貧の女神
洞見多琴果
第1話 貧夢
闇に沈むステージを、幾重ものスポットライトが踊る。
ライトが止まった。まばゆい光を背負ってステージに現われたバンドの姿に、客たちは世界の始まり、終わりのように沸き上がる。
『亜貴・亜貴!』
『シンゴ―!』
観客の熱気がコールと共に渦巻き、興奮の嵐を巻き起こす。
何度やっても、この熱気は麻薬のようにたまらない。
渦巻くエネルギーに呑みこまれながら、信吾は高揚した。
ギブソンのレスポール、身体の一部となっているエレキを構えて、ステージ前に立つ、ボーカルの亜貴の白い背中を見る。
亜貴は立っている。背中は静かだった。マイクを取る手も、落ち着いている。
ドラムの邦夫が、スティックでカウントを取った。
『ワン・ツー・スリー・ファー!』
生のシンバルとスネアの音が、スピーカーから怒涛のようにほとばしった。
キーボードの音色が走り出す。信吾はエレキギターに指を叩きつけた。
エレキとキーボード、ドラムのリズムがうねり、音の爆発は奔流となって客席に叩きつけられた。
演奏のエネルギーとファンのエネルギーがぶつかり合う。
その衝突は違うエネルギーを生みだし、生み出されたものがガソリンとなって、客の熱狂を燃え上がらせる。
信吾達の奏でるロックのリズムが足元から轟き、音と混じり合って上昇する。
上昇するロックのリズムを、ボーカルの亜貴の声が後を追う。
『闇の底、生の一瞬の光の筋……』
暴力的なリズムに、亜貴の繊細な歌声が絡みついた。地獄に堕ちた女の悲嘆の叫びを、亜貴が扇情的に歌い上げる。
奏者が、聴衆が、その歌声とリズムの元に一体化し、ライブを大きな渦に巻き込んだ。
総立ちになり、全身で『シュランゲ』のリズムを追う客。
エレキはボーカルの歌を乗せて走る。ボーカルはキーボードの音に重なり、ドラムがリズムを飛翔させる。
灼熱の脳内で、音楽に満たされる魂を抱きながら、信吾は酔いしれる。
俺たちの『シュランゲ』は、世界一のバンドだと。
ライブハウス『G/O』の収容人数は、150名。この夜のライブは大入り満員、チケットも完売だった。
出演するバンドは『シュランゲ』だけではなかったが、アマチュアバンドのライブとしては大成功を収めたと言える。
打ち上げは、ライブハウスから一駅離れた焼鳥屋で行われた。
「ライブ、大成功!」
「お疲れさま!」
グラス同士が高い音で打ち鳴らされた。
テーブルの大皿には、ハツ、つくね、腿と、数種類の焼き鳥が盛られている。皆の手がそれぞれの串に伸びた。
「やっぱり、メジャーでしょ、メジャー行くんでしょ、それで、だったらさ」
ボーカルの亜貴が、赤い口で肉をくわえ、串から肉を引き抜いた。
「この間送った事務所に送ったデモテープ、返事あった?」
「まだ来るはず、ないじゃないですか」
このバンドでは一番新参で、22才と年少のベース担当の邦夫が言った。
「4日前に送ったばかりでしょ」
「速達で送ったんだよ。月曜日に送れば火曜日に着くでしょ。水曜日には聞けるはずよ、今日は木曜じゃないの」
口答えするなとばかりに、亜貴はアーモンド形の目で邦夫を睨んだ。
歌声は繊細だが、機嫌が悪い声は針のような響きになる。
邦夫がチューハイのカルピスをちびちび飲みながら、それでも小さな声を出した。
「事務所には、僕ら以外のバンドの音源も送られてきているんですよ。そうすぐ、聞いてもらえるとは限りませんから」
亜貴の機嫌の悪い本当の理由は、デモテープではないことを信吾は知っている。
だから黙ってビールを飲んだ。
その自分の頬に、キーボードの正一の視線が一瞬刺さった。
「信吾、デモテープ、ちゃんと送った?」
ついに投げられた亜貴の険しい声を、信吾は投げ捨てた。
「送った。前回とは違って、ちゃんとケースに入れたし、レベルにバンド名と曲名も記入した」
前回、デモテープを送ったのは亜貴だ。事務所に送ったCDRは封筒に剥き出しのまま入れられて、一枚のメモもなく事務所に送られた。
中身の音は、ライブ時の演奏を録音したもので、マイクの音声にバンド名も曲名も入っているからと、そのまま亜貴は郵送で送りつけたのだ。
封筒に直に入れられたCDRには、傷がついて中身の音楽自体が消えたのではと信吾は思っている。事務所から結局返事はなかった。
「やめよおよお、打ち上げなんだから」
機嫌の悪い亜貴へ弱った声を出す邦夫だが、邦夫は亜貴の真の怒りの理由に気がついていない。なだめても無駄だと信吾は思う。
信吾は黙ってビールを飲む。その白々とした空気の中で、正一の視線が、再び信吾の頬に当たった。
椅子を後ろに蹴り倒す勢いで、亜貴が立ちあがった。背もたれにかけていたジャンバーをわし掴むと、憎悪丸出しの目を信吾に貫いた。
「帰る」
残された三人は、店を出た。
邦夫と別れて、夜道に二人になったその途端に、正一が信吾を睨んだ。
「女王様のご機嫌取りくらい、きちんとしておけよ」
正一がウンザリ声で吐き捨てた。
「いくら俺たちのファンだっていっても、ファンはお前が好き勝手する相手じゃねえんだよ。一体何を考えてるんだ。女王様を怒らせるな。あの亜貴さえ平和なら、シュランゲも平和なんだからな」
「ファンサービス、するなっていうのか」
「サービスに枕を入れるんじゃねえよ」
正一は信吾を見た。
「お前のご乱行が向こうにばれてないとでも思っているのか? 今夜のあれだけじゃねえ、亜貴の奴にはしょっちゅうお前の女好きの愚痴や恨み言を聞かされてんだ。自分の女でもねえ奴から、恨みつらみを壊れたお経のように延々気かされる俺の立場になってみろ。こないだなんか、夜中の2時に叩き起こされたんだぜ。俺の朝の起床、何時か知ってるか? 俺は早朝から働いてるってんのに」
吐き捨てる正一の横顔に、信吾の気分が悪くなった。しかも2人の事を仲間に垂れ流す亜貴に嫌悪感すら沸いてくる。
「もしかして、エレキ以外のテクの愚痴まで、あいつ言ってんのか」
「部屋に女入れるなら用心しまくれ。せめて痕跡に気ぃ使えってんだよ」
正一が荒いため息をつく。
「ピアスの片っ方を、パン屑みたいに部屋に散らかすな! 手作り料理もらうなら、タッパーについた女からのメモも捨てろ! 枕に金髪残すな! 亜貴は黒髪のボブ、お前は茶髪、考えて分からねぇか? 香水、シャンプー、制汗剤、女の匂いは部屋に残すな! 徹底消臭しろ!」
正一は一度、息を吐いた。
「それから、お前、あの女の事だけど、まさかもう手ぇ付けていないだろうな」
「あの女?」
「とぼけんな。お前、分かってるだろ。あの、毛色の変わった女だよ。楽屋に花束持って来て、最近、ライブに来るようになってファンになりましたって女だ」
留学中に、ロックを聞くようになったんです。帰国して、初めて友達にライブに連れて来られて、それからファンになりました。
そう言った、長い黒髪の娘の事を、信吾はすぐに思い出していた。
「ああ、あの娘か」
信吾は憮然となった。
最近、最前列で良く見る娘だった。
ライブにやってくるタイプには見えない、でもかなり可愛い娘だったので、結構気にはなっていた。
しかしそんな自分の気持ちをピンポイントで指摘されると、それを見抜く正一の眼力に感心しつつ、だがそれ以上に嫌悪感が入り混じる。
