第1話 最初の、矢野蓮
焚き火は、腹の底を慰めるほどには温まらない。
火の周りだけが橙色で、それ以外は黒い。闇は厚く、木々の輪郭も、遠くの川の音も、全部ひとつの塊に溶けている。煙は湿った匂いを引きずって、喉の奥に引っかかった。
静は膝を抱えたまま、火を見ていた。
昼間は動いていれば忘れられる。木の実を探し、川で水をすくい、獣の気配を読み、仲間の機嫌をうかがう。役に立つふりをすることに、手足と頭を使い切っていれば、余計なことを考えずに済む。
夜は違う。
火がある。火は、人の世界を照らす。照らされた分だけ、影もはっきりする。自分の影が地面に落ち、それが呼吸するたびに伸び縮みするのを見ていると、体の中の空白まで見えてしまう。
空白の名前は、まだ付けられない。
静は枝を一本、火にくべた。乾いた音がして、火が少しだけ強くなる。火の熱が頬に触れ、その直後に冷えた空気が皮膚の上を滑った。夜の冷たさは、昼に見落としていたものを全部拾ってくる。
遠くで、仲間の寝息がする。毛皮に包まり、槍を抱えたまま丸くなっている。安全だと思っている顔だ。静だけが、眠れない。
眠ったら、次に目を開ける場所が分からない。
それは恐怖でもあったし、怒りでもあった。けれど、どちらにも言葉を与えると、急に嘘っぽくなる。静の中では、ただの事実だった。眠ると、世界が飛ぶことがある。暗い膜の中で時間が進み、目を開けた場所が、さっきとは違うことがある。
静は火を見つめ続けた。
火の中で、木が崩れる。赤い芯が割れ、灰が落ちる。その崩れ方は、骨が折れる音に似ていた。静は一度、目を閉じる。瞼の裏に、岩場の縁と白い空がよみがえる。
落ちる瞬間に見えた、あの白さ。
静は舌で唇を湿らせた。乾いている。喉も痛い。死んだ記憶は、体のどこかに薄く残っている。
そのときだった。
足音がした。
火がぱち、と鳴るのと同じくらい小さい音。だが、静の耳はそれを拾った。拾わずにはいられない。夜の森では、音は全部、意味を持つ。
静は身じろぎもせず、耳だけを澄ませた。
もう一度。葉が擦れる。枝が軽く折れる。慎重な足取りだ。獣ではない。獣なら、もう少し乱暴に音が鳴る。鳥でもない。鳥は夜に歩かない。
人だ。
仲間の誰かが、夜中に立ち上がったのか。水か。排泄か。あるいは、静を見張りに来たのか。昼間、役に立たない者は、夜に狙われる。火の外側は、法が弱い。
静はゆっくりと顔を上げ、闇の濃い方を見た。
火の光が届くぎりぎりのところで、黒い影が揺れた。
背筋が、冷える。視線が先に固まり、体がその後から追いつく。静は手を伸ばし、足元に置いていた石の刃を握った。欠けた刃の冷たさが、手のひらを引き締める。
「……誰だ」
声は小さくなった。小さくしても、夜の森では十分に響く。静は呼吸を整えようとしたが、喉が乾いていて、うまく息が回らない。
影は止まった。
静は目を細める。火の光の縁に、細い腕が見えた。肩が見えた。頭が見えた。大人ではない。背が低い。体が小さい。
次の瞬間、その影が火の方へ一歩踏み出した。
静は刃を構えた。構えながら、心のどこかで「殺してはならない」と思っている。なぜそう思うのかは分からない。分からないが、殺す気は起きない。
火の光に照らされた顔は、泥と煤で汚れていた。目が大きい。頬がこけている。口の端が切れていて、乾いた血が黒く固まっている。
少年だった。
年齢は分からない。十にも満たないように見える。髪は乱れ、毛皮らしきものが肩から落ちかけている。腕も脚も細い。骨が透けて見えそうなほどだ。
少年は静を見た。目が合う。
怯えているはずなのに、すぐには逃げなかった。逃げられないのかもしれない。足元がふらついている。冷えと空腹で、体の芯が抜けているような揺れ方だ。
静は刃を下ろさないまま、少年の両手を見た。武器はない。槍も石も持っていない。持てる力がないように見えた。
「ここに来るな」
言葉を選んだつもりだった。だが、少年は首を傾げた。理解していない。あるいは、理解するための言葉がない。
静は、次に別の言い方を試した。
「火。危ない」
火という概念は通じたらしい。少年の目が火に移り、吸い寄せられるように橙色を見つめた。口が少し開く。息が白い。夜の冷たさが、少年の体から熱を奪っていくのが見える。
静は刃を腰の紐に戻し、片手を少年に向けた。止まれ、という合図。少年は止まった。止まるだけで、足が震えている。
静は一歩、火の外側に出た。火の外に出ると、温度が落ちる。皮膚がきゅっと縮む。だが、少年はもっと冷えている。そういう冷え方だ。体の内側の水が、すでに少なくなっている冷え方。
「どこから来た」
静が尋ねると、少年は唇を動かした。声が出ない。喉が乾いているのだろう。少年は自分の首を押さえ、何か言おうとして、諦めたように肩を落とした。
静は、言葉を変える。
