第10話 君は、覚えていない

 夜は、終わらなかった。


 川の音が変わった。凍りかけた水の表面が、どこかで薄く割れる。割れた音が、石を打つ音に似て、静の背中を硬くした。


 火は小さかった。火を大きくすると、匂いが立つ。匂いが立てば、人が寄る。人が寄れば奪われる。奪われれば死ぬ。ここでは、明かりは命の量と同じだった。


 静は槍を持ったまま、岩陰に身体を寄せた。


 女はその背中に触れる距離にいた。触れる距離にいながら、触れてこない。代わりに、静の手の動きを見ていた。目の動きが、必要なものだけを拾っている。


 それが静には怖かった。


 こういう目を、知っている。知っていると思ってしまう。


 静は息を吐いて、雪の表面を指でなぞった。乾いた雪は粉のように崩れ、指の腹に冷たさだけを残す。冷たさは現実だ。触れば確かめられる。


 向こう岸の三人は、まだ動いている。


 渡ってくる足音は増えない。慎重だ。狩りではなく、争いの間合いの測り方をしている。こちらの数を見ている。弱いところを探している。


 静は群れの男たちを見た。


 槍を持つ男は二人。石刃を持つ男が一人。残りは女と子どもと老人だ。戦える数ではない。戦えば負ける。負ければ奪われる。


 奪われるのは食糧だけではない。


 怪我人は、真っ先に奪われる。弱いからだ。弱いものは荷物でもある。ここでは荷物は捨てられる。


 静は女の腕を見た。


 布の内側で、熱がまだ消えていない。腫れは引いていない。昨日より痛みが増えている顔だ。それでも女は座っている。泣かない。騒がない。息の乱れだけが、身体の限界を教える。


 静は女の目を見ないようにした。


 見れば、確かめてしまうからだ。


 あの口の形。昨夜、声にならないまま唇が作った音。れん。


 静の胸の奥に、火が小さく灯り続けている。


 それは希望と呼べるほど綺麗なものではない。もっと雑で、もっと痛いものだ。失ったものが、形を変えて目の前に落ちてきたときの、受け止め方の分からない重さ。


 静は群れの男に近づいた。


 見張りの男だ。昨日、女を捨てると言った男。冬の目をした男。


 男は静を見た。


 静が槍を持っているのを見て、わずかに眉を動かす。


「来る」


 静は短く言った。


 男は頷いた。


 頷くが、目は動かない。動かない目は、すでに計算を終えている目だ。逃げ道。捨てる順番。守るべきもの。自分の命。


 男が小さく言った。


「お前の…その、怪我」


 男は女を顎で示した。名前で呼ばない。呼ぶと関係が生まれる。関係は重い。重いものは冬には邪魔だ。


「置く」


 静は返さなかった。


 返す言葉を持ち込むと、議論になる。議論になれば時間が消える。時間が消えれば敵が近づく。ここでは、言葉は遅い。


 静は男の槍の穂先を見た。


 石が削られ、刃が薄い。よく整っている。整う刃は、殺すための刃だ。獣ではなく人を想定した刃だ。静はその刃に、何度も向けられてきた。


 静は男の目を見た。


「置かない」


 男の目が冷たくなる。


「死ぬ」


 静は頷いた。


「死ぬ」


 男は一瞬だけ迷った顔をした。静が「死ぬ」と言うことが、男の予測に入っていない。普通は、死なないために捨てる。静は捨てないと言い、同時に死ぬと言う。その矛盾が、男を止める。


