第11話 杭を打つ

 朝の湿り気は、足裏から先に来た。


 土はまだ夜の冷えを抱えていて、踏むたびに少しだけ沈む。靴はない。皮も薄い。踵の硬いところで地面を探るように歩くと、泥が吸いつく音がした。ぬるり、と言うほど柔らかくはない。けれど乾いてもいない。中途半端な湿りが、ここに残った時間の長さを知らせる。


 昨日と同じ匂いがした。


 腐りかけた落ち葉の匂いと、火の残り香と、薄い血の匂い。匂いが同じなら、場所も同じだ。場所が同じなら、今日もここで始まる。そういう当たり前が、静には重い。


 風は弱かった。煙は立ちにくい。火を起こすにはいいが、匂いも流れにくい。流れにくい匂いは、集められる匂いになる。匂いを嗅いで寄ってくるのは獣だけではない。


 静は、火のそばでしゃがみ込んだ。


 灰を指で掻くと、指先に冷たさが残る。まだ温いところもある。昨夜、火を消しきらないように枝を足した者がいる。誰が足したのか、見なくても分かる。見なくても分かることが増えるほど、ここに馴染んでいく。馴染むほど、いつか抜けるときに削られる。


 背後で、枝を折る乾いた音がした。


 振り返ると、蓮が立っていた。


 背はまだ低い。肩の幅も細い。けれど、目の奥の光だけは大人のそれに近づいてきている。生きるための光だ。生き残る者の目だ。


 蓮は静に気づくと、言葉にならない声を喉の奥で鳴らした。挨拶に近い。だが、挨拶という形はまだない。ただ、いることを知らせる音だけがある。


 静は頷いた。


 蓮は持っていた若木を地面に置き、膝をついた。樹皮に爪を立て、刃で薄く削る。削れた白い木肌を鼻先に近づけ、匂いを確かめた。湿りが強いものは折れやすい。乾きすぎたものは割れやすい。匂いの違いを蓮は確かめるようになった。


 蓮は、木を一本一本、触っていく。節があるか。曲がりがあるか。細かい傷があるか。指の腹が一瞬止まる。その止まり方で、蓮が何を嫌っているかが分かる。


 静は、その手つきが嫌いではなかった。


 言葉より先に、手が覚えていく。頭で考える前に、身体が答えを選ぶ。その速さは、この時代の速さだ。静は本当は、こういう速さを知っている者のほうが信用できる。


 遠くで人の声がした。


 声というより、短い合図だ。集まりの合図。今日は何かをする日だ。食の匂いではない。道具の匂いでもない。土を動かす匂いだ。


 静が立ち上がると、蓮もすぐに動いた。若木を抱え直し、静の後ろにつく。群れの中心へ向かうときの歩幅は、少しだけ小さくなる。無意識に、群れの空気を測っている。


 集まりの場所は、いつもの火の周りではなかった。


 少しだけ離れた、地面が固いところ。木の根が浅いところ。そこに、長い男が立っていた。腕が太い。指が土の色をしている。人を見上げることに慣れていない目だ。上にいる者の目ではない。上に立つことに慣れてしまった者の目だ。


 長い男の足元には、削った杭が数本転がっていた。


 杭はまだ粗い。先を尖らせただけのものもある。だが、その尖りが持つ意味は、誰にでも分かる。地面に打ち込むものだ。地面に打ち込めば、そこに線が生まれる。


 線が生まれれば、内側と外側ができる。


 静は息を吐いた。


 やっと来た。と思う。来てほしくなかった。とも思う。


 長い男が腕を上げ、地面を指した。


 杭の列を作る場所だ。


 女たちが土器を持って集まってきた。男たちが石を拾い、槌にする。子どもたちも寄ってくる。寄ってくるが、近づきすぎない。何かが始まるときの距離の取り方だけは、皆が知っている。