「食べたか」
少年は首を横に振った。小さく、しかしはっきりと。振った瞬間、よだれが口の端に光った。飢えの反射だ。
静は火のそばに戻り、袋のようなものを引き寄せた。昼間に拾った木の実と、乾いた肉片が少しだけ入っている。仲間に見つかれば叱られる量だ。今の自分の命綱でもある。
静は迷った。
迷う時間は短かった。短くても、その短さが自分を驚かせた。躊躇いより先に、手が動いた。
静は袋から木の実を二つ取り出し、掌に乗せ、少年の方へ差し出した。
少年は動かなかった。
目だけが掌を見る。手を伸ばす気配があるのに、伸ばせない。警戒だ。あるいは、罠だと思っている。夜に火のそばで食べ物を差し出されることが、普通ではないと知っている。
静は、ゆっくりと一つを自分の口に入れた。噛む。硬い。苦い。腹は満たされないが、口の中に味が戻る。飲み込むのに喉が痛い。
少年の目が、その動きを追う。
静はもう一つを、火の縁の地面に置いた。火から近すぎない場所。熱で焦げない位置。少年が一歩近づけば拾える距離。
少年は、その木の実を見つめたまま、数秒固まっていた。次に、恐る恐る足を運び、しゃがみ込む。指が震えている。指先が木の実に触れ、滑り落ちそうになる。
少年は二度目で掴み、すぐに口へ運んだ。
噛む。必死に噛む。歯が弱いのか、噛む力が足りないのか、時間がかかる。それでも少年は噛み続け、飲み込んだ瞬間、肩が少しだけ落ちた。
静は、袋からもう一つ取り出して置いた。少年は今度は少し速く拾い、同じように噛んだ。喉が鳴る音が聞こえた。飢えた人間の体の音だ。
静は少年を見た。
この少年は、どこから来たのか。仲間を失ったのか。追い出されたのか。逃げてきたのか。ここに来るまでに、どれくらい寒さを耐えたのか。
問いは次々に浮かぶが、どれも言葉にならない。静の中では、答えより先に、少年の存在が現象として立っていた。
火の前に現れた、小さな生き物。
それだけで、夜の孤独の質が変わってしまった。
少年は木の実を食べ終わると、静を見た。目が合う。視線はまだ警戒を含んでいる。だが、さっきより深く、静の顔を見ている。顔の形、目の位置、口の動き。覚えようとしている。
静は、少年の手を見た。指の節が赤い。霜焼けだろう。爪の間に土が詰まっている。擦り傷がいくつもある。小さな体で、生き延びようとした痕跡だ。
「……座れ」
静は火のそばの空いた場所を指した。少年はしばらく迷い、静の指の先を見て、火の縁に腰を下ろした。腰を下ろすだけで、肩が落ちる。疲れている。疲れが、骨まで届いている。
静は自分の毛皮を半分外し、少年の肩にかけた。少年はびくりとしたが、抵抗はしなかった。毛皮の温度が少年に移り、少年の体の震えが少しだけ減った。
静は、その変化を見て、胸の奥が一瞬だけ緩むのを感じた。
安心。
安心という言葉を使うのは好きではない。だが、今はそれしか当てはまらない。
火は燃え続ける。夜はまだ長い。仲間は眠っている。誰も、この少年の存在に気づいていない。気づいたらどうなるかは、静にも分かる。余計な口が増えたと思われる。食べ物を奪い合うことになる。少年は弱い。弱い者は、ここでは簡単に消える。
静は、少年の足元に視線を落とした。
少年の足には、何もない。草を束ねたものすらない。裸足だ。足裏がひび割れ、泥が固まっている。ここまで来るだけで、どれほどの痛みを踏んできたのか。
静は火のそばに残っていた紐を引っ張り、草を束ね、簡単な足の覆いを作り始めた。手が勝手に動く。昔からそうしてきたような動きだ。なのに、記憶はない。体だけが知っている。
少年は、その手元を見ていた。
静が紐を結ぶと、少年の目が少しだけ丸くなる。驚き。あるいは、信じられない、という反応。
静は出来上がった草の覆いを少年の前に置いた。履け、という意味で顎を動かす。少年は言われるままに足を入れ、ぎこちなく紐を引いた。うまく結べない。指がかじかんでいる。
静は黙って、少年の足元にしゃがみ込み、紐を結び直した。少年の足首は細く、軽い。骨と皮しかない。静の指が触れるたび、少年は一瞬だけ息を止める。だが、逃げない。逃げずに、静の頭頂部を見つめている。
結び終えると、少年は足を地面につけ、少しだけ体重をかけた。痛みが減ったのだろう。眉間の皺がほどける。少年は小さく息を吐いた。
静は立ち上がり、火の向こうに座り直した。
少年は毛皮を肩から落とさないように抱え、火の熱に顔を近づけた。まつ毛が火に照らされ、細く影を落とす。頬が少し赤くなる。命が戻ってくる色だ。
静は、少年が口を開くのを待った。自分から問い詰めても、少年は答えられない。言葉が足りない時代なのか、少年の経験が言葉を奪ったのか、どちらにせよ、急ぐほど傷が深くなる。
しばらくして、少年が小さく言った。
「……ひ」
