第6話 社内連絡:空席の人

 朝の庁舎はいつもより湿っていた。廊下の床が少しだけ滑る。雨が降ったわけではない。人が多い日の湿気だ。コートの水分、息、暖房の熱。混ざって残る。


 夢葬相談室の扉を開けると、空気が軽かった。軽い空気は肺に入りやすい。入りやすいのに、吸った分だけ胸の奥が広がらない。


 壁時計は三時三十三分のまま。僕は見ないふりをして、机の上の書類を整えた。整えると、手先の動きが現実になる。現実があるうちは、会話ができる。


 隣の係の島から、笑い声が聞こえた。笑い声は生活の音だ。生活の音の中に、席が一つ欠けている。


 欠けている席は、目に入るたびに形が変わる気がした。そこに机が置けそうで、置けない。椅子を入れたら収まりそうで、収まらない。空白のはずなのに、空白の輪郭が動く。


 係長はまだ来ていなかった。相談室は僕一人だった。僕一人だと、音が少ない。音が少ないと、頭の中の音が増える。


 端末を立ち上げる。ログイン画面。パスワード。二段階認証。どれもいつも通りの手順だ。手順があると、手順の外側が目立つ。


 メールが一通、既読になっていない。送信者は係内の共通アドレス。件名が短い。


 空席の件


 開くと、スレッド形式のやり取りが続いていた。時刻は昨日の夕方から今朝にかけて。署名はない。だが、文体と語尾で誰が書いたかはだいたいわかる。わかることが怖い。わかるのに、名前が出せない。


 係内メールスレッド抜粋


 20XX/12/XX 17:41

 件名:空席の件

 送信者:係内連絡

 本文:

 〇〇さん、今日お休みですか。朝から席が空いてます。


 20XX/12/XX 17:45

 返信:

 〇〇さんって誰ですか。うちの係にいましたっけ。


 20XX/12/XX 17:49

 返信:

 席どこですか。誰の席の話でしょう。


 20XX/12/XX 17:53

 返信:

 空席は最初から空席では。配置表にもないです。


 20XX/12/XX 18:02

 返信:

 配置表は更新されますよ。去年も人の入れ替えで変わりました。


 20XX/12/XX 18:10

 返信:

 人の入れ替えって、誰の話ですか。今の体制になってから変わってません。


 20XX/12/XX 18:17

 返信:

 すみません、話が噛み合ってないようなので、明日朝に係長に確認します。


 20XX/12/XX 18:20

 返信:

 係長も最初から空席と言ってました。何の話ですか。


 20XX/12/XX 18:22

 返信:

 係長、そんなこと言いました?


 20XX/12/XX 18:28

 返信:

 言ってません。そもそも係長は昨日午後から外回りでした。


 20XX/12/XX 18:33

 返信:

 じゃあ誰が言ったんですか。


 20XX/12/XX 18:40

 返信:

 このスレッド、宛先に誰入ってます?宛先の中に見覚えない名前あります。


 20XX/12/XX 18:41

 返信:

 見覚えない名前って何ですか。宛先は係内だけですよ。


 20XX/12/XX 18:45

 返信:

 さっきまで宛先候補に〇〇さん出てました。今消えました。


 20XX/12/XX 18:47

 返信:

 怖いこと言わないでください。とりあえず明日。


 20XX/12/XX 18:50

 返信:

 この件、夢葬相談室に回すべきじゃないですか。


 20XX/12/XX 19:03

 返信:

 相談室って何ですか。福祉課の中にそんなのありましたっけ。


 20XX/12/XX 19:10

 返信:

 あります。去年からです。


 20XX/12/XX 19:12

 返信:

 去年って何の去年ですか。


 20XX/12/XX 19:15

 返信:

 すみません、今日はもう帰ります。


 20XX/12/XX 21:33

 返信:

 宛先候補、また出ました。今度は3:33で。


 20XX/12/XX 21:34

 返信:

 やめてください。


 20XX/12/XX 21:35

 返信:

