第3話 透明な雨と、初めての救い
男に連れてこられた場所は、空を突き刺すような高層マンションの一室だった。 電子錠が外れる音がして扉が開くと、そこには僕がこれまでの人生で見たこともないほど、整然とした空間が広がっていた。 厚手のカーペットは足音が響かないほど柔らかく、間接照明の柔らかな光が壁を照らしている。大きな窓の向こうには、僕がさっきまで這いつくばっていた最下層の街が、まるでジオラマのように小さく、光の渦の中に沈んでいた。
「こっちリビングだから座って待ってて。すぐ準備するね」
男は僕を、雲の上のような柔らかさのソファにそっと降ろした。指先で触れる布地はなめらかで、埃っぽさなど微塵もない。最下層の湿り気を帯びた空気とは違う、どこか涼やかで、清潔な香りが部屋を満たしていた。
「あ、そうだ。濡れたままだと風邪ひいちゃうね。ブランケット、これ使って。すぐに準備するから、座って待っててね」
彼は大きな毛布を僕の肩にかけてくれると、手際よくキッチンへと向かった。
僕は毛布に包まったまま呆然と部屋を見渡した。天井が高い。そして、耳が痛くなるほどの静寂。この街の底では、誰かの怒鳴り声や機械の駆動音が絶えず響いていた。けれどここには、換気扇が回るかすかな音と、彼が野菜を切る小気味よいリズムしかない。
これだけの暮らしを、当たり前に営める場所。きっとこの人は「上」の住人……。僕たちを商品として買いに来る、あの富裕層の一員なのだろう。そう思った瞬間、ふかふかのソファが急に心地悪く感じられた。僕のような薄汚れた存在が、こんな綺麗な場所に座っていていいはずがない。僕はこの清潔な空気の中にいるのが怖くて、ソファの端っこで体を小さく丸めた。
「……お兄さん。いつからここに住んでるの?」
「んー、2年前くらいからだなぁ。確か」
彼は振り返らず、軽やかな声で答えた。
「諸々の支払いしても、余裕ある生活ができるようになったからねー。思い切って越してきたんだ。この通り独り身だから、家はいい所にしたかったんだよね」
「ふーん……」
彼は「余裕」という言葉をさらりと言ってのけた。
やがてテーブルに運ばれてきたのは、湯気を立てる一汁一菜だった。炊きたての真っ白なご飯、具沢山の味噌汁、そしてふっくらと焼かれた焼き魚。
「お待たせ。あり合わせの材料で急いで作ったから、口に合うかわからないけど」
彼はそう言って、僕の前に箸を置いた。彼は短時間で僕の体のことを考えた食事を、一から整えてくれたのだ。
「……これ、食べていいの?」
僕は震える手で箸を持った。
「当たり前だろう。一緒に食べよう。冷めないうちに」
一口ご飯を口に運ぶ。 噛み締めるたびに、甘みが口の中に広がる。味噌汁を啜れば、温かな熱が胃の中に落ちていき、凍りついていた僕の内臓をゆっくりと溶かしていくようだった。
「……美味しい」
「良かった。しばらく何も食べてないだろう? 沢山食べなさい。まだ用意すればあるから」
「ありがとう、ございます……」
今まで、食事は与えられるものではなく勝ち取るものか、あるいは主人の機嫌によって決まるものだった。だけどこの食事は違う。ただ僕を慈しみ、生かそうとするための味がした。僕は溢れそうになる涙を堪えるために、必死に咀嚼を繰り返した。
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