真面目な顔で、正一は言った。
「あの女だけは止めろ、亜貴にばれたらタダじゃ済まんぞ。分かるか?」
「うるせぇな、いちいち考えてられるかよ」
「考えろよ! あんなお嬢様風のタイプ、亜貴が一番嫌うのくらい分かるだろ! どうせお前は、自分に群がる女なんかペットくらいにしか思ってないんだろうけどよ、真っ当な飼い主なら最後まで面倒見ろ! 」
正一は地面に唾を吐き捨てた。
「女癖の悪さでグループの結束壊す気か! 第一、亜貴はお前が連れて来たボーカルだろ!」
『シュランゲ』は、ドイツ語で『ヘビ』の意味だった。大学時代に信吾が結成したバンドである。
20才の時に結成して、もうすぐ10年が経とうとしている。メンバーは4人。
今までに何度もドラムとボーカルが入れ替わっている。
ドラムはファンの女と「出来ちゃった婚」して脱退。
その後に邦夫が入った。邦夫は正一の大学時代の後輩に当たり、大学を卒業したばかりのフリーターである。
前のボーカルは女だったが、鬱病になって家から出られなくなった。
その後釜が亜貴だ。
一番メンバーで長いのは、小学生の頃から付き合いのある信吾と正一だ。
信吾は、エレキの腕には自信があった。飽きっぽい自分が、一番続けていられるものだ。もう、生きがいと言っても良い。
実際、ライブを聞きに来た事務所の人間に褒められた事がある。
正一のキーボードも、小学生の頃からピアノをやってきただけある腕前だった。 何度か他のバンドに引き抜かれそうになったこともある。
邦夫のドラムも悪くはない。そして、ボーカルの亜貴。
声の音域は、とてつもなく広い。
内部分裂で弱体化したコピーバンドから、信吾が亜貴を引き抜いてきたのだが、元のバンドで男性ボーカルのナンバーもこなしていただけあった。
歌唱力もある。容姿だって悪くない。むしろ美人だ。
それなのに、何故芸能事務所にデモテープを送っても返事が来ないんだろうか。
信吾の悩みはそこだった。
演奏を入れたデモテープは、バンドのプレゼンである。
そのデモテープを事務所に送る。それを聞いた事務所の人間が、バンドに目をつけて実際のライブに足を運び、そこでスカウトされ、事務所に所属する。
事務所の後ろ盾で、インディーズとしてまずプロデビューし、人気を獲得してメジャーへと歩む。それがプロへの王道で、その道を歩む脚力も、技も自信はあるのだ。
しかし、何度音源を送っても返事は来なかった。
亜貴の郵送の仕方が非常識だったことを差し引いても、何十回とデモテープを送っている。一度もかすりもしない。
只のコピーバンドだけで、終わりたくなかった。
オリジナルだってライブで演奏している。勝負したい。
エレキギターの腕だけじゃない。スタイルは細身で、容姿にだって自信はあった。ファンの女のほとんどは自分目当てだ。
容姿技術共に、他のアマチュアバンドと比べても秀でている自信はあった。
メジャーになりたい。
それが夢だった。
※
「山田、ちょっと待て」
コンビニの更衣室。
朝から昼までのシフトを終えて、ロッカーの前でダサいコンビニの制服を脱ぎ、私服に着替えてさあ帰ろうとした時だった。
更衣室に入って来たバイトリーダーの井上が、ドアと信吾の前に立ちふさがった。
「ちょっと待て。お前、朝のトイレ掃除当番だったな」
「そうですよ」
「掃除、終わったのか」
「終わったから、帰るんでしょ」
「あれでトイレ掃除した気になってんのか?」
井上の甲高い声は、態度は、いつ、どんな状態で聞いても信吾をいらつかせる。
時計の秒針すらスローモーな退屈な立ち仕事だった。それでもようやく迎えた勤務終了、解放感の尻尾をつかまれてぐいっと引きずり戻された不快は、例えようもない。
「コンビニのトイレだからって、手を抜いてサボるんじゃねぇよ」
井上の目が光った。
「言っておくけど、使うのは俺たちだけじゃなくて、客もだぜ。汚ねえトイレの店は、貧乏神がとり憑くって知ってるか?」
「……すんません」
さっさと帰って、休みたいのだ。適当にあしらおうと信吾は思った。だが、相手は許す気はなさそうだった。
「やり直し」
「はぁ?」
信吾は思わず、声を裏返した。
「あったり前だろうが! 何なんだよ、あの掃除の仕方は!」
「ちゃんとブラシで便器こすりましたよ」
「じゃねえよ、ちゃんと縁も磨け! 床にトイレットペーパーの切れ端も散らかっているし、手洗い吐水口のタンクには埃がたまっている。蛇口は拭いたか? 水垢でびっしりだ。顔が映らねえくらい鏡は曇っているし、液体ソープも空っぽ。いつも言っているだろ、中身を確認しろ! 補充してないじゃないか」
何言ってやがんだと、信吾の頭に血が上った。
只でさえ、こいつの顔を見ると不快になる。このバイト先の正社員で、信吾とは同じ年齢なのだが、信吾を叩き潰すような物の言い方をする。
正社員の方が、バイトよりえらいと思っている典型野郎だ。
お互い制服を脱いで街を歩けば、どっちが女にもてるか、カッコいいか、一目瞭然なのだが。
だから、言いつけられているトイレ掃除だって3分で終わらせてやった。
俺が何で、便所ブラシなんか持たなきゃいけないんだ。俺の手に相応しいのは、ギブソンだ。やってられるか。
そもそも、信吾には働く必要はない。
生活費は母親が父に隠れてこっそりと送金してくれるのだ。
しかし、一応働く姿は見せろという母親の言いつけに従っているまでだった。
週に4日、5時間の労働。
だが俺はこんな場所にいるべきではないと、心の底からそう思う。
「分かったな! 掃除を済ませてから帰れ!」
言い捨てて、井上が出て行った。
その後、すぐ入って来たのが、これから店に入るために出勤してきた、後輩の今野だった。
ちょうどいい。
「お早うございます」
挨拶をして、ロッカーのカギを開けた今野に、信吾は声をかけた。
「今野、お前、今からトイレ掃除やってくれ」
「ええ?」
嫌そうだ。
そうだろう、トイレ掃除なんか汚い仕事を好きな奴はいない。
「さっき、バックでトイレ番チェックしたけど、信吾さんの当番だったじゃないんですか。午前中に掃除終わったんでしょ」
「イノブタが、その出来にお気に召さないらしい。お前、もう一回やっといて」
「えええ」
やですよお、今野の口がそう動きかけた瞬間だった。
「山田さぁン、いますかあ」
更衣室の外から、同じバイトの女の子の声が聞こえた。
ドアが開いて、その顔が少し覗いた。
「どうしたの?」
「女の人です。山田さん、今いらっしゃいますかって。もうシフト上がっているはずですって言ったら、じゃあ外で待っていますって」
誰だろう。信吾は一瞬悩んだ。
亜貴か? だけど水商売のバイトをしている亜貴は、この時間帯は寝ているはずだ。
合皮の皮ジャンを着た茶髪の信吾へ、バイト仲間の女の子は意味深な色を浮かべた。
「カノジョさんですか? 黒髪で、品の良いお嬢様風ですけど」
「今野、トイレ掃除頼んだ。人待たせてんだよ」
誰だろう? だが、どさくさに紛れて逃げられる。ここぞとばかりに、信吾は更衣室を飛び出した。
「あ、やっぱりシンゴさん」
コンビニの前にある駐車場の隅に、彼女はいた。
恥じらいと喜びの混じる笑みを浮かべる彼女へ、信吾はそっけないようでいて、しかし親しみを装った頬笑みを返す。
