第3話 同じ日が、二度来ない

 朝の匂いが変わると、季節が動いたことが分かる。


 土が甘くなる。湿り気が増える。火の煙が、昨日より低く漂う。草の先の冷たさが、皮膚に残る時間が長い。


 静は火を消しながら、その変化を舌の奥で確かめた。


 同じような朝は何度もある。だが、同じ朝は二度と来ない。空の色も、風の向きも、草の鳴り方も、必ず少しずつ違う。


 この世界では、その少しの違いが命を分ける。


 野営地の外れで、女が手早く荷をまとめている。男たちが槍を確認し、紐を締め直し、石の刃を研ぐ。誰も多くは喋らない。喋る余裕がない。夜に来た外の男の影が、空気の底に沈んでいる。


 蓮は毛皮を肩に掛け、静の隣に立っていた。足元の草の覆いは、昨夜のうちに静が作り直した。紐を太くし、草を新しく束ねた。雑だが、歩ける。


 蓮は自分の足を見下ろし、次に静の顔を見た。


 その見方が、少し変わっていた。


 昨日、土の盛り上がりを見た目だ。戻らないという言葉を聞いた目だ。理解できないものに触れたとき、人の目は長くなる。見ているものの向こうまで見ようとする。


 静は目を逸らさずに、蓮の頭に軽く触れた。


「行く」


 蓮は頷いた。


 移動が始まる。


 森の中を進む。木々の間を縫うように歩き、昨日避けた岩場の近くは遠回りする。草を踏む音が集団の息になる。鳥が飛び立つ音がする。遠くで獣の気配が動く。風が一度だけ強くなり、葉がざわりと鳴った。


 静はその音に、無意識に肩を強張らせた。


 音は、来るものの前触れになる。


 静が過剰に反応することに気づいている者は、ここにはいない。気づかれては困る。静の中には、理由のない確信が増えている。確信が増えると、それは癖になる。癖は目に出る。


 静は自分の目を抑えるように、視線を地面に落とした。


 足元には、枯れ葉がある。湿った土がある。小さな芽が、土の中から出ている。芽は昨日より確かに増えている。増えているということは、季節が動いている。


 季節が動けば、食い物の位置も変わる。


 今日の移動は、いつもより速い。


 女が先頭で、方向を決めている。男たちが左右に散り、外の気配を探る。静は最後尾に近い位置に置かれた。蓮を抱えているからだ。遅れたら終わり。昨日言われた条件が、今日も空気の中にある。


 昼に近づくにつれて、腹の音が増える。


 木の実を探す者が、歩きながら視線を地面に落とす。草の間を指で掻き分け、見つけたものを口に入れる。静も同じ動きをするが、今日は見つからない。季節の境目は、食べ物が薄い。