 男は吐き捨てるように言った。


「変」


 静は否定しなかった。


 変だ。異物だ。そう呼ばれて生きてきた。生きてきたというより、死んでも終わらなかった。


 静は踵を返し、岩陰に戻った。


 女が静を見ていた。見上げる目だ。頼る目だ。頼ってはいけないのに頼ってしまう目。静の中の何かが、音もなく崩れそうになる。


 静は女の前にしゃがみ、手を出した。


 女は静の手を取った。冷たい。指が細い。握り返し方が、躊躇がない。躊躇がないのに、強引ではない。そこがいちばん、蓮に似ている。


 静は女の手を離し、地面の枝を拾った。


 枝で雪を軽く払う。土を出す。土の上に、線を一本引く。


 女が首を傾げる。


 静は自分の胸を指し、次に線を引いた場所を指した。


「名」


 女は目を丸くした。


 静はゆっくり言った。


「静」


 女は口を動かした。


「しず」


 静は頷く。


 女は頷き返す。頷き返す速度が、覚える速度と同じだ。


 静は枝を女に渡し、女の手を軽く支えた。


 女は土の上に、小さく形のようなものを描こうとする。だが、すぐに止まった。文字の概念がない。概念がないのに、残そうとしている。その努力が胸に刺さる。


 静は女の腕を見た。


 腫れが強い。熱が抜けない。ここで争いになれば、女は走れない。走れない者は置かれる。置かれた者は、ここで終わる。


 静は女の肩に手を置いた。


 女は静の目を見る。静は目を逸らさなかった。逸らすと、今夜は守れない気がした。


「歩く」


 静は言った。


 女は頷いた。


 静は首を横に振った。


「今」


 女が息を飲む。今、という言葉を完全に理解していないのに、意味だけは伝わっている。ここから動く。ここから離れる。群れから外れる。外れたら危険だ。危険なのに、静は外れる。


 女が小さく首を横に振った。


 拒否だ。群れを捨てない。自分の居場所を捨てない。ここで生きてきたのだから当然だ。


 静は女の手をもう一度取った。


 指の腹で、女の掌の中心を軽く押す。合図。これからすることを、言葉ではなく圧で伝える。


 静は女の耳元に口を寄せた。


「覚える」


 女が瞬きをする。


 静は続けた。


「おれ」


 言いかけて、止めた。


 この時代の言葉で「俺」は通じないかもしれない。通じなくてもいい。静が言いたいのは自分のことではない。自分が覚えていることだ。


 静は息を吐いた。


「君」


 女が静を見た。


 静は、ゆっくり言った。


「君は、覚えていない」


 女は理解できない顔をした。理解できないのに、怖がらない。怖がらないのが、また怖い。


 静は女の額に触れた。


 熱い。熱い額は、蓮の最初の死の夜を思い出させる。高熱。浅い呼吸。冷えた指先。火のはぜる音だけが続いて、世界が静かに死へ寄っていった夜。


 静はその記憶を、今夜は使う。


 使うと言うと冷たいが、実際はそうだ。記憶は武器になる。武器にならない記憶は、ただ自分を削る。


 静は女を背負った。


 女は驚いて身を硬くする。痛みで息が詰まる。静は背負い直し、女の腕が静の肩に回るように整えた。


 女は小さく呻いたが、抵抗しない。抵抗しないのは信頼だ。信頼の理由は薄い。薄いからこそ、静には重い。


 静は岩陰から出た。


 群れの男たちが振り返る。目が揺れる。なぜ、という顔。今、という状況で、なぜ、という顔をするのは遅い。だが彼らは静ほど切迫していない。切迫しているのは静だけだ。静だけが、この先の構造を知っている。


 川向こうの三人が動いた。


 水面を見ながら、浅い場所を探っている。渡ってくる。渡ってきたら、こちらの弱いところを狙う。弱いところは、今背中にいる。


 静は走り出した。


 雪が薄いところを選び、木の根を避け、足首が取られない道を選ぶ。女が背中で揺れ、息が荒くなる。熱い息が静の首筋に当たる。熱が伝わる。熱が、静の身体の芯を起こす。


 群れの誰かが叫んだ。


 何を叫んでいるのかは分からない。静を止めたいのか、敵を知らせたいのか。どちらでもいい。静は止まらない。


 森の方へ入る。


 木が音を吸う。匂いが濃くなる。土が柔らかくなる。足音が重くなる。重い足音は追跡されやすい。だが、森は視線を遮る。視線を遮る方が今は重要だ。


 静は一度だけ振り返った。


 川の向こうの三人が渡り始めている。群れの男たちが槍を構え、川岸で待っている。戦うつもりだ。戦えば負けるかもしれないが、戦わなければ全て奪われる。彼らは彼らの判断で生きる。