ひ。火のことか。あるいは、寒いと言いたいのか。
静は頷き、火を指した。
「火だ」
少年は静の口を見て、同じように唇を動かした。
「……ひ」
静は少しだけ繰り返した。
「ひ、じゃない。ひ、は短い。火は、こっち」
どう説明すればいいのか分からないが、静は自分の舌の動きを意識しながら言葉を置いた。少年は真似をする。口がうまく動かない。喉が乾いている。だが、少年は諦めない。目が真剣だ。
静は水の器を取り、少年に渡した。少年は両手で受け取り、顔を器に近づけて飲んだ。水が唇からこぼれ、顎を伝う。少年は構わず飲み続けた。飲み終えると、器を抱えたまま、静を見た。
その視線が、妙だった。
感謝というには、早すぎる。警戒が解けたというにも、早い。もっと根の深い、理由のない確かさが混じっている。初めて会った相手に向ける目ではない。
静はその目を見て、背中の奥がぞわりとした。
知っている。
この少年は、自分を知っている。
そう思った。思った瞬間、理屈が遅れて追いつく。そんなはずはない。今日初めて会った。名前も知らない。年も分からない。どこから来たかも分からない。知っているはずがない。
なのに、少年の目の奥には、見覚えがある。
見覚えというより、見慣れている。何度も見たような目だ。何度も、別れたような目だ。
静は口の中が乾くのを感じた。火の熱があるのに、体の内側が冷える。
「……名前は」
静はゆっくり尋ねた。少年が理解できる範囲の言葉にする。名前。自分の名前が沖田静だと分かるのと同じように、少年にも名前があるはずだ。
少年は首を傾げた。意味が分からない。静は自分の胸を指し、言った。
「静」
少年は目を瞬いた。静の口の動きを追い、同じように唇を動かす。
「……し」
「静」
「……し、ず」
少年の声はかすれているが、音としては近い。静は頷いた。
「そう。静」
次に、静は少年の胸を指した。
「おまえは」
少年は指された場所を見て、戸惑った。言葉がない。静は一度息を吐き、別のやり方を選ぶ。
静は地面に小さな線を引き、そこに丸を描いた。次に、少年の方を見て、その丸を指し、口を動かした。
「……れん」
口から出た言葉は、自分でも驚くほど自然だった。
その瞬間、少年の目が大きく開く。
少年は静を見つめた。まるで、その音をずっと待っていたみたいに。火の光の中で、少年の瞳が揺れた。涙ではない。だが、水の膜が一瞬、光を反射した。
少年の唇が震え、声が漏れた。
「……れん」
静は、背中の奥が確かに動くのを感じた。心臓ではない。もっと深いところ。骨の中を通るような、引力の感覚。
静は口の中でその音をもう一度確かめた。
蓮。
なぜ、その名が出たのか分からない。少年が名乗ったわけではない。静が、勝手に口にした。けれど、少年は否定しない。否定しないどころか、その音にすがりつくように頷いた。
静は言った。
「蓮」
少年は頷く。頷きながら、突然、肩の力が抜けた。緊張が切れたのだろう。体が前に倒れそうになる。静は反射的に手を伸ばし、少年の肩を支えた。
少年はそのまま、静の腕の中に体重を預けた。
軽い。
あまりに軽くて、怖くなる。人間の体は、こんなに軽くない。軽くあってはいけない。食べ物が足りていない。熱が足りていない。生きるものに必要なものが、足りていない。
静は少年を抱え、火のそばの毛皮の上に寝かせた。少年は毛皮を胸まで引き上げ、すぐに目を閉じようとした。眠る。眠ってしまう。
静は少年の頬に手を当てた。冷たい。熱がない。静は毛皮をもう一枚引き寄せ、少年の上に重ねた。少年の呼吸が浅い。胸が小さく上下する。
「眠るな」
そう言うべきか迷った。眠らせない方がいいのか。眠ったら、少年は目を覚まさないかもしれない。けれど、眠らせないほどの力が少年に残っていない。眠りは、体が勝手に選ぶ最小限の回復だ。
静はただ、少年の口元に耳を近づけ、息の音を確かめた。小さい。だが、ある。ある限り、守れる。
静は自分の場所に戻らず、少年のそばに座った。火を大きくしすぎると煙が増える。煙が増えれば仲間が気づくかもしれない。火を弱めれば少年が冷える。静は枝の量を調整しながら、火を維持した。
夜は深い。星は見えない。雲が厚い。闇は相変わらず重い。だが、静の目の前には少年の寝顔がある。それだけで、闇の重さの質が変わる。
静は少年の顔を見つめた。
眠っている間、少年の眉間の皺がほどける。口の端の傷が、火の熱で少し柔らかくなる。頬の骨が目立つ。食べれば、もっと丸くなるはずの顔だ。
静はふと、自分の中に湧いた感情を確認した。
守りたい。
その感情は、今日初めて会った相手に向けるには強すぎる。強すぎて、説明がつかない。説明がつかないからこそ、怖い。自分の行動の根が、自分の外にあるような気がする。
