第2話 貧拷

 冷たい水が私の意識を引き戻す。

 出来る事なら、このまま意識を失って無になってしまいたかった。

 でもこれは拷問だ。許されるはずがなかった。

 髪の毛をつかまれて、顎を上げられた。

 両目は腫れ上がって半分しか見えない。狭い視界に、スキンヘッドのの男の顔が引っかかっている。


「で、どこにあるんだ? どこに隠した?」

「しらなひ……」


 何とか動かした口は、中が切れて生臭い鉄の匂いと痛みが充満していた。

 舌も痺れて回らない。


「しらねーはず、無いだろ。ブツの半分はあんたの部屋ん中にあったんだ。あとの半分、どこに置いたか言えよって」

「ひらにゃいってふぁぁ」


 知らないってば、と言ったけど、空気が口から抜けて言葉になっていない。

 本当に知らないよ。勝手に人の部屋に入って、クスリの袋入り入りぬいぐるみを紛れ込ませたのは奴なんだ。

 髪の毛を男が放した。私の頭はコンクリートの上に落下した。


「あー、もうしぶてぇ……どうします?」


 スキンヘッドの男が、角刈りと長髪を見た。

 スキンヘッドはTシャツだが、角刈りと長髪は背広を着ていた。

 長髪が転がる私に屈みこんだ。

 コロンの香が、私の鼻の中で、血の匂いと混じった。


「あのさあ、お嬢さん。俺たちも困っちゃっているのよ。あんたのケンジくんがね、ウチから大事なオクスリをかすめてどこかに隠している。半分はあなたのお部屋のクマちゃんのお腹にあった。そしてあと半分。これが見つからないとさ、俺たちがもっと上の偉い人に怒られちゃうんだよ」

「らあて、ほんろにしらふぁい……」


 拷問中、何度も吐しゃしたせいで、口の中が酸の匂いと鉄の味で一杯だった。

 今まで散々泣き喚き続けて、もう枯れたと思っていた涙はまたぼろぼろ出た。

 腕にはもう感覚が無くなっている。

 その無感覚がかえって有難い。だって爪は全部剥がされて、後ろ手で縛られていて見えないけれど、なんだかぬるぬるしているし。


 本来なら、盗んだものの在処は、盗んだ奴に聞くのが当たり前だ。

 でもそこで椅子に縛られた健二は、既に狂っていた。

 正気を保っていた私に、そのお鉢を回して。



 どうして、こんな目に遭っているんだろう。

 数か月前までは、私はフツーの会社で働いていた。営業として。

 ちょっと名前の知られた大学を卒業し、ちょっと目を惹く容姿だった。

 だから部屋にこもってする事務よりも客相手の営業職の方が向いているとか、なんとか言われて営業に回されたんだ。


 最初は色々な人に出会え、刺激がある営業回りも面白かったけれど、段々と仕事がウンザリしてきたんだ。

 何事にも慣れは訪れる。

 慣れは惰性に通じるし、刺激は日常に埋もれていった。


 刺激が無くなって、テンションは下がっても、仕事の量が変わる訳じゃない。

 事務職の娘は、定時になったらさっさと帰ってしまうけれど、私は定時から仕事がてんこ盛り。

 企画書作って、報告書類作って、日誌をまとめて、集計だの顧客と業界の傾向だのレポートを書く。


 会議に残業、休日出勤で頭も体も仕事モードから抜け出せやしない。

 そのくせ会社はやれ数字だの、目標達成だのと耳元で叫ぶ。

 給料は、事務職に比べれば高かった。だから仕事に必要だからって、スーツやアクセサリーだの、バックだの、欲しいものは沢山買いこんだ。


 高価なバッグと、流行のスーツでちょっと報われた気になっていた。

 けど、行きつけの喫茶店の常連に、いかにもお嬢様風って女が現れた時、私の中で何かが崩れた。


 同じ高級品を身につけたって、所詮は労働と生活で、すり減った余裕の代償として身につけているのと、生まれながらに余裕って奴を持っている人間が持つのとでは、輝きや存在感が違のだと。


 それに気が付いた時、もの凄く切なくなった。

 営業回りしてくたくたになって、せっかく買った高いスーツにシワ作って、会社に帰社して、ああ、これからまた企画書だの作らないとって時に目に入った、自分の机の上に残された大量の電話の伝言メモ。


 折り返し電話寄越せってメッセージ、メッセージ。

 見た瞬間、プチって何かが切れた。

 喫茶店で働いている友達に、客と打ち合わせしたって事にしてカラ伝票切ってもらった。つまり経費のネコババだ。


 大した金額じゃない。

 一度にせいぜいコーヒー代や定食代。1か月に1万円にもならない程度。

 でも爽快感があった。数字や売上でプレッシャーをかけてきて、私の首根っこを捕まえて、大根おろしみたいにごしごしと神経をすり減らす相手を、逆に騙してやっているんだぞって、やられっ放しじゃないという秘かな優越感もあったけど。


 何でばれたんだろう。友達が会社にチクるはずないし。

 とにかく、会社に経費ネコババがばれて、私は会社をクビになった。


 会社を追い出されて、腐った気分の日々を送っていたら、健二と知り合って。

 一緒に住もうって事になって、同棲するようになって半年目。

 昨日の夜、突然、このヘンな男達が家に乱入して来て、私の部屋漁って、健二を殴り回して、私を捕まえて、車に乗せられてこんな所に連れて来た。


 私と健二は、突き飛ばされるようにここに入れられた。

 元々、倉庫として使われていたみたいだった。

 若い普通の男がブラシで床をこすり、ホースの水で汚れを流していた。


「お疲れ様です」


 若い男は、私たちを拉致した連中に頭を下げた。

 顔を腫らして床の上を転がる健二と、怯える私をちらりと一瞥し、そのままゴシゴシとブラシで床をこすった。


 水で洗い流される赤黒い汚れ。生臭くって、腐臭、糞便臭が混ざる、脳を痺れさせるほどの悪臭が、この倉庫が何に使われているかを物語っていた。

 こんな場所を淡々と普通に掃除できる男も、普通に見えて普通じゃない。

 いや、普通に見えてしまう分狂っている。


 私達は、別々の部屋に引き離され、尋問され、拷問された。

 でも、知らないものは知らない。

 知らないどころか、何故こんな目にあわされるのかすら、理解出来ない。


 私の部屋に、クスリ入りのクマのヌイグルミがあったと言うけど、クマ助はいつの間にか置いてあったものだし、健二は只のバーテンダーだって、ずっと思っていた。

 最初の内、殴られ、蹴られる事に、恐怖と、何で私がこんな目にという理不尽さに、怒りや悲しさがあったけれど、苦痛を与え続けられる内に、中身が空洞になっていった。


 痛いし苦しいけど、段々思考も麻痺し、なぜ殴られているのか、どうしてこうなったのかもどうでも良くなった。

 何も考えられない、生身で出来た人形だった。

 これで死ぬのかなあ、なんて、それすらも淡々と思っていた。


 死んだお兄ちゃんのところに逝くんだ、でもまさか、こんな酷い顔であの世で会っても、お兄ちゃんが私を妹だって気が付いてくれるかな、とか。

 だが、健二はそうではなかったようだ。


 それは尋問ではなくて、制裁だった。

 隣の部屋からは、正気なら聞いていれば吐き気がするくらいの、健二の悲鳴がいつまでも聞こえた。水っぽい音に、金属音。ドリルの音。その音全てが責め苦と直結しているのは、健二の悲鳴で分かった。


