第9話 また、会えた

 冬の夜の争いは、音が少ない。


 叫び声は上がらない。上げたところで助けは来ないし、来た助けも同じ腹を空かせている。だから声は削られて、残るのは息と、骨と、土の音だけになる。


 静は火の明かりの縁で立ち尽くしていた。


 痩せた男が倒れた。群れの男が押さえつけ、別の男が石の刃を奪う。奪われた手が空を掻いて、空振りし、指先が土を掴む。土を掴んでも何も変わらない。掴んだ土は手の中で崩れて、冷たく湿った粒だけが残る。


 火は揺れて、影が伸びたり縮んだりする。影が伸びるたび、倒れている男の顔が別のものに見えた。老人に見え、子どもに見え、蓮に見えた。


 静は一度、目を閉じた。


 閉じると、夜が内側から膨らむ。


 蓮の最後の夜の匂いが、まだ喉の奥に残っている。あのときの火は弱く、煙は湿っていた。皮の匂いと、熱で甘くなった汗の匂いが混じり、吐いた息が薄かった。薄い息が途切れる瞬間を、静は何度も思い出してしまう。


 目を開けた。


 倒れていた男は、動かなくなっていた。喉のあたりが不自然に沈み、口が半開きのまま止まっている。目は閉じている。閉じているのに、静にはその男がまだこちらを見ているように感じた。


 群れの女が近づき、男の胸に手を当てる。


 手は短い時間だけ置かれて、すぐ離れた。判定は早い。息がない。動かない。なら終わりだ。終わりと決まれば、次は肉になるか土になるかの話になる。


 女は何も言わず、男の腕を引きずった。


 引きずる音が、火のはぜる音より大きく聞こえた。土の上を擦る音は、衣の布と皮膚と土が混ざった鈍い音だ。その音が、静の背中をなぞる。


 静は一歩後ろへ下がった。


 下がると、闇が濃くなる。闇は冷たい。冷たい闇は、火の輪から外れた者を飲み込みやすい。静は飲み込まれない。飲み込まれたとしても戻る。その戻り方が怖い。


 戻り方が怖い、という感覚を静は最近になって知った。


 蓮が死ぬ前は、戻ることはただの現象だった。起きる、動く、治る。身体は勝手に続く。続くから、深く考えなかった。


 今は違う。


 戻るたびに、置いていかれるものが増える。置いていかれたものの中に、蓮がいる。蓮を置いていく速さが、戻る現象の速さだと思うと、静は眠るのが怖くなる。


 火の周りは片づけが始まっていた。


 血の匂いを消すために灰を撒き、石の刃を回収し、傷を隠すために衣を整える。争いがあった夜は、獣も人も寄ってくる。寄ってくれば奪われる。奪われれば死ぬ。単純な理屈の上に、ここは積み上がっている。


 静は歩き出した。


 火から離れ、風上へ。匂いが散る方へ。足元の雪はまだ薄く、土が透けている。踏めばきしむ。きしむ音が嫌で、静は枯れ葉の上を選んだ。


 枯れ葉は湿っていて、音が小さい。


 森の端まで行くと、暗さが一段深くなる。火の明かりが背中から消え、空の星だけが残る。星は冷たい。星は遠い。遠いものは触れられない。触れられないものは確かめられない。


