第2話 死という言葉が、まだない

 朝は、音から始まる。


 火の灰を掻く音。木の皮を剥ぐ音。水をすくって器に落とす音。まだ薄い空気の中で、人の動きがひとつずつ輪郭を持ち、野営地が起き上がってくる。


 静は目を開けたまま、火を見ていた。


 眠ってはいない。眠れない夜が続くと、体は眠りの入口だけを探り、入る前に戻ってくる。短い暗転のような時間が何度かあった気がするが、夢の形にはならなかった。夢になった瞬間、次の場所が変わる。静はそれを避け続けた。


 横を見ると、蓮が毛皮に包まれて丸くなっている。頬の色が少し戻っている。昨夜よりも呼吸が深い。薄い寝息が、静の袖口に触れる距離にある。


 静は立ち上がり、火のそばの枝を整えた。煙が増えないように乾いたものを選び、燃え残りを端に寄せる。火は、ここでは中心だ。火の世話ができる者は、少しだけ許される。


 そういう空気がある。


 静はその空気に合わせて動く。合わせながら、蓮から目を離さない。目を離した途端に、蓮が消えてしまう気がする。消えるのは蓮ではなく、自分が飛ぶ可能性だ。けれど静はそれを区別できない。区別できないまま、手を動かす。


 男のひとりが起きてきて、静を見た。


「火、いい」


 短い言葉。褒めているのか確認なのか分からない。静は頷いた。男はそれ以上何も言わず、器を取って水を飲んだ。


 女も起きてきて、荷をまとめ始める。昨日より手際が早い。夜に外の男が来たことが、空気を変えている。ここにはいられない。誰も口にしないが、誰もがそう動く。


 静は蓮を揺すって起こした。蓮は目を擦り、毛皮から顔を出した。目が静を捉えた瞬間、安心したように肩の力が抜ける。


「行く」


 静が言うと、蓮は頷く。言葉を全部理解していなくても、静の声の方向だけは理解している。準備をする動きになる。


 そのとき、離れた場所から声が上がった。


 大声ではない。叫びでもない。普段より少しだけ高い声だ。呼ぶ声。助けを求める声というより、集める声。


 静は振り返った。


 野営地の端、木々の影が濃い場所に、人が集まり始めている。集まるのは急ではない。みんな普段の歩幅で寄っていく。慌てる気配がないのに、視線だけがそこに吸い寄せられている。


 静は蓮の手を取って、その輪に向かった。


 人が集まる場所の中心には、地面に敷いた毛皮があり、その上にひとり横たわっていた。


 老人だ。


 顔に深い皺があり、頬骨が浮き、皮膚が乾いている。目は半分閉じている。胸が小さく上下しているが、上下の間隔が不規則だ。息が浅い。喉の奥で、何かが擦れるような音がする。


 静は近づき、距離を取ってしゃがんだ。


 周りには男も女もいる。子どももいる。誰も泣いていない。誰も騒いでいない。大声で祈る者もいない。あるのは、ただ見る時間だ。


 静は老人の口元を見た。


 唇が乾き、ひび割れている。唾液がない。舌の色が薄い。息を吸うたび、胸が少しだけ持ち上がる。その持ち上がりが、だんだん小さくなっている。


 これは終わりに向かう体だと、静には分かった。


 分かってしまうのが嫌だった。


 静は自分の喉に残る痛みを思い出した。息が止まったときの静けさ。止まったのに、苦しさが消えた瞬間。体が遠ざかり、音が薄くなった時間。


 あの感覚に似ている。


 老人の息の薄さが、同じ方向へ向かっている。


 隣で、蓮が老人を見ている。蓮の眉が寄っている。困っている顔だ。怖がっているというより、分からない顔。目の前の現象に、名前が付けられていない表情。


 女のひとりが器を持ってきて、老人の唇に水を触れさせた。老人の唇が動く。舌がかすかに水を探す。飲み込めない。水が唇からこぼれ、顎を伝って落ちる。


 女は何も言わず、布で拭った。


 男のひとりが、老人の手を握った。手を握るというより、手の存在を確かめるように包み込んだ。老人の指が少し動いた。反射の動きだ。意志ではない。だが、その小さな動きに、男は少しだけ息を吐いた。


 誰かが火の近くから灰を持ってきて、老人の胸のあたりに軽く擦った。灰の匂いが立つ。何のための動作か分からない。けれど、儀式というほど整っていない。習慣と癖が重なったような動作だ。