静は少年の手を見た。小さな掌。指の間に傷。爪が欠けている。静はその手をそっと取った。冷たい。指先が自分の指に絡む。少年は眠っているのに、反射的に静の指を握った。
握る力は弱い。弱いが、離そうとしない。
静はその握り方に、胸の奥が締まるのを感じた。
何度も、こうだった。
そう思った。思った瞬間、静は眉をひそめる。何度も、とは何だ。今日は初めてだ。初めてのはずだ。
だが、少年の指は、初めて触れる指ではない。初めて触れるはずの肌なのに、体が驚かない。驚かないどころか、そこにあることが当たり前だと感じている。
静は自分の手を離そうとした。離そうとして、できなかった。少年が握っている。握り返している自分もいる。
火がぱち、と鳴った。
静は顔を上げ、周囲を確認した。仲間は眠っている。誰も起きていない。見張りの役目も、今夜は回っていない。静が勝手に起きているだけだ。起きているだけで、火の世話をしているだけで、罰になることもある。
静は火を少しだけ弱め、煙を抑えた。
少年の呼吸は、少しずつ深くなる。安心しているのかもしれない。ここに火があること、毛皮があること、誰かがそばにいること。そのどれかが、少年の体を「生きる側」に引き戻している。
静は少年の髪に触れた。泥が乾いて固まり、指が引っかかる。静は少しだけ水を指に含ませ、髪を撫でた。少年は眉を寄せたが、目は開けない。
静はふと、少年の首元に小さな痣があるのを見つけた。縄の痕のように、細い線が残っている。誰かに縛られたのか。引きずられたのか。あるいは、首に何かを巻いていたのか。
静の指が止まる。
静は自分の喉に痛みが残っていることを思い出した。息が止まった時の痛み。戻ってきた時の喉の擦れ。死の記憶が、喉に薄く貼りついている。
少年の痣と、自分の喉の痛みが、重なるような気がした。
静はその感覚を押し込めた。今は考えるべきではない。少年を眠らせる。夜を越える。朝になれば、仲間にどう説明するかを考えなければならない。少年を隠し続けるのは難しい。火の近くに少年がいれば、必ず誰かが気づく。
静は、朝になった瞬間のことを想像した。
男たちの目。女の冷たい声。食べ物の計算。余計な口が増えた、という判断。少年の価値を測る視線。役に立つかどうか。狩れるかどうか。運べるかどうか。足手まといかどうか。
静は唇を噛んだ。
自分は、役に立たない者として見られている。その自分が、さらに役に立たない者を連れてきた。そう見える。反論はできない。反論できる言葉も立場もない。
静は少年の顔を見た。
それでも、見捨てられない。
理屈は後からいくらでもつく。人が一人増えれば狩りの人数も増える。見張りの手も増える。成長すれば役に立つ。そういう理由を、後で並べることはできる。だが、本当の理由はそれではない。
静は少年の手をもう一度握った。
少年の指が、眠っているのに少しだけ動き、静の指を探すように絡む。まるで、失くしたものを取り戻すように。
静は小さく息を吐いた。
「蓮」
名前を呼ぶと、少年の眉がほんの少し動いた。呼ばれたことが分かっている。分かっているのに、安心して眠り続けている。
静はその反応に、胸の奥が熱くなるのを感じた。熱くなるが、火の熱とは違う。自分の中から出てくる熱だ。
静は火を見た。
火は揺れる。揺れながら、一定の形を保つ。崩れそうで崩れない。崩れたところで、また立ち上がる。火は、燃えるものがある限り続く。
静は、自分が落ちて死んだときのことを思い出した。
息が止まった。音が消えた。暗い膜の中に落ちた。そこから戻ってきた。戻ってきた場所は、落ちる前だった。けれど、太陽は動いていた。仲間の位置は変わっていた。世界は進んでいた。
静は、その現象を理解していない。理解していないが、体が知っている。死んでいる間、世界は進む。そして自分は戻る。戻る場所がどこになるのかは、その時々で違う。理由は分からない。選べない。制御できない。
静は少年を見た。
少年が自分を見たときの目。理由のない信頼。あの目が、静の中の現象と繋がっている気がした。繋がっている、というより、同じ糸で括られている。
静は自分の手を見た。
この手は、何度も少年の手を握ったことがあるのかもしれない。何度も、夜を越えたのかもしれない。何度も、別れたのかもしれない。何度も、名を呼んだのかもしれない。
そう考えた瞬間、静は頭を振った。
分からないことを、分からないまま確信するのは危険だ。危険だが、確信は勝手に湧く。湧いてしまう。
火が小さくなってきた。静は枝を足し、火を整えた。煙を増やさないように、乾いた枝を選ぶ。湿った枝は、火を汚す。汚れた煙は匂いで分かる。匂いは夜の森で遠くまで届く。
静は、見張りとしての体を作った。背筋を伸ばし、耳を澄ませ、目を闇に慣らす。少年が眠っている間に、何かが来るかもしれない。獣か。人か。あるいは、眠っている仲間が目を覚ますか。