 健二の泣き叫ぶ声が「ひいぃ」から「ひひゃあ」笑い声に変わった時「うわ、やべぇ」と声が聞こえた。

 角刈りが、こっちの部屋に顔を出した。

 申し訳なさそうに、角刈りは長髪に頭を下げた。


「すいません、壊しちまいました」


 そしてボロボロの何かを放り出した。

 ボロは、健二だった。

 裸にされた体は、真っ赤に染まっていた。

 手足は関節逆方向に全てねじれ、すでに人の体の形ではなくなっていた。


 人間ではなくなった顔で、片目になった健二はげらげらと笑っていた。

 

「参ったなあ、ホントに知らないのか」


 角刈りと長髪が顔を見合わせ、次に私を見た。


「……しらふぁい……」


 本当は知っていたとしても、思い出す事が出来ないほど私の脳味噌がシェイクされて、ぐちゃぐちゃだった。

 健二の笑い声は、まだ続いている。


「どうします?」


 スキンヘッドが私と背広2人を交互に見た。

 健二がこうやって狂ってしまった今、クスリのありかを知る望みは、私だけだったらしい。しかし、それも違うとなると……2人は呻いた。


「仕方がねえなぁ」


 角刈りがつぶやく。

 あの若い男が、巨大な台車で金網の檻を運んで来た。


「そっち持ってくれ」


 スキンヘッドが男に命令した。

 健二を2人で抱えると、金網の檻の中に放り入れた。

 健二はねじ曲がったままで金網に顔を押しつけ、それでもへらへらと笑っていた。


「どう、ふるの?」


 口から言葉が洩れた。


「沈めるんだよ、海に」


 角刈りが事もなげに言った。まるで、ゴミの集積場所を教えるような。


「金網に入れて沈めれば、浮かんでくる事も無いし、網の目から魚が入って肉を食ってくれる。海の底で金網が壊れる頃には、骨しか残らない」


 そして、スキンヘッドと若い男に健二を入れた檻を台車で押させて、角刈りも長髪も、4人そろって、部屋から出て行ってしまった。


 倉庫の中で、私は1人転がっていた。

 生きて出られる気はしなかった。

 顔は腫れあがってカボチャのようにされていたし、手の爪は全て剥がされた。


 そしてこうやって、冷たいコンクリートの床の上で、後ろ手に縛られて転がされたまま。引っ越し荷物の段ボールの方が、まだ人間的扱いを受けている。

 子供の頃の思い出が蘇る。

 ランドセルの重さ。遊んだ公園。遊ぶときは、妹の私が転ばないようにいつも手をつないでくれていた、大好きだったお兄ちゃんの顔。


 日差しの当たる平和な子供時代を送った私の人生が、まさかこんな風に殺されるなんて、思わなかった。

 人の歩く震動が、床を伝わって来た。

 ああ、殺しに来たんだ。そう思ったのだが。

 横たわったままで目に入ったのは、ハイヒールをはいた女の足首だった。


「ほら、立ちなさい」


 突然、腕の圧迫感が消えた。縛られた両腕が自由になったのだ。

 足元には、どうやって切ったのか、太いロープがズタズタに千切れていた。

 引き起こされ、相手の姿を見た時、私は幻覚でも見ているのかと思った。

 まるで合成写真のように、背景と女の姿が切り離されている。


 このひとに、ころされるの?

 さっきの男達とは、人種のかけ離れた女にそう思った時だった。

 私は女に突き飛ばされた。 


「逃げるわよ」


 女がくるりときびすを返した時、フレアスカートのすそがふんわり広がった。突き飛ばされ、つんのめった私に、女は鋭い目を投げた。


「早くしなさいよ、死にたくないでしょう」

「ア……ま、まって……」


 冷たい壁に体をこすり上げるように、私はのろのろと立ち上がった。

 立ち上がろうとする私に手を貸すでもなく、華やかな若い女は、冷えた目を私に投げている。

 助けるにしては、優しさや憐憫の情はなかった。


 警察ではない。しかし、どこかで見覚えがある女だった。

 痣と汚れで黒くなっていた裸足を、何とか動かした。

 灰色の通路を走る女を、私はよろよろと追った。


「……けんじは……」

「もう無理」


 力が抜けた。女が振り返った。


「早くしなさい!」


 女が苛立たしげに怒鳴った。


「ああもう、あんたのその鈍さと考え無しと、想像力なさが気に入っちゃいたけど、この場ではムカつくだけだわ、早く歩きなさいよ!」

「やっぱり、ころされるのね?」


「殺される? ハっ、死ぬだけならまだ救いね。ねえ、あんた考えなさいよ。あんたの男が持ち逃げしたクスリが見つからない、そうなったら、せめて気晴らしくらい、しなくちゃ気が収まらないわよ。まだ肌も内臓もピチピチの若い女なのよ。生きたまま解体されて、いつまで死なずに持つか、奴らの賭けの対象にされたい?」


「そ……」

「人間って、他の生き物より脳の構造が複雑よね。己は苦しいの嫌がるくせに、同胞の苦しみもがくサマなら、時に娯楽にするんだから」


 へたり込み、床についた膝にわずかな震動があった。女が前を見た。


「ほら、ごらん。来ちゃった」

「あそこだ!」


 あの男達だった。私は悲鳴を上げた。

 腰が抜けて立てない。

 その時だった。

 通路脇に追いやられていた、巨大な台車が目の前で倒れた。

 しかも立て続けに。


 元は資材か何か、大きなものを運んでいたようだ。

 そんな大人の背丈ほどもある、太いパイプと鉄の板で出来た台車が、男達と私達を分断するように、何台も引っくり返る。

 狭い通路が、瞬く間に台車で埋まった。


 通路の向こうで男達が騒いでいる。誰か下敷きになったらしい。


「ほら、行くわよ」


 女が私を呼んだ。


 停めてあったのは、銀色のポルシェだった。


「さっさと乗りなさいよ」


 女は私を急かした。

 そして急発進。車は地獄を離れ、やがて街中を走り抜けた。

 到着したのは、私と健二が住んでいたマンションだった。

 赤レンガのデザイナーズマンションは、この辺りでは一番洒落ていて、素敵な建物だった。


 内装も当然、モダンで明るい。

 だけど帰って来た自分の部屋に、私は涙が出た。

 もう、部屋は住処ではなくなっていた。

 煌々と点く照明の下は蹂躙され、踏み荒らされた光景が広がっていた。


「ヒドイよ」


 ズタズタにされたクッションと、粉々になった食器が散らばる床に、私は座りこんだ。

 白くて毛足の長い絨毯は、土足と血で不吉でまだら模様だった。

 観葉植物は倒されて、千切れた緑葉が散らばっていた。


「私、何もしていない。悪い事なんか、何にもしていないのに、何でこんな事するの? 何でこんな事になったの?」

「クスリちょろまかすからよ」

「クスリって何よ、知らない! わたしじゃない!」


 知らない、本当に知らなかった。

 私は健二を、ショットバーに勤める只のバーテンダーだと思っていた。

 そりゃ、ハンサムだし、結構口も上手だし、過去の女の影がちらついてはいたけど、まさかあんな奴らとつながっていて、しかもこんな目に遭わされるとは思いもしなかった。


 これから、どうなるんだろう。

 あの倉庫から、今はここに逃げてきた。

 でも、それからどうする?