「ああ、キミか」
案の定だった。ここ最近、ライブに通ってくれているファンの娘だった。
年齢は、20代前半くらい。 信吾は彼女については、それしかまだ知らない。それに、まだライブで見たのも3回くらいだ。
「何、どうして、キミがこんなところにいるの?」
信吾は、彼女の出で立ちを上から下まで見た。
ライブに来る時の服装は、いつも黒のワンピースだが、今はベージュのワンピース。パンプスとバックは茶色で合わせている。一見してブランドは分からないが、彼女全身が高級感で出来上がっていた。
「どうもすみません、ストッキングを買いに、たまたまここのコンビニに入ったら、シンゴさんを見つけて……店の中で声をかけたくて、でもどうしようか悩んでいたら『シンゴさん、お疲れ様です』って聞こえたから、多分これでお仕事終わりだと分かったんです」
「へー」
「もし、この後予定が無かったら、と思って……」
信吾は躊躇した。声をかけたらついてきた、そんな形でファンと寝るのは、パターンの中に入っている。
だが、こうやって信吾のバイト先にまで姿を見せた子はいない。
しかし彼女自身、いわゆる典型的『お嬢様タイプ』で、軽そうには見えない。
たまたま、店で俺を見つけた。それが本当に偶然なのか? ふと、ストーカーという文字が頭に浮かんだ。
ジョン・レノンの事件が一番有名であるが、信吾の周辺のバンドでも一番良く聞く災い話だった。
「そうだなあ」
断った方がいいかも。
気のない素振りを見せながら、彼女から目を外し、見渡した駐車場の車に目を惹いたものがある。
「すっげぇ、あれ、ポルシェじゃね?」
思わず、声を上げた。ああ、と彼女がその方向を見た。
「ええ、ポルシェです。911カレラSガブリオレ」
「……!」
「私の車です。車もお好き?」
信吾は、銀色に光る流線形のポルシェと、目の前にいる黒髪の令嬢を交互に見つめた。
「もしもよろしければ、一緒にお茶だけでも、飲んで頂けませんか?」
白い頬を桃色に染めて、彼女はもじもじとバックから車のキーを取り出した。
有名なエンブレムのキーヘッドを見た瞬間、信吾の心は決まった。
※
楽屋に初めて花束を持って現われた時、この娘は自分をアンヌと名乗った。
『ファンです、これ、もらって下さい』
流れる黒髪と、白い容貌。黒のワンピース姿だった。
ライブに来る客のファッションに、黒なんて珍しくも無い。
だが、このアンヌの黒は、ベルベットの黒だった。同じ黒でも、光沢が違った。
「憶えていて下さったんですね。そうです、杏のアンに、夢でアンヌ」
信じられないほど洗練され、贅沢なティーサロンで、高い芳香の珈琲を飲みながらアンヌは笑った。
「また、会って頂けますか?」
あのバイトの日から、信吾はアンヌに度々ポルシェに乗せられて、違う世界に連れて行かれるようになった。
「……すっげぇお嬢様なんだよ、本物のお嬢だぜ、あそこまで金持ちって、初めて見た」
貸しスタジオの待機中、亜貴がまだ練習に来ないのを良い事に、信吾は思わず、アンヌの事を正一に漏らしてしまった。
「ちょくちょく、日本を離れて外国へ行っているらしい。ドイツへバイオリンの音楽留学をしていて、最近、帰国したらしい。たまたま友達に連れて行かれたライブで、俺たちの事を知ったんだってよ」
「ふーん」
正一が、キーボードを叩いた。
「酒だの肉だの何だのって、いろんなとこに連れていかれてさあ。こないだは船上のバーでさ、停船している海から見える、街の灯がすげえんだよ。これもまたたっかいブランデーを飲まされてよぉ。ええと、リシャー……何とかいうの」
ああそう、と正一が呟いた。
「もしかして、俺に惚れてんのかなって思うんだわ。一緒にいてくれるだけで、夢みたいですっていつも言われんだよ。でもさあ、お姫様の顔でそんなこと言われたら、いつもの調子が狂って、ガぉーって、手ぇ出し難いじゃん?……ああ、分かってるって、ひがむな。その内、お前も一緒にって彼女に頼んでやるからさ」
正一は儀礼的な響きで「そりゃどうも」と付け足した。
「何だよ貴様、すっげぇムカつくな」
「……最近、客足落ちているの、気がついたか?」
正一が暗い声で嘆いた。
「チケットの売り上げが落ちてるって、こないだライブハウスの支配人に言われてさ『シュランゲ』人気がどんどん下降してるらしい」
「はぁ?」
「こないだまでは、月2ペースでライブ演奏していたのに、先月全然、ライブのお呼びがかかってない。ヤバくないか?」
正一がキーボートを叩いた。
「モーツアルトの葬送なんか、弾くのは止めろよ」
「で、お前、お嬢様と遊ぶのは良いけど、仕事見つかったのか?」
正一の、更に厭な言葉に信吾はそっぽをむいた。
先月、あのイノブタにバイト解雇を言い渡されたのだ。
『勤務態度に問題があり過ぎる』
あの甲高い声を思い出すと、今でも腹が煮えくりかえる。
「正一、お前の店、バイト探していないのか?」
「どあほう、バイトを雇う金がないから、親父は俺をこき使ってるんだろうが。それに、お前の家賃と生活費、ほとんどお袋さんが仕送りしてくれているんだろ」
「それがさあ、大変な事になってよ」
実を言えば、アンヌの事に紛らわせて、忘れていたかった事実なのだが。
「死んだ祖父さんの遺産で、お袋俺に生活費くれていたんだけどさ、運用だが投資信託とか何かで大損したって。こないだ、お母さんどうしようって電話がかかってきた」
大学卒業後、就職より音楽を取った時点で父親とは国交断絶状態だった。
それから8年は経つ。父からは仕送りどころか、家にも帰れないだろう。
「やばいんだよ、お袋からもらえていた仕送り止められたら、コトだ。バイトだけじゃ、家賃も払えねえよ。どうするかな」
「本当にこれからって将来を考える、良い機会かもな。お前、今までまともに働いた事ないだろ」
正一が腐った声を出した。
「身の丈にあった場所に住めよ。親の仕送りで、家賃20万の高級マンションなんか、俺にとっちゃ犯罪だ」
「俺はプロ目指してるって、いつも言ってんだろ」
反射的に信吾は正一に噛みついた。
「音楽はな、本来楽しくて、人を幸せにするものなんだよ。腐った畳のボロ屋なんかに住んでみろ、畳と一緒に才能まで腐っちまう。才能ってのはな、貧しさで汚したら、取り返しがつかねえんだよ」
「……ふぅん」
「俺は、音楽抜きの人生なんか、考えられねえ。プロになって、メジャーになるのが夢だ。毎日毎日、同じ職場に通って同じ仕事して、少ない給料は嫁に奪われ、安酒飲んでグダ巻いて、誰からも注目されずに終わる人生なんか、考えたくもねえ。いつかライブに観に来たろ。シュランゲ辞めた後の、あの高次の背広姿、見たか? やっすいよれよれのスーツ着てよ、ださいネクタイ締めて、今じゃエイギョーだって。エイギョーってなんだよそれ、喰えんのか?」
「嫁さん子供食わすには、仕方がないだろ」
正一が小さく欠伸した。
「まあ、確かに、会社勤めて営業するには、ドラムの腕は勿体ないな」
「馬鹿じゃね? 夢捨ててエイギョーだって。自由を捨てて、いつ夢を見るんだよ。夢は人生の財産、でも嫁と子供は、男のロマンを食いつぶす不良債権だろ」
「早くバイト探せ」
聞く耳持たないとでも言うように、正一がキーボードを鳴らした。