 長い男が、杭を一本取り上げた。


 地面に置き、先端を軽く押し当てる。土に少しだけ食い込む。その位置を覚えるように、男は周囲を見回した。声は出さない。だが、目が命令になる。


 静はその目を避けなかった。


 目を逸らすと、逸らした側が負けになる。負けると、ここでは分配が遅くなる。仕事が回ってこなくなる。外側へ押し出される。外側は寒い。


 蓮が、静の横で小さく肩をすぼめた。


 長い男の目が蓮に移る。蓮の持っている若木に移る。若木の曲がり具合を見て、ほんの少しだけ眉が動いた。良いとも悪いとも言わない。言わないことが評価だ。


 長い男は、蓮に顎をしゃくった。


 蓮が一歩前に出る。


 蓮は杭を地面に置き、槌を探した。石を拾い、両手で持つ。持ち方がまだ安定しない。石は重く、握りが滑る。蓮は石を持ち直し、杭の上に構える。


 周囲が静かになる。


 静は息を止めなかった。止めると、音が大きくなる。音が大きくなると、緊張が増える。緊張は失敗を呼ぶ。失敗は、外側へ押し出す理由になる。


 蓮が石を振り下ろした。


 乾いた音がした。杭が少し沈む。もう一度。もう一度。


 三度目で、杭が割れた。


 ぱき、と小さな音だった。だが、その音はよく通った。木が割れる音は、骨が折れる音に似ている。似ているから、皆が反応する。


 舌打ちがどこかで鳴った。


 笑いも混じった。子どもの笑いだ。悪意というより、刺激に反応してしまう笑い。けれどそれが、蓮の背中を硬くする。


 蓮は割れた杭を見下ろしたまま動かない。


 長い男が何か言った。短い音。意味が分からなくても、責める音だと分かる。責められた者の肩が縮むのも分かる。


 静は、蓮の横に歩み寄った。


 蓮の手から石を奪わない。奪えば、蓮はもっと小さくなる。小さくなると、周囲はますます蓮を軽く扱う。軽く扱われる者は、冬に消える。


 静は、蓮の手首に指を添えた。


 ほんの一瞬、角度だけを変える。石を振り下ろす角度ではない。杭を押さえる手の角度だ。押さえる手がずれると、杭は割れる。割れるのは木のせいではなく、力の向きのせいだ。


 蓮は静の指の圧を感じ取った。


 静が何も言わないことにも気づく。言葉はなくても、触れ方で伝わる。蓮はそれを受け取り、もう一本、杭を置き直した。


 次は、蓮は石を振り下ろさなかった。


 石を少し持ち上げ、杭の頭を確かめるように軽く叩く。位置を作ってから、ゆっくりと力を増やす。叩く場所がぶれないように、手首を固める。


 杭は沈んだ。


 音が変わる。土が受ける音だ。土は柔らかく受ける。受けるが、層が変わると、音も変わる。


 蓮は一瞬、顔をしかめた。


 抵抗が増えた。地層が変わった。湿った層の下に砂がある。砂の下に、小石がある。石に当たると、杭は逃げる。逃げれば割れる。


 蓮の腕が痺れていくのが分かった。


 静は蓮の背中を見ているだけだった。背中の筋が硬くなり、肩が少し上がっている。肩が上がると、力が逃げる。逃げる力は、杭を割る。


 静は一歩だけ近づき、蓮の肩に掌を置いた。


 重さを乗せるのではなく、下げる方向を知らせるように触れる。


 蓮の肩が少し落ちた。


 その瞬間、蓮の槌がぶれずに落ち、杭が真っ直ぐに沈んだ。


 沈んだ杭の頭が、地面と同じ高さになる。


 蓮はすぐに笑わなかった。笑うことを知らないのではない。ここで笑うと、からかわれる。それを知っている。


 代わりに、蓮の肩がほんの少しだけ軽くなった。


 静はその変化だけで十分だった。


 周囲の空気も、少しだけ戻る。人は、成功を見ると安心する。成功は共同体の餌だ。餌があれば、飢えの方向が一度だけ逸れる。


 長い男が、静を見る。


 静はその目を受け止めた。


 男は何も言わず、別の場所を指した。次の杭だ。次の線だ。線が増えれば、輪郭ができる。輪郭ができれば、穴の輪郭もできる。


 男たちは杭を打ち続けた。


 静も槌を持ち、杭を打つ。打つたびに、地面の抵抗が違う。湿ったところは沈む。砂のところは逃げる。小石のところは止まる。止まるところは危険だ。危険だが、そこに杭が立てば、線は強くなる。