 私は、ようやく女の存在に気が当たった。


 女は私を見ていた。

 笑顔だ。

 だけど、吊りあがった口元に優しさは微塵も感じられない。

 それどころか、この状況を面白がっている。


 部屋の中央に立ち、全世界を見回す女神のような表情で、女が言葉を投げた。


「困った事になったわねえ。さあ、どうする?」

「どうするって、どうしろっていうのよ!」


 私の心の線が、千切れ飛んだ。


「私が何をしたって言うのよ、どうしてこんな目に遭わされるのよ、あんたさっきから何なの? 何が可笑しいの? 人がこんな目に遭っているのを見て、何を楽しんでいるのよぉっ」


 体が震えた。胸が軋んだ。


「そうね。あなたが盗んだわけじゃない。盗んだのは、あなたの男」


 それでも、女は笑みを絶やさなかった。


「あなたの男」

「そうよ、やったのは健二よ、クスリいれたぬいぐるみを、人の部屋に勝手に置いて、私を巻き込んだのよ。完全に私はとばっちりだわ!」

「その健二を、選んだのはあなた」


 完全に、嘲りの口調だった。

 まるで、欠陥品を選んだ客のほうが馬鹿だとでも言いたげな。


「素敵なマンションね」


 ぐるりと見回すのは、荒らされた部屋だ。

 馬鹿にしているとしか思えなかったが。


「ここ、家賃高そうね。あなた幾ら出しているの?」

「知らないわ。健二が、任せろって」

「ふぅん、只の雇われバーテンダーがねえ」


 女は、床に投げ捨てられていた健二のジャケットを拾い上げた。


「素敵、グッチね。こっちのマフラーはプラダ。ねえ、あなた、彼のお洒落さも魅力だったんでしょ? 家具も良いわねえ、このソファは本革張りね。とても量販店で買ったものには見えないわ」

「馴染みのお客さんに、つてがあって安く買えたって……」

「ホンっとに深く考えない人間よね、あなたって」


 見知らぬ女が、私を言葉で切りつけて来た。


「そうよね、クスリだって、あなたがちょろまかした訳じゃない。でも、ちょろまかして稼いだ金の恩恵を、自分も受けていたって考えに行きつかないのかしらね」

「……それって……侮辱だ」


「まあ、最初はちょっとでも、思ったんでしょ? 何でこの人、こんなに羽振りが良いのかしらとか、そんなにお給料もらっているのかなとか。でも、素敵な笑顔と素敵なお部屋を見ちゃえば、まあそんなものよねって、考えるの止めたんでしょ? あまり考えて、ヘンなもの見たくないって、心の底では思ったのかもしれないけどね。何せ、会社はクビになって、安い時給でバイト生活。ツイてない生活から、男のおかげで一気に浮上だもの」


 知ったような口を利く、だけど、私はこの女は知らない。


「最初は、ちょっとだけ考えるの。でも、結局はちょっとしか考えない。それがあなた」


 せせら笑う女。


「経費の架空請求だって、そうだったんでしょ?」

「何で、あんたがそんな事知っているの!」


 怒りが、気味悪さに裏返った。


「最初は、少しは罪悪感があった。そりゃ、そうよね。人を騙す行為には変わりはないもの。でも、金額自体は小さいし、やってみたら誰も気が付かないし、個人的なレベルでは、誰も損はしない。だから悪い事しているって感覚も無くなっていった」

「実際、そうだったじゃない! 誰も懐も痛んでないし、お金も大した金額じゃない! もう返したわ!」


「金額の大小じゃ、無いのよ。人としての規範、道徳観の問題でね。人を騙せるか騙せないか、問題はその一点に尽きるわ。でもあなたは踏み越えた。そして、転がり落ちた。健二みたいな男、昔のあなたなら歯牙にも引っかけなかったでしょうね」


 すう、と血が抜けた。

 もう捨てたはずの薄汚いゴミを、目の前に再び突きつけられたようなものだった。

 確かに、私は上等な人間じゃない。だけど、身内でも友人でもない奴から面と向かって馬鹿にされる、そんな筋合いはなかった。


 いや、私を面と向かって馬鹿にする権利を、この女が持って良いはずがない。

 いかにも、苦労した事ありませんって、生まれてから今まで、富と余裕で埋もれていますって顔した、知り合いでも無いこの女に。


 女は、ズタズタにカバーが切り裂かれたソファに座った。

 ぎい、とイカレたスプリングの音を聞き「良い音」そう呟いて嬉しそうにクッション部を見下ろした。


「ちょっとした罪悪感や疑問は、思慮がある人はそれを深く掘り起こして向き合う。でも、愚かな人間は無視するか、踏み躙る。実はそれが、運不運を左右する大きな差なのにね。ついでに言えば、ちっぽけな良心を殺せる人間はね、その内良心を大量虐殺出来る人間になるの。会社があなたを追い出したのも、無理も無いわね」


 あんたは誰、そう言いかけた私は、女の横顔を見てショックを受けた。

 思い出した。


「あんた、あの喫茶店の……?」

「ああ、思い出してくれた?」


 あの女だった。行きつけの喫茶店で、いつもカウンターに座って横顔を見せていた、高級女。 


「何で、あんたが……?」

「私はあなたのファンなの。いつもあなたが私を見ていた目。被害者意識に、嫉妬心、向上心の無さ……あなたにしびれていたわ」

「馬鹿にしないで!」

「あら、本当よ。だって私は……」


 女は、とびきりの笑顔だった。

 気に入っていた「そこ」が私の本当の魅力であるように、親愛が溢れた表情で。


「貧乏神だもの」


 ……間が開いた。

 女はうふふと艶やかに笑った。


「本当よ」

「……気が狂ってるのか、人を馬鹿にするセンスが悪趣味すぎるのか、どっちよ、あんた」


 死神や愛の女神は、キャラクターを表す比喩的な意味で使われるけれど「貧乏神」なんて、名乗るに情けない。

 女は床に屈みこんだ。

 手に取ったのは、転がった観葉植物の鉢だった。


 鉢から床へ土が飛びだしていたが、植物のパキラ自体は無傷だった。

 女はそのパキラを鉢に戻すと、人さし指で葉を軽くつついた。

 私は、目を剥いた。


 見る見るうちに、パキラの葉が力を失い、垂れさがる。

 緑色の葉が艶を失い、黄色になって茶色になる。

 私は女とパキラを交互に見た。

 手品でも、マジックでもない。


「まあ、人間には無い力があるって事は、これで証明できたわね?」

「……私を、どうしようっていうの?」


 女は言い放った。


「あの男達、逃げたあんたを今頃探しているわよ。あなたに死なれちゃ、困るのよ。だから、さてこれからの事を考えましょう」


 考えてみれば、健二はあの男達から麻薬を盗んでいる。

 そして、男達はまだ半分しかそれを見つけていない。

 健二は発狂して殺された。

 そして、私はそのキーパーソンの役目を押しつけられている。


 キーパーソンか否か、どちらにしても殺人の目撃者なのだ。

 これからの事、自分の身の安全を一緒に考える相手というのは、普通なら警察や身内。

 でも私の場合、まさか貧乏神とは思わなかった。


「まず、身体を洗いなさいよ。その腐った匂い、私は好きだけど」


 拷問されて吐いた吐しゃ物と排泄物、血の匂いが衣服に付着して、時間が経ってから別種の匂いになっていた。

 道で歩いていたら、通報されるほどの臭気だ。


 シャワーの刺激は、身体につけられた傷のあちこちを痛めつけたが、それも生きている実感だった。

 私は少し泣きながら皮膚をこすって泥や汚れを落とした。

 ついに、私は思い当った。


 そういえば、貧乏神というこの女が私の目に着くようになってから、何もかもが上手くいかなくなったのだ。


「あんたが、私に取り憑いていたからなのね」


 決まりかけていた大口の契約は、突然破棄されてしまうし、続いていた取引は打ち切りになるし、新規の顧客は見つからない、学生時代からの恋人はいつの間にか音信不通になった。