時間はゆっくり進む。
夜が深くなると、森の音が変わる。虫の鳴き方が変わり、風の向きが変わり、木が軋む音が増える。川の音は一定だ。一定であることが、逆に怖い。一定の音は、意識を奪う。奪われると、眠りに落ちる。
静は眠れない。
眠りに落ちた瞬間、自分がどこへ行くか分からない。少年を置いて、どこかへ飛んでしまうかもしれない。飛んでしまえば、少年は朝まで生きられないかもしれない。
静は目を開け続けた。
火を見続けた。
少年の呼吸を聞き続けた。
どれくらい経ったのか。空の色が少し薄くなった。闇が、黒から青に変わる。森の輪郭が戻ってくる。鳥が鳴き始める。
朝だ。
静は肩の力を抜こうとして、抜けないことに気づいた。朝は危険だ。昼より危険だ。人の判断が動き始める時間だ。火が消えそうになれば、誰かが起きてくる。水を飲みに来る。木の実を探しに行く。狩りの支度を始める。
静は少年の肩にかけた毛皮を整え、顔にかかった髪を避けた。少年はまだ眠っている。眠っているが、呼吸は安定している。夜より少し温かい。静はそれだけで一度、安堵した。
そのとき、背後で人の気配がした。
静は振り返らずに、耳で確かめた。足音が近い。重い。大人だ。仲間の男の足音。寝ぼけた足取りではない。目が覚めている歩き方だ。
「静」
男が呼んだ。静はゆっくり振り返り、男を見る。男は火のそばに立ち、目を細めて静と、その視線の先の毛皮を見た。
「おまえ、夜番でもないのに起きてたのか」
静は頷いた。理由を言うべきか迷う。火の世話をしていた。眠れなかった。そう言ってもいい。だが、男の目はもう毛皮の膨らみに向いている。
男は一歩近づき、毛皮の下の形を見た。
静は立ち上がり、男の前に立った。視線を遮る。男は静の肩越しに覗こうとし、静は自然に体をずらした。
「何だ、それ」
男の声が低くなる。警戒と苛立ちが混ざった声。
静は一瞬だけ、喉が詰まる。ここで嘘をつけば、後が危険になる。だが、真実を言えば、その場で終わるかもしれない。
静は言葉を選んだ。最も短く、最も危険が少ない言い方。
「子どもだ」
男の眉が動いた。
「子ども?」
男が毛皮に手を伸ばす。静は反射的に男の手首を掴んだ。掴んだ瞬間、自分でも驚くほど強い力が入っていた。男の目が細くなる。
「触るな」
静の声が、思ったより固かった。
男は一瞬静を見て、鼻で笑った。
「触るな、だと。おまえが連れてきたのか」
静は掴んだ手を離した。離してから、手のひらに汗が滲んでいることに気づく。男は手首を軽く揉み、火の向こうへ顎をしゃくった。
「起こせ。見せろ。勝手に増やすな」
静は毛皮に視線を落とした。少年はまだ眠っている。眠りは浅い。人の声で目を覚ますかもしれない。目を覚まして、知らない大人の顔を見たら、少年はどうするか。逃げるか。怯えるか。固まるか。
どれも、危険だ。
静はしゃがみ込み、毛皮の端を少しだけめくった。少年の顔が見える。少年は瞼を動かし、ゆっくりと目を開けた。ぼんやりした目が、火の残りと静の顔を捉える。
次に、男の顔を見た。
少年の体が、固まった。
目が大きく開く。息が止まる。全身が、一瞬で緊張する。逃げたいのに逃げられない生き物の反応だ。少年の指が毛皮を掴み、指先が白くなる。
静は少年の視線を自分に戻すように、そっと名前を呼んだ。
「蓮」
少年の目が静に戻る。その戻り方が早い。迷いがない。静の声に引かれるように、視線が落ち着く。
男が、その名を聞き取った。
「蓮?」
男は少年を見下ろし、短く笑った。
「名までつけたのか。おまえ、何をしてる」
静は立ち上がり、男と少年の間に立った。
「捨てるなら、俺が背負う」
口から出た言葉に、自分でも驚いた。背負う。そんな約束が、この場所でどれほど重いか分かっているはずなのに、言ってしまった。
男は静を見た。目の奥が冷たい。
「背負えるのか。おまえは自分の腹も満たせてない」
静は答えなかった。答えられない。否定できないからだ。だが、答えなかったことで、男は静の覚悟を別の形で受け取ったのかもしれない。男は舌打ちをし、周囲を見回した。ほかの仲間が起き始めている。女が火に近づき、状況を見て眉をひそめた。
「何それ」
女が言う。静は同じ説明を繰り返す。
「子どもだ。夜に来た」
女は少年を見て、鼻で息を吐いた。
「増やす余裕なんてない。狩りも失敗続きだ」
男が肩をすくめる。
「静が背負うと言ってる。背負わせればいい」
女が静を見る。目に、計算がある。役に立たない者に負担を押しつければ、自分たちは楽になる。その計算は、この場所では自然だ。自然だからこそ、恐ろしい。
「背負うなら条件がある」
女は冷たく言った。
「今日の移動で遅れたら置いていく。静ごと。分かったね」
静は頷いた。
頷くしかない。拒めば、ここで終わる。頷けば、まだ道がある。道がある限り、工夫はできる。