「夢があっても、無いものはないんだ。生きてく為には、食わないとだろ」
亜貴が来た。そして邦夫も来て、メンバーが全員そろった。
今日も亜貴の機嫌は悪い。そして、歌の調子も悪い。
声の伸びが全く無かった。
広い音域が信じられないほどに狭くなり、艶も無い。
「ちょっと、お前酷くないか?」
信吾はギターの指を止めた。
それに続いて、キーボードとドラムの音も停止する。
こんな声のために演奏するなんか、ご免こうむるというほどの出来だった。
「……気分のらない」
「気分のらないとか、ワガママ言ってんじゃねーよ。互いに時間やりくりして、わざわざ集まって、スタジオ借りる金払って、ここにいるんだろうが」
「誰のために、ライブやってんのかな、私ら」
正一の言葉が払いのけられた。亜貴の目が、信吾へ向かって暗く光った。
「はぁぁ?」
声はふぬけたが、足が思わず後退するほどの厭な迫力だった。
信吾は亜貴から離れてその目を見返した。
他の二人が沈黙した。
「オマエのオンナ調達のために、ライブやって歌っているんじゃないってコトよ。このどゲス野郎」
「どゲスっって、何が!」
「気が付いてないとでも、思ってんの!」
演奏の練習よりも高く、金属的な声がスタジオに反響した。
「あの女よ! つぎはどの女? あのお上品ぶった、いかにもって感じのオンナ? それとも、あの赤毛の下品な奴? なあに、演奏中投げキッスだのウィンクだの、気色悪いパフォーマンスしちゃってさ、後ろで見えてないと思って、随分下品なマネしてくれちゃって、私を馬鹿にしているの? もしかしてそれなんかの合図?」
信吾の遊び相手たちは、大抵が最前列に陣取っている。
あのアンヌも毎回最前列にいる。ウィンクも投げキッスも、アイシテイルの口パクも、枕ついでのサービスだ。
歌っている最中の亜貴の背中に隠れて、信吾はそれをやってみせていた。
だからばれないと思っていたのだが。
「あんたが、私をこのバンドに引きずり込んだんでしょうがっ」
亜貴がマイクスタンドを握った。燃える目が信吾を射抜く。
「ボーカルしてくれって、あんたが頼むから来てやったのよ!」
金属製のスタンドが、大きく振り上げられた。
信吾へ真っすぐそれを振り下ろす。
うわっと邦夫が悲鳴を上げた。
正一が制止の声を上げて、こちらに走り寄ろうとする。
振り下ろされた金属スタンドで、肩を砕かれる寸前、間一髪で信吾は避けた。
反動で、大きく亜貴が前のめりになる。
そのウエストに信吾は組みついた。そしてそのまま抱え上げる。
「何すんのよ!」
肩に担がれた亜貴の声が降ってきた。足がバタバタと暴れるが、ここで落とす訳にはいかない。
「今日はこれで解散!」
突っ立つ正一と邦夫を尻目に、信吾は亜貴を担いでスタジオから飛び出した。人目を構わず、通行人を飛びのかせて道を走る。そして車道に出た。
「おい! タクシー!」「何すんのよ、放せよ、ねえっ」
開いたタクシーの後部座席へ、信吾は亜貴を放りこんだ。悲鳴を押しこむようにして自分も乗り込み、運転手に自分のマンションの住所を叫ぶ。
「何よ、降ろしなさいよ、このっ……」
思い切り亜貴の肩を両手でわし掴み、座席の背に押しつける。そして強引に唇同士を押しつけ合うようにして、罵声を押しこめた。
舌をさし込み、思い切り口腔をねぶる。
亜貴が抵抗を止めるまで、それを続けた。
マンションの部屋。
玄関前に散らかった衣服を、寝転がったままの亜貴が引き寄せた。
のろのろと信吾は全裸で起き上がった。やはり床の上でヤるのは、背中が痛い。
「ドアの前でなんか……変態」
「ドアの前ならいーじゃん、ドアの外じゃねぇし」
険だけだった亜貴の声に、媚が含まれてる事に満足しながら、信吾も服を拾い上げた。女の機嫌を直すには、これに限る。
強引に、しかも甘く乱暴に扱ってやれば、女というものはすぐに籠絡できる。
気性に強弱の差こそあれど、女という性は強いオスによる屈服を求めているのだ。
一瞬、アンヌの顔がよぎる。俺に惚れているらしいあのお嬢様だってそうだ。
あの娘もナイトよりも、オスを求めているに違いない。
下着をつけようとしていた、亜貴の唇を奪おうとした時、亜貴の口が言葉を発した。
「……アンヌとかいう、あの女、最初楽屋に来た時、変と思わなかった? 」
「はぁ?」
突然の亜貴の切り口に、女の第六感にビックリするより、呆気に取られた。
「友達に連れられて来て、ファンになったって言ったわよね。で、何で楽屋に1人で来るの? 友達は、どうしたんだろ」
「どーでもいいじゃね? トモダチ、先に帰したんだろ」
取りあえず、亜貴のココロの暴風雨が去ったらしい。
その事に満足しながら、信吾は欠伸をした。
「何だよお、そんなつまんねぇ事でいちいちアンヌの事どうこう言っていたのか?」
「ほんと、つまらないわね」
声は、信吾と亜貴のいる場所の向こうから飛んできた。
亜貴が悲鳴を上げた。信吾は目玉をぐわっと開けた。声帯が凍った。
壁の向こうから、覗いた顔はアンヌだった。
「はい、コレ」
服で前を隠し、わなわなと震える亜貴を見ようともせず、紙切れを指先で飛ばす。
ひらひらと舞い落ちた紙きれが、計ったように信吾の前に落ちた。
『金二拾五萬 部屋代として領収しました 山田信吾様』
「まだ、家賃払っていなかったんですってね。ちょうど手持ちに現金あったから、払っておいたわ」
「にじゅうごまん……」
信じられない気前の良さだ。どうやって、このマンションの部屋に入ったのか、聞く事も出来ないほど、信吾は驚愕した。
信吾は領収書を確かめた。
確かにこのマンションの管理会社の名前が記されている。
領収書から目を上げた。アンヌの笑顔が信吾を見下ろしている。しかし、いつもの、恥じらいを含んだ笑顔ではなかった。勝利を確信した女の顔。
マンションを揺さぶるような激突音に、信吾は聴覚を殴り倒された。玄関が反響している。亜貴の姿が、服と共に消えていた。
気がつけば、服を身につけてマンションの駐車場に突っ立っていた。
アンヌが白い車の前で微笑んだ。
「行きましょ」
信吾は息を呑んだ。ポルシェの次はこれか。
フェラーリF12ベルリネッタ、そんな車は映画の中でしか見た事がない。
連れて行かれたのは、高層ビルの最上階にあるバーだった。
信吾よりも高価そうな制服を着たボーイが、うやうやしく2人を待っていた。
ボーイは2人を、夜景を見下ろすロケーション席に案内した。
ほの暗い店内、目の前には夜景がある。
散りばめられた夜景の光は、まるで星のようだった。
宇宙にいる気分にさえなる。
しかしアンヌが嘆いた。
「こうなると、お酒を頂くところって、どこも同じに見えてくるわね」
「そ、そう?」
自分に惚れているお金持ちのお嬢様。
それが信吾にとってのアンヌだったが、今では得体のしれないものがあった。財力も行動も、想像を超えると恐怖の対象になる。
恐怖を紛らわせるために、運ばれてきたウィスキーを信吾は一気に呑んだ。グラスはバカラのクリスタルだった。
差し出される、2杯目のウィスキーを眺めながら、信吾は亜貴の事を思った。多分、アイツはシュランゲに戻って来ないだろう。
