。


 パキ、と腕時計のベルトが外れた。

 俺のフランク・ミュラーの時計が床に落ちた。

 文字盤のガラスにヒビが入った。


「あ、パソコンが復旧した」


 田野の声がした。

 それが、女神の選択だった。



 俺の叔父は、ちょっと名前の売れた陶芸家だった。

 10年前に亡くなった時、叔父の陶芸作品は一気に値上がりして、美術業界に売り流れた。独身だったので、その恩恵が甥である俺にも回って来た。

 実家は会社を経営していて、実は俺は株主でもある。毎年、ちょっとした額が配当されている。


 普通の同年代の男より、いや、父親と同じ年齢の男より、俺には経済力がある。

 給料以外に副業なんかしなくても、本業以上に金が入ってくるのだ。

 田野なんかと比べてもらっては困る。子供の小遣いと大人の月給ほど、収入に差があるのだ。


 なので、停車の際にサイドブレーキを忘れていたBMWが、堤防から海に落下して魚のアパートになっても、次に買ったアウディに、5才の甥と7才と10才の姪を乗せてやったら、3人同時にトイレの粗相をし、車内にその匂いがどうしても取れず、乗る気になれずに、車をBMWにまた買い換える羽目になっても、別にどうってことは無い。


 そして、そのBMWは、納車2週間目で崖から転がり落ちていった。

 或る山の山頂にある高級ホテルのディナーを、眼下に広がる夜景の宝石、静謐な夜の海の眺めと共に楽しむ予定だった。


「うーん、そう来たか」


 俺は、紙のように破れたガードレールの下を覗き込んだ。

 真っ暗で見えない。

 携帯も圏外だった。

 俺は車を諦めた。徒歩で彼女の待つホテルへ向かった。


「……遅いわね」


 彼女は、ホテルのラウンジバーで待っていた。闇夜を切り取ったかのような黒髪、ドレス生地の黒絹、そして大理石のような白い肌。

 黒と白、彼女の持つ全ての色彩が美しい。

 ラウンジバーからバルコニーが見える。その先にある夜景が、彼女に後光のようなきらめきを添えている。


 客もホテルの従業員も、ラウンジにいる男全ての目を奪うのも、無理はない。


「女神の御心に叶っただろうか」


 俺は少し息を切らせながら微笑んだ。

 流石に、革靴とスーツで山道の昇り1時間はきつかった。途中で雨に降られ、スーツの張りも失われ、セットした髪も山風で寝ぐせ状態になっている。

 だが、彼女に俺という連れが現れた瞬間、周囲の男たちの空気は必ず変わる。

 渦巻く羨望と嫉妬の中で、素晴らしい美女をエスコートするこの快感。 


 見るだけなら只だよと、内心で周囲の男共へ施しを与えながら、俺は席に腰掛けた。

 にわか雨でずぶ濡れ、葉っぱや小枝があちこちに着いた俺のスーツ姿に、バーテンダーが絶句している。


 カウンターには洋酒の瓶が立ち並び、シャンデリアのような輝きを放っていた。

 彼女が飲んでいるのは、マティーニだった。まず水を一気飲みしたいところだったが、そこは我慢して、俺も同じものを注文した。


「ウォッカマティーニを。ステアせず、シェイクで」


 彼女の目が、俺に流れて来た。


「素敵ななりだけど、レディを10分も待たせるのは反則だわ」

「済まないね。2時間前には到着するように出たんだけど、山道でエンスト。車を後ろから押して行く途中で、車を山に落としてしまった……君のせいだね」

「そうよ」


 女神の指が、雨と汗の混じる俺の額をぬぐい、前髪を上げた。その瞬間、濡れて肌にまとわりつく、ズボンの気色悪さが消えた。

 甘い吐息が俺の顔にかかった。


「素敵だわ。まるで、その格好でハイキングでもしてきたみたい」

