第4話 暴かれた傷と、壊れた自己像
「食べたらお風呂使うといいよ。冷えた体あっためてきて。ね?」
彼の笑顔は、窓の外の夜景よりもずっと優しく、僕の胸を締め付けた。
案内されたバスルームは、僕がこれまで生活のすべてを押し込められていたどの部屋よりも広く、信じられないほど贅沢な空間だった。かつての屋敷で僕に許されていたのは、隅にある狭く薄暗い洗い場だけ。最下層の奴隷たちが使う共同シャワーにいたっては、常にカビの匂いが漂い、冷たい水しか出ないことも珍しくなかった。
けれどここは、壁一面が清潔なタイルで覆われ、柔らかな照明が湯気を白く照らしている。
「タオルはここにあるから。シャンプーとかも、中に置いてあるから好きなのを使ってくれて構わないからね」
「わかりました」
彼がリビングへ戻ったのを確認し、僕は一枚ずつ服を脱いでいく。 ボロボロになったシャツが床に落ちる。鏡に映った自分の姿は、目を逸らしたくなるほど醜かった。 白く細い体には、無数の「過去」が刻まれている。 鞭の痕、誰かに押し付けられたタバコの跡、そして――数え切れないほどの、花弁のような痣。それは、僕がこれまでどんなふうに「愛」という名の暴力を受けてきたかを如実に物語っていた。
「なんなんだ? あいつ。全然汚い欲を感じない……」
独り言のように呟いた、その時だった。
「あ! 忘れてた!」
「うわっ!」
ガチャリと無造作に扉が開いた。彼の視線が、僕の裸体――そこに刻まれた、隠しようのない無数の痕跡を真正面から捉える。
僕はとっさに腕で体を隠そうとしたが、あまりの衝撃に指先がすくんで動かなかった。
これまで僕を「買い取った」男たちは、この傷跡を見て二つの反応に分かれた。ある者は、誰かに壊された形跡に歪んだ興奮を覚え、さらに深い傷を上書きしようと笑った。またある者は、「傷物(きずもの)かよ。せっかく金を出したのに、汚れがついてやがる」と、汚いゴミでも見るような目で舌打ちし、蔑みの言葉を僕に投げつけた。
どちらにせよ、そこに僕を一人の人間として慈しむ視線なんて、一度も存在しなかった。
だから今この瞬間、この人もきっと僕を蔑み、拾ったことを後悔するはずだ。僕は冷たい恐怖で奥歯を鳴らし、彼が発するであろう拒絶の言葉を待った。
けれど、彼の口から出たのは、僕の予想とは全く違う言葉だった。
「あっ! ご、ごめん!
……服、ここに置いておくから! じゃ、じゃあゆっくりね!」
彼は顔を真っ赤にして、慌てて扉を閉めた。バタン、という大きな音が浴室に響く。
僕は呆然としたまま、その場に立ち尽くした。
見られた。確実に見られた。あんな傷だらけの、汚い体を。
お湯を浴びる気力なんて、一瞬で吹き飛んでしまった。今すぐこの場から消えてしまいたかった。けれど、僕には「家主の命令」に背くという選択肢は存在しなかった。ゆっくり入って、と言われたのだ。ならばたとえこの後追い出されるのだとしても、今は言われた通りに体を洗わなければならない。
僕は震える手でシャワーを捻った。温かいお湯が、無慈悲に僕の傷跡を濡らしていく。 石鹸の泡で体をなぞるたび、自分の指先が触れる「過去の痕跡」が、呪いのように僕を苛んだ。
入浴を終え、僕は彼が置いていった大きすぎるシャツのボタンを留めた。生地からはこの家と同じ清潔な香りがしたけれど、それが今の僕にはかえって、期待を裏切ってしまったことへの罪悪感を煽り、息苦しかった。
……もう、終わりだ。
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続きは明日(12/22)17時にアップします。
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例えばこんな未来なら 都桜ゆう @yuu-sakura
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