嫉妬深さにウンザリしていて、近い内にこうなってもおかしくはないと思ってはいたが、参ったなと思う。
またボーカル探しか。
「あら、ボーカルなんか探す必要あるの?」
思わず、信吾はアンヌを凝視した。呑みながら考えていたのだ。無意識でも言葉を出す訳が無い。
「プロになれたら、いいんでしょ?」
綺麗な桜色の爪が、白いカクテルの入ったグラスを軽くはじいた。
「『シュランゲ』のままじゃ、まず無理ね」
「……何だと」
「プロの域じゃないもの」
アンヌはさっくりと切り捨てた。
「そう、思っていなかったの?」
「……それは……」
「勿体ないじゃないの」
アンヌの手が、柔らかくグラスを持つ信吾の指に重なる。
「あなたのエレキギター、ギブソンのカスタム、1959レスポール……そうでしょ?」
「よく、知ってるな」
エレキギターの名器、例えるならバイオリンのストラディバリウスに相当するのが、1959年製、ギブソン社から出た「レスポール」である。
信吾の愛用ギターが、ギブソンのカスタム。その名器の復刻版でレプリカだが、それでも本物と遜色ない、脳を痺れさせる音を持っている名品だった。
一本100万円を超えた高級品で、死んだ祖父の遺産の一部で大学入学祝に買ってもらったものだった。
「あんなバンドの中じゃ、あなたの腕と、名品が泣いているわ」
柔らかな声に、冷笑が混じった。
「キーボードはまあ及第点。でも、あのボーカルとドラムが問題ね。ボーカルは原曲をコピーしているけど、それだけ。音に伸びが無くて、表現力に乏しい。ドラムはミスタッチが多い」
信吾は反論しようとした。アマチュアバンドの中では、それなりに人気があると自負があった。
「デモテープの返事、来ていないんでしょう?」
信吾は口を閉じた。それは事実だった。
「一番の問題は、オリジナル曲ね。バンドって、演奏も大事だけど一番の独自性は、オリジナル曲にあるでしょ?」
「……」
「シュランゲって、オリジナル曲のセンスは全然ないのよ。コピーバンドとしては悪くないんだけど、いざオリジナルとなると、作詞作曲センスがひどすぎ。メロディはワンパターンだし、作詞はなんか『夢を持ち続けていれば必ず叶うよ』『キミは世界でひとつの花』そんな意味のフレーズばっかり。巷であふれている、独創性も無い応援ソングの劣化コピーね」
自信に杭を打ち込まれた。実はオリジナル曲の作詞作曲はほとんど信吾が作ったものだった。世の中で売れている作詞やメロディを自分なりに分析し、作り上げたつもりなのだが。
「だから、シンゴさん、単独でオーディション、受けない?」
「え?」
ショックで重くなっていた頭が浮いた。
「シュランゲの皆と一緒じゃないと、プロになる意味が無い、イヤだなんて子供みたいな事、思ってる?」
「いや、それは……」
「シュランゲとして活動しているから、デモテープの返事が来ないのよ。シンゴさんだけなら、立派に通用するわ。私がここに来たのは、実はその話なの。父の旧友が、芸能事務所にいるの」
脳に杭が打ち込まれた。
「芸能……?」
「父の旧友が、芸能事務所の重役なの。ある歌手のバックバンドの、ギタリストのオーディションするんですって。その歌手って、あまり大っぴらに名前は出せないから、ヒントだけあげる。先月アメリカツアーから帰って来たMって歌手よ」
「Mって!」
驚愕は大きすぎると大声を出せずに、絶句してしまう。
Mの頭文字を持つその歌手は、恐らく5才以上の日本人なら、誰でも知っている超大物男性シンガーだった。新曲は必ずミリオンセラー、出したアルバムは通産20枚を超える。
目の前に吊り下げられたビッグネームに、信吾は空白状態に陥った。
「この間、父からこの話を聞かされたの。そういう訳だから、良いギタリスト、知っていたら奴に紹介してやれって。こういうオーディションって、世間に公開はしないらしいのね。業界の関係者や知人のコネクションしか伝わらないって知ったの。私も一応関係者になるのかしらね」
咽喉が鳴った。酔いがさめた。
目の前にいるのは、とんでもない女だ。
……正一。
ふいに親友が浮かぶ。邦夫、亜貴。
一緒にやって来た仲間だった。楽しかった時間もあった。
アンヌが微笑む。その微笑みに躊躇したその時だった。
スマホの着信が鳴った。
『あー、信吾、俺だ。正一だ。おい、大変な事になった。当分練習できない』
「え?」
思わず、信吾はスマホを持ち直し、身を乗り出した。
『俺んちの店、えらい事になった。突然、コックからホール係まで、従業員が次々と病気や怪我でバタバタ倒れてさ。人手が一気に半分に減ってなあ。俺、24時間、ずっと店に駆り出される事になった……おまけに、邦夫までがな』
「邦夫がどうした?」
『さっき、家の人から電話があって、盲腸で緊急入院したらしい』
「……え」
『しかも、亜貴だよぉ。あいつ、いきなりシュランゲやめるってメール寄越してきやがった。おい、オマエ何やらかした? 仲直り出来なかったのか?』
「いや、それは……」
『当分、練習も無理だ……つうか、ライブもこれからどうなるか分からん。あのなあ、俺たちがいつも演奏させてもらっていたライブハウス、来月で閉めるんだと』
「なんだとぉ?」
自分たちの母艦ともいえる、ライブハウスが消える。
寝耳に水だった。
演奏する場所が無くなった。また出してもらえる舞台を探さないといけない。しかし、練習も出来ない状態に陥ってしまった。
『畜生、何か最近ついてねえよ』
毒つく正一の声が、信吾の耳に届く。
『何か、最近変だよ。俺たち』
目の前には、アンヌの笑顔がある。
シュランゲが活動不能に陥った。
それなのに、俺は不運から逃れている。
この女は、幸福の女神かもしれない。信吾は思った。
オーディションに受かり、大物歌手のバックバンドで演奏する事が出来れば、その演奏する姿を、芸能関係者やテレビ局関係者にアピールするチャンスが生まれる。
デモテープを事務所にせっせと送り、来るか来ないのか、分からない返事とスカウトを待つよりも、数段手っ取り早い方法だ。
しかも信吾の持つギターは、ギタリストなら垂涎のレスポール1959。
それだけではない、腕にも、己の見た目にも自信があった。
オーディションは3カ月後だった。
この日までに、最高のコンディションを作る必要がある。
だが。
「……ウソだろ」
信吾は、ある日突然配達された、マンションの退去通告に愕然となった。家賃の振込がされていないという。
毎月、生活費が振り込まれる銀行口座にも送金が無かった。
信吾は母の佳美に連絡を取ろうとしたが、母の携帯はつながらない。家にある固定電話は通話不能になっていた。
ようやく、母が電話をかけてきた。毎日2時間おきに母の携帯を鳴らし続けて7日目だった。
奇妙な事に、公衆電話からだった。
開口一番、母が泣き叫んだ。
『どうしよう、シンちゃん。ママのお金、無くなっちゃったのよぉ!』
「はぁ?」
『最初は、いっぱい儲かったのよぉ、なのにね……ひどいわっあいつらころしてやる!』
「親父は? 親父はどうした?」
話にならない。信吾は普段疎遠な父を呼びだそうとしたが、母は誰に向けてか、恨み事を止めようとはしない。
『いえ、いえをね、あいつらが、とっていったのよ! ないの!』
「え?」
家? 無い?