「いや、どちらかといえば、ロッククライミングだった。らせん状のドライブウェイを歩かずに、山道をショートカットしてきたから」


 頂上にあるホテルの灯を目印にして、木々や枝葉をかき分けながら崖を這いあがり、山道を踏みしめて来たのだ。

 叩きつけられる雨や遭難の危険性よりも、熊や野犬に出くわす可能性のほうが怖かった。


「君ほど男を不幸にする女は、見た事が無い」


 運ばれて来たマティーニを、俺は捧げるように上げて見せた。


「この1ヵ月半で、車は3台、これで駄目にしたスーツは24着、携帯端末は2日に1回は故障。今履いているフェラガモも、泥と傷だらけだ。しかも昨日、寸借詐欺にあった」

「ええ、私はそういう存在ですもの」


 妖艶に微笑む彼女は、正に女神だった。

 人の営みを見下ろし眺めている絶対者。そうなると、善と悪、幸不幸関係なく人間の人生など、彼女の嗜好品でしかない。

 だからこそ俺にとって、手に入れるに相応しい女だった。


「もう、カード会社にいちいち紛失連絡入れるのは面倒だから、カードは解約して現金だけ持ち歩くことにしたよ。そうすれば、財布をいつでも気軽に落とせるからね。それから、お願いがあるんだ」

「なあに?」


「家電製品の故障に、火を吹かせるのだけは勘弁してくれないかな。この間、うっかり化繊のパジャマを着ていてね。危うく火だるまになるところだった」

「ご、ごめんなさいっ」

「それから、昨日割れたバカラの花瓶だけど……どうして、柿右衛門にしなかったんだい? 値段はあっちの方が、高価なんだよ」

「……」


 彼女は目を伏せた。

 その透明な憂いに、怒られた少女のような幼さが混じった。

 俺はその表情に見惚れながら、慌てた。


「ああ、ごめん、俺がシルクのパジャマにすればいい話だ。そしたら、ちょっとした火傷で済む。それに、責めているんじゃないんだ、君の割りたいものを割ればいい。花瓶でもグラスでも、いくらでも買い直すよ。さあ、食事に行こう。今週どんなに俺が会社でツイていなかったか、コースでも食べながら話をしたい」


「ええ」

「ついに、常務を怒らせた」

「まあ、何て人」


 クスクスと笑う彼女は、実に愛らしかった。

 だが楽しげにというには、何かのピースが欠けていた。

 おれがどんなに損害をこうむり、悲惨な目にあった話を彼女にしても、与えられることのない欠片。

 何が足りないんだろうと、俺は悩んでいた。



「絶好調に不調のようだ。不運に幸せそうで良かった」


 田野と話すのは、久しぶりだった。奇怪な日本語だが、俺にとっては祝福だった。


「珍しいね、君が給湯室にいるなんて」


 田野はマイボトルに、湯と紅茶のティーバックを放りこみながら言った。


「ジュース代すら毟られたの?」

「見損なうな。そんな単純なものじゃない。俺が使おうとした自販機は、軒並み故障するんだ」

「ああ、成程……僕にも、確かにそんな事もあったっけ」


 田野は、ティーバックを揺すって茶の色を出しながら、しみじみと言った。


「もう貴様、夏は自販機を使うなって川上くんに怒鳴られた事あったよ。お前のせいで、冷えたジュースを飲めなくなるって」

「そうなんだよ。冷えたコーラ買おうとしたら、冷えた汁粉ドリンクが出てきた」

「なかなか、旨くいっているようだね」


 田野がのんびりと言った。

 彼女が離れ、俺のところに来てから、田野は以前あった陰は消えて、今は日向ぼっこの雰囲気だ。

 実際、今の田野は日の当たる道にいた。


 生来持っている、運の悪さやツキの無さは相も変わらずだが、田野はそれ以上に「失敗の回避能力」を持っていた。不幸続きの日々の中で培ってきたその力、ついにそれが注目を浴びているのだ。