少年が静を見上げている。目が揺れている。自分が原因だと分かっているのかもしれない。自分が来たせいで、この男たちと女たちの顔が険しくなったことを、肌で感じているのかもしれない。
静は少年の肩に手を置いた。強くは握らない。ただ、そこにいることを伝える程度の圧で。
「歩けるか」
少年は頷いた。頷くが、足元が不安定だ。昨夜作った草の覆いは、今も足にある。ないよりはましだ。だが、長い移動には耐えない。
静は袋を取り、残っていた乾いた肉片を小さく裂き、少年の掌に乗せた。少年はすぐに口へ入れ、噛んだ。噛む速さが昨夜より少し速い。生きる側に戻っている。
静はそれを見て、胸の奥が少しだけ軽くなる。
出発の準備が始まる。槍を持つ。毛皮をまとめる。火を消す。灰を散らし、匂いを残さないようにする。移動は静かに、素早く。野営の痕跡は、他の群れを呼ぶ。
静は少年の手を取った。少年の手はまだ冷たい。だが、握り返す力がある。少年は静の隣を歩く。歩きながら、何度も静の顔を見上げる。確かめるように。そこにいるかどうかを、何度も。
森に入る。木の影が濃くなる。湿った匂いが強い。足元の落ち葉が滑る。少年は何度かつまずき、静が腕を支える。仲間の男が振り返り、舌打ちをする。女が「遅れるな」と言う。
静は歩幅を調整し、少年がついてこれる速さで進んだ。自分の息が乱れる。腹が鳴る。だが、止まれない。止まれば置いていかれる。
しばらく歩いて、川沿いの石の多い場所に出た。水の音が近い。石は濡れている。苔が滑る。少年の足には危険だ。静は少年を背負った。背負うと、少年の体の軽さが背中に伝わる。軽い。軽すぎる。けれど、その軽さが、静にとっては重い。
重いのは体重ではない。守るという決め方だ。
川を越える。水は冷たい。足首まで浸かるだけで、感覚が奪われる。少年が背中で小さく身震いし、静の首に腕を回す。力は弱いが、必死だ。静は少年の腕の細さを感じ、歯を食いしばった。
向こう岸に渡ると、女が言った。
「静、今日は狩りの役はなし。運び役。遅れたら終わり」
静は頷く。男たちは先へ行く。静は遅れないように歩く。少年を背負ったまま。背中の少年の呼吸が、静の首元に当たる。温かい。少しずつ温かくなる。生きている温度だ。
静は歩きながら、少年の名前をもう一度、心の中で確かめた。
蓮。
その名は、昨夜、静の口から勝手に出た。理由は分からない。だが、少年がその名を受け取った瞬間、世界が一度だけ整った気がした。整ってしまったことが、逆に怖い。
なぜ、知っている。
なぜ、呼べる。
なぜ、少年はその名で頷いた。
問いは、答えを持たない。答えを持たないまま、静の中で沈殿していく。沈殿したものは、いつか濃くなる。濃くなったとき、静はそれを飲まされるのだろう。
昼が近づき、光が森の隙間から落ちる。仲間が休憩を取る。静も木の根元に少年を降ろし、水を飲ませた。少年は器を両手で抱え、静の手の動きを真似るように飲む。
飲み終えると、少年が静を見て、口を開いた。
「……しず」
静は目を瞬いた。自分の名前だ。まだ不完全な音だが、呼んでいる。
「静だ」
静が言うと、少年は頷き、もう一度言った。
「……しず」
静は少年の頭に手を置き、軽く撫でた。少年は目を細める。その表情が一瞬だけ、懐かしいものに見えた。今日初めて見たはずの顔なのに、昔から知っている顔に見える。
静は手を引っ込めた。考えすぎだ。疲れている。腹が減っている。夜に眠っていない。だから、世界が歪んで見える。
だが、少年は静を見続ける。
その視線が、ただの子どもの依存ではないことだけは分かる。静の中の何かを、正確に探っている。探って、見つけて、そこに手を伸ばしている。
休憩が終わり、また歩き出す。
森が途切れ、草地に出た。風が強い。空が広い。遠くに煙が見える。別の群れかもしれない。仲間がざわつき、進路を変える。女が指示を出し、男たちが周囲を警戒する。
静は少年の手を引き、遅れないように歩いた。少年の足元はまだ危うい。草の覆いは、すでにほつれている。紐が緩み、草がずれる。静は歩きながら結び直した。結び直すたびに、少年が静を見上げる。目が離れない。
夕方、野営地が決まった。小さな窪地。風が弱い。水が近い。火を起こす。男たちが枝を集め、女が火種を作る。少年は静のそばから離れない。離れないまま、静の手元を見ている。
静は少年に木の実を渡した。少年は受け取り、食べた。食べ方が少しだけ落ち着いた。咀嚼が増え、飲み込みが遅くなる。体が食べ物を受け入れる余裕を取り戻している。
夜が近づく。空が赤くなり、森が黒くなる。
火が安定すると、男のひとりが静に言った。
「おまえ、今日は寝るな。おまえが連れてきた。おまえが見張れ」
当然だ。静は頷いた。