 静は膝をつき、手で雪を掬った。


 雪は軽い。指の間から落ちる。落ちて、土の上で水になり、消える。消えるのが速い。速い消え方は、時間そのものみたいだった。


 静は雪で手を洗った。


 血の匂いが薄くなる。薄くなっても、土の匂いは残る。土の匂いはいつも残る。残るから、ここで生きていると分かる。


 手を洗い終えたとき、背後で枝が折れた。


 静は振り返る。


 闇の中に、影がひとつ立っている。


 獣ではない。獣なら四つ足の気配がある。あの影は直立している。人だ。


 静は立ち上がった。


 身構える前に、影の距離を測る。距離は短くない。影はすぐには飛びかかってこない。なら、今夜の敵ではないかもしれない。


 影が一歩、近づいた。


 静は動かなかった。


 影が火の明かりの境界に入る。わずかな光が、顔を浮かび上がらせた。


 女だった。若い。頬がこけ、唇が乾いている。だが目は濁っていない。濁っていない目は、飢えを隠していることがある。隠すのが上手い者は危険だ。


 女の腕には、布が巻かれていた。布の隙間から赤いものが滲んでいる。怪我をしている。怪我をしている者は弱い。弱い者は奪う側ではなく、奪われる側になりやすい。


 女は静を見たまま、口を開いた。


「水」


 言葉は短い。余計な飾りがない。生きるための音だけが残っている。


 静は返事をせず、川の方向へ顎を振った。


 女は一瞬ためらった。ためらって、それでも歩いた。歩き方が左右に揺れる。血が出ている。痛みで足取りが乱れている。


 静は女を川まで案内し、距離を保って見守った。


 女は膝をつき、手で水を掬って飲んだ。飲み方が急だ。急に飲むと腹が痛くなる。それでも飲む。飲むことが勝つ。


 女は何度か飲み、顔を上げた。


 静を見て、首を傾げた。何か言いたげだが、言葉が見つからない。言葉が足りない時代の顔だ。


 静は女の腕の布を見た。


 傷が深そうだった。血が止まりきっていない。冬の怪我は危険だ。濡れる。冷える。膿む。膿めば熱が出る。熱が出れば動けない。動けない者は消える。


 女は静の視線に気づき、布を押さえた。押さえた指が震える。震えるのは寒さだけではない。怖さもある。


 静は持っていた布切れを取り出し、女の前に置いた。


 女は驚いた顔をした。驚きは、助けられることに慣れていない証拠だ。


 女は布を掴んだ。掴んで、静を見た。目の動きが迷う。礼という概念が薄い。だが、何かを返したい気持ちはある。返せるものがない。


 女は自分の首から下げていた小さな骨の飾りを外し、静の前に置いた。


 骨は磨かれている。磨くという手間は、余裕の証でもある。余裕の証は価値がある。価値があるものを差し出すのは、女の中に筋があるということだ。


 静は骨を受け取らなかった。


 代わりに、女の腕の布を巻き直した。布をきつく巻き、血を止める。女は痛みに顔を歪めたが、声は出さなかった。声を出すと獣が寄る。寄れば死ぬ。ここでは声は贅沢だ。


 静が巻き終えると、女は息を吐いた。


 吐いた息が白い。白い息が夜に消える。消えるのが速い。時間が進む速さに似ている。


 女は静をじっと見た。


 その視線の質に、静は違和感を覚えた。


 飢えた人の視線ではない。奪う人の視線でもない。助けを求める視線でもない。もっと別の、理由の薄い視線だ。


 静はその視線を、知っている気がした。


 知っている、というのは危険だ。知っていると思うのは、記憶が勝手に形を作るからだ。形を作ると、そこに引っ張られる。引っ張られると判断が鈍る。判断が鈍れば死ぬ。