 睨みつける私に、女は涼しい顔で言った。


「そう、それ。上手くいかない事があれば、他人のせいにする、その思考回路」

「あんたが……」


 私の心は煮えた。

 考えたら、架空請求をする気になったのも、あまりに不運が続いたせいで、気が立っていたからだ。


「言っておくけどね、死神だって健康な人には取り憑かないのよ。取り憑くのは、自ら死期を早めている人間。営業としては最低だったのよ、あなた」

「なんですってぇ!」

「まず、時間を守らない」


 女は指を折り始めた。


「顧客先訪問に、必ず10から30分は遅れて行っていたわね。それから、約束を守れない。持っていきますと約束した資料が出来ていないとか、折り返すと言った電話をしないとかね」

「忙しかったのよ!」

「あのね、信頼って、基本はホントにちっぽけな約束を守ることからなのよ。些細な事だけど、遅刻も積み上がってきたら、相手の信頼を失うのに十分よ」


 私は、いつか訪問した顧客の事を思い出した。

 新製品の説明をするために、アポの約束を取り付けたのだが、約束の時間に15分遅れた。

 相手の課長は次会う人があるからと、ロクに説明を聞かないまま話を切り上げたのだ。


「それに、考える事が浅い。きちんと人の事を考えない。営業って、相手のニーズを知るのが仕事よね」

「どういう意味よ」

「例えばよ。接待するなら、相手の事を良く調べなさいよ。食べ物の好物以外に、思いつかないのかしらね」


 思い当る事があった。私の頭が煮えた。


「だって、そんな……まさか、あれは特別なケースよ!」


 大口の取引先の部長が交代するという事で、元の部長の送別と、新部長との親睦を兼ねて歓談の場をセッティングした。


「場所は、こちらで決めさせて頂きます」


 私はそう言って、場所を決めた。元の部長がお気に入りだった、伊勢エビ料理の老舗だった。時期も、伊勢エビ漁解禁の10月だったし、丁度良かったのだ。

 まさか、新部長が甲殻アレルギーとは思わなかった。

 酷い接待だった。

 

新部長は、その場にいても食べられないから仕方がないと帰ってしまうし、残されたメンバーの箸は進まない。

 何とかして場を盛り上げようとしたけど、笑いどころか表情さえ動かしてもらえなかった。


「だって、あれは、向こうだって謝って来たのよ、ちゃんと言っておけばよかったって!」

「あーはいはい」


 女はひらひらと手を振って、私を制した。


「とにかくね、あんたに死なれちゃ、なのよ。さささ、早く考えて頂戴。あんたのオトコが隠したクスリは、どこにあるの?」

「知っていたら、もう話しているわよ!」


 情けなさに涙が出た。こんな酷い目にあわされて、馬鹿にされて、どうしたって言うんだろうか。

 部屋の中はあちこちが引っくり返され、掘り起こされていた。

 それでも出てこなかったのだ。これ以上、どこを調べろというんだ。


「あんた、人間じゃないんでしょう? 探せないの?」

「千里眼じゃないもの」


 女は言った。



 私は、這いつくばって探した。

 壊れた欠片の一つ一つまで見て、どこかに付着したものや痕跡が無いか、じっと見た。狭い部屋だけど、探し物をするには範囲は広かった。


「……無い」


 キッチンの排水溝、トイレの便器の水溜りに手を突っ込んでまで見たけれど、やはり見つからない。

 力が抜けた。


「最初から、無かったのかもしれないわ」


 私は頭を振った。


「半分しか見つかっていないというのも、あいつらの思い過ごしで、本当はクマのぬいぐるみの中のものが、全てだったのかも」

「どうかしらね。隠し場所は、分けるのがお約束だから。もしもその可能性があるって奴らが思っていれば、ここまでしつこくはなかったはずでしょ」


 私は頭をかきむしった。八方ふさがりとは、この事だ。


「どうすりゃいいのよ!」


 心の底から、健二を憎んだ。

 嬲り殺され、海の中で魚の餌にされたのは可哀想だけど、こっちはもっと可哀想だ。完全に巻き添えじゃないか。

 厄介事を押しつけて、さっさと逃げられた気すらする。


「クスリの在処さえ分かれば、命だけは助けてもらえるかもしれないのに……」

「他の誰かに預けているって事もあるわね」

「その誰かが分かれば……」


 ダメだ、思い当たらない。健二の友達には会った事ないし、それに健二の携帯は捨てられている。

 それに、そんな事すでにあいつらも考えているに違いなかった。

 下手に動いて鉢合わせしたら、こっちの身が危ない。


「言っておくけど、死は苦しみからの解放と、やり直しの手段の1つよ。そう思えば、別に怖くないでしょ。人に平等に与えられる、人生の節目の1つなんだし」

「いやよ!」


 健二の死を思い出して、私はぞっとした。健二の死は確かに苦しみからの解放ともいえるけど、私はまだ狂っていない。

 死にたくなかった。

 ただ、死にたくなかった。

 

 そして、殴られ、蹴られていく内に、自分の魂が擦り切れて、感情が摩耗して、空っぽになっていったあの虚無感。

 あんな目に会うのは、もう嫌だ。

 ふいに、思い浮かんだ顔があった。

 まるで水面に突然浮かんだあぶくのように、それは浮かんでパチンとはじけた。


「クスリを持っているとすれば、あいつよ!」


 私は部屋を飛び出した。



 ポルシェを疾走させ、到着したのは古いアパートだった。

 真夜中の夜空に、足音をガンガン響かせて、私は相手の部屋へ駆け上がった。


「こんな真夜中に、そのあなたが会いたがっている人は、起きているの?」

「起きているも何も、今帰って来た頃よ」


 廊下に面した、窓の明かりは漏れているのを私は確かめた。

 表札も間違いなく『楠』のままだった。

 楠依子という。

 昔の女で、とうに依子とは切れていると、健二は現恋人である私に説明していたけど依子はまだ健二に未練たっぷりで、健二を何度か呼びだしていた。


 私と同じ年のシングルマザーだった。

 健二と頼子は半年ほど付き合っていたが、健二は私と出会って心変わりした。

 なので、彼は頼子と別れようとしたが、当然頼子は狂乱したらしい。

 泣いて健二にすがって、自殺騒ぎを何度か起こした。

 本当に死なれるのが心配で、健二は月に何度か、依子の呼び出しに応じていた。


 当時は、流石に私も嫉妬心というものがあった。だけど、依子を知って哀れになった。美人でもなく、金持ちでもない。

 子供を1人抱えたシングルマザーで、高校を中退し、昼はパート、夜は水商売で生計を立てていた。しかも、住んでいるのはこんなボロアパート。


 健二と結婚する夢を見ていたのも無理はないと、同情したのだ。

 私は、チャイムを鳴らした。

 無防備なくらいに、あっさりとドアが開いた。


「ママ!」


 母親の依子が帰って来たと、飛び出して来たパジャマ姿の男の子は、私を見て呆然となった。口を開けて、私と女……貧乏神を見つめた。


「ママは、まだ帰って来ていないのね?」


 貧乏神がにっこりと微笑んだ。男の子は怯えている。

 まだ5才くらい。

 多分、ママ以外の人が来てもドアを開けちゃだめよとか、言い含められていたんだろう。


 だけど、私は初めて見る依子の息子に、この子の顔に、仰天どころか足が地に着いている感覚が無くなっていた。まさか、この子は……?


