第7話 遺族会:忘れられない者たち
公民館は、区役所よりも古い匂いがした。床のワックス、暖房の埃、紙の湿気。入口に貼られた催し物のポスターが色褪せている。色褪せた紙は、長くそこにあった証拠だ。
会議室の前に小さな札が立っていた。遺族会。時間は十九時。部屋の中から湯の沸く音が聞こえた。ポットの湯が沸く音は、家庭の音に近い。
扉を開けると、長机がコの字に並び、椅子が等間隔に置かれていた。等間隔は、距離を保つための配置だ。真ん中のテーブルに紙コップが積まれ、インスタントコーヒーと砂糖の袋が並んでいる。紙コップは白い。白い紙は、何も書かないための白だ。
窓際に小さな石油ストーブがあり、その前にポットが置かれていた。ポットの白い蓋の縁が少し欠けている。欠けたものは使い続けられる。生活は欠けたまま続く。
部屋には、すでに八人ほどが座っていた。年齢はばらばらだ。二十代くらいの女性もいれば、六十代くらいの男性もいる。服装もバラバラだが、共通点がある。誰も飾っていない。見せるための服ではない。やり過ごすための服だ。
視線がこちらに向いた。向いたのに、長く止まらない。目が合わないわけではない。合うが、留めない。留めると、そこに名前が生まれる。
入口近くの席に案内され、僕は座った。椅子の座面が硬い。硬い椅子は、ここが長居する場所ではないと教える。だが、長居しないと戻れないものがある。
「初めての方ですね」
声をかけてきたのは、四十代くらいの女性だった。髪を後ろでまとめ、眼鏡をかけている。眼鏡のフレームが太い。太いフレームは、顔の印象を固定する。固定は、ここでは怖い。
「区役所の」
僕が言いかけると、女性は頷いて、そこで止めた。止めることで、続きの言葉を切る。
「大丈夫。所属は言わなくていいです。ここでは」
所属を言うと、制度の箱になる。箱になると、依存が生まれる。依存は声を増やす。
女性は紙コップを渡してきた。紙が少し湿っている。湿っている紙は、部屋の湿気を吸っている。僕はコップを持ったが飲まなかった。飲むと、喉が動く。喉が動くと、言葉が出る。言葉が出ると、名前が出る。
会のリーダーが立ち上がった。五十代くらいの男性だった。黒いセーター。肘の部分が少し毛羽立っている。毛羽立ちは生活の擦れだ。
「時間になりましたので、始めます」
リーダーの声は大きくない。大きくないが、よく通る。よく通る声は、言い慣れている声だ。何度もここで言ってきた声。
「初めての方もいます。いつも通り、ルールだけ確認します。ここで、消えた人の名前は言いません。呼びません。書きません。確認のために出そうとしてしまうのは仕方がないです。ただ、その時は止めます。止めるのは責めるためじゃない」
止めるのは責めるためじゃない。そう言いながら、リーダーの指が机の縁を二回だけ叩いた。二回叩くのは癖だ。癖は名前より先に残る。
「ここは、忘れられない者たちの集まりです」
忘れられない。忘れない、ではない。忘れられない、という受け身が正しい。自分で選んでいるように見えて、選べていない。
「泣く必要はないです。泣けないのが普通です」
誰も反応しない。頷きもしない。頷くと確認になる。確認は固定になる。固定はここでは危ない。だから、無反応が続く。
僕は一人ずつを見るのをやめた。見つめると、こちらが相手を固定する。固定することが怖い。
話が始まった。最初に話したのは、三十代くらいの男性だった。作業着のまま来たような服装。指先に黒い汚れが残っている。汚れは落ちない汚れだ。仕事の汚れ。
「会社で、連絡先から消えました」
男性は短く言った。誰が、とは言わない。消えた、とは言わない。連絡先から消える。事実だけが置かれる。事実だけでも、部屋の空気が少し軽くなる。軽くなると、耳が詰まる。
「家に帰っても、写真が白かった。親に話そうとしたけど、言えなかった」
男性の喉が一度だけ鳴った。唾を飲み込んだ音。飲み込めるだけ、まだ現実の体だ。
次に話したのは、若い女性だった。手元のスマホを机に置き、画面を下に向けている。下に向けるのは、見ないためではない。見えないところで光られるのが怖いからだ。
「私、覚えてるのに。周りが、最初からいないって言う」
女性はそこで止めた。止めると、鼻の先が少し白くなる。血が引くと白くなる。白くなるのに涙は出ない。涙は出すための水分がいる。水分は日常が許さない。
年配の男性が、紙コップの縁を指でなぞりながら言った。
「うちの役所も、受理してくれなかった。登録がないって」
登録がない。制度が切り捨てる言葉。言葉をここで言えるだけ、その人は耐えている。
リーダーは頷かずに聞いていた。聞いているが、相槌を打たない。相槌は固定になる。固定はここでは危ない。だから、音を減らす。
話が一巡したところで、リーダーが言った。
「忘れないことで繋ぎ止めている、と思ってる人がいます」
思ってる、とは言わない。思ってると言うと心情になる。心情ではなく、状態を言う。
「でも、忘れないほど日常が壊れる」