少年は静の袖を掴む。掴む指が少し強い。昼より強い。少年は言葉で抗議できない代わりに、体で静を繋ぎ止める。
夜、焚き火の前に静と少年だけが残った。仲間は毛皮に潜り、寝息を立て始める。火の外側が闇に飲まれ、火の内側だけが人の世界として残る。
昨夜と同じ光景。
同じはずなのに、静の中の感覚が違う。孤独が、形を変えた。孤独は消えていない。むしろ、濃くなっている。守るものができた分、孤独が刺さる場所が増えた。
静は火を見た。少年も火を見た。火の中で木が崩れ、灰が落ちる。灰が舞い上がり、夜の空へ消える。
少年が、静を見た。
その視線は、昨夜より確かだ。警戒は薄い。恐怖も薄い。その代わり、別のものがある。信頼。だが、ただの信頼ではない。もっと根の深い、決め打ちのような信頼。
静は少年の視線を受け止め、静かに言った。
「蓮」
少年が頷く。
静は続けた。
「ここにいる間は、俺のそばから離れるな」
少年は言葉の全部は理解していない。だが、静の声の意味は掴んでいる。離れるな。そばにいろ。そういう指示の音として受け取っている。
少年は静のそばに寄り、毛皮を引き寄せて座った。火の熱が頬を照らす。少年の頬の色が、昨夜より少し濃い。
静は、その色を見て安心しかけて、すぐに自分を戒めた。
安心は油断を呼ぶ。油断は死を呼ぶ。ここでは、死は簡単に起きる。そして自分だけが、死んでも戻る。そのことが、今夜はひどく嫌だった。
静は自分の喉に手を当てた。まだ、薄い痛みがある。死の名残だ。自分の体が普通ではないことを、毎日思い出させる印だ。
少年の首元の痣が、火の光で一瞬見えた。少年は毛皮で隠すように首をすくめる。痣を隠す動き。痛みの記憶を隠す動き。
静は言葉にしなかった。今は聞く時ではない。
火が少し小さくなる。静は枝を足す。枝を足す手が止まる。火の向こう、闇の境目で、何かが動いた気がした。
静は耳を澄ませる。
足音。
昨夜と同じ、慎重な足音。
静の背中に冷たいものが走る。仲間は寝ている。見張りは静だけ。静は石の刃を握り、闇を見た。
少年も気づいたのか、体を強張らせる。静の袖を掴む指が強くなる。
闇の中から、影が一つ、火の縁へ近づいた。
昨日の少年とは違う。背が高い。大人だ。肩幅がある。手に何か持っている。槍ではない。棒のようなもの。
静は立ち上がり、火の前に出た。
「誰だ」
影は止まる。火の光が、その顔を照らした。
見覚えのない顔。
仲間ではない。
他の群れだ。あるいは、ひとりで歩く者。どちらにせよ、夜に火へ近づく人間は、良い目的では来ない。
相手は静を見て、口元を歪めた。言葉は通じる。通じるが、静の仲間より少し発音が違う。地域が違う。
「火を分けろ」
男が言った。命令だ。交渉ではない。
静は刃を見せた。小さな刃だ。大人の男には通用しない。だが、見せないよりましだ。
「帰れ」
静が言うと、男は笑った。
「帰る? どこへ」
男の目が、火のそばの少年へ向いた。少年は毛皮に潜り、目だけを出している。男の目が、その目を捉えた瞬間、光が増した。
「子どもがいるな」
男の声が低くなる。欲が混じる声。
静の腹の底が冷える。女たちのいない夜。見張りが静だけ。少年がいる。最悪の条件が揃っている。
静は一歩、火の外側へ踏み出した。火の光が背中に当たり、自分の影が前へ伸びる。影は細く、頼りない。だが、影が伸びること自体が、ここに立っている証拠だ。
「帰れ」
静はもう一度言った。
男は鼻で笑い、棒を持ち上げた。棒の先に、石が括りつけられている。簡単な棍棒だ。武器として十分だ。静の刃より長く、重い。
男が言った。
「火と食い物。あと、その子だ」
静は息を吸った。喉が痛む。喉の痛みが、死の記憶を呼び戻す。呼び戻すと同時に、別の確信も呼び戻す。
自分は死んでも戻る。
だが、少年は戻らない。
静は刃を握り直し、男を見た。
男が一歩踏み出す。
その瞬間、少年の声が、初めてはっきり響いた。
「しず」
静の名。
静は一瞬だけ、視線を少年に向けかけて、すぐに戻した。戻したが、その一瞬で十分だった。少年の目が、恐怖の中でも静を信じ切っていることが分かった。
その目が、静の中の何かを決めた。
静は男に向かって言った。
「ここには何もない」
男は笑う。
「あるだろ」
静は答えず、次の瞬間、火のそばの灰を足で蹴り上げた。灰が舞い、男の目の前に散る。男が反射的に目を細める。その一瞬に、静は男の足元へ滑り込み、刃を男の脛に当てた。切るのではなく、当てる。脅しの位置。
男が呻き、棍棒を振り下ろす。静は横へ転がり、棍棒が地面を叩く音が夜に響いた。仲間が起きるかもしれない。だが、起きるまでの時間は短い。短い時間で決めなければならない。
男が棍棒を持ち直し、静へ迫る。静は距離を取る。火の周りを回る。男の足が火の縁に近づき、石が熱で跳ねる。男が一瞬足を引く。その隙に、静は少年の方へ目配せした。