 静は視線を切り、女に背を向けた。


 背を向けるのは、無防備だ。だが、背を向けないと、この視線の意味を探してしまう。


 女は慌てたように声を出した。


「待つ」


 待つ、という言葉は、この時代には似合わない。待つというのは余裕のある者が使う言葉だ。飢えた者は待てない。怪我をした者は待てない。冬の夜は待てない。


 それでも女は言った。


 静は立ち止まった。振り返らずに、女の気配だけを聞く。


 女は一歩近づいて、また止まった。距離を詰めすぎない。詰めすぎると、静が逃げると分かっているような動きだ。


 その動きが、静の胸の奥を冷たく撫でた。


 蓮も、最初は距離を詰めすぎなかった。


 火の側で、じっと見ていた。静が動けば目で追い、静が座れば同じように座った。言葉はぎこちなく、噛み合わないのに、目だけが妙に合った。


 理由のない信頼。


 あのとき静は、信頼という言葉を知らなかった。知らないのに、体が先にそれを受け取ってしまった。


 静はゆっくり振り返った。


 女の顔が、火の明かりの薄いところにあった。血の気が少ない顔。頬は冷えて白い。唇が割れている。冬を生き抜く顔だ。


 だが目だけが、異様に澄んでいた。


 その澄み方が、静の記憶の中の幼い視線と重なった。


 静は口を開いた。


「名」


 女は首を傾げた。


 静は指で自分の胸を軽く叩き、次に女を指した。


「名」


 女は理解したように頷いた。


 そして、少しだけ迷ってから、口を開いた。


 音が出る前に、静の心臓が一度強く打った。


 理由は分からない。だが、体が先に反応した。これは、静が何度も経験してきた反応だ。死にそうなときではない。獣が近いときでもない。もっと別の、説明のつかない予感が来るときの反応だ。


 女は短く、言った。


「れ」


 それだけだった。


 一音。まだ名前の形になっていない。けれど、その一音で、静の背中が熱くなった。熱くなるのは痛みではない。血が動く感じだ。体の内側が勝手に温まる。


 女は、もう一度言った。


「れ」


 静は喉の奥が乾くのを感じた。乾いた喉で言葉を探す。探しても、この時代の言葉は少ない。少ないから、余計なことは言えない。


 静は女を見つめた。


 女は静を見つめ返した。恐れが薄い。初対面の相手に向ける目ではない。初対面のはずなのに、目だけが「知っている」と言っている。


 静は思わず一歩、近づいた。


 女は逃げない。逃げないどころか、少しだけ目を細めた。ほっとしたように見えた。ほっとする理由がないのに。


 静は女の顔をよく見た。


 蓮ではない。骨格が違う。頬の線が違う。手の形も違う。声も違う。性別も違う。違うのに、視線だけが同じだ。視線の奥の何かが、同じ場所からこちらを見ている。


 静はその「同じ」を、認めたくなかった。


 認めると、世界が変わる。蓮の死が変わる。蓮が「戻らない」と理解した瞬間が変わる。変わると、静の中の何かが崩れる。


 静は自分の指を噛んだ。


 痛みが走る。血の味がする。現実だ。現実は痛みで確かめられる。確かめた上で、それでも女の視線は蓮の視線のままだった。


 静は女の腕の怪我をもう一度見た。


 布が赤く染まっている。傷は深い。深い傷は、ここでは死に繋がる。女は今夜一人で歩けば、死ぬ可能性が高い。


 静は女を群れへ連れて行くべきか迷った。


 群れは女を受け入れるかもしれない。数が増えれば狩りが厳しくなる。だが、怪我をしている者は労働力にならない。受け入れない可能性もある。受け入れなければ、女はここで捨てられる。