「何をしているの!」


 空白になっていた頭の中に、針のように鋭い声が突き刺さった。

 依子が、コンビニの袋を提げて立っていた。


 依子は、最初私が誰か分からなかったようだった。

 無理もなかった。殴られ続けた顔は、まだ腫れあがっていたし、髪もバサバサ、恰好も着替えていたとはいえ、部屋着以下の貧相な服だった。


「健二から、何か預かっていない?」


 健二の名前と、声でようやく私に思い当たったらしい。あっと叫ぶと、男の子を抱えて部屋に飛び込んだ。


「健二から、預かったものがあるなら出して!」


 私は悲鳴を出して、依子を部屋に追いつめた。


「何、何だっていうの? 何があったの?」

「でないと、殺されるわよ、あんたも私も! あるはずよ、だってあんた以外、健二と会っている人間なんか、いないのよ!」

「殺される?」


 依子の顔が、青ざめた。

 今の私の顔を見て、言葉がウソと思う人間はいない。


「預かったものなんか、無いわ」


 依子は顔をぶんぶん横に振り払い続けた。


「とぼけないで! 絶対あんたに何か渡しているに決まってる! 自殺未遂ばっかり起こして、面倒な女だから、たまには様子を見に行かなきゃっていつも言って、ここに来ていたはずなのよ!」

「自殺未遂って、何? あの男がここに何かを持ってきた事なんか、一度も無いわ! 持っていくばっかり、来れば金の無心で、健二はそればっかりよ!」

「……え?」


 絶句した時だった。私の腰に、強い力がしがみついた。


「ママぁっにげて!」


 甲高い声が、鼓膜を貫いた。

 小さな、でも燃える目が、私を見上げて睨みつけていた。男の子が依子へ叫んだ。


「ママをいじめるな!」

「タッくんっ、だめ!」


 依子が男の子へ叫ぶ。

 まるで、怪物に立ち向かう息子を、制止するかのように。

 この子にとって、私は怪物だ。私は依子を忘れて、この子を見つめた。

 まさか、と思う。この子は……健二に似ている。


 そして小さい頃の、私のお兄ちゃんに。


「まあまあ。落ち着いて頂戴」


 その時、コーヒー缶を3本ひらひらさせて現れたのは、貧乏神だった。

 次々と現れる真夜中の来客。

 私とは真逆の存在感を発揮している貧乏神に、依子は愕然となっている。


「ボクは寝ましょ。大人のお話をしたいのよ」


 貧乏神に、つん、と人差し指で頬をつつかれた途端、男の子は依子の腕の中で脱力した。ぐうぐうと寝てしまった。

 私は、依子に聞いた。


「この子、もしかして、健二の……」

 「そうよ」


 払いのけるような答えの後、依子は続けた。


「健二と私は、結婚していたのよ」

「え?」

「あなたが、健二に私の事、どう聞かされていたかは知らないけど、この卓巳の父親は、健二」

「……え?」


「つまりね、どうもあなた、勘違いしていたか、健二に騙されていたみたいね」


 貧乏神が、私の傾いた思考につっかい棒をしてくれた。


「過去、シングルマザーと恋仲だった健二は、あなたに出会って心変わりし、あなたと住むために彼女と別れて出て行ったって話らしいけど、実際は健二があなたと浮気したせいで、この人がシングルマザーになった。しかも、ちょくちょく元恋人に会っていた理由は、精神不安定な彼女の自殺が心配だって訳ではなく、息子に面会に行く為、ついでに元妻に金の無心をしていたということかしらね」


 貧乏神の解説に、依子が吐き捨てた。


「金の無心、ついでに面会よ。養育費なんて、もらったこともないわ」


 私は、熟睡している男の子……卓巳の寝顔を見つめ、目の奥が痛んだ『まま、にげて』そう叫んだ幼い声が、依子と健二の間を示していた。


「じゃあ、なぜ、金を渡していたの?」


 金を渡していたのは健二をつなぎとめる為じゃと、一瞬でも考えた私は、やはりバカだった。


「一度拒否したら、卓巳を拉致された。私が、仕事へ行っている間に」

「でも、この子は健二の子供だし……」

「俺がコイツを育ててやるから、お前は金を稼いで来いよ、役割交代だって笑ったのよ、アイツ!」


 部屋の隅で、小さく声が聞こえた


 「さいってぇ」


 貧乏神だった。

 私は、顔を上げる事が出来なくなった。

 寒い。

 小さなストーブ一つでは、隙間風の入るこの部屋を暖める事は出来ないだろう。


 この空っぽで貧相な部屋が、健二の搾取の結果だった。

 その搾取した金は、どこにいっていたのか。

 私は、健二の服装を思い浮かべた。最新流行のファッションとブランド。

 それを私は素敵に思っていた。


 それどころか、私は依子を健二の愛を失った、それでも自殺をほのめかしてでも健二にしがみつく、薄幸の女だと哀れんでいた。

 ここよりも、もっと贅沢なマンションで健二と同棲していた。

 私は面を上げた。


「健二は、死んだ」

「本当? 信じてもいい?」

「信じてくれていい。そこのビン……いえ、彼女も証人よ」


 貧乏神は、気まり悪そうに座っていた。

 一見、この粗末なアパートの、毛羽立つ畳の上に座らされて困っている金持ちのお嬢様のように見えるけれど、貧乏神ならこんな場所が大好きだろうに。


「健二がどんな風に死んだかは、知らないでおく。どうせ、まともな死に方じゃないし、聞いてうっかり同情するのも馬鹿らしいから」

「そうね。まともな死に方じゃないし、聞けば同情するより、気分悪くなるわよ」


 私は、自分で自分を指した。


「この顔で、何となく分かるでしょ」

「……絆創膏、使う?」

「有難う。でもいらない」


 じっと、依子は考え込んでいた。そして、立ち上がった。


「一度だけ、卓巳へのプレゼントがあったの。卓巳が欲しがっていたのは、超合金のロボットだったのに。この子がクマのぬいぐるみなんかで遊ぶはずないでしょって、すごくムカついて。当然、卓巳も気に入らなくて、押し入れの奥に突っ込んだんだけど」