 それが、集団の気分を荒くする。


 荒くするが、誰もそれを言わない。言わない代わりに、動きが雑になる。雑な動きは音になる。音は外に漏れる。漏れれば、他の群れや獣に気づかれる。


 悪循環だ。


 静はそれを知っている。知っているが、止められない。止められる立場ではない。


 昼過ぎ、女が足を止めた。


 小さな沢がある。水は澄んでいる。だが、周囲に草の影が少ない。隠れる場所がない。ここで長居はできない。女は短く手を振り、休憩を指示する。


 男たちが槍を地面に立て、周囲を見張る。


 女が静に目を向けた。


「食い物、探せ」


 静は頷き、蓮を地面に座らせた。


「ここ」


 静が言うと、蓮は毛皮を握りしめ、静の足元の影に身を寄せた。影は薄いが、蓮はそこを選ぶ。静の影の中にいると、安心する。


 静は沢沿いの草を掻き分け、根や小さな実を探した。指先が冷たい水に触れ、皮膚が締まる。湿った土の匂いが、鼻に入る。虫が動く。小さな虫が、生命の小ささで這う。


 だが、食べ物がない。


 土の中にあるはずの根が少ない。木の実も落ちていない。季節の境目は、こういう空白を作る。空白が、集団を尖らせる。


 静が戻ると、蓮が立ち上がっていた。


 蓮は静がいない間、じっとしていられなかったらしい。周囲の大人たちが食べ物を探す動きを見て、自分も同じようにしようとしている。


 蓮は沢の近くの石の下に手を伸ばし、何かを掴んだ。


 蓮が手を引き上げた瞬間、静の背中が冷える。


 小さな蛇だった。


 細い体。まだ成長していない。だが、頭の形が鋭い。牙がある種類かどうかは分からない。分からないが、蛇は蛇だ。噛まれれば終わることがある。


 蓮はそれを食べ物だと思ったのだろう。掴んだまま目を輝かせ、静の方へ見せるように持ち上げた。


「しず」


 蓮が呼ぶ。


 その瞬間、蛇が体を捻り、蓮の指に噛みついた。


 蓮が声にならない声を出し、手を振る。蛇が飛ぶ。飛んだ蛇が地面に落ち、草の中に滑り込む。


 蓮は指を押さえ、目を大きく開いた。口が開いたまま息を吸い、吐けない。痛みが急に来たときの体の反応だ。


 男のひとりが気づき、近づいてきた。


「何してる」


 男の声は低い。怒りというより、苛立ちだ。苛立ちは腹から来る。腹が減ると苛立ちは増える。


 男は蓮の指先の小さな傷を見て、舌打ちをした。


「余計なことを」


 別の女も近づき、蓮を見下ろした。


「動くなって言われただろ」


 蓮は言葉を理解できない。だが、声の温度は分かる。冷たい声は体を縮める。蓮は肩をすくめ、静の方へ一歩下がった。


 男が静を睨む。


「おまえが見てろと言っただろ」


 静は一瞬だけ、返す言葉を探した。探して、やめた。反論はできない。反論したところで、蓮が危険にさらされる。


 静は蓮の前に立った。


「俺が見る」


 静は短く言う。


 女が鼻で息を吐く。


「見るなら、余計な口を増やすな」


 静は頷いた。


 蓮は静の背中に隠れる。隠れながら、指の痛みを押さえている。指から血が滲む。血は赤い。赤い血を見ると、静の中の記憶が勝手に動く。落ちたときの赤。骨が折れたときの赤。戻ってきたときの赤。


 静はそれを振り払うように、蓮の手を取った。


 噛まれた場所は小さい。だが、腫れが始まっている。毒かどうかは分からない。分からないことが、いちばん怖い。


 静は水で傷を洗った。蓮は声を押し殺して息を吸い、肩を震わせた。泣かない。泣く余裕がない。泣き方を知らないのかもしれない。痛みは体の中に溜まっていく。


 静は蓮の指を布で軽く巻いた。


 男がそれを見て言った。


「今日は遅れんなよ」


 静は頷いた。


 休憩が終わり、移動が再開される。蓮は歩こうとするが、指の痛みでバランスが悪い。静は蓮を背負った。蓮は静の首に腕を回し、顔を静の肩に押しつける。息が少し速い。痛みがまだ続いている。


 静は歩きながら、蓮の腕の重さを受け止める。


 守る側になった、という感覚が静の中で固まっていく。


 守る側というのは、強い側という意味ではない。選んだ側という意味だ。誰かの命が自分の判断にかかる。そういう位置に、自分から足を踏み入れた。


 夕方、空が曇り、風が湿った。


 遠くで雷のような音がした。山の向こうで鳴っている。雨が来る。雨が来れば、火が難しい。火が難しければ、夜が長くなる。夜が長くなると、腹が鳴る。腹が鳴ると、人が荒れる。


 静はその連鎖を見ている。


 見ているだけで、止められない。止められないことが、静の中の苛立ちになる。苛立ちは言葉にならず、体に残る。肩が硬くなる。手が冷たくなる。


 野営地が決まったのは、雨が降る前だった。


 木々の根が張った窪地。風が弱い。だが、湿り気が多い。火を起こすのに時間がかかる。男たちが枝を集め、女が火種を作る。煙が低く、目に沁みる。


 蓮は静の隣に座り、指を布で巻いたまま、火を見ている。


 火の明かりが蓮の顔を照らす。火に照らされた顔は、昨日より少し子どもらしく見える。食べ物を少しでも口にしたからだ。だが、目は子どもらしくない。今日、蛇に噛まれた。責められた。静が庇った。そういう出来事は目に残る。残ったものは顔を変える。