話のつじつまも、流れも分からない。
聞き直そうとした時、獣じみた咆哮が聞こえた。
母の通話が突然切れた。
かけ直そうとしたが、指が動かない。
母に何が起きたのか、家が無いとはどういう意味か、信吾は聞くのが怖くなって、いつまでもスマホを見つめた。
口座にある残高は、300円ほど。
亜貴に電話した。すぐさま切られた。
かけ直すと、着信拒否になっていた。
『ポルシェのアンヌお嬢様はどうしたよ? 援助してもらえねぇの?』
次の連絡を取った正一の後ろでは、仕事中なのか、厨房の音や人の声がした。
「連絡したら、今、ウィーンだって、当分ヨーロッパ回るんだって、そお言われてよお。どおしよう、正一ぃ」
『どおしよう、って言われてもな』
弱った声がした。
「それとは知らず、いきなり金の話を切り出すのもカッコ悪いから、アンヌにやあ元気とか、色々と3時間くらい話していてよ、その後に今、私ウィーンにいるのよ、そう言われちまってさあ。国際電話だよ、請求いくらだろう、払えるかな?」
『知るか!』
それでも、正一は金を貸してくれた。
正一が貸してくれた額は、まとまったものだった。
それで何とか信吾は引っ越しを済ませる事が出来た。
最初に住んでいたマンションは、ミュージシャンらしい洒落た場所に住みたいという信吾の希望と、祖父の遺産の力で叶えた高層40階建ての高級マンションだった。リビングも広くて80平米はあった。
しかし今の信吾の家賃予算では、六畳一間の築45年のアパートか、心理的瑕疵物件のマンションの2択を迫られた。
ベランダからの見晴らしは良い10階でも、そこで飛び降り自殺があったのはイヤだ。信吾は、日当たりの悪い、沈んだ畳の六畳一間を借りた。
仕事もなかなか見つからない。時間の融通がきいて、時給が高く、肉体的にきつくないのが理想だ。そうなると、酒を飲む接客になる。ホストクラブにした。
もうすぐ30の年齢とはいっても、容姿と酒の強さには、自信がある。
しかもミュージシャンで、女に囲まれるのは慣れている。
最初に面接に行ったのは、繁華街中心部にある、有名店だった。
「へー、イケてますねぇ、あなた」
最初に会ったマネージャーは、信吾を見て感心した。
「ちょっと待って下さい、すぐ店長呼びますから」
マネージャーの言葉と、店長直々の面接と聞いて、もう合格も同然と、信吾は確信したのだが。
「スイマセン、もう決まったんですよ」
信吾の顔を見た瞬間、店長は禿げた頭を下げた。
次の店も同じだった。
信吾の顔を見た瞬間、断られる。体験入店すら勧められない。
面接に落ちるにつれて、店のグレードも落ちていく。
有名店から最後は場末の小さなホストクラブまで、結果は全て同じだ。
当日に断られるか、次の日に不合格のメールが来るかの違いである。
その理由は分からない。
年齢が高いせいだろうか? 職歴? しかし、基本的にホストクラブの面接に、履歴書も職歴も無い、
しかし、最後に断られた小さな店で、女店長が嘆いた言葉が気になる。
「良い男なんだけどね。ちょっとあんたについてるそれはねえ……ヤバいのよ。ウチも商売だからさあ」
やっとありついたバイトは、警備のバイトだ。
その賃金にも、信吾は泣きそうになった。一日中働いて、1万円にもならない。
3ヶ月後には、オーディションが待っている。それまでの苦労だと、ショッピングモールのイベント整理で、押し寄せる客へ大声を出して誘導しながら、信吾は自分に言い聞かせた。
アンヌが言っていた。
『こういうオーディションってね、実力もそうだけど、どんな関係者とつながりがあるかっていうのも重要なの。だって、普通に考えてみて? 芸能人だって、大物の二世は多いでしょ?』
『私の紹介っていうのが、どれくらいの力になるかは分からないけど、そう悪くはないと思うわ』
アンヌの言葉を思い出すたびに、信吾は奮い立つ。
アンヌの父と、音楽会社の重役は友情というつながりがあるのだ。
男の友情は、どんなコネをも超える。そして、信吾自身、アンヌの推薦に恥じないだけの実力と華を備えている。
アンヌだって言ってくれたではないか、貴方なら、立派にプロとして通用すると。
「見てろよ」
信吾は湿った畳の上で、エレキギターをかき鳴らした。
信吾はこれまで、毎日朝から晩まで8時間働いた事なんか、これまでになかった。
警備員は、立ちっぱなしの仕事だ。
仕事が終わってアパートに戻ると、座り込んで動けない。練習する気力はない。
生活環境は真っ逆さまに激変している。
以前までしなくても良い労働をするはめになったのだ。好きでもない仕事、望んでもいない労働。しかし、そうでもしないと食べていけない。
しかし、オーディションの日は近付いている。
仕事のない日に、ギターを部屋で練習していたら、隣室の男に怒鳴りこまれた。
「うるせぇんだよ! へったくそなギター弾きやがって!」
男の両腕には、刺青があった。
「す、すみませんっ」
信吾はギターを抱えて外に飛び出した。
貸しスタジオで練習する金など、もうない。
そうなると、練習できるところは無料の公園しかない。
アパートを出て、とぼとぼと歩きだそうとしたその時だった。
クラクションの音。
信吾は体ごと回転させた。目の前に、銀色のポルシェが飛びこんだ。
「久しぶりね、シンゴさん」
「アンヌ!」
まばゆいほどに輝くポルシェ。
運転席から顔を出したアンヌへ、信吾は声が裏返った。
「な、なんで、何でここが分かったの?」
「ナイショ」
運転席のウィンドウ縁にへばりつく信吾へ、アンヌは1枚の紙を差し出した。
「はい、コレ、オーディションの正式通知」
「お……」
紙を受け取った途端に、髪がごうっと逆立つほどの興奮が背中を駆け抜けた。
白い用紙に書かれた、オーディション会場の場所と時間、主催者の名前が目に焼き付いた。
只の紙ではない、正に信吾にとっては1か月後に開く、人生の宝箱の鍵だった。
ポルシェのドアが開いた。
気がつくと、アンヌの後ろ姿がアパートの敷地に入っていく。慌てて信吾はアンヌの後を追った。
「ここね」
アンヌが錆色のドアの取っ手を回す。鍵がかかっていたはずのドアが開いた事に、信吾は仰天した。
毛羽立った畳と、何も無い部屋にアンヌが足を踏み入れた。
「素敵」
「すてき?」
思わず、信吾はアンヌを見た。
しかし、アンヌの表情に嘘は無い。
「素敵よ、この空気……ため息に、疲れ。倦怠感。色んなものが混じっているわ。普通の場所には、まず溜まらない空気ね」
花畑を舞うように、くるりとアンヌは一回りした。
「何も無いのね」
「……みんな、売ったから……」
警備員のバイトは、家賃を払って食べていくにも足りなかったので、家具も本も、衣服も売り払った。
「練習、出来てる?」
アンヌの人懐こい笑顔。
「出来ねーよ。練習する時間が無いんだ」
信吾は哀れっぽい声を出した。事実、自分が哀れだった。
「毎日、ずっと立ちっぱなし。そのくせ退屈でさ、体力と気力がすり減っていくのが自分でも分かるんだよ」
「そう」
「しかも、練習しようにも、こんな場所だからアンプは使えない。スタジオを借りようにも、金が無いんだ」
「アンプが無いと、練習できないの?」
「アンプを通して、自分のエレキの音を聞きたいんだよ。そっちの方が、より良く自分のエレキの音を確認できる……このままじゃ、俺、駄目だ」
アンヌから目を反らし、畳の目を見た。
いつかマンションの家賃を肩代わりしてくれた事があった。
もう一度ないだろうか。
頭を垂れたまま、アンヌの気配を探る。
自分にとっては大金でも、彼女にとっては、はした金だろう。
「明日も、仕事があるんだよ」
ため息を吐いた。
「口惜しいよ。せっかくアンヌがチャンスをくれたってのに。何だか、このまま腐っていく気がするんだ」
「はい」
落とした目の前に、封筒が滑り込んだ。
「それだけあれば、大丈夫?」
「アンヌ……」
「これで、オーディションまで働かないですむでしょ?」
目を上げた先に、アンヌの笑顔がある。
「夢を、追いかけて頂戴」
期待していたとはいえ、封筒の厚さは想像以上だった。
膨らみ過ぎて破れそうな封筒に絶句する信吾の前で、アンヌは鮮やかに笑った。
「私はね、貴方のファンなの」
「ファン……」
「夢を語る人って、素敵よ。いつまでも夢を持っている人。例え、例え、どんな状況になっても、夢だけを持ち続けている人。この部屋の空気が、私に力をくれるのよ。貴方は素敵よ」
信吾は絶句した。アンヌが笑った。
「この空気を味あわせてくれた、お礼……夢を追いかけて頂戴」
アンヌが出て行った後で、信吾は完全に舞い上がった。
「やっぱり、あいつは女神だ!」
万円札が入った厚い封筒。これで、仕事をせずに済む。練習もできる。その横には、オーディション通知がある。
信吾の世界が再び、輝き始めた。
オーディションを明日に控えたその日、信吾は最後の練習を行った。スタジオの中で、アンプからほとばしるサウンドに、脳髄がしびれる。
しびれる脳の奥に、ステージに立つ自分がいた。スポットライトとファンたちの歓声が滝のように降り注ぐ。
あっという間に、終了の時間が来た。
「お疲れ様ですー」
カウンターで、店員が頭を下げた。会員証を返却し、ポイントカードのスタンプを押す。
「調子、良さそうですね」
カウンターから、スタジオの中が見えるのだ。そこで信吾の練習風景を見たらしい。完全防音でサウンドは聞こえなくても、今の表情と機嫌で察しはつく。
「まあな」
やや、胸を反らして信吾は笑った。明日のオーディションの事を話したら、こいつはさぞ驚くだろう。
「シュランゲ、解散するって本当ですか?」
突然投げられた質問に、信吾は口ごもった。