 蓮は、途中から黙って槌を打つようになった。


 言葉がない分、動きに集中する。集中は、共同体にとっては役に立つ。役に立てば、冬に捨てられにくい。静は、それだけを考えるようにした。


 それ以上を考えると、胸の奥が変な形で痛む。


 杭の列が半分ほどできた頃、静は地面の様子が変わるのを感じた。


 土が柔らかい。柔らかいが、湿りではない。掘り返された柔らかさだ。最近、誰かがここを掘った。掘ったが、埋めた。埋めた土は柔らかい。柔らかい土は、記憶を隠す。


 静は一瞬、手が止まりそうになった。


 止めない。止めると、見られる。


 静は槌を握り直し、杭を打った。土は簡単に沈んだ。簡単に沈むのが、逆に怖い。


 杭を打ち終えると、長い男が次の動きをした。


 地面に線を引くように、足で土を軽く払う。そこに浅い溝を掘る。溝の形は円に近い。円の中は、少しだけ掘り下げる。竪穴を作る準備だ。


 静は溝のそばにしゃがんだ。


 土を掘ると、冷たい層が出てくる。そこからは匂いも変わる。上の層は落ち葉の匂い。下の層は濡れた石の匂い。石の匂いは、時間の匂いだ。


 静は溝の縁を、手のひらで均した。


 土の粒が掌に刺さる。乾いた粒は痛い。湿った粒は滑る。滑る粒は形を作りやすい。静は滑る土を集め、縁を少しだけ丸く整える。


 穴の輪郭が生まれる。


 輪郭が生まれた瞬間、静の胸の奥が硬くなった。


 輪郭は、住む場所の輪郭だ。


 同時に、埋める場所の輪郭にもなる。


 静はその考えを押し戻した。押し戻しても、指先の土の感触がそれを呼び戻す。土は、いつも同じだ。土は、生活にも死にも同じ顔をする。


 蓮が静の近くに来た。


 蓮は掘る動きに興味を示し、静の手元を見ている。見ているが、真似はしない。静がやっていることは、静のやり方だと分かっている。自分が入るべき仕事と、入るべきでない仕事がある。それを蓮は、いつの間にか学び始めている。


 長い男が、穴の中心を指した。


 そこに灰が置かれる。火床の場所だ。火がある場所は、生活の中心になる。中心が決まると、動線が決まる。動線が決まると、順番が決まる。順番が決まると、支配が生まれる。


 静は、中心に灰を寄せる作業を見ながら思った。


 ここは、ただの住まいにはならない。いつか、誰かの言葉になる。誰かの順番になる。誰かの罰になる。


 蓮が灰のそばへ行き、手をかざした。


 熱はほとんどない。けれど、灰の匂いは残っている。灰の匂いは、火の匂いだ。火の匂いは、人の匂いだ。


 蓮は風を感じて、顔を少しだけ傾けた。風向きが変わった。風が変わると、煙の流れも変わる。煙の流れが変わると、目が痛む場所も変わる。痛む場所が変わると、座る位置も変わる。