 静は蓮に木の実を二つ渡した。


 蓮は受け取り、食べた。食べ方が少し丁寧になっている。噛む回数が増え、飲み込むのが遅い。体が「食べる」を覚え始めている。


 静はその様子を見て、胸の奥が少しだけ緩む。


 そのとき、女が静に視線を向けた。


「静」


 静は顔を上げる。


「明日、狩りに出る。おまえは残って、子どもを見ろ」


 静は頷いた。


 狩りに出られないのは、役に立たないという印だ。だが、今はそれでいい。狩り場で蓮を守れないより、ここで守る方が確実だ。


 男が火の向こうから言った。


「子どもがまた何かしたら、おまえごと捨てる」


 静は頷いた。


 言い返さない。言い返した瞬間、蓮の立場が悪くなる。静は蓮を守るために、怒りを飲み込む側を選ぶ。


 夜が深くなる。


 雨が降り始める。葉を叩く音が増える。火の煙が湿って、目が痛い。火が小さくなり、枝がすぐに湿る。火を維持するのに手間がかかる。


 静は火の世話をしながら、蓮の指の腫れを確認した。少し腫れている。赤い。熱を持っている。毒かどうかは分からない。だが、今のところ息は普通だ。目もはっきりしている。


 蓮は静の手元を見ていた。


 静が布をほどき、傷を見せると、蓮が目を細める。痛みがあるのに、痛みを外に出さない。出し方が分からないのか、出すと危険だと学んだのか。


 静は布を巻き直し、蓮の肩を軽く叩いた。


「寝ろ」


 蓮は首を振った。


 静は一度だけ息を吐いた。寝ないと言われると困る。静は眠れないが、蓮は眠るべきだ。眠って体を回復させなければ、明日歩けない。歩けなければ置いていかれる。


 静は言い方を変えた。


「目、閉じろ。ここにいる」


 蓮は静を見た。静の声の意味を確かめ、ゆっくりと毛皮に潜り込んだ。目が完全には閉じない。閉じかけて、静を見て、また閉じかける。


 静は火を見ながら、蓮の目の動きを感じた。


 雨音が一定になる。一定の音は眠りを呼ぶ。静は眠りを拒む。拒むために、火を維持し続ける。枝を足し、灰を寄せ、煙を抑える。手が熱くなり、皮膚が痛い。痛い方がいい。痛いと意識が保てる。


 ふと、蓮が小さく動いた。


 寝返りではない。体がびくりと跳ねた。夢の中で何かを見たような動きだ。


 静は蓮の顔を覗き込んだ。


 蓮の眉が寄っている。口が少し開き、息が速い。指先が毛皮を掴む。掴む手が震える。


 静は蓮の額に手を当てた。熱い。熱が上がっている。蛇の毒か、それとも傷の炎症か。分からない。分からないが、熱は熱だ。熱は体の中の危険信号だ。


 静は水を含ませた布で、蓮の額を拭った。蓮が目を開け、静を見る。目が潤んでいる。泣いているわけではない。熱で目が滲んでいる。


 蓮が小さく言った。


「……きょう」


 今日。蓮は今日を言った。今日という言葉の形はあっても、今日がどんな区切りかはまだ知らない。今日が終わり、明日が来る。その繰り返しが、当たり前だと思っている。


 静は蓮の頬を撫で、短く言った。


「明日も来る」


 言った瞬間、静の中に嫌なものが刺さった。


 同じ日が二度来ないことを知っているのは、静だ。


 季節が変わる。食べ物が変わる。人が変わる。体が変わる。昨日の老人は今日いない。今日の蓮は明日同じではない。明日の蓮がここにいる保証もない。


 そして、静自身にとっては、明日が必ず来るとも限らない。


 死ねば、明日が飛ぶことがある。飛んだ明日が、どこへ行くか分からない。戻る場所も、戻る時間も、静は選べない。


 静は蓮に向けた言葉が、自分への嘘になった気がして、喉の奥が乾く。


 蓮は静の手を握った。


 熱い手だ。熱い手が静の指を掴む。掴む力は弱いが、離そうとしない。


 静はその手を握り返し、言葉を修正した。


「明日を、迎える」


 迎えるという言葉には、努力が入る。勝手に来るのではない。迎えに行く。守って、越えて、迎える。蓮はそのニュアンスは分からないだろう。だが、静の声の硬さは分かる。


 蓮は目を閉じた。


 雨音が続く。火は小さく揺れる。煙が低く漂い、目が痛む。


 静は火のそばに座り、夜の外側の闇を見た。


 外の男が来るかもしれない。来ないかもしれない。どちらにせよ、静は見張る。蓮の熱が上がるかもしれない。下がるかもしれない。どちらにせよ、静はここにいる。


 守る側になるというのは、結局こういうことだ。


 守ると決めた相手の変化を、全部見続ける。見続けても、全部は止められない。それでも、見続ける。


 夜が少しだけ薄くなる頃、雨が弱まった。


 空の色が変わる。鳥の声が戻ってくる。火の匂いが少しだけ軽くなる。


 蓮の額の熱は、ほんの少し下がっていた。完全ではないが、息が落ち着いている。


 静は息を吐き、火を整えた。


 同じ日が二度来ない。


 だからこそ、今日の小さな出来事が、明日には別の形で返ってくる。


 蛇の傷。土の盛り上がり。戻らないという言葉。静が庇ったという事実。集団の目。外の男の影。季節の匂い。


 全部が繋がって、次の一日を作る。


 静はその繋がりの中に、蓮を入れてしまった。


 蓮は静を信じている。信じているから、静の近くにいる。静はその信頼の重さを知っている。知っているから、言葉にできない。


 朝が来る。今日が始まる。


 静は火を見て、蓮を見た。


 そして、物語を追ってくれる人に向けて、最後に短くだけ、書き手としての声を置く。


ーーーーーーーーーー

 ここまで読んでくださってありがとうございます。

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