 例えば配送にトラブルがあって、商品が違う場所に納品されていても、配送ルートとその日の天気を聞いただけで、すぐに紛失場所を特定するし、代替品の手配も素早い。

 取引先の相手が機嫌を損ねても、その相手の機嫌を直すツボを知りぬいている。


 そのツボを取引先1人1人、全員データにして独自でファイルに保管していた。

 田野を馬鹿にしていた川上が、訪問先会社の窓口の受付嬢の機嫌を損ね、アポを取り次いでもらえなくなりそうだと、その情報をくれとすがりついているのをこの目で見た。


「ああ、あそこの栗原さんか。あのちょっとケバイ人」

「そうなんだ、なんか機嫌を損ねて、何度訪問してもアポのお約束はありませんからって。ウソだろ、俺、何度も連絡入れているはずだよ」

「何か失言でもしたんじゃない? 色んな男と遊んでそうだとか、そんな事を話さなかった? あの人、ああ見えて結構純情なんだぞ」


 何か思い当たる節でもあったのか、川上が茫然となった。


「ご機嫌取りに、リラック●の絵がついた土産でも持っていきなよ。食べて無くなる菓子がいい。あの人、すごくあのキャラクター好きなんだよ。ポケットに差したペンと、椅子にかけた膝かけ見てみろ、全部そこのグッズだから。見かけは大人っぽいのに、趣味は可愛いですねとか言ってさ。いいか『可愛い』がポイントだよ」


 人の機嫌を損ねないように、一度相手した人間全て、持っているモノから癖、話の内容にいたるまで全てインプットしているという。

 そして印刷から配送、清掃や修理業者にいたるまで、業者に随分顔が広い。

 一つのルートが潰れても、すぐに別の業者を見つけて手配する。


 先日、新製品発表イベントを頼んだプロモーション会社が突然倒産した。

 当日まで日が無く、条件通りに動いてくれる業者を見つけられるか不安だったが、田野があっさりと見つけていた。

 そして取引先相手に話を進める際、つかみにこいつの不運話を使うと、相手に大受けするらしい。最近接待に引っ張りだこだ。


「お前も、絶好調のようだな」


 そうだねえと、田野は言った。


「不運が来るのは、相も変わらずだけど、まあ何とかしのげるし。まあ、そっちも上手くいってそうだね」

「いや……実は、悩んでいるんだ」


 俺はついこぼしていた。


「彼女にとって、俺は何かが足りないようだ。笑顔が、どこか儚いんだよ。瞳は俺に向いていても、心に住む何かを見つめ続けている。その何かが、彼女が本当に望む欠片なんだ。それが何なのか、俺には分からない」