 静は周囲の顔を見回した。


 悲しみの顔がないわけではない。ただ、悲しみを言葉にしない。悲しみを外に出さない。出す必要がまだないのかもしれない。あるいは、出し方がまだ固まっていない。


 静は、そのことが分かってしまう。


 この人たちは、終わりを終わりとして扱う方法を、まだ知らない。


 終わりはただ、起きる。起きて、終わる。それだけだ。


 老人の息が、またひとつ浅くなる。喉の奥の擦れる音が弱くなる。胸の上下が小さくなる。目の焦点が、どこにも合っていない。


 静は、息を止めて見ていた。


 見ているだけで、体の中が冷える。


 老人の胸が、少しだけ持ち上がる。


 持ち上がって、戻る。


 次の上下が、来ない。


 静は、その瞬間が分かった。


 分かる、というより、空気が変わった。音が一枚薄くなった。老人の体が、そこにある物になった。生きている体と、そこにある体の違いが、静には分かる。


 周囲は、それをまだ確かめている。


 女が老人の頬に手を当てる。頬は冷え始めている。女は眉を寄せる。次に、老人の胸に耳を当てる。耳を当てて、何も聞こえない顔になる。


 女は顔を上げ、周囲を見た。


 誰も泣かない。誰も叫ばない。


 ただ、みんなが少しずつ近づいた。近づいて、老人を見た。見る目が変わる。見る目の変化はある。あるのに、それを言葉にしない。


 静は、その沈黙が怖かった。


 沈黙の中で、老人の存在の扱いが決まっていく。


 男のひとりが立ち上がり、老人の足元を持ち上げた。女が頭側を支える。ふたりで毛皮ごと老人の体を運ぶ。運ぶ動きは乱暴ではない。丁寧でもない。必要な動きだ。


 運ぶ先は、野営地から少し離れた窪地だった。土が柔らかい場所。湿った土の匂いが濃い。そこにすでに浅い穴が掘られている。昨日のうちに掘ったのか、もっと前に掘ったのか分からない。穴は、体が入る程度の大きさだ。


 静は、蓮の手を握ったまま、その様子を見た。


 蓮は黙っている。黙ったまま、目だけを動かしている。目の動きが、速い。怖いのではなく、理解しようとしている動きだ。理解できないものを、体に覚え込ませようとしている。


 男と女が老人を穴に下ろした。


 老人の体は、抵抗がない。重いが、重さの質が変わっている。生きている重さではない。静はそれを感じ取って、背中がぞわりとした。


 誰かが土を掬って、老人の体の上に落とした。


 土は湿っていて、鈍い音がする。土が毛皮に当たり、毛皮が沈む。老人の顔が少しだけ隠れる。


 土を落としたのは、若い男だった。若い男は何も言わず、もう一度土を掬って落とす。周りの人も順番に土を落とし始める。誰かが泣くわけでもない。誰かが祈るわけでもない。土が落ちる音だけが続く。


 静はその音を聞いていると、喉が乾いてくるのを感じた。


 これは区切りだ。


 区切りであることは分かる。分かるのに、周囲はそれを区切りとして扱う言葉を持っていない。


 静は土の匂いを吸い込み、息を吐いた。


 土が積み重なり、毛皮が見えなくなる。最後に、老人の手が一瞬だけ土の上に残る。指が土に触れ、少し曲がっている。誰かがその手をそっと土の中に押し戻した。


 それで終わった。


 終わったのに、誰も「終わった」と言わない。


 みんなが少しずつ散っていく。火の方へ戻る者、荷をまとめる者、木の実を拾いに行く者。日常がそのまま続く。続けるしかないという動きだ。


 静だけが、その場に残った。


 残って、土の盛り上がりを見ていた。


 盛り上がりの上に、湿った葉が貼りつき、虫が小さく動いた。風が吹き、草が揺れる。さっきまでそこにいた老人の体は、もう見えない。見えないが、そこにある。


 静は、言葉が喉の奥で止まるのを感じた。


 死。


 その言葉は、静の中にはある。あるのに、この場には置けない。置けば、場の空気が壊れる。壊れるというより、周囲の目が変わる。静が知っていることが露出する。


 静はそれを避けたい。


 避けたいのに、避けられないものがある。


 蓮が静の袖を引いた。


 静が振り返ると、蓮が静の顔を見ている。目が揺れている。揺れは、さっき見たときより大きい。蓮は土の盛り上がりを指差し、次に静を指差し、口を開いた。


「……なに」


 短い音。問いの音だ。意味ははっきりしている。蓮は今、問いを言葉にした。問いを持ってしまった。問いは、一度生まれると消えない。


 静は喉が詰まった。


 何と言えばいい。


 老人は、もう動かない。もう息をしない。もう目を開けない。もう食べない。もう歩かない。もう火を見ない。


 それらをまとめる言葉が、ここにはない。


 静は視線を落とした。土の盛り上がりを見て、次に蓮を見た。蓮の目が、静の口の動きを待っている。待ち方が、昨夜の名付けと似ている。静が言葉を置けば、それが蓮の中で形になる。