リーダーは机の上の名簿を開いた。名簿、といっても、名前の欄は空白だった。番号だけが振ってある。番号は足場になりにくい。番号なら、呼ばれても揺れにくい。
「仕事が回らなくなる。家族と喧嘩になる。夜が伸びる。眠れなくなる。眠れなくなると、向こうが近づく」
向こう、という言い方。具体化しないことで、固定を避ける。
「だから、ここでは記録します」
記録。僕の仕事の言葉だ。公民館でこの言葉を聞くと、境界が薄くなる。
「記録することが救いになる人もいます。呪いになる人もいます。どちらになるかは、最初から決まってない。だから、ここで一人で抱えない」
抱えると、増える。増えると、戻らない。その順番を、みんなが共有しているのがわかった。共有されているのに、誰も確信の言葉を使わない。確信を言うと固定になる。
僕の番が来た。リーダーが僕を見た。目線が短い。短い目線は、相手に踏み込みすぎないための配慮だ。
「区役所に、空席ができた」
僕は事実から言った。空席ができた、という言い方も弱い。弱いが、弱いほうが安全だ。
「係内のメールで、その人がいたかどうかで揉めた。宛先候補から消えた。勤怠からも消えた。座席表にもいない。でも、僕だけが覚えてる」
覚えてる、と言った瞬間、喉が少し詰まった。詰まるのは感情ではない。言葉が引っかかる。引っかかると息が止まる。息が止まると、次の言葉が遅れる。遅れると、部屋の静けさが濃くなる。
僕は続けようとした。同期だ、と言いたかった。同期という言葉は名前ではない。だが、同期という言葉の裏に個人が立つ。個人が立つと、足場になる。
口を開いたが、音が出なかった。舌が上顎に張り付いていた。張り付く舌は乾いている。乾くのは、口の中の水分が減っているからだ。減るのは、僕がここに来るまで水を飲んでいないからだ。飲んでいないのは、喉が動くのが怖いからだ。
「言えないなら、言わなくていい」
リーダーが言った。言わなくていい、という許可は珍しい。許可されると、逆に言いたくなる。言いたくなるのに、言えない。
「言えないものは、言えない状態として記録する」
リーダーは続けた。状態として記録する。制度の言葉だ。ここは制度の外なのに、制度の言葉でしか守れないものがある。
僕は頷かなかった。頷くと、ここに自分が固定される。固定されると、帰れなくなる気がした。
会の最後に、眼鏡の女性が小さな紙を差し出してきた。名刺サイズ。紙の端が少し丸まっている。丸まりは、何度も出し入れされた跡だ。
「チャットです。招待。入るかどうかは自由」
紙にはQRコードが印刷されていた。印刷の黒が濃い。濃い黒は、スキャンされやすい。されやすいものほど拡がる。
「ここで話したこと、外に出さないための場所でもあります。逆に、外で起きたことをここに持ってくる場所でもある」
外と内。境界を作る言い方。境界が必要なのに、境界が薄くなるのがこの現象だ。
「名前は」
僕が言いかけると、女性は首を振った。
「名前は使わない。番号か、記号。呼ばないために。呼ぶと近づくから」
近づく。彼女は言い切った。言い切っても、部屋の空気は揺れなかった。ここでは、近づくことは前提だ。
僕は紙を受け取った。指先が紙に触れた瞬間、紙が少し湿っているのがわかった。湿っているのは、誰かの手の汗だ。汗は生きている証拠だ。生きている証拠が、ここに集まっている。
会が終わり、人が帰り始めた。椅子が引かれる音。紙コップが潰れる音。ポットのスイッチが切れる音。生活の音が戻る。戻ると、さっきまでの静けさが嘘みたいに感じる。嘘みたいに感じるのが危ない。嘘みたいに感じると、現象を現象として切り離そうとする。切り離すと、また近づく。
公民館を出ると、外は暗かった。街灯の光が路面を照らし、落ち葉が濡れている。濡れているのは雨ではない。夜の湿気だ。湿気は音を吸う。吸うと足音が小さくなる。小さくなると、後ろが近くなる。
僕は歩いた。駅までの道。短い道。短いのに、途中で自販機の明かりがやけに眩しい。眩しい光は、視界の端を白くする。白い端に何かが動いても、見えない。
ポケットの中で、チャット招待の紙が擦れた。紙が擦れる音は小さい。小さい音ほど耳に残る。
背後から、声がした。
「しず」
呼ばれた。名字ではない。下の名前でもない。音だけが短い。短い音は距離が近い。近い音は、耳の内側で鳴る。
僕は振り向いた。
誰もいなかった。道路の端に植え込み。駐輪場。遠くの車のライト。人影はない。足音もない。
振り向いたのに、声の位置だけが残った。残った位置は、僕の背中のすぐ後ろだ。すぐ後ろなのに、空気だけが軽い。
歩き出そうとして、足が一瞬遅れた。遅れたのは僕の足ではない。道が遅れた感じがした。道が遅れると、距離が伸びる。距離が伸びると、逃げ道が減る。
声はもうしなかった。しないのに、近づいた確信だけが残った。
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