 その時だった。


「誰か、来るわよ」


 貧乏神が立ち上がった。私の筋肉が凍りつき、依子が目を剥いてドアを見る。

 ガタガタと鉄階段を駆け上がる、複数の足音。


「急いで!」


 私は恐怖と直感に蹴り飛ばされた。

 あいつらだと思った。

 部屋を飛び出すと、階段を上がってこの部屋に向かってくる男達の姿。

 私は部屋を飛び出した。


 卓巳を抱いた依子が、そして貧乏神がそれに続く。


「いたぞ!」


 男達が駆け上がって来た。

 反対方向にある階段を私たちは駆け降りた。

 当然、追手も階段を駆け降りて来る、その時、鉄が軋む音がした。


「ぎゃやああ!」


 悲鳴と、耳障りな鉄の音が轟いた。思わず背後を振り返った私は目を剥いた。

 階段のちょうど途中半分、踏み抜いたように腐り落ちている。男数人が地べたに落ち、もしくは転がり落ちて呻いていた。


「行くわよ」


 ポルシェの中から、貧乏神が叫んで来た。

 もうすでに依子と卓巳は、後部座席に乗っている。

 私は気が付いた。


「あのヌイグルミ……クスリ!」

「逃げるが先よ」


 貧乏神のアクセルに、ポルシェが雄叫びを上げた。


「てめえっ車停めろお!」


 角刈り頭が、運転席めがけて飛びついてきた。

 ポルシェは思い切りスタートを切り、ぐるっとローリングして方向を変えた。

 男は羽根のように舞い上がって落ちた。

 クラクションが鳴った。私は後ろを見た。


 ベンツだ。


「ドイツ車同士の戦いね」


 けたけたと貧乏神が笑った。

 ベンツとポルシェ、スピードはこちらが上だが、狭い路地で、盤の目のように入り組んだ住宅地、しかも真夜中の視界だ。

 スピードが生かしきれない。ヘッドライトの中に、突如浮かび上がるブロック塀や電信柱に、何度も私は心臓発作を起こしかけた。


 ポルシェはジグザクと逃げ回った。

 何度もカーブを切り、闇雲に飛ばす。

 そのスピードで、助手席の私は洗濯機の中のタオルのように、ぐるぐると振り回された。

 後部座席の依子は悲鳴を上げる余裕も無く、卓巳をしっかり抱いて石になっている。


 クラクション、排気音の狂った狂騒曲が、聴覚を叩き潰す。


「大きな道に出て! そうしたら逃げ切れる!」

「わかってる!」


 その時だった。前方に突然、ベビーカーを押した黒い影が出現した。

 ヘッドライトの中で、乳母車が止まる。

 クラクションを鳴らす。

 だが、影は棒立ちになって動かない。


 乳母車の向きが、ポルシェを向いた。赤ん坊が見えた。

 後部座席からも、悲鳴が上がった。


「とめてぇぇっはねるぅっ」


 思わず見た貧乏神の横顔は、静かだった。

 私は絶叫した。


「とめてとめて! はねる、はねるぅぅっ」


 ポルシェは止まらない。


 私は、助手席からハンドルを掴んでいた。

 貧乏神が怒鳴ったが、構わずハンドルを切る。

 視界から乳母車が消えた瞬間、凄まじい衝撃が体を襲った。

 車は、電信柱に衝突していたのだ。


 目の前に、まくれ上がったポルシェのボディと、肉薄した電信柱があった。

 頭を押さえた貧乏神が、横で何か怒鳴り続けたが、私の耳は聞こえなかった。

 ゴムの焼けるイヤな匂いが充満した。


「やめてぇっ放して、はなしてちょうだい!」


 依子の悲鳴が、鼓膜を叩いた。

 そして、男の怒声。

 車は、数人の男達に包囲されていた。

 そして、後部座席に侵入する男達を見た。

 そして、男の腕に囚われた卓巳を。


「放して、返して!」


 車から飛び出し、男へむしゃぶりつく依子。だが、男は依子を数人がかりで押さえつけ、卓巳を依子からもぎ取った。

 窓ガラスが叩かれた。


「クスリ持って来い!」


 車の外から、男が怒鳴った。

 ビルの名を叫ぶ。


「でないと、ガキを殺す! 明日の夜までだ、いいな!」


 卓巳の泣き声、依子の狂った声に、クラクションの音。


「返して、卓巳、たくみぃっ」


 卓巳を拉致したベンツに掴まろうとして、依子は突き飛ばされた。

 それでも足に掴まろうとしたが、足蹴にされて地べたに転がる。

 そして、ベンツは走り去った。

 私は、茫然としたまま、助手席に取り残されていた。


「たくみ、たくみぃ……」


 依子がふらふらと立ち上がり、走り始める。

 私は開かない助手席のドアを諦めて、後部座席から這い出した。


「よりこ、まって……」


 ようやく追いつく。しかし、振り払われた。


「行かなくちゃ、卓巳が、卓巳……」


 うわごとのように口にする依子の腕を、私は引っ張った。


「あんたのアパートへ行くのよ! クスリがあれば返してくれるんでしょ、ほら、ぬいぐるみ!」


 女2人で支えあうように、砂漠をさ迷うように、私たちは依子のアパートへ向かう。


「何、この音……」


 依子が唇をわななかせた。

 アパートが近づくにつれて、近づいてくる不吉な音。真夜中の夜を埋め尽くすサイレン、鐘の音。

 アパートが見えて来た。

 だが、アパートを野次馬が取り囲んでいる。


「火事!」


 私は人ゴミを押し分けた。

 アパートが、炎を噴いていた。消防員たちが懸命に消火作業を行っているが、まるで歯の立たない化け物を相手にしているようだ。

 一向に火の勢いは収まらない。

 二階の依子の部屋は、炎の壁に遮られている。


「あああああっ」


 私は飛び出そうとし、叱咤する声と幾人もの手で押さえつけられた。


「馬鹿、入ったら焼け死ぬぞ!」

「放して、止めないでちょうだい!」


 あの部屋に、ぬいぐるみが、私たちの命綱が残されているのだ。

 あれが無いと、生き残れない。

 卓巳が殺されてしまう。

 羽交い絞めされ、地べたに組伏せられながら、私は泣き叫んでいた。


 視界の片隅に、同じように組伏せられている、依子の姿が見えた。



 公園のベンチで、どれくらい座りこんでいたのか。

 冷え切った冬の石が、尻を凍らせていた。

 あの衝突事故の後遺症が、今になって表れていて、身体の節々が痛い。

 私は、向こうにある燃え尽きたアパートを見た。


 建物の焼死体だった。

 クスリも、もう残っているはずない。

 隣には依子がいる。すすり泣いている。

 野次馬たちが、火の原因をあれこれ噂していたが、私にとっては放火でも、失火でも、どうでも良かった。


「たくみ」


 依子が息子の名を呼んだ。何百回目になるだろう。


「けんじ……じごくに、じごくにおちてしまえ、あんな男……」


 依子の呪詛。

 この凶因を作った相手は確かに死んでしまえだけど、もう健二は死んでいるし、依子が願うまでもなく、地獄に決まっている。

 問題は、私達だった。

 だが、依子の家に来たヤクザ達。


 元から依子を見張っていたのか、それとも私を尾行してたのか、どちらだろう。


「どっちにしても、貴方のせいよ」


 声が降って来た。

 いつの間にいたのか、貧乏神が立っていた。


「ポルシェがおシャカ。911カレラSがねぇ、やれやれ」

「あんたが、人を轢こうとするから!」


 歩行者を、しかも乳母車ごと轢こうとしたからだ。貧乏神は、思い切りイヤそうな顔を向けた。


「あーやだやだ、その咄嗟の判断力、状況把握能力の低さ」

「人殺し!」

「あのね、あんな真夜中に、乳母車押して歩いている人がいると思う?」

「え?」


「ちゃんと見たの? 背丈にシルエット。あれ、男よ。しかも乳母車を、走ってくる車に押し出した。意味分かる? そんなの、赤んぼの親なら絶対にしない。先回りされていたのよ。だから遠慮なく行っちゃおうとしたのに」


 頭の中が、一気に漂白された。

 私のせい?