 静はその判断から外れた。


 外れた瞬間から、静の旅が始まる。いつもそうだった。群れに馴染めない。馴染んでも、時間が奪う。時間が奪うなら、最初から持たない方がいい。そうやって静は生きてきた。


 なのに今夜は、持ってしまった。


 背中の重さが、静の選択を固定する。


 静は木々の間を縫って進み、斜面を下り、小さな窪地に入った。風が弱く、雪が積もりにくい場所だ。枯れ草が残っている。そこに女を降ろした。


 女は地面に座り込む。


 息が浅い。唇が乾いている。目だけが静を追う。


 静は水を探した。


 近くに小さな湧きがあった。氷の下で水が動いている。静は石で氷を割り、掌で水を掬って女に飲ませた。


 女は少しずつ飲む。飲み方が上手い。上手いのは、生きるのが上手いということだ。それだけで静は少しだけ救われる。


 静は火を起こした。


 大きくしない。煙を立てない。枝を選び、乾いたものだけを折る。火は小さく、しかし途切れないように。


 女は火を見て、少しだけ肩の力を抜いた。


 静は女の腕の布をほどいた。


 傷が見えた。赤い。腫れている。膿が少し出ている。厳しい。厳しいが、まだ終わりではない。


 静は樹皮をすり潰し、灰と混ぜ、布の外側に塗った。熱を抑える。汚れを防ぐ。気休めかもしれない。だが、やらないよりましだ。


 女は静の手元を見ていた。


 じっと見て、覚えようとしている。


 静は思わず、口を開きかけた。


 覚えてほしい。次に会うとき、覚えていてほしい。覚えていれば、静は少しだけ楽になる。楽になるために覚えてほしい。


 その願いは、醜い。


 相手の人生を、自分の都合で縛る願いだ。


 静は口を閉じた。


 代わりに、女の掌を取って、指で掌の中心に小さく線を引いた。見えない線だ。けれど触覚は残る。触覚は、言葉より長く残ることがある。


 女が困ったように笑った。


 笑いは珍しい。珍しい笑いは、静の胸を軽くする。軽くなるのが怖いのに、軽くなってしまう。


 女は静の手を掴んだ。


 そして、ゆっくりと口を動かした。


「れ」


 静の喉が鳴った。


 女は続けようとする。唇が、音の形を探す。


 静は止めなかった。


 止める資格がない。止めると、女の中にある何かを折るかもしれない。折れれば、生きる力も折れる。


 女は何度か口を動かして、やっと音を作った。


「れ……ん」


 声は小さい。掠れている。けれど、確かにその二音だった。


 静は目を閉じた。


 閉じたら崩れる。分かっているのに閉じた。


 目の奥が熱くなる。涙は落ちない。落ちたら凍る。凍る前に、静は目を開けた。


 女は不思議そうに静を見ていた。


 静は、短く頷いた。


「蓮」


 女は首を傾げる。


 静は言った。


「名」


 女はゆっくり頷く。


 静はその瞬間、確信した。


 この女は、自分が「蓮」と呼ばれたことを、明日には忘れるかもしれない。熱にうなされ、痛みに削られて、今日の音を失うかもしれない。あるいは、今生きるのに精一杯で、名前の意味を持てないまま過ぎるかもしれない。


 それでも。


 関係は始まる。


 始まってしまう。


 静が覚えているからだ。静だけが覚えている。覚えている者が、関係の端を持ち続ける。持ち続ける限り、端は切れない。


 静は火を見た。


 火の揺れが、女の横顔を照らす。横顔は蓮ではない。似ていない。似ていないのに、静の身体の深いところが「同じだ」と言っている。


 静は言った。


「君は、覚えていない」


 女は分からない顔をした。


 静は続けた。


「でも」


 言葉が続かない。ここで何を言っても、講義になる。説明になる。説明は、今は不要だ。


 静は代わりに、女の手を握った。


 女は握り返した。


 握り返す力が、少しだけ強い。生きる力が、まだ残っている。


 静は火を小さく保ちながら、夜を見張った。


 見張りながら、静は自分に言い聞かせた。


 期待するな。求めるな。縛るな。


 それでも守れ。守ってしまえ。守ることだけは、自分の都合でやれ。


 夜が深くなるころ、女は眠った。


 眠りは浅い。だが眠る。眠るのは、生きるためだ。


 静は火に枝を足し、音を聞いた。


 遠くで獣が鳴く。遠くで人が動く。群れの争いがどうなったのかは分からない。分からないまま、時間は進む。時間が進むのが、この物語の一番残酷なところだ。


 静は女の寝顔を見た。


 寝顔は幼い。体を丸めて、寒さから内臓を守る。守る姿勢は、命の姿勢だ。


 静は女の額に手を当てた。


 まだ熱い。


 静は小さく息を吐いた。


 ここから先は、長い。


 何度も別れて、何度も会う。会うたびに相手は違う。違うのに、同じ目でこちらを見る。静はその度に、今日の夜を思い出す。


 君は、覚えていない。


 それでも関係は始まる。


 始まるなら、せめて、始まりの夜だけは守り抜く。


 静は立ち上がり、森の暗さに目を凝らした。


 夜はまだ続く。


 火は小さい。


 背中の重さは、今はない。だが、胸の中の重さは増えた。


 静はその重さを抱えたまま、夜を見張り続けた。


 最後に。


 ここまで読んでくださってありがとうございます。

 もし「この先の時代でも、静と蓮の始まりを見届けたい」と思っていただけたら、フォローや評価で応援してもらえると励みになります。続きを必ず面白くします。

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