 捨てられても、静は戻る。


 女は戻るか分からない。


 その差が、静の胸を刺した。


 静は決めた。


 決めるとき、理由を言葉にしない。言葉にすると崩れる。崩れたら動けない。動けなくなれば、結局守れない。


 静は女に手を差し出した。


 女は驚いた顔をして、それでもゆっくり手を重ねた。手は冷たい。指が細い。細い指が、静の指の間に自然に収まる。自然に収まるのが怖い。怖いのに、手を離せない。


 静は女を引いて歩き出した。


 火の明かりの方へ戻る。戻るという行為が、静の中で別の意味を持ち始める。


 火が近づくにつれて、声が聞こえてきた。小さな笑い声。骨をかじる音。咳。槍を削る音。生活の音だ。生活の音は、時代の最初に必ずある。生活の音がある限り、世界は続く。


 静は女の手を引きながら、その手が震えていることに気づいた。


 震えは寒さだろうか。それとも痛みだろうか。それとも、別の何かだろうか。静の手も、少し震えている。震えの理由は、寒さではない。


 火の輪の外に入ったとき、見張りの男がこちらを見た。


 男の目が女の怪我に止まり、眉が寄る。寄った眉は拒絶の兆しだ。拒絶は争いを呼ぶ。争いは死を呼ぶ。


 静は女を自分の背中側へ回し、前に立った。


 前に出ると目立つ。目立つと危険だ。危険でも、今夜だけは前に立たなければならない気がした。


 男が一歩近づき、口を開く。


「何」


 静は短く返した。


「生きる」


 男は静を見た。静の顔を見たあと、女を見た。女の怪我を見た。怪我は厄介だ。厄介なものは捨てるのがここだ。


 女が静の背中越しに、男を見た。


 その視線が、またあの澄み方だった。


 男は一瞬、動きを止めた。


 静はその止まり方を見て、背中が冷えた。男が止まった理由は、女の怪我ではない。視線だ。女の視線が、男の何かに触れた。


 触れた、というのはよくない。


 視線で人を止める者は、恐れられる。恐れられる者は、排除される。


 静は女の肩に手を置き、少しだけ前へ引いた。視線を弱めるように、女の顔を下げさせる。女は不思議そうにしたが、言われた通りにした。


 男は息を吐いた。


 吐いた息が白い。白い息の間に、判断が混じる。


 男は火の側に顎を振った。


「座る」


 許可だ。完全な受け入れではない。だが、今夜は死なない。


 静は女を火の近くへ連れて行き、端に座らせた。火の端は温度が低い。低いが、ないよりましだ。女は火に手をかざし、指先を見つめた。指先が赤くなる。赤は生きている色だ。


 女は静を見上げた。


 その視線が、また胸の奥を撫でる。


 静は女の前に、さっきの骨の飾りを置いた。


 女が差し出したものだ。受け取らなかったが、戻しておいた。返せば、関係が整理される。整理しないと、静はこの視線に引っ張られて壊れる。


 女は骨を見て、首を横に振った。


 そして、静の手を取って骨の上に重ねた。重ねる動きが、迷いがない。迷いがないことが怖い。怖いのに、拒めない。


 静は手を引こうとして、止めた。


 止めた瞬間、頭の中に蓮の顔が浮かんだ。幼い蓮が火の側で眠り、静の服を掴んで離さなかった夜。あのときも、同じように掴まれた。


 掴まれた手は、離すのが難しい。


 静は息を整えた。


 この現象を、まだ言葉にしてはいけない。


 言葉にすると、説明が必要になる。説明は講義になる。講義になれば読者が置いていかれる。置いていかれれば終わる。終わるのは作品ではなく、静の旅だ。


 静は今夜の目的だけを守る。


 女を生かす。群れの中で死なせない。視線で目立たせない。名前を聞き出さない。決めつけない。蓮だと思い込まない。けれど、手は離さない。


 矛盾だが、静は矛盾の中で生きてきた。


 火の向こうで、女たちが肉を分け始めた。


 女は自分の分け前を受け取り、すぐに半分を静に差し出した。静は受け取らなかった。受け取らなければ、借りが作られない。借りが作られないなら、女は自由に去れる。去れるようにしておかなければ、女の命が静に縛られる。


 女は静の拒否に困った顔をし、それでも肉を自分の口に入れた。


 噛む。飲み込む。喉が動く。生きる動きだ。生きる動きがあると、静の胸が少しだけ軽くなる。


 静は女の腕の布を確認した。


 血は止まっている。だが腫れが出ている。痛みが残る。明日からが厳しい。厳しい冬の道を、女は歩けるだろうか。


 静は火の灰を少し取って、土と混ぜ、柔らかい塊を作った。傷の上に直接は置かない。布の外側に薄く塗り、冷えと汚れから守る。経験で覚えた工夫だ。誰かに教わったわけではない。見て、真似て、失敗して、残ったやり方だ。


 女はその手つきを見ていた。


 見方が、蓮と同じだった。


 静は視線を感じないふりをして、作業を続けた。手が覚えている動きは、心を落ち着かせる。落ち着かせないと、この視線の意味を探してしまう。


 女が小さく言った。


「し」


 静は動きを止めた。


 女はもう一度言った。


「し」


 静の名を呼ぼうとしている。呼ばれれば関係が固まる。固まると、次に別れるときが痛む。痛むのが怖い。怖いが、呼ばれないと、女は今夜この群れの中で孤立する。孤立すれば死ぬ。