 蓮はそれを、言葉ではなく身体で覚える。


 静はその背中に、妙な安心を覚えた。


 安心は危険だ。危険だが、安心を一度も持たずに生きるのは、静にはもう難しくなっていた。


 女たちが土器を運んできた。


 土器の外側に、昨日の煤が残っている。煤が手につく。煤がつくと、火の匂いが指に残る。火の匂いが残ると、狩りの獣が寄る。寄るが、人も寄る。


 静は土器の口縁に触れた。


 指の油がつく。油がつくと、土器は少しだけ光る。光る土器は、道具というより、手の延長になる。延長が増えると、人は生活を変える。


 静は土器を一つ持ち上げ、穴の縁に置いた。


 置いた瞬間、土器が小さく音を立てる。乾いた土器が土に触れる音だ。その音は、妙に整っていた。整っていると、怖い。整っているものは、壊れたときに大きな音を出す。


 蓮が土器を覗き込んだ。


 蓮の鼻が、土器の中の匂いを探す。煮た根の匂い。油の匂い。焦げの匂い。匂いが混じっている。混じった匂いは、貯まる匂いだ。貯まる匂いは、暮らしの匂いだ。


 長い男が短い音を出した。


 男たちは道具を置き始める。杭打ちは終わった。穴の輪郭もできた。火床の場所も決まった。これで、地面に線が刻まれた。地面に刻まれた線は、簡単には消えない。


 静は立ち上がり、杭の列を眺めた。


 並んだ杭の頭は、まだ低い。だが、その低さが逆に、線の存在を強くする。高いものは目立つ。目立つものは壊される。低いものは気づかれにくい。気づかれにくいものは、いつの間にか当たり前になる。


 当たり前になった線は、やがて境界になる。


 境界は、内側と外側を作る。


 静は、杭の列が一瞬だけ別のものに見えた。


 並んだ杭が、土の上から突き出る骨に見えた。骨に見えた瞬間、喉が渇いた。渇きは、怖さだ。怖さは、身体の奥から来る。


 静は、その錯視を飲み込んだ。


 飲み込んだまま、蓮を見る。


 蓮は杭を眺めている。眺めているが、怖がってはいない。ただ、何かを考えている顔をしている。考えるというより、匂いを嗅ぐ顔だ。未来の匂いを嗅いでいるような顔だ。


 静は、蓮の肩に軽く触れた。


 蓮が静を見る。


 静は言葉を選ばなかった。選ばずに、短く言う。


「できた」


 蓮は意味を理解したのか、頷いた。


 頷き方が少しだけ誇らしげだった。誇らしげだが、誇りを声にしない。声にしない誇りは、ここでは長持ちする。声にした誇りは奪われる。


 群れは散り始めた。


 女たちは食の準備へ戻る。男たちは狩りへ向かう。子どもたちは杭の間を走りそうになり、叱られる。叱られ方も、言葉ではない。腕を掴まれるだけ。掴まれた子どもはすぐに止まる。止まることを覚える速度も、この時代の速度だ。