「まあ……」その通り、空中分解だ。
もう元に戻る事はない。
自分は一人、プロのバックバンドに入る。
そうなると、ツアーだのテレビだのと仕事が増えるのだ。
アマチュアバンドとして活動するのは難しいだろう。
「残念ですね、俺、あの音、好きだったんですよ」
「俺もだよ、じゃあ」
信吾はギターを担ぎ直し、外に出た。
借りていた金を返すために、正一と会う段取りをつけていた。
正一と会うのは、金を借りて以来、3カ月ぶりだった。
利息分として、酒をおごってやる、どんな高いものでも飲ませてやるよと言ったのに、正一が指定して来たのは、いつもの安い大衆居酒屋だった。
その代わり、なんと昔のメンバーだった高次も一緒だった。
ファンの娘との間に子供が出来てしまい、働く必要が出来て、シュランゲを抜けたドラマーだ。今は小さな会社の営業をしている。
「久しぶりだなぁ、信吾」
会社帰りなのか、スーツ姿だった。
何を入れているのか、手にしている黒鞄がひどく所帯じみている。
「最近、またこいつと連絡取り合うようになってな」
正一が言った。
実家のレストランの手伝いに追い回されている内に、すっかり痩せたと笑った。
「参った。コックとウェイトレスと皿洗いの3役を、開店前から閉店後まで、ぶっ通しだぜ」
「そっちは来る客が相手だけど、俺は客を探さなくちゃいけないんだぜ」
痩せた正一と、所帯じみて疲れたサラリーマンの高次。並んで立つ2人に、信吾は自分の幸運に気が咎め、そして秘かに舞い上がる。
ビールで乾杯した後に、信吾は正一に金の入った封筒を渡した。
正一の目が丸くなった。
「何だよ、俺が踏み倒すとでも思ったか」
「いや、まあ……」
酔いが回り、明日がオーディションという、成功への記念すべき第一歩の日であるという興奮も手伝って、信吾は2人にアンヌの事や、オーディションの事を話した。
アンヌが、どれだけ自分を買ってくれているか、信吾の夢を信じてくれているか。
女神に愛された男の幸運を、只の凡人である二2人に語り聞かせて、大いに悦に入っていたのだが。
「……その女、おかしくないか?」
頭まで「悦」に浸かっていた信吾に、冷や水をかけたのは高次だった。
「気前良すぎるぞ」
この場で、一番羨ましがるべき立場の高次の反応に、気を悪くした信吾だったが、正一も似たような表情だった。
信吾に返された金の封筒を、黙って見つめている。
「じゃ、この返済の金も、元はそのお嬢様の金か」
薄気味悪そうな顔で、正一が信吾を見つめた。
羨望の目で、羨ましがられる予定が、全くあさってどころか気味の悪い、不審な目で見られている。
期待はずれの反応に、信吾の頭に血が上った。
「何だ、てめーら、俺の話が嘘だと、アンヌのどこがおかしいってんだよ! あいつはなあ、純粋に俺の夢と才能を信じて、それでオーディションに推薦してくれて、援助してくれてるんだよ! 嫉妬してんじゃねぇよ!」
「……いや、嫉妬するにしても……」
高次が頭を振った。
「すまん、裏があるんじゃないかって、疑っちまう」
「裏も何もねぇよ! お前はアンヌに会った事がねえだろう! あいつのポルシェや、フェラーリも見てねえ奴が、バンド辞めた奴が知った口きくな!」
テーブル越しに高次のネクタイをつかもうとした瞬間だった。
その手を正一が止めた。
「待てよ、信吾。実は、俺もアンヌの言葉を信じられん」
正一が頭を振った。
「お前まで、何を……」
「信吾、お前、今までに自分の実力だけで、何かを成し遂げた事があるか?」
「はあ?」
「この金もそうだし、オーディションの話だってそうだ。俺が言いたいのは、自分の実力で勝負した事が無い奴は、自分の力が実際どんなものか、分からないんだよ……言いたくないけど、言っておく。お前のギターの腕は、たかが知れている。少なくとも、音楽で留学経験のある、耳の肥えたお嬢様を虜にするレベルじゃない」
店内の喧騒が、一気に消えた気がした。
「もう、はっきり言う」
真っすぐな目が、信吾を見ている。嫉妬も羨望も無い、淡々とした正一の目と声。
「お前の腕は、凡庸だ。下手じゃないが、飛びぬけてはいない。凄いと言わせるのならそれはお前の腕じゃなくて、ゴッキューのレスポールの音が凄いんだよ……お前だって、ちゃんと気が付いているはずだ。デモテープの返事が、事務所から無い理由。ワンマンライブの話が、主催者からついに出なかった理由くらいさ」
「……」
「もう、お前は音楽から足を洗った方が良い」
正一が息を一つ、ついた。
「お前は、実際には夢を追っちゃいないよ。そのご自慢のレスポールだって、自分で汗水たらした金で手に入れたんじゃない。お袋さんに買ってもらった代物じゃないか」
「誰の金で手に入れようが、ゴッキューには変わりねえだろ」
「ちがう。武器はな、自分の力で手に入れた物しか、武器にはならないんだよ。お前は、人の金でのらりくらりとしているだけじゃないか。お袋さんの金に、次はお嬢様の援助で、お前自身は生きるために何をしている? そのオーディションの話だって、お前が自分から働きかけて掴んだチャンスじゃない。お前、自分の顔を鏡で見てみろ」
「何が、俺の顔に映るっていうんだよ」
「お前はまるで貧乏神だよ。何もせず、何も生み出さない。人の労力を吸い取って生きるだけの、ふやけた野郎だ」
頬が熱くなった。屈辱が脳内に火をつけた。
小学生からの友達だった。味方であり、仲間だと思っていた正一の言葉は、自分への侮辱、それ以上に裏切りだった。
あまりの怒りに、筋肉すら動かない。その時だった。
「正一の言い方は、キツイけど正しい」
高次だった。
「大人になったら、夢じゃなくて、目標だ、信吾。才能があろうがなかろうが、関係はない。自立してこそ、夢を目標という次の段階に変える事が出来る。つまり、いつまでも夢だ夢だというべきではないんだ」
「夢を持ってちゃ、悪いのか」 唸り声を出した。
「夢を持つ事自体は、必要だと思う。でも夢を言訳にして自立しないのは、夢に対して失礼だろう。やっぱり、大人として責任とか……」
「知った風な口きくんじゃねえよ!」
硬直していた筋肉が、バネのように動いていた。高次をネクタイごと締め上げた。
「責任責任とか、何だ、女とデキ婚したサラリーマンが、そんなに俺よりえらいのかよ!俺にいわせりゃ、てめえは音楽をやっすい給料で売り渡した負け組だ! ついでに教えてやるよ! お前がその大人の責任とやらをとった、てめえのオンナ、ミカはなぁ」
怒鳴った。
「俺ともヤッてたんだよ! ガキも、お前のガキだと知れたもんじゃねえよ!」
凄まじい衝撃が、信吾をふっ飛ばした。
悲鳴が上がった。
信吾は立ち上がろうとして、引きずり上げられた。高次の怒りで充血した眼が、信吾を突き刺した。
二人でもみ合いながら、店から路上に転がり出た。通行人達が慌てて避けた。
店から出ると、下に川の流れる橋がある。信吾は高次の背中を、橋の欄干に押しつけた。そのまま力を入れる。川に落とされまいと、高次がじたばたとあがきながら、信吾の襟首をつかんで抵抗する。
「やめろ! 2人共!」
正一の声が響いた。その叫びを無視して、信吾は高次の上半身を無理矢理川の向こうに押し上げた。
高次が仰け反りながらも、信吾の襟首をひっつかむ。
重心が崩れた。
信吾は高次と抱き合うように、夜の川に転落した。
※
拘留は、一晩だった。
川の水は冷たく濁り、水深もあったが幸い心臓発作を起こす事も溺れる事もなく、2人共無事に救助された。
それでも所轄の署にしょっ引かれ、そこで一晩過ごすことになった。
朝、高次の妻の美香が夫を迎えに来た。
美香が、自分のファンだった頃と全くの別人になっている事に、信吾はショックを受けた。
茶髪のヤンキー娘は、黒い髪の清楚な妻になっていた。
美香は、高次と寄り添って署を出て行く際に警官には丁重に謝罪をして、頭を下げた。だが信吾には一瞥もくれなかった。
高次も無言だった。
署から放免されて外に出た。
その時、信吾は今日のこの日に気が付いた。
時間を確かめる。
オーディション開始時間まで、後30分
ごうっと頭から、音を立てて血が引いた。
署を飛び出した。
オーディション会場へ足を振り上げた時だった。
恐ろしい事に気が付いた。
「ギター!」
高次との争いで、エレキギターを居酒屋に放置したままだった。
信吾は店へ走った。
店は閉まって、シャッターが下りている。
「開けてくれ!」
朝の繁華街は、店も閉まっていて人通りもほとんど無い。
信吾は怒鳴りながらシャッターを叩いた。
何度シャッターを殴りつけても、誰も出てこない。
店の裏に回り、思い切り裏口のドアを蹴り飛ばした。
大きな音が鳴っても、誰も出てこない。無人だ。
それでも、どこかに入る場所はないか、人影はないか、グルグルと店の周りを回るうちに、信吾は気が付いた。
「そうだ、正一……」
正一が、持って帰ってくれたかもしれない。しかし、上着ポケットを探った信吾は、貧血を起こしかけた。
川の水で乾き切らない上着の中には、何も無かった。スマホも、財布も。
「ウソだろ……」
警察署で、持ち物は全て返してもらったはずだ。
もしかして、と橋の欄干に飛びついた。
川に転落した時、沈む体を必死でばたつかせた。その時に落ちたのか。
目を凝らしても、緑色の水底には何も見えなかった。
「そんな……」
体中の骨が、ぐにゃりと溶けた。
足元から信吾は崩れた。ギタリストのオーディションへ向かおうにも、肝心のエレキギターが無い。
スマホも無い。これでは誰とも連絡が取れない。
顔を上げた先に、電光掲示板の時計があった。
オーディションまで、あと10分も残っていない。
始まる!