 静はゆっくり頷いた。


「静」


 女はその音を口の中で転がした。


「しず」


 発音が難しいのか、舌がもつれる。もつれたままでも、女は繰り返す。


「しず」


 静はそれ以上教えなかった。教えすぎると、ここで目立つ。目立てば、明日から危険が増える。危険を増やすのは避けたい。


 女は静の名を覚えたふりをして、火を見た。


 火の明かりが女の目に映る。目の中に小さな火が揺れる。揺れる火は、見る者の顔を変える。変えるせいで、蓮の面影がまた浮かぶ。


 静は視線を逸らし、夜の闇を見た。


 闇の中には獣がいる。獣は匂いで近づく。今夜の血の匂いは消しきれていない。血の匂いは獣を呼ぶ。獣を呼べば、また争いが起きる。争いが起きれば、誰かが死ぬ。死ねば土になる。土になれば名前が消える。


 名前が消える。


 静はふと、第5話で蓮が問いかけたことを思い出した。


 死者の名前が使われなくなる。なぜ消えるのか。なぜ残らないのか。静は答えられなかった。


 今なら少しだけ答えられる気がした。


 残らないのではない。残す方法がまだ弱い。言葉が少ない。記録がない。刻む石がない。残す手が足りない。だから消える。


 けれど、消えても、何かが残る。


 視線が残る。癖が残る。手の握り方が残る。火を見る目が残る。理由のない信頼が残る。


 それが、今、静の目の前にいる。


 女は火の側でうとうとし始めた。


 眠りは浅い。痛みがある。寒さがある。見知らぬ人が周りにいる。眠りは浅く、すぐに目が開く。目が開くたび、女は静を探す。


 探して、静がいると分かると、少しだけまぶたが落ちる。


 その繰り返しが、静の胸を締めつけた。


 蓮もそうだった。熱で苦しい夜、目を開けて静を探し、静がいると分かると目を閉じた。言葉はいらなかった。そこにいるだけで足りた。


 静は女の傍で、夜を見張った。


 見張るという行為は、静の癖になっている。癖は、蓮が作ったものだ。蓮がいないのに、その癖だけが残っている。残った癖が、今夜また誰かを守っている。


 夜が深くなる頃、見張りの男が近づいてきた。


 男は女をちらりと見て、静を見た。静の視線を避けない。避けないのは、対等か敵かだ。男の目は敵ではない。だが、警戒はある。


 男が小さく言った。


「明日」


 静は頷いた。


 男は続けた。


「捨てる」


 言葉が短い。捨てる、というのはこの集団のルールだ。怪我人は捨てる。遅い者は捨てる。口が多い者は捨てる。冬は捨てる季節だ。


 静は女を見た。


 女は眠っている。眠りの浅い顔だ。眉間に皺が寄っている。痛みと寒さで、体が緊張している。


 静は男に向き直った。


「歩く」


 静はそう言った。


 男は鼻で笑った。


「歩かない」


 静は短く返した。


「歩かせる」


 男の目が細くなる。静の言葉が、挑戦に聞こえたのだろう。挑戦は争いを呼ぶ。争いは死を呼ぶ。静はそれを望まない。だが、譲れない。


 静が譲れないものを持つのは危険だ。


 危険でも、手は離せない。


 男はしばらく静を見ていたが、やがて視線を外した。


「お前」


 男は言った。


「変」


 変だ。異物だ。静が最初から抱えてきた判定だ。


 静は否定しなかった。


 否定しても意味がない。否定の言葉より、明日の動きで示す方が早い。この時代は、言葉より動きが強い。


 男は去った。


 静は火の側に戻り、女の肩に自分の外套の一部をかけた。女は少しだけ身を寄せ、静の腕を掴んだ。掴む力が弱い。弱いが、確かな掴み方だった。


 静は目を閉じたくなった。


 眠れば、少しだけ楽になる。眠れば、寒さも痛みも遠くなる。眠れば、夜が早く終わる。


 だが眠ると、飛ぶ可能性がある。


 飛べば、時間が進む。時間が進めば、女の今が置いていかれる。置いていかれると、女は死ぬ。


 静は眠らない。


 眠らずに、火の揺れを見続けた。


 火の揺れの中で、女の横顔が一瞬だけ幼く見えた。幼い蓮の横顔に似る。似るたび、静の胸の奥が痛む。痛みは言葉にならない。言葉にしないまま、静は夜をやり過ごした。


 朝が来た。


 空が白む。霜が草を硬くする。息が白い。火が弱くなる。女が目を覚ます。目を覚まして最初に静を見る。


 静は頷いて、立ち上がった。


 群れが動き出す準備をしている。荷をまとめ、火を消し、痕跡を埋める。昨日の争いの跡は、土で隠される。隠すのは獣のためでもあり、人のためでもある。生き残るための手順だ。