少年は動けない。動けば狙われる。静は少年の前に立ち、男の進路を塞いだ。
男が苛立ち、棍棒を振り上げる。
静は、その棍棒の影を見た。影が落ちる。落ちる先が、自分の頭だと分かる。
静は刃を投げた。
投げた刃は棍棒を持つ腕には届かなかった。だが、男の肩に当たり、男の動きが一瞬乱れる。その一瞬で、静は火の中へ踏み込んだ。火の熱が顔を焼く。皮膚が痛む。だが、熱は痛みとして残る。痛みが残る限り、動ける。
静は火の中の燃え残った太い枝を掴み、男へ突き出した。
男が咄嗟に棍棒で払い、火の粉が散る。火の粉が男の腕に当たり、男が呻く。皮膚が焦げる匂いがした。男の表情が怒りに変わる。
男が突っ込んでくる。
静は体をひねり、男を火の縁へ誘導した。男の足が火の縁の石に乗り、滑る。苔で濡れた石だ。男の体が傾く。
静はその傾いた体に肩を入れた。押す。押し切るほどの力はない。だが、男は体勢を崩している。崩れた体は、簡単に倒れる。
男が地面に転がり、棍棒が手から離れた。
静は棍棒を足で蹴り、火の反対側へ飛ばした。男が起き上がろうとする。静は燃えた枝を構え、男の顔の前へ突き出した。
「来るな」
男は息を荒くし、静を睨んだ。静の頬も焼けている。髪の先が焦げた匂いがする。目が痛い。涙が勝手に出る。だが、視線は逸らさない。
男は舌打ちをし、ゆっくりと後退した。闇へ戻る。戻りながら、少年をもう一度見た。欲がまだ残っている目だ。
「覚えておけ」
男が言って、闇に消えた。
静はその場に立ち尽くし、耳を澄ませた。足音が遠ざかる。完全に消えるまで、動けない。動けば追ってくるかもしれない。追ってきたら、次は持ち物だけでは済まない。
やがて、足音が消えた。
静は膝から力が抜け、火のそばにしゃがみ込んだ。手が震えている。焼けた頬が痛い。指の皮が少し剥けている。火の熱が、体に痕を残している。
少年が静のそばへ寄り、毛皮の隙間から手を伸ばした。静の指に触れる。触れて、ぎゅっと握る。
静は少年を見た。
少年の目は、泣いていない。だが、深いところで震えている。震えながらも、静から視線を逸らさない。離れない。
静は少年の頭に手を置いた。さっきより、強く置いた。生きていることを確かめるように。
「大丈夫だ」
そう言うしかなかった。大丈夫ではない。男は戻ってくるかもしれない。今夜だけでは終わらないかもしれない。だが、言葉は時々、現実を支える柱になる。
そのとき、背後で仲間が起きる気配がした。寝息が途切れ、毛皮が擦れる音がする。男のひとりが身を起こし、火の方を見る。
「今の音……何だ」
静は立ち上がった。息を整えようとする。整わない。喉が痛い。頬が熱い。火の粉が髪に残っている匂いがする。
女も起き、こちらを見た。目が鋭い。
静は言った。
「来た。外のやつが」
男が周囲を見回し、棍棒が飛ばされた方を見る。女が眉をひそめる。
「子どもを見たんだね」
女の声が低い。状況を理解している声。
静は頷いた。頷きながら、少年の手を離さなかった。少年は静の袖を掴んでいる。掴む力がさらに強い。
女は言った。
「明日、移動する。ここにはいられない。狙われる」
静は答えた。
「分かってる」
女は静の頬の火傷を見て、短く言った。
「おまえ、死ぬなよ」
静はその言葉に、一瞬だけ目を瞬いた。
死ぬなよ。
ここでその言葉は普通だ。死ねば終わりだからだ。けれど、自分にとっては違う。死んでも終わらない。終わらないからこそ、死ぬことが別の意味を持つ。
静は女に、ただ頷いた。
火が揺れる。
少年が静を見上げ、唇を動かした。
「しず」
静はその呼び方を聞きながら、胸の奥が嫌な形に締まるのを感じた。
この名を呼ばれるのは、初めてではない。
そういう確信が、また湧いた。
確信は危険だ。危険だが、確信は消えない。消えないまま、静の中で根を張っていく。
静は火を見た。
火は燃える。燃え残った枝が崩れ、灰が落ちる。灰は、夜の空へ上がり、見えなくなる。見えなくなっても、そこにあったことは消えない。
静は少年の手を握り返した。
少年が、少しだけ微笑んだ。
静はその微笑みを見て、背中の奥で、何かが決まってしまう音を聞いた気がした。
これは、始まりだ。
ただの子どもを拾った夜ではない。名を呼んだ夜だ。名付けは、関係を固定する。固定した関係は、簡単には切れない。切れないからこそ、何度でも引き戻される。
静は、まだ知らない。
この夜が、これから何度も形を変えて繰り返されることを。
この名が、時代を越えて何度も自分の喉を通ることを。
そして、そのたびに、守れなかったものの重さが増えていくことを。
静は火を見つめながら、少年の手を離さずに、夜がもう一度深くなるのを待った。
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