「うーん」

「損害額は、お前の倍以上だ。過去、どんな奴らがどれだけのものを彼女によって失い、損したかは知らない。だけど、俺はそいつらに決して負けてはいない自信はあるんだ」


 まるで自分の女の愚痴を、女の昔の男にこぼしているような図だ。

 実に惨めったらしい気もするが、もしかしたら、彼女はこの光景をお気に召すかもしれない。

 昔の男ならぬ、田野は肯いた。


「うん、確かに君はすごい。4台目の車を買ったらしいね。で、また時計も新調したの?」

「ああ、次はブレゲにしてみた。車はベンツだ。ただ心配なのは、あの頑丈なドイツ車が、彼女が一番お好みパターンのスクラップになってくれるかだけど」

「思い切りぶつければ良いじゃないか。健闘を祈るよ……すごいな、君は」


 田野は、ふうとため息をついた。


「僕なんか、せいぜい自転車がやっとだね」


 やっぱり、俺の方が上じゃないか。

 田野への優越と彼女への疑問を持ちながら、俺は言った。


「そういうお前こそ、最近聞いたぜ。工藤さんからアプローチされてるって?」


 あの、ミス営業の由美香が田野にモーションをかけているらしい。

 少し前まで、由美香に中学生のごとき恋情を抱いていた田野だ。

 さぞかし有頂天だろう。


「うん、今夜会う事になった。夕飯を一緒にって誘われたんだ。行きたいレストランがあるらしい」

「おおっ」


 俺は思わず叫んだ。

 大進展だ。あの由美香に誘われるとは。

 田野にとって、工藤由美香は雲の上どころか、成層圏の向こうの存在だった。その彼女がアタックして来るほどの男になったのか。


 田野は、肩をすくめてみせた。

 やけにクールだった。

 田野が、俺から目を逸らした。


「皆、調子がいいよね」


 田野の口元が、わずかに歪んだ。


「ちょっと前まで、カエルだの不幸が移るだの、好き勝手に笑っていたくせに何だよ。今じゃ頼りにしているだの、助けてだのとすり寄ってくる」


 ふん、と田野は鼻を鳴らした。

 微妙な間が空いたその時、女性職員が給湯室に洗い桶を持って入って来た。

 田野がすい、と洗い桶からやけに遠ざかる。

 その次の瞬間だった。


「きゃぁぁっ」


 突然彼女がつまずいた。

 洗い桶の中身が大きく波打ち、俺の方へと水が降り注いだ。

 漂白剤の匂いが一気に広がった。着ているスーツの、水のかかった部分が見る見るうちに色が抜けて白くなっていく。


「うわわっ」

「キャーっゴメンなさいゴメンなさい!」


 グッチの新作のスーツの色が抜け始め、生地が白と濃紺のまだらになっていく。


「ああ、桶の中で、フキンを消毒していたのか」


 田野は、俺の姿を見て呆れかえった。


「ひどいなあ、ロッカーに替えはあるの?」

「ああ、でも、デートにはこの恰好のまま行った方が良いかな。今夜会うんだ」


 場所は、市内の中心地にある五つ星ホテルだった。

 そこで、俺は彼女にプロポーズする気でいたのだ。


 俺は、女神である彼女との将来を考えていた。

 相手は人間ではなく、女神である。

 人間は神から作られた、神そっくりのコピーでしかない生き物だから、神から見た人間は、自分の二次的なものでしかない。


 いくら他の生物と違っていくら知能を持ち、道具と言語と文字を使い、宗教という神の概念を持つものであっても、俺たちにとっては猫も犬も獣であることには変わらないように、神にとって人間とはチンパンジーのようなものかもしれない。


 だが、ギリシア神話では女神と人間の男が結婚した例はあるし、人間の男の立場から言えば、俺は彼女を満足させる自信はあった。

 女神である彼女にとって、俺の人生は嗜好品であるとしても、その嗜好品の中でも最高級品である自信はある。


 少なくとも、彼女が執着していた田野よりは、俺の方が上だ。

 彼女は、浪費とは違う次元で金のかかる女だった。

 だが、美しい女には金がかかるのは世界の約束事で、その浪費の先がブランド品と宝石とエステか、修理と買替えと処分かの違いである。


 人間も女神も、妻にするのは大差ない。

 と言う事で、その夜、ホテルのレストランに俺たちはいた。

 オープンテラスの庭園には、夜はライトアップされた薔薇が白く浮かび上がり、そして流れ落ちる噴水には満月の影が揺らめいていた。


 彼女は夜に浮かぶ色、白いドレスを着ていた。

 いつかの黒いドレスを、俺は思い出した。

 あの日の彼女は妖艶だったが、満月の下に映える白いドレスは、妖艶ではない、正に人間とは異質のベールをまとっている。


 白いテーブルクロスの上で、キャンドルの炎が揺らめいている。

 その炎に照らされる、彼女の白い手を握り、俺は問うた。


「教えて欲しいんだ」


 俺は言った。


「女神である君ならば、人間でしかない俺の今夜の気持ちも目的も、察するのは簡単だろう? 君にとって、俺はどうなんだ? 只の信者か? まだまだ被害額や損が足りないのか?」

「いいえ」


 彼女は淡い微笑みを浮かべて頭を振った。


「いいえ、今まで、奪って壊したもの、貴方、全てが最高額だわ」

「初めて会った日、君は田野の人生を望んでいた」


 その時だった。彼女の瞳の中に、一瞬きらめいたものが見えた。

 だが、それは流れ星が消えるように、すうっと消えた。

 まるで残像のように。その残像を探し求めるかのように目を伏せる。

 俺は気がついた。


 まさか、まだ田野に未練があるのか?


「結婚してくれ」


 田野への未練をぶっ千切る武器を、俺はポケットから取り出した。

 キャンドルの小さな炎にですら、鋭く反射して光り輝いたのはハリー・ウィストンの婚約指輪だった。

 光を閉じ込めたオーバルのダイヤモンドを突きつけて、俺は叫んだ。


「俺の方が、田野の奴より上だ。今住んでいるマンションは、耐震偽造が発覚した。しかもリビングの端と中央じゃ、2センチくらい高低差がある欠陥マンションだ。一緒に住もう。家具も凄いよ。この間カッシーナのソファの脚が砕けて、斜めになったままだ。食器だって、ウエッジウッドのボーンチャイナは固いから、マイセンにしたよ。これなら割れやすいだろう。田野の人生より、俺の方が略奪し甲斐があるってものじゃないか」