 静は女の前にしゃがみ、腕の布を確認した。


 腫れは増している。熱がある。熱があると、体力が削られる。削られると歩けない。歩けないと捨てられる。


 女は静の顔色を読んだのか、小さく首を振った。


「歩く」


 女も言った。


 静は驚いた。女が昨日の言葉を覚えている。覚える速さが、蓮と似ている。似ていることを認めたくないのに、認めざるを得ない。


 静は女の手を取った。


 女は立ち上がった。立ち上がるとき、痛みで一瞬膝が折れそうになる。静が支える。支える体勢が自然にできる。自然にできるのが怖い。怖いが、支えないと死ぬ。


 群れの男がこちらを見ている。


 昨日の見張りの男だ。目が冷たい。冷たい目は冬の目だ。冬の目は弱い者を捨てる目だ。


 静は女の腕を自分の肩に回し、女の体を半分背負うようにした。背負うと、背中に重さが戻る。重さが戻ると、静の体が少しだけ落ち着く。


 女の体温が、薄く伝わる。


 薄い体温でも、ないよりましだと思ってしまう自分が、静には怖かった。


 群れが動き出す。


 静は最後尾につき、女を支えながら歩いた。


 最初の数歩がいちばんきつい。体が冷えている。筋が硬い。痛みが鋭い。女の息が乱れる。乱れた息が静の首筋にかかる。


 静は歩幅を小さくし、滑らない場所を選び、段差を避けた。避ける動きが、昨夜の雪の上の動きと繋がっている。繋がる動きが、時間の積み重ねだ。積み重ねは、止まらない。


 女が小さく言った。


「しず」


 静の名だ。


 静は返事をしなかった。返事をすると、喉の奥が詰まりそうだった。


 女がもう一度言った。


「しず」


 静は短く息を吐き、返事の代わりに女の手を軽く握った。


 握ると、女の指が少しだけ強く握り返す。


 その握り返し方が、蓮の握り返し方と同じだった。


 静は前を見た。


 見ないと崩れる。


 歩き続けた。


 昼前、群れが川辺で休むことになった。水がある場所は体力の回復が早い。火を起こし、少しだけ食べ、少しだけ眠る。それが冬の生き方だ。


 静は女を岩陰に座らせ、水を飲ませた。


 女は手で水を掬い、ゆっくり飲んだ。昨夜の女とは違う。急がない。腹を守る飲み方だ。覚えるのが速い。速さは生きる力だ。


 静は女の腕に手を当てた。


 熱がある。熱の質が、病の熱に似ている。傷が膿み始めているのかもしれない。膿めば長くは持たない。


 静は薬草のようなものを探した。乾いた葉、苦い根、殺菌の匂いがする樹皮。知識は断片だ。断片でも、やらないよりましだ。


 静が樹皮を剥いでいると、女が静の手元を見ていた。


 見方が真剣だ。真剣な目は、未来を作る。未来を作る目が、今この時代にある。


 静はふと思った。


 もし蓮が、また来たのだとしたら。


 また来た、というのは、戻ったという意味ではない。戻らないと言った者が、戻ってきたのではない。別の形で、同じ場所に触れてきたということだ。


 静はそれを、認めていいのか分からない。


 認めると、旅が変わる。旅が変わると、終わり方も変わる。終わり方が変わると、静の孤独が形を変える。


 孤独が形を変えるのが怖い。


 怖いが、目の前の女は、確かに静を見ている。


 静の存在を、最初から知っているような目で見ている。


 その目は、静にとって久しぶりの居場所のように感じられてしまう。