 幼い息子を拉致された母親の慟哭が、わんわんと頭を揺すぶった。


「あなたと健二だけなら、自業自得で終わったのにね」


 ふらりと依子が立ち上がる。歩き出したその手を、私は掴んだ。


「どこへ行くの」

「たくみを」


 だめよと言いかけた。

 でも、制止する権利は、親子にとって疫病神の私には無かった。


「たくみを、かえしてもらうの、替わりに、わたしを殺してもらう、そうしてもらうの」

「その取引はどうかしらね。あいつら、人を殺したいんじゃなくて、クスリを手に入れたいだけなんだから」

「そうよ、あいつらの目的はクスリよ、クスリがなければどうしようもないんだ……」


 私の頭に、雷が走った。

 クスリがなければしょうがない。

 逆に言えば、クスリさえあれば、どうとでもなる。


「あいつらのところへ行くわ」


 私は決意を込めて、依子の目を覗いた。

 派手なエンジンの音がした。


「決まったのなら、行きましょ」


 公園の外に、排気音を響かせて止まっていたのは、フェラーリだった。




 私と貧乏神は、昨夜男が叫んだ名前のビルを、向こう岸にある橋の上から眺めていた。

 川沿いにある三階建てのビルだった。

 うらぶれた四角いコンクリート、川の堤防に面して大きな窓があるが、内部は見えない。


 川を渡ってくる、氷のような冷たい風に私は身震いした。

 そして、茶色のウサギのぬいぐるみをしっかりと小脇に抱えた。


「あなたは、ここで待っていて」


 私は横の依子に言い聞かせた。


「卓巳は、絶対に連れて帰る」

「もしも、ばれたら?」

「ばれない内に、何とかするのよ」


 ウサギのぬいぐるみの中は、ビニールに入った白い粉末が入っている。


「行ってくる」


 きびすを返しかけた私に、依子が叫んだ。


「待って……聞きたい事があるの」


 こんな時に何だけど、と依子は口ごもった。


「あなた、健二のどこが好きだったの?」


 ホントに、こんな時だよなあと私は少し呆れたのだが。

 一番大きな理由を、私は白状した。


「……死んだお兄ちゃんに、少し似ていた」

「そう」

「子供の時、交通事故で死んじゃった。優しかったのに」


 健二以上に、卓巳は私の兄に似ていた。

 昨日の夜、私に向かって叫んだ「ママをいじめるな」あの顔は、小さかった私をいじめっ子から庇ってくれた表情そっくり。

 貧乏神が後ろからつぶやいた。


「ブラコンだったのね」

「そうよ」


 今では、自分の馬鹿さ加減が心底忌々しかった。

 本来なら自業自得で済んだ事が、災難の範囲を広げてしまった。

 そのせいで死んだ兄に似た、優しい男の子を巻き込んだ。

 息子を健二から守ろうと必死だった、依子の努力を台無しにした。


 カタをつけなくちゃ。

 私は上等の人間じゃない。だけど下等にはなりたくない。

 次は、私が貧乏神に質問する番だった。


「ところで、私もあなたに聞きたいんだけど」


 今まで思っていた、一番シンプルな疑問だった。


「何故、あの倉庫といい、アパートの時といい、助けてくれたの?」

「貧乏神だから」

「どういう理屈よ」

「私の仕事はあくまで『貧』なの。『死』は、仕事の守備範囲から外れる」

「それが理由?」

「そうよ」


 確かに、その声にも表情にも、優しさや労わりの影はなかった。火にかけた鍋が吹きこぼれそうだから、火を止めた。そんな口ぶりだ。


「もしかして、アパートが燃えて、クスリが無くなったのもあんたのせい?」


 不運をつかさどる神は「さあね」と言い、乾いた青空を見上げた。


「つくづく、時間を守らない人間ね。あんたって」

「不運の為には、それが良いと思ったのよ。なんとなくだけど。じゃ、打ち合わせ通りに頼んだわよ」

「あーあ、次はフェラーリがおじゃんか。458スパイダーがね」


 楽しげなぼやきを聞きながら、私は今度こそビルへ向かった。

 依子の視線が、貫通するほど強く、背中に突き刺さってくる。

 不運、それに賭ける気だった。


 近づいてみると、人家から仲間外れにされたような川べりの場所だった。

 周囲は墓場や空っぽの工場、そして空き地がある。

 一階のガレージの奥に、事務所の入口があった。

 ガレージにあるのは、見憶えのあるベンツだった。


「クスリ持って来たわよ!」


 わざと大声で怒鳴った。ガンガンとドアを叩いてやる。ガラス張りの向こうにいる男が、ギョッという顔で私を見た。

 あの日、倉庫で掃除をしていた若い男だ。わらわらと男達が飛びだしてきて、私は、すぐに事務所に引きずり込まれた。


 ぐるりと取り囲まれた。

 健二を殺した角刈りがいた。そして、スキンヘッドと長髪も。


「大声出すんじゃねえよ、持って来たなら早く渡しやがれ!」


 夜に来いと言った相手が、昼間に来たのだ。

 やや焦った声で、長髪が私に言った。


「早えな。どこで見つけたんだ?」

「ロッカーのキーを見つけたのよ。中を確かめたら、こんなモノが出て来た」


 私はうさぎのぬいぐるみを振って見せた。

 そして、うさぎを奪おうとするスキンヘッドの手をかわし、うさぎをしっかりと抱きしめた。


「男の子を、返してちょうだい。そうしたら渡す」

「中身は、確かだろうな」

「ほら」


 私はうさぎの背中のチャックを下げて、中身の一部を引っ張りだしてみせた。

 ビニールに入った白い粉がちらりと見えた時、男達の空気が明らかに殺気立つ。

 角刈りは、私を解剖するような目を向けた。


「寄越せ」


 その酷薄な目の色に、私は健二の最後の姿を思い出して、うさぎを持つ手が震えた。

 拷問の苦痛によって、感情が摩耗して虚無感となっていった道のりを思い出した。もう、痛いのも怖いのも嫌だ。

 うさぎを放り出して、このまま逃げ去りたい衝動に駆られる。

 だけど。


「あの子を、今、ここに連れて来て」


 私は踏ん張って見せた。

 汗が伝い落ちる。背中が汗でびっしょりだ。

 この部屋の隅に達磨ストーブが赤々と燃えているが、あのせいだけじゃない。

 部屋を暖めるあの暖房器具が、拷問用具となって、燃える鉄に肌を押しつけられる妄想が沸いた。それを必死で打ち消して言葉をつないだ。


「あの子を、でなきゃ、渡さない」

「三階にいる。一緒に上がれ」

「今、ここでないと、絶対に嫌」


 苛立つ男達の輪が、私へと狭まる。

 その圧迫感に、全身どころか内臓まで震えていた。

 それを押さえつける為にも、死ぬほど力を、目と口の筋肉に込める。

 何としても、卓巳をここに連れて来させなければ。


「ガキの手を引いて、逃げようってんじゃ、ないよな?」


 私の背後にいつ長髪が、ガラス張りの扉を指差して笑った。


「鍵なら、もうかかっているぜ」

「早く無事な顔を見たいのよ!」


 私は怒鳴った。


「警察にも連絡していないし、携帯も持っていない! 約束通り持って来たのよ、早く会わせてちょうだい!」

「しょーがねえなぁ」


 スキンヘッドが妙な節をつけて呟き、若い男へ顔を向けて命令した。


「ガキ、連れてきな。3階だ」


 彼が上に上がる。しばらくすると、大と小の足音が降りて来た。

 卓巳の顔を見た瞬間、私は腰が砕けそうになった。

 しかし、卓巳は「あ……」いるのが依子でなく、私なのを見て裏切られたような顔を見せた。


 若い男が卓巳の肩を押さえつけている。

 母親から引き離されて、こんな場所に連れて来られ、一人ぼっちで監禁されて、怖かっただろうに。