 彼女は、指輪に手を出そうとはしなかった。

 だた、ダイヤの光を見つめていた。

 ふ、と彼女の唇がほころんだ。


「ええ、確かにあなたはすごいわ……彼が使っていたのは、景品のガラスコップだった。それもたった1つきりを割っちゃって……それ以来、紙コップで……」

「そうだろうとも。君のために、いくらでも割れものを用意する」

「ソファどころか、布団も1つきりで……布団干して買い物に出たら、大雨になって、途方に暮れていたっけ」

「ハンガリー産の羽毛布団だ。マンション規約でベランダに干せないが、代りに毎朝のコーヒーか味噌汁ぐらいはぶっかける」


 彼女の目じりが光った。

 それは小さな流れとなり、頬を伝う。


「アパートの2階に住んでいたのよ。鍵を無くして、隣の屋根伝いにアパートの2階の窓から入ったら、近所に通報されて、警察に連行されて。その間に本物の泥棒に入られて……」

「くそ、俺の部屋はマンション30階で、オートロックだ」


 頭をかきむしった瞬間、閃いた。

 そうだ。有名陶芸家の叔父の遺作である、ヘンな壺が部屋にある。

 溶けた土管のような、グネグネした奇怪な形だが、美術雑誌に「個人蔵」としてカラーページで紹介されたものだった。


「そうだ、あれを餌に怪盗をおびき寄せよう。盗ってくれれば、スーツは赤でも緑でも青でも、レオタードでもどんな奴でもいい!」


 彼女の涙が、尽きる事なくこぼれる。

 その涙の色に、俺はようやく気がついた。

 彼女の涙は、俺の求婚に対する感激ではない。過ぎ去り、手の届かない日々を想うものだと。


 求婚が、彼女の持つ思い出を刺激した。

 色濃く浮かんだその日々が、その想いが彼女の心を掴んでいるのだ。

 ……ゴメンナサイ。彼女の口の動きに、俺は愕然となった。

 ……ドウシテ。俺も口を動かした。


「違うのよ」

「何が違うんだ?」

「違うのよ……」


 はらはらと涙をこぼす彼女へ、俺は着ているスーツの襟を掴み、叫んでいた。


「見てくれ、この紺と白のまだらになっているスーツは、グッチだ! 普通のサラリーマンなら、到底着る事の出来ない代物だ! それに漂白剤をぶっかけられても、動じないだけの不運のキャパシティがあるんだ。それこそ君の望むものじゃないのか?」

「違うのよ」


 彼女は頭を振った。

 わななく唇から洩れる言葉を、俺は聞き取ろうとした。

 その時だった。


「違う!」


 割りこんで来た怒鳴り声に、俺は思わず周囲を見回した。

 よく知っている声だったのだ。

 向かってくるシルエットに、俺は絶句した。

 テラスにあるライトの白い光が後光となって見えにくかったが、紛れもなく知っているちびデブハゲだった。

 他のレストラン客が、目を丸くしてこちらを見た。


「ちょっと、田野さん!」悲鳴が聞こえた。由美香だ。

「……」


 女神である彼女も、予測していなかった登場らしかった。

 ぽかんとして田野を見つめる。

 田野は、引き締まった目で俺を見た。


「君のそれは、貧乏神が求める不運じゃない。只の消費にしか過ぎないんだ」

「何だって」


「違うんだ、不運というのは、もっと身を削る、切り刻まれるものなんだよ。たった1つのコップを失う喪失感、代わりがもう無いという絶望と虚無、これから何を代用にすればという迷いと悩み。君にはそれが無い。更に言えば物に対する愛着もないし、歴史もない。だから失っても平気なんだ。それは喪失でなく、消費でしかないんだよ。貧しさにも、格があるんだ」


 ふっと田野は、アンニュイな目を彼女に向けた。


「布団が雨でずぶ濡れになった時は、参ったよ。掛け布団が無くて、敷き布団をかけて、畳の上で寝るしかなかった」

「……あなた」

「打ち直しに出すにも出せないほど、綿もボロボロの煎餅布団だったけど、愛着があってね。15年使っていたんだ」


 見る見るうちに、彼女が紅潮する。

 それは探し求めていた答えを見つけた、喜びの顔だった。


「……今の僕は、本当の僕じゃない」由美香へ向かって、田野が吐き捨てた。


「不幸に煮しめられた日々を送っているのが、本来の僕だ。何をやってもスムースに行かず、必ずトラブルに巻き込まれて、社員旅行の1つも満足に終えた事が無い。それが僕だ、君の言っているトラブルバスターの、部長の懐刀なんかじゃない」