 静は樹皮を噛み砕き、布に包んで女の腕に当てた。女が痛みに顔を歪める。歪めながらも、逃げない。逃げない強さがある。


 女は静を見て、口を開いた。


「れ」


 昨日の一音だ。


 女は続けようとする。だが言葉が途切れる。名前が出てこない。出てこないのに、必死に出そうとしている。


 静は止めた。


 止めるために、女の口元に指を当てた。指を当てると、女の目が見開かれる。驚きと、何か別の感情が混じる。混じるものを、静は見たくなかった。


 静は指を離し、首を振った。


「まだ」


 女は意味が分からないはずなのに、頷いた。


 頷き方が、蓮の頷き方と同じだった。


 静は目を閉じたくなった。


 閉じたら、涙が出るかもしれない。涙は弱さだ。弱さはここでは死だ。静は死なないが、女が死ぬ。


 静は目を開けた。


 川の向こう側に、人影が見えた。


 群れではない。数が少ない。三人。槍を持っている。動きが静かだ。狩りの動きではない。獲物ではなく、人を見ている動きだ。


 奪いに来る。


 そう判断するのに時間はいらなかった。


 群れの男たちも気づき、槍を構える。女たちが子どもを引き寄せる。火が揺れる。昨日と同じ形の危険が、また来る。


 静は女の手を握った。


 女の手が、静の手を握り返す。


 握り返しながら、女は川の向こうを見て、静を見た。


 その視線が、静の中の何かを確定させるようだった。


 蓮は、ここにいる。


 名前はまだない。姿も違う。声も違う。けれど、確かにいる。


 静は立ち上がった。


 立ち上がると、背中が軽い。軽いのは、決めたからだ。決めると人は軽くなる。軽い人は速く動ける。速く動ければ生き残れる。


 静は女を自分の背中側へ回し、槍を握った男たちの前に出た。


 前に出ると目立つ。目立つと危険だ。危険でも、今は前に出るべきだ。


 静は川の向こうの三人を見た。


 三人のうち一人が、こちらを指差した。


 指差した先は、女だった。


 女が怪我をしているのが見えるのだろう。弱い者を狙う。狙えば成功率が上がる。成功率が上がれば生き残る。単純な理屈の上に、また争いが積み上がる。


 静は槍を構えた。


 次の瞬間、女が静の背中を軽く押した。


 押された力は弱い。弱いが、意味がある押し方だった。


 静は振り返った。


 女は口を動かしていた。声は出ない。だが、形だけで分かった。


 静の名を呼んでいる。


 そして、もう一つ。


 静がいちばん聞きたくて、いちばん怖かった音の形。


 れん。


 まだ声にならない。けれど、口の形がそれだった。


 静の胸の奥が、熱くなった。


 熱くなったまま、静は前を見た。


 川を渡ってくる足音が増える。


 争いが始まる。


 その争いの中で、この時代は終わるかもしれない。


 終わったら、また時間が進む。


 進んでも、今度は手を離さない。


 静は槍を握り直した。


 最後に。


 ここまで読んでくださってありがとうございます。

 もしこの旅の続きを見届けたいと思っていただけたら、フォローや評価で応援してもらえると励みになります。次話では、この襲撃で静が「ある選択」を迫られます。そして女の正体に、現象としてもう一段だけ踏み込みます。

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