 でも泣いていない。その強さと無事な姿に、私はつい涙ぐんだ。


「おい」

「分かっているわよ」


 私は、角刈りにうさぎを放った。

 同時に、押さえつけられていた卓巳の体が自由になった。


「おいで」


 私は卓巳をこちらに引き寄せた。そして、少し屈んで、今こそ泣きそうな卓巳にそっと耳打ちした。


「もうすぐママに会えるよ」

「え」


 角刈りが、うさぎの中身のビニールを引っ張りだして喜色満面だ。

 長髪もスキンヘッドも白い粉の量に、目を見張っている。彼らにとって、あの白い粉がどれくらいの値打ちだったのか、私は知らない。

 ……近づくエンジンの排気音に、ヤクザ達が気付くのが遅れたのは、ガラス戸の防音性なのか、それとも「白い粉」に狂喜していたせいなのか。


 世界が砕けたような、甲高いガラスの破壊音が部屋に反響した。


「うぎゃああっ」

「うおおっ」


 建物を揺るがす地震と、つんざく音に、頭を抱え込んで皆がうずくまった。

 デスクが、椅子が空を飛んで壁に激突した。

 書類などの紙類が吹雪のように舞い上がった。

 ガレージにあったドラム缶が空を飛び、男の一人を跳ね飛ばした。


 ガラスドアを突き破って、事務所に飛び込んだフェラーリの助手席が開いた。

「はぁい」貧乏神が運転席から手を振る。


「乗って!」


 私は卓巳をフェラーリの助手席に投げ込んだ。すぐさまフェラーリは急バックし、そのまま逃走する。

 割れた入口から、びゅうびゅうと風が内側に吹き込んだ。

 さっきの衝撃で、赤々と燃えていたストーブが転がっていた。


 緩やかに火が消えていくが、空を舞う紙がその炎を拾い上げ、床の上に落ちて、転がっているドラム缶からこぼれた液体を這うように火が広がっていく。


「うあああっ」


 タップダンスをするように、ヤクザ達は火を踏みにじろうとするが、紙に燃え移った火がひらひらと風に舞って逃げた。

 カーテンに火が点いた。

 破裂音がして、長髪が顔を押さえて転がった。殺虫剤のスプレー缶が、すぐ傍で爆発したのだ。


「おい、消火剤! 消化器を出せ、いますぐに!」


 混乱の中、白い粉の入ったビニール袋をしっかりと握りしめて角刈りが怒鳴った。


「貴様、もしかしてどっかの組……」


 言いかけて、角刈りが咳きこんだ。風が巻き起こり、煙が顔を覆ったのだ。


「うぁっついい」


 あちこちで悲鳴が上がる。床の上で、炎が舞い踊り始めた。

 私は転がっていた椅子の脚を振り上げて、角刈りの手にあるビニール袋めがけて振り下ろした。


「何しやがる!」


 私の背後から、数人の腕が巻きついた。私は滅茶苦茶に暴れた。あのビニール袋の中身がばれたら、まずい。

 あの白い粉を始末する為に、ここに私は残ったのだ。

 どんな形であれ、あれを奴らの目の前で処分してしまえば、もうクスリをないと思わせられる。


 依子や卓巳を守れる。

 煙と消火剤、炎が川を渡ってくる風によって乱舞した。

 逃げまどう者と暴れる者が白い視界の中で埋まっていた。私は見えない中、何人かを椅子で殴りつけた。


「ぎゃあっ」


 転倒する音がした。

 外に逃げ出そうとして、何かにつまずいて将棋倒しになったらしい。

 外に出ようにも、机や椅子が障害物となって、しかも大人の背丈ほど燃え上がっている。

 角刈りが、煙から逃れるために口と鼻を押さえ、階段の方へ這いずって行く。2階から逃げる気だ。私は角刈りの背中に飛びついた。


「放せぇ!」


 コアラの親子のような体勢だった。角刈りは私を奮い落そうと背中を奮う。

 私は組みついて、ビニール袋へ手を伸ばした。

 私たちはもみ合いながら、床に二転、三転と転がった。顔の脇に炎が迫り、背中から焦げた匂いが立ち昇った。

 ビニール袋が床に落ちた。

 私は手を伸ばした。その手を黒い革靴が踏みにじった。


「このクソ女が!」


 脇腹に強烈な蹴りが入り、私は思わず、床の上でくの字になった。ゲラゲラとイヤな笑いが降って来て、ビニール袋が目の前から消えた。

 しまった、苦痛の中でショックを受けた時。

 ボム、と鈍い音がした。


「あぁんっ?」


 角刈りの声が裏返った。目の前に舞い落ちる、白い粉の煙。

 うわああと、雄叫びに似た悲鳴を角刈りはほとばしらせた。


「くすり、あああああ」


 ……粉入りのビニールが、膨れ上がって弾けたのだ。


「てめえ、てめえ、てめええぇ」


 角刈りが狂ったように床に這いつくばり、手で粉をかき集めるが、風と炎で白い粉が舞い上がる。

 肺と目は煙にやられていた。私はよろよろと起き上がり、階段へ向かった。

 1階から、もう脱出は無理だ。


 2階に転がりこみ、なんとか辿りついた窓を開けると、サイレンの音と、酸素がどっと私を取り囲んだ。

 私は、窓辺に座り込んでゼイゼイと喘いだ。外の下を見る。


 骨折は免れないが、焼け死ぬより良い。

 もう煙が、2階へも来ている。


「逃げんじゃねえ!」

「!」


 突然、足元の床に穴が開いた。

 角刈りと長髪が、2階のドアの前で銃を構えていた。


「コロス……コロス」


 髪が焼け焦げた角刈りの目は、煙か怒りか、赤く充血していた。

 ぶるぶると震えているのが、はっきり見て取れた。

 長髪も火傷と火で、あちこちが焦げている。

 酷い有様だった。構えた銃は、はっきりと私の顔を狙っていた。


「1発づつ、弾を手足にぶち込んで動けなくしてから、1階で生きたまま火葬ってのも面白いけどよ」

「消防車が来るわよ」

「じゃあ、急がねえと」


 2人の銃口が、私を狙って上がる。

 その時。

 長髪と角刈りの背中に、膨れ上がった火球がぶつかった。

 耳に爆発音と悲鳴が突き刺さり、鼓膜がびりびりと裂けた。

 恐ろしいほどの熱風が私に体当たりしてきた。


 重力が消えた、そう思った瞬間、私は爆風によって軽々と飛ばされた。

 ……そして、道を越えてビルの前を流れる、濁った緑色の川に落下した。

 白くなっていた意識の中で、声が聞こえた。


「……つまんない女ね」と



 あのビルは、爆発で木端微塵になったらしい。

 1階のどこかに、ニトロだか何だか、大量の爆発物を隠していたと、私は病院のベッドの上で聞いた。

 死者は3人、長髪に角刈り、スキンヘッド。

 地獄でそろそろ健二に会えた頃だろうか。


 依子も卓巳も、アパートが火事になったのをきっかけに、新しい土地に引っ越しした。

 新天地で住む場所も仕事も見つかったらしい。

 これで、あの2人も安定した生活が送れるだろう。


 何と言っても、もう疫病神の健二がこの世にいないのだから。

 私も、住む場所を変えた。

 あれ以来、貧乏神には会っていない。


 もしかしたら、どこかであの若い女が、意地悪な目で私を見ているのかもしれないと思う事もあるが、あれ以来、私は人との時間と約束はちゃんと守っている。

 ある日、私は、部屋の観葉植物に気がついた。


 観葉植物は、以前健二と住んでいた部屋に置いてあったもので、生きてはいたが、貧乏神の力によって枯れかけて、茶色の葉っぱのままだった。

 ある日の事だった。

 観葉植物に水をやっていて、私は思わず声を上げた。


 茶色の葉っぱに隠れるようにして、出ているのは小さな緑の芽だった。

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