信吾は車道に飛び出し、タクシーを必死で探す。
「くそっくそぉっ」
タクシーであろうとなかろうと、車に向かって関係なく腕を振り回す。カチコチと、無情に時計の針が頭の中で響く。心臓が幾度も爆発を起こした。
「U区にある、Kミュージック社本店まで!」
すでにオーディションは始まっている。
俺の順番は、何番目だった? 確か後ろの方だった。
ギターはだれかに、借りればいい。
もうエレキギターなら何でもいい、誰か、貸してくれ。
もし断られても、奪い取ってやる。
崩れていく成功の幻想の欠片を、必死で拾い集めながら信吾は祈った。
タクシーが停車し、ドアが開いた瞬間、信吾は脱兎のごとく飛び出した。
20分の遅刻、だが、自分の演奏する順番はまだ来ていない。確か30番以降なのだ。まだまだ先のはずだ。
階段を駆け上がった。『オーディション会場』と案内板が出ているフロアに飛び出した。
受付で台帳をめくっている男を見た瞬間、到着したという安堵と、脱力感で汗がどっと吹き出した。
信吾は息を喘がせ、台で体を支えながら、ようよう名前を名乗った。
「やまだ、です……ギターを……」
「ヤマダさん? ああ」
男は、視線を鞭のように信吾に振り下ろした。
「受付集合時間は、とっくに終了しています」
男は、感情のこもらない会釈を信吾に返し、述べた。
「集合時間に遅れた方は、全て失格とみなします」
「俺の演奏を聞いてくれ! 遅刻した事はこの通り、謝るから!」
許しを乞う罪人のように、信吾は男に這いつくばって叫んだが、男の同情心は1ミクロンもない。
「失格は失格です、ちゃんとオーディションの注意事項に『受付集合時間の遅刻は、認めない。失格とみなす』と載っています」
「重役に会わせてくれ! アンヌの友達の、ヤマダだって言えば分かる!」
「お引き取り下さい」
「頼む、お願いだ、オーディションに出たいんだよォ!」
涙がにじむ。ぼやけた視界の中で、男が受話器を取って何か話している。
屈強な守衛が2人、信吾の前に現われた。2人は両脇から信吾を挟んだ。
目の前にあった将来の成功は、簡単な程に消えた。
オーディションに失格した後、自分の足元を見れば、信吾には何も残されていなかった。高価なエレキギターも、紛失したまま、結局出てこなかった。
『シュランゲ』は空中分解した。亜貴は他のバンドに移っていた。ドラムの邦夫も就職した。正一とも、あれ以来会っていない。
ライブをしようにも、仲間もギターも消えた。何よりも食べるために、信吾は働かなくてはならなかった。
30手前の今まで、就職をした事が無い。
なので、バイト以上の仕事が見つからず、どれが本業か分からないほど仕事をかけ持ちしていたが、その内にようやく、立ちっぱなしの接客にも、単純な作業にも慣れてきた。
「お先に、失礼します」
お疲れ様ですと皆に声をかけられながら、信吾はバイトしている喫茶店から外に出た。
不思議なものだった。最近、働く事がそう嫌ではない。
自分が働いた結果が、生活に直に返ってくる手応えがある。
給料日の楽しみは、仕送り額を確かめていた時以上に、心が躍るものがあった。
店のマスターが珈琲を立てる鮮やかな手つきは、見ていて飽きない。
行き交う人ゴミの中に、自分よりも若い、ギターを担いだ青年が、信吾を追いぬいた。その背中には喪失感が浮かんだが、かすかな懐かしさも感じた。
ギター青年が入っていった場所に、信吾は足を止めた。
ライブハウスだ、しかも「G/O」確か、閉店したと聞いていたのだが。
ライブをやっている。
そのバンドのメンバーの張り紙を見た瞬間、信吾は息を呑んだ。
「スイマセン、チケット1枚」
飛び込むように入った会場は、ごった返していた。
年齢層はバラバラ、20代から50代まで男女ごった煮にで溢れかえっている。
懐かしくも、だが過去のものとは違う種類の熱気に信吾は呆然と突っ立った。
ギターの弦の音のさく裂に、信吾の正気が戻った。
『はーいみんな、調子はどうだー!』
ステージ中央で叫ぶリーダーの声に、客たちがどよめいた。
『今日も労働ゴクローサン!平日だけど、皆、俺たちと付き合ってもらうぜ! 俺たちだってなぁ、残業おっぽり出してきたんだからなぁっ』
リーダーの後ろで、ドラムのピックをクルクル回しているドラマーに、信吾は呆然と嘆いた
「高次」
『ワンツースリーふぉッ』
アンプから怒涛のようなサウンドがほとばしる。ギターにドラム、楽器同士が見事に息の合ったスタートだった。
『かかって来やがれクレーマー! 出してたまるかケッカンヒン! 見せてやろうぜゲンバの男』
エレキギターを振り回し、シャウトしているボーカルは、ジーンズと開襟シャツの50代の男だった。
『俺の技を盗めるものなら盗んでみろよ、若い部下に笑顔で挑発、育ててやるよ、上司の愛だ、そうして歴史はつづいてく』
『生まれた時から仲悪い。それがゲンバとデスクワーク、立場は違うが見るモノ同じ、やり方違うが目標同じ、一番強敵一番味方、今日も仲良く喧嘩しよう』
その場の興奮とノリ、それ以上の熱気が渦巻いていた。共感の叫びがライブ中に渦巻いている。年齢層はバラバラでも、叫びはみな同じだった。
目と耳をステージに呑みこませたまま、信吾は自分と同じように立ち尽くしている客に気が付いた……高次の妻、美香だ。
高次が叩くドラムは、シュランゲの頃よりも上達していた。
そんな夫を、妻が微笑みながら見つめている。
……肩を叩かれた。
「久しぶり」
「……」
信吾は、正一から黙って目を反らし、再びステージの高次を見つめた。
「会社の上司から、ドラムやってたのばれて、あのバンドに引きずり込まれたんだってさ。仕事終わって練習してんだとよ。あのメンバーは皆、会社の上司とセンパイだって」
「やりてえな、音楽」
染み入る敗北感から、言葉がぽろりとこぼれた。
あんな風に演奏したい。あんな音楽を作りたい。あんな風に人々を熱狂させて、楽しさに躍らせてしまうような。
思いもかけない言葉が返ってきた。
「じゃ、一緒にやるか」
心底嬉しい誘いだった。
でもその前に。
「エレキギターが、無いんだよな。無くしちまったから」
「そうか」
「買う金が貯まるまで、ちょっと待っててくれ」
ばしっと背中を叩かれた。おう、と答えが返ってくる。
ステージの上を、信吾は見つめる。
夢ではなく、目標を見つけた。
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