 静は、慎重に言葉を選んだ。


「……戻らない」


 蓮が瞬きをする。


「……どこ」


 蓮は指を土の盛り上がりに向ける。どこに行った。そこにいるのに、いない。見えない。理解が追いつかない。


 静は息を吐き、続けた。


「ここにいる。でも、起きない」


 蓮は唇を動かす。言葉が足りない。足りないのに、足りないことが分かった顔をする。それが、いちばん怖い顔だ。理解できないと分かった瞬間、人は次に理解しようとする。


 蓮が土を見つめ、しばらく黙った。


 やがて、蓮が静を見上げた。


「……しずも」


 静も、そうなるのか。そういう音だ。蓮はそこまで言えない。だが、目が言っている。問いはすでにそこまで伸びている。


 静は胸の奥が冷えるのを感じた。


 静はそうならない。


 少なくとも、今までそうならなかった。息が止まっても戻った。骨が砕けても戻った。戻って、また歩いた。戻って、また火を見た。


 けれど、それを蓮に言えるか。


 言えば蓮の中で、静が普通ではないと確定する。確定すれば、蓮は静を守ろうとするかもしれない。あるいは、蓮は静から離れられなくなるかもしれない。どちらも危険だ。ここでは、普通でないものは狙われる。外の男の目が、昨夜それを証明した。


 静は言った。


「……分からない」


 嘘ではない。分かっているようで、分かっていない。戻ることが当たり前になったせいで、戻れない可能性を考えるのが怖い。怖いから考えない。考えないから、分からないと言うしかない。


 蓮は静の答えを受け止め、土を見た。次に、自分の手を見た。指を動かし、握って、開く。生きている手の動きだ。蓮はそれを確かめるように何度も繰り返す。


 静は蓮の肩に手を置いた。


「行く」


 それ以上の説明はしない。する時間もない。仲間が荷をまとめている。移動が始まる。遅れれば置いていかれる。


 静と蓮が野営地に戻ると、女がこちらを見た。


「来い」


 短い命令。出発だ。


 静は蓮を背負った。蓮は昨日より少しだけ自分で歩こうとしたが、足の覆いが限界に近い。静は無理をさせない。無理をさせれば、倒れる。倒れれば遅れる。遅れれば終わる。


 森に入る。木々の匂い。湿った土。虫の声。遠くの水音。生活の音。ここでは、音が日常を作る。日常は続く。老人がいなくなっても続く。


 静は背中の蓮の重さを感じながら歩いた。


 蓮は静の首に腕を回し、顔を静の肩に埋める。埋めたまま、しばらく動かない。眠っているのかと思ったが、違う。蓮の指が時々強くなる。何かを噛みしめている。


 静は何も言わない。


 言えば、蓮の中の問いが増える。増えた問いは、いつか答えを要求する。答えを要求するのは蓮だけではない。周囲もだ。問いは漏れる。漏れた途端に、静の異物感は武器になる。


 森の中を歩きながら、静は自分の手のひらを見た。


 昨夜、火の中で枝を掴んだせいで、皮が少し剥けている。痛みがある。痛みがある限り、生きている。


 老人は、もう痛みを感じない。


 それが、死だ。


 静はその言葉を、心の中でだけ噛んだ。噛んで、飲み込まない。飲み込めば、喉から声になる。声になれば、世界に出てしまう。


 蓮の腕が少し緩む。顔が上がる気配がする。静は歩幅を変えずに言った。


「見るな」


 蓮は静の声を聞いて、また顔を伏せた。従う。従う理由が、信頼だからなのが怖い。信頼は簡単に折れない。折れないものは、傷になったとき深い。


 夕方、川沿いの岩場を避けて遠回りすることになった。女が指示を出し、男たちが周囲を警戒する。煙の見えた方向は避ける。外の群れがいる。争いは避ける。争いは怪我を呼ぶ。怪我は遅れを呼ぶ。遅れは死を呼ぶ。


 この世界では、全部が繋がっている。


 静は、背中の蓮の呼吸を感じる。


 蓮は生きている。


 生きている間に、蓮は学ぶ。言葉を覚え、概念を覚え、区切りを覚える。


 そしていつか、蓮はあの言葉を知る。


 死。


 静はそれを想像して、胸の奥が固くなるのを感じた。第6話で訪れるその瞬間の影が、今の夕方の光の中に薄く差している気がした。


 野営地が決まり、火が起こされる。昨日よりも警戒が強い。見張りを二人にする。女が静を見て言った。


「おまえも起きろ」


 静は頷いた。


 蓮は毛皮に包まれて座り、火を見ている。火を見る目が、昨日と少し違う。火の向こうを見ようとしている目だ。火の外側の闇の中に、何かを置いてしまった目だ。


 静は蓮の隣に座り、枝をくべた。


 火がぱち、と鳴った。


 静は言葉を飲み込んだまま、蓮の横顔を見た。


 今夜、蓮は眠るだろうか。


 眠ったとき、蓮は夢を見るだろうか。


 夢の中に、今日埋めた土の匂いが出てくるだろうか。


 静はそれを考え、喉の奥に嫌な味が戻ってくるのを感じた。


 そして、心の中でだけ、もう一度言った。


 この世界には、まだその言葉がない。


 けれど、蓮の中には、芽ができた。


 芽は、いずれ言葉になる。


 静は火の明かりの中で、その芽が育つのを止められないことを知っていた。

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