「おい、ちょっと待て。それって心理学でいう成功恐怖って奴じゃないの?」

「そんな不幸とツキのない、本来の僕をずっと見つめていてくれたのは、貧乏神、君だけだった。皆が馬鹿にする僕を、素敵だと言ってくれたのは君だけだ」

「いや、だって彼女は貧乏神だからさ」


「僕は、あるがままの僕でいたい」

「あるがままの自分だなんて、恋に臆病なのか高飛車なのか分からん女が抜かす、世迷いごとに聞こえるぞ!」


 俺の突っ込みは空しく彼女の前に切り捨てられた。

 「あなた!」彼女は白い腕を伸ばし、ひっしと田野を抱きしめたのだ。

 世にも釣り合いのとれぬ、その分純粋な抱擁だった。

 レストランで、しばしの沈黙。


 やがて、2人は同時に俺と由美香へ向かって叫んだ。


「済まない!」

「ごねんなさいねぇ」


 そして2人は手に手をとって走りだした。庭園の向こうへ。


「待ってくれ!」

「待ってよちょっと!」


 叫んだ俺へ、一瞬だけ彼女が俺へ振り向いた。

 彼女を追おうとした俺は、その表情に足を止めた。

 彼女は走り去った。

 白いワンピースをひるがえして、まるで駆け抜ける花嫁のように。


 その後ろ姿を、俺は見送るしかなかった。

 最後に見せた彼女の笑顔。それは俺が1番欲していながら、もらえる事のなかった彼女の欠片だったのだ。


 あれ以来、田野はボロボロのマンションで、彼女と猫と一緒に暮らしているらしい。

 田野の不運ぶりは相も変わらずだ。

 だがトラブル処理の腕にかけては一級品であること間違いなく、仕事で頻繁に発生する災難を自分のモノも人のモノも構わずを黙々と片付けていく様は、一種悲劇のヒーローじみた雰囲気が漂い、周囲から妙な尊敬を集め始めている。


 俺はしばらくの間、失恋の思い出と、修理が必要な家具に囲まれて、高級欠陥マンションの我が家で、縁の欠けたバカラのグラスで高級酒をあおる日々が続いた。

 彼女と再会したのは、ようやく失恋がかさぶたになった頃だった。


「お久しぶり」


 会社の近くのオープンカフェでコーヒーを飲んでいた時だった。

 その声に俺は180度度首を回して振り向いた。


「相も変わらずね」


 俺のバーバリーのスーツ姿を見て微笑む彼女に、俺は恋心の残滓と恨みで、つい皮肉を口にした。


「ああ、君の力じゃ、俺を破産までは追い込めないよ」

「ごめんなさいね」


 つくづく、女とは残酷だ。

 あれだけの仕打ちを、ゴメンナサイの一言と、綺麗な顔をセットにして差し出せば、チャラに出来ると思っているのかよと文句の一つも言いたい。

 しかし、彼女の笑顔は無邪気で愛らしかった。

 ふられてから見る事の出来た表情だ。


「悪かったと思っているのよ」

「ああ、そうかい」


 俺はそっぽを向いた。己の甘さへの、せめてもの抵抗だったのだが。


「せめて、友達を紹介するわ」


「本当か!」つい、声が跳ね上がってしまった。


「その子も、君みたいな人なのか?」

「ええ、同類だもの」


 その言葉に、俺は期待と希望を思いっきり膨らませた。


 近い内に、その子を俺の家に行かせると言った彼女に、何度も何度も本当かと念押しした俺は、休日に外に出ずに待っていた。

 突然、玄関のチャイムが鳴った。

 ロビーから来客の連絡も、合図も無かった。


 本物だ、俺の心臓はドラムとなり、脳の中はオーケストラが鳴り響いた。

 普通なら、ロビーの入出者のチェックが必ず入るはずなのだ。


「いらっしゃいっ」


 彼女の友達へ、俺は叫びながらドアを開け放った。

 そして、氷結した。


「こんにちは」 


 はにかんで俺を見つめていたのは、見るからにみすぼらしいおっさんだった。

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