 静は、穴の縁に残って、土をもう一度ならした。


 掌で土を押さえると、土が少しだけ沈む。沈む土は柔らかい。柔らかい土は、何かを受け入れる土だ。住むものを受け入れる。火を受け入れる。道具を受け入れる。


 そして、いつかは人も受け入れる。


 静はその考えをまた押し戻した。


 押し戻しても、掌に残る冷たさは消えない。冷たさは消えないまま、静の中に溜まっていく。


 蓮が、静のそばでしゃがみ込んだ。


 蓮は土を触り、指で小さな線を引いた。線を引いて、すぐに消す。消して、また引く。遊びではない。何かを覚えようとしている。


 静は蓮の指の動きを見て、言った。


「ここ」


 蓮が顔を上げる。


 静は杭の列を指し、その内側を軽く叩いた。


「中」


 次に杭の外側を指し、同じように叩く。


「外」


 蓮はその言葉をすぐには繰り返さなかった。


 けれど、目の動きが変わる。杭の内側と外側を見比べる。内側は暖かく見える。外側は寒く見える。見えるというより、そう決められていく。


 静はそれ以上言わなかった。


 言えば講義になる。講義はここでは嫌われる。嫌われると、外側に押し出される。外側は寒い。


 静は立ち上がり、焚き火の場所へ戻ろうとした。


 蓮も立ち上がり、静の後ろにつく。


 歩きながら、蓮が小さく、同じ音を二度繰り返した。


「なか」

「そと」


 発音はまだ不安定だ。だが、音は音として出た。出た音は、やがて意味になる。


 意味になった瞬間から、それは罰にもなる。


 静は胸の奥が少しだけ痛んだ。


 痛みを顔に出さない。出せば、弱いと見られる。弱いと見られると奪われる。奪われると、守れない。


 焚き火の近くまで戻ると、煮た根の匂いがした。


 土器の中で湯が揺れ、湯気が薄く立っている。湯気は高く上がらない。今日は風が弱い。匂いが留まる日だ。


 静は周囲を見回した。


 木々の影の奥。草の揺れ。遠い音。匂いの変化。


 何もない。何もないが、それが逆に怖い。何もないときほど、突然何かが来る。


 静は槍を手に取った。


 槍の木肌は、手の油で少しだけ滑る。滑る槍は危険だ。静は掌で槍を擦り、油を木に馴染ませた。馴染ませることで滑りが落ち着く。こういう調整が、ここでは生死を分ける。


 蓮が煮物を受け取る順番になった。


 順番はまだ明確ではない。けれど、目に見えない順番がある。蓮はその順番の後ろにいることを知っている。知っているが、騒がない。騒がないことが、蓮の生存戦略になってきている。


 蓮が器を両手で持ち、静のほうへ来る。


 器の湯気が蓮の顔にかかる。熱いのに、蓮は顔をしかめない。熱さを受け止めている。受け止められるようになっている。


 蓮は静の前に器を置き、静を見た。


 静は一口だけ食べ、器を蓮へ戻した。


 分けるという概念も、ここではまだ薄い。だが、分けるという動作はある。分けた者は、分けた者として見られる。見られると、関係が生まれる。関係は重い。重いが、関係がなければ人は簡単に消える。


 蓮は器を受け取り、静のそばで食べた。


 食べながら、時々、杭の列のほうを見る。


 杭の列は、地面に残っている。残っているというより、地面の一部になりかけている。


 静は、その杭の列を見ながら思った。


 今日、ここに線が生まれた。


 線は、暮らしを守るために生まれたのかもしれない。外の者から守るため。獣から守るため。食を守るため。


 けれど線は、いつか人を閉じ込めるためにも使われる。


 閉じ込めるための線は、正しさの顔をする。守るための線だと言う。守るための線だと言いながら、守るべきものの順番を決める。守るべきものの順番を決める者が、上になる。


 静は、その上を何度も見てきた。


 見てきたのに、止められない。


 止められないから、せめて、蓮が線の外側へ追い出されないようにする。今はそれだけだ。それだけしかできない。


 蓮が器を置き、手を擦った。


 手についた土と油を落とそうとしている。落ちない。落ちない汚れが、ここで生きた証になる。静はその手を見て、また胸が痛んだ。


 痛みは言葉にならないまま、静の中に残る。


 夕方、空が少しだけ暗くなった。


 風が変わる。匂いが動く。木々がわずかに鳴る。


 静は立ち上がり、杭の列へもう一度近づいた。


 杭は低いまま、黙って並んでいる。


 静はその列を指でなぞるように目で追い、最後の杭の前で止まった。杭の影が地面に落ちている。影の線が、杭の線より長く伸びている。


 影の線のほうが、怖い。


 影は、時間が作る線だ。時間の線は、どこにも杭を打たなくても伸びる。伸びた線は、いつか誰かの上を通る。


 静は影から目を逸らし、背中を向けた。


 火を守らなければならない。火を守れば、夜が越えられる。夜が越えられれば、明日が来る。明日が来れば、また土が足裏に湿り気を残す。


 その繰り返しが、ここでは生きるということだ。


 静が火のそばへ戻ると、蓮がすでに枝を集めていた。


 枝の選び方が上手くなっている。湿った枝は避け、乾いた枝を選ぶ。乾いた枝はよく燃える。よく燃えるが、音も出る。音は目立つ。目立てば寄ってくる。寄ってくるものは、必ずしも獣ではない。