 消えました。


 今朝の返信はない。スレッドはここで止まっていた。止まっているのに、スレッドの最後の時刻が胸の奥に残る。二十一時三十三分。三時三十三分ではない。だが、数字が寄る。


 僕は返信ボタンにカーソルを置かなかった。置くと沈むことを知っている。知っていることが増えると、選択肢が減る。


 それでも確認は必要だった。係内の現実崩壊が始まっている。夢葬相談室の外に漏れたら、止められない。


 僕は新規メールの画面を開いた。宛先欄にカーソルを置き、係内共通アドレスを入力する。候補が自動で出る。係のメンバーの名前が一覧で出る。いつも通りの動きだ。


 候補の中に、いないはずの名前があってほしかった。あれば、現実に固定できる。固定できたら、記録に残せる。


 候補には、いなかった。


 僕は指を止めた。止めた指がキーボードの上で硬くなる。硬くなると、指先の血が戻らない。戻らないと、入力が遅くなる。遅い入力は、自分の身体が先に怖がっている証拠だ。


 宛先候補から消えた。それだけで、席がさらに遠くなる。


 メールの本文欄に、短く書いた。


 昨日から空席の件でスレッドが回っています。該当者の存在確認を求めます。出勤記録、勤怠、座席表、内線、連絡先の確認が必要です。夢葬相談室として把握しています。


 書いてから、送らなかった。送ると、送った事実が増える。事実は武器にも呪いにもなる。


 僕は保存だけして、画面を閉じた。


 席の空白を見た。空白は、そこにいるはずの人の形をしていない。ただ、空白の形が、島全体の配置を歪ませている。


 合理性を保たないといけない。合理性が崩れると、声が増える。声が増えると、名前が増える。名前が増えると足場が増える。足場が増えると、消える範囲が広がる。


 僕は端末の勤怠システムを開いた。ログイン。検索欄。係名。期間。昨日の日付。出勤者一覧。


 一覧は、いつもより一人少ない気がした。少ない気がする、という言い方は弱い。弱い言い方のまま進めない。画面に出る数を数えた。手元の紙の座席表と照合した。座席表は、空席を最初から空席として印刷している。


 勤怠一覧にも、空席の人は最初からいない。


 人事の出勤記録を開いた。部署配属の一覧。年度。係の構成。そこにもいない。


 僕はチャットログを開いた。庁内の簡易チャット。係内のグループ。過去ログを遡る。同期がいるはずの時期の会話。昼休みの連絡。コピー機の故障。飲み会の連絡。雑談。


 ログの中に、空白がある。


 名前が出るはずの箇所が、空白になっている。空白は空白として整形されている。削除された跡ではない。最初から空白のように表示される。空白の時間が、滑らかに繋がっている。


 僕はスクロールを止めた。止めると、手首の内側が少し突っ張った。昨日の痣の場所だ。服の袖の下で、冷たい輪郭が残っている。


 僕はスクリーンショットを撮った。


 スクリーンショットを撮る音が、やけに大きく聞こえた。シャッター音は消してあるはずだ。だが、指先の骨が鳴るような音がした。音は耳ではなく、体に残る。


 スクリーンショットは保存された。保存された画像には、空白が写っている。空白が写っていることが重要だ。空白が画像として固定される。固定は武器になる。


 続けて数枚撮った。チャットの空白。勤怠の一覧。座席表。メールスレッド。


 画像だけが残る。残るのに、元のデータが薄くなる。


 チャットログを少し戻って確認すると、さっきまで見えていた会話の一部が消えている。消えたというより、初めから存在しない形になっている。スクロールバーの位置がわずかに変わる。変わると、時間の長さが変わる。


 僕はもう一度スクリーンショットを撮った。今度は、さっきの空白の位置がずれている。ずれているのに、画像は残っている。


 残るのは記録媒体だけ。マニュアルの一行が、画面の中で形になる。


 係長が入ってきた。いつもより早い。外回りの予定があったはずだが、コートを脱いでいる。脱いでいるということは、今日はここにいる。


「朝から何してる」


 係長は僕の画面を見た。視線が速い。速い視線は、既に状況を知っている人の視線だ。


「空席の件。係内メールが回ってます」


「見せて」


 僕は画面を係長に向けた。係長はメールスレッドを一通り見て、最後の時刻で止めた。二十一時三十三分。


「3:33に寄ってる」


 係長は言った。寄ってる、という言葉。原因を言わない言葉。


「宛先候補からも消えました」


「消える。消えるのが普通になってくる」


 係長は淡々と答えた。淡々だが、口の端が少し固い。固いとき、唇の色が薄い。


「スクショは」


「残ってます」


「それは残る。残るから呪いにもなる」


 係長はそこで言葉を切った。切り方が早い。早い切り方は、ここから先を言うと固定になるからだ。


「沖田さん、今日は一つだけやる。検証は正午まで。午後は現場に行かない。誰かが増える」


 係長は言った。増える、という言い方がもう自然だ。自然になっていることが怖い。


 僕は頷いた。頷いたとき、首の後ろが少し痒い。痒いのは汗ではない。皮膚が反応している。反応は現実だ。現実の反応は嘘をつかない。


 係長が席を外したあと、僕は残った検証を進めた。


 内線電話の履歴。係内の発信履歴を確認する。同期の席があったはずの位置から発信された番号。履歴は残っていない。残っていないというより、空席の内線番号そのものが割り当てられていない。最初から空席にするなら、内線番号を割り当てない。それは整合的だ。整合的だから、怖い。