 蓮は、枝の中から太すぎるものを抜いた。


 静がそれを見て、少しだけ頷くと、蓮は嬉しそうな顔をした。嬉しそうな顔はすぐに消す。消す速さも身につけている。身につけるものが増えるほど、蓮はここで生き延びる。


 静はそのことだけを、今夜の願いにした。


 火が落ち着くと、周囲の影が濃くなる。


 濃くなる影の中で、杭の列は見えにくくなる。見えにくくなるのに、静の頭の中では杭の列がはっきり見える。昼に見たものは夜に強く残る。残るものほど、意味がある。


 静は、杭の列が墓標に見えた瞬間を思い出した。


 思い出して、喉が渇く。


 渇きを誤魔化すために、静は湯を飲んだ。湯は熱く、舌が少しだけ痛む。痛みは現実だ。現実があれば、思い出は少しだけ薄くなる。


 蓮が静の隣で丸くなる。


 眠る体勢だ。けれど完全には眠らない。眠りと見張りの間で、身体を揺らしている。静も同じだ。ここでは深く眠った者から消える。


 静は槍を膝に置き、闇を見た。


 音を聞いた。匂いを嗅いだ。遠くの獣。近くの人。火のはぜる音。木の軋み。


 どれも、普段の夜の音だった。


 普段の夜の音なのに、今夜は違う。


 今日、線が生まれたからだ。


 線が生まれた夜は、必ず何かが起きる。静の経験がそう言う。経験は、静の中ではまだ新しい。新しいのに、古い。古いのに、終わらない。


 静は目を閉じずに、火を見張った。


 火の赤が、土器の縁を照らす。土器の縁が光る。光る縁は、生活の輪郭だ。輪郭が増えるほど、人は長く留まる。留まるほど、争いも増える。争いが増えるほど、死も増える。


 死が増えても、世界は止まらない。


 静だけが止まってしまう。


 蓮が静の槍に視線を落とし、指で槍の木肌を触れた。


 触れ方が、確かめる触れ方だ。怖がる触れ方ではない。道具としての触れ方だ。蓮は道具を覚える。覚えた道具は、蓮を生かす。


 静は蓮の手を軽く押さえた。


 蓮が静を見る。


 静は短く言った。


「危ない」


 蓮は頷き、手を引っ込めた。


 それだけのやり取りなのに、静は少しだけ救われる。救われるのが怖い。怖いが、救われなければ静はずっとここに立っていられない。


 闇の向こうで、枝が折れる音がした。


 すぐ近くではない。けれど遠くもない。風のせいではない。獣の足音とも違う。二足で歩く音だ。止まる。聞く。探る。


 静は槍を握り直した。


 火を大きくしない。火は守るが、呼ばない。


 蓮が身を起こし、静の背中に寄った。背中に寄る距離は、信用の距離だ。信用は重い。だが今夜は、重くてもいい。


 静は唇を開かずに、闇を見続けた。


 枝の折れる音は、もう一度だけ鳴った。


 そして、止んだ。


 静はその止み方を覚えた。


 止んだ音は、終わった音ではない。隠れた音だ。隠れた音は、次にもっと近いところで鳴る。


 静は火の赤を見ながら、杭の列を思った。


 線が生まれた。


 線の外側から、何かが匂いを嗅いでいる。


 静は槍を膝に固定し、火に枝を一本だけ足した。


 火は小さく揺れ、すぐに落ち着く。


 蓮の呼吸が背中で聞こえる。眠ってはいない。息を殺している。息を殺すことを覚えてしまった子どもは、大人になるのが早い。


 静は闇に向けて、音にならない言葉を飲み込んだ。


 まだ飛ばさない。


 まだ派手にしない。


 でも、次は来る。


 来たときに守れるように、今夜は火を守り続ける。


 静は、目を逸らさずに闇を見張った。


 線の内側で。


 線の外側の気配を、感じながら。


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不死の僕と死に戻りの彼で覚える面白い『日本史』 しげみちみり @okitashizuka_

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