 備品管理の台帳。キーボード、モニター、椅子。空席に配布されたはずの備品番号。台帳にもない。ないのに、僕はその椅子の軋む音を覚えている。覚えているのは音だ。音は記録されない。記録されないから残る。


 僕は自分の端末の写真フォルダを開き、スクショが残っているか確認した。残っていた。スクショのサムネイルが並ぶ。並ぶサムネイルは現実だ。現実の並びは心を落ち着かせる。落ち着かせるのに、サムネイルを一枚開くと、画像の中の文字が少し沈む。


 沈むのは画面のせいではない。さっきの「沈む」現象に似ている。似ているものは寄ってくる。寄ると、現象が定着する。


 僕は画像を閉じ、画面を暗くした。


 正午前、端末の時計が一瞬だけ遅れた。遅れたのは秒表示だ。秒表示が飛ぶ。飛ぶと、時間の足場が揺れる。


 僕は端末を再起動した。再起動は現実の手順だ。手順はいつも救いになる。救いになるが、救いだけでは足りない。


 昼休み。庁舎の食堂へ行く気にならず、相談室の机でパンを食べた。袋を開ける音が小さい。小さい音は、部屋の静けさを増やす。静けさが増えると、壁時計の存在が濃くなる。


 係長が戻ってきて、紙のファイルを僕の机に置いた。


「これ」


 ファイルには、出勤者の署名欄がある。日直の回覧。係の連絡事項。印鑑の跡。印鑑の跡は現実だ。現実の跡は消えにくい。


 係長が言った。


「去年の今頃の回覧。見て」


 僕はページをめくった。署名欄。名前の列。何人かの名前が並ぶ。僕の名前。係長の名前。隣の係員の名前。


 その中に、空白がある。


 空白の位置に、印鑑だけが押されていた。名前がないのに印鑑がある。印鑑の朱肉が少し濃い。濃い朱肉は押した力が強い。強い力は、押した人がそこにいた証拠だ。


 僕は指で印鑑の跡を触らなかった。触ると足場ができる。足場は危ない。


「これ、誰の印鑑ですか」


「わからない。わからないまま残ってる。紙だから」


 係長は淡々と言った。紙だから残る。残るから証拠になる。証拠になるから呪いになる。


 係長が言った。


「沖田さん、今日はもう、これ以上追わない。追うと夢に出る」


 夢に出る。係長が断定した。断定は珍しい。珍しい断定が出るとき、現象は手順の外にある。


「帰ったら端末は見ない。個人端末も」


「はい」


 僕は頷いた。頷いたとき、喉の奥が乾いた。乾くと、舌が上顎に張り付く。張り付くと、言葉が出ない。言葉が出ないのに、頭の中で名前が回る。


 回る名前を、僕は口にしない。口にしないことが、もう仕事になっている。


 夕方、退庁した。庁舎の外の空気が冷たい。冷たい空気は肺に刺さる。刺さると、体が現実に戻る。


 帰宅して、部屋の明かりを点けた。いつも通りの部屋。靴。コート。机。水。現実が揃っている。


 それでも、眠気が早かった。早い眠気は、体が逃げようとしている。逃げる先が夢だというのが問題だ。


 布団に入る。天井を見た。天井の角の影が薄い。薄い影は、光が均一だということだ。均一な光は安心を作るはずだが、安心が作れない。


 目を閉じると、蛍光灯の白が浮かぶ。白は庁舎の白だ。庁舎の白は、どこまで行っても同じ白だ。


 夢の中の区役所に立っていた。廊下。窓がない。床が乾いているのに、足音がしない。足音がしないのは、床が音を吸っているからではない。自分の足が床に乗っていない感じがする。


 前から誰かが歩いてきた。誰かの姿。距離。肩幅。歩き方。見覚えがある。制服ではない。私服でもない。職員の格好だ。名札が胸にある。


 同期だった。


 同期は喋らなかった。口が動く。声が出ない。口パクで、言葉だけが形になる。


 呼ぶな


 唇の形でわかる。わかるのに、音がない。音がない言葉は、頭の中に直接入る。入ると、耳の奥が痛い。


 同期の目が僕を見た。見た目線が、避ける目線ではない。責める目線でもない。ただ、止める目線だ。


 同期が胸の名札を指でつまみ、裏返した。裏返す動作は、現実の職場で見た癖に似ている。似ていると、記憶が刺さる。


 裏返った名札には、カタカナではなく、アルファベットが印刷されていた。


 OKITA


 沖田。


 僕の名字。僕の名字が、同期の名札の裏にある。裏にあるということは、隠していたということだ。隠していたのに、今見せる。見せるのは、足場を渡す行為だ。


 同期はもう一度、口パクした。


 呼ぶな


 同じ言葉。繰り返しは固定を作る。固定は危ない。危ないのに、同期が繰り返す。繰り返しが必要なほど、僕が危ない。


 同期の手が僕の腕に触れた。触れた瞬間、冷たい。冷たいのに、皮膚が反応する。反応が現実と同じだ。夢の触感が現実と一致するのが問題だ。


 僕は腕を見る。痣の位置。そこを同期が押した。押すと鈍い痛みが返る。痛みも一致する。一致は侵食だ。


 廊下の奥で、番号札の機械が鳴った。紙が切られる音。短い電子音。音が現実の音と同じだった。庁舎で聞いた音と同じ。


 同期が目線だけで奥を示した。示された方向に、裏口がある。裏口へ行く道がある。道があることが怖い。


 僕は足を出さなかった。足を出すと、道が固定される。固定されると、戻れない。


 同期は僕の手首を掴み、指を一本ずつほどいた。僕が無意識に握っていた拳を開かせる。拳が開くと、手のひらに冷たい紙が落ちた。


 番号札だった。


 000


 数字が見える。見えるのに、紙の重さがない。紙は薄い。薄いのに、冷たさだけが強い。冷たさが皮膚に残る。


 同期が口パクで、別の言葉を作った。


 最後


 最後、という唇の形。僕は声に出さない。声に出さないが、喉が動く。喉が動くと、唾が飲み込まれる。飲み込まれると、喉が乾く。


 廊下の蛍光灯が一瞬だけ瞬いた。瞬いた瞬間、掲示板の紙が見えた。


 夢葬相談室は存在しません


 紙は貼られている。貼られているのに、紙の端が少し浮いている。浮いている端から、湿気が出ている。湿気は現実の湿気だ。


 僕は目を開けた。


 部屋の天井。現実の天井。現実の角の影。影は戻っている。戻っているのに、手のひらが冷たい。


 僕は布団の中で手を開いた。何も持っていない。持っていないのに、指先が冷える。冷えるのは記憶のせいではない。皮膚が冷えている。


 枕元のスマホが光った。通知ではない。画面が勝手に点いたわけではない。省電力の表示が一瞬だけ出た。黒い画面に白い文字。


 連絡先の同期の名前を確認しようと、僕は触らないまま、画面を見た。触ると、道ができる。道ができると、呼べる。


 それでも確認が必要だった。確認しないと、記録にならない。


 僕は指先で、最小限だけ画面をスワイプした。ロック解除。指紋。成功。成功すると、現実の手順が完了する。


 連絡先アプリを開く。検索欄に、同期の名字の最初の一文字を入れる。候補が出る。出るはずの候補が出ない。


 僕はもう一文字入れた。文字入力が遅い。遅いのは、指が震えているからだ。震えは小さい。小さい震えほど、画面の上で見える。見えると、指先が自分のものではない感じがする。


 同期の名前が、一覧の中に一瞬だけ出た。


 出た瞬間に、消えた。


 消え方は削除ではない。スクロールして消えたのではない。画面の中の文字が、薄くなって、裏に沈んで、空白になった。空白になった場所が、詰められる。詰められると、最初からなかった並びになる。


 僕は見ていた。消える瞬間を、見ていた。見たという事実が、喉の奥に残る。残るのは言葉ではなく、体の反応だ。


 指が震えた。震えたまま、入力しようとした文字がずれた。ずれた文字が画面に残り、すぐ消える。消えると、入力欄が空になる。空になると、検索がなかったことになる。


 僕はスクリーンショットを撮った。撮る前に、同期の名前はもうない。ないのに撮った。撮った画像には、ただ空の検索結果が写るだけだった。空だけが写る。空だけが証拠になる。


 僕はスマホを置いた。置いたとき、机の上で小さく音がした。音は硬い。硬い音は現実だ。現実の音があるうちは、まだ戻れる。


 だが、戻れる道が消えていくのを見た。


 呼べる道。連絡先。内線。宛先候補。座席表。勤怠。名前の欄。全部が、呼ぶための道だ。道が消えると、呼べない。呼べないと、固定できない。固定できないと、救いもない。


 それでもマニュアルには書いてあった。


 名前は足場になる。呼ばれることで対象が固定される。固定は救いにもなるが、拡大の引き金にもなる。


 僕は腕を見た。袖の下の痣。ゼロの輪郭。こすっても消えない冷え。冷えは皮膚の下に残っている。


 同期の名札の裏の文字が、目の奥に残る。OKITA。僕の名字。僕の名字が中心にある。中心にあるなら、僕は安全圏ではない。最初から当事者だ。


 スマホの画面が暗くなった。暗くなると、部屋が静かになる。静かになると、耳の内側に、あの口パクの言葉が残る。


 呼ぶな。


 呼ぶな、は命令だ。命令は道を切る。道が切れると、僕は一人になる。


 消えたのは番号じゃない。私が呼べる道そのものだった。

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