夢葬(ゆめそう)相談室――眠ったまま消える人々の記録

しげみちみり

第1話「受付番号:0」

 区役所の正門をくぐると、空気の匂いが変わった。冬の乾いた冷たさに、床用ワックスと消毒液が薄く混じる。自動ドアの開閉音は一定で、開くたびに外気が一枚だけ入り込み、すぐに押し戻される。


 庁舎の中はまだ朝の動きが揃っていない。受付に並ぶ人は少なく、カウンターの向こうで係員が透明な仕切り越しに声を出し、言葉が少しだけ反射して戻ってくる。コピー機が紙を吸い込み、吐き出し、ホチキスが短く鳴る。その間に、靴底が床を擦る音が一定の間隔で通過する。


 臨時職員の初日。人事課で渡された名札を胸に付け、貸与されたカードキーをポケットに入れた。カードキーは軽い。軽すぎるものは、落としても気づかないことがある。


 職員通用口の脇にある案内板を見上げる。各課の名称が黒文字で並び、矢印が細い。福祉課、生活支援課、子育て支援課。見慣れた語彙の列のなかに、今日の配属先があるはずだった。


 人事課の担当者は書類を束ねたまま言った。


「配属は臨時窓口です。夢葬相談室」


 書類の角で指を切りそうな言い方だった。意味の説明はなく、項目として読むだけの温度。


 案内板に目を走らせたが、その文字が見当たらない。目が滑る。もう一度、上から順に追う。ない。


 通路の脇に立っていた案内係の女性に声をかけた。制服のベストの縁が少し毛羽立っている。忙しい部署の人だとそうなる、と誰かが言っていた。


「すみません。夢葬相談室って、どこですか」


 女性は「え」と短く言い、案内板を見上げる。同じ速度で目を動かし、眉の位置が少しだけずれる。


「夢……そう……」


 口の中で二つに分けるように呟き、首をかしげた。探す手つきが、見覚えのある課名を確かめるときのそれではない。地図で存在を前提にする動きではなく、記憶の棚にない単語を置ける場所を探す動きだった。


「ここ、前から……あったかな」


 言い終えないまま、女性はタブレット端末を操作した。画面を二回タップし、もう一回。三回目のタップのあとで、ようやく見つけたように指を止める。


「すみません。こっちです」


 彼女は歩き出し、僕も後ろについた。庁舎の中心から外れるほど、足音が減る。掲示板の紙が少なくなり、床の傷が増える。壁に貼られた避難経路図だけが新しく、黄色い矢印がやたらと元気に見えた。


 エレベーターは使わず、階段を降りた。地下に近づくにつれて蛍光灯の色が白くなり、天井が低くなる。換気扇の音が太くなった。空気が循環している音というより、空気を押し込んでいる音だった。


 通路の突き当たりに、ひとつだけ新しい扉があった。木目調のシートが貼られている。周囲の扉は灰色で、角が擦れている。新しい扉は、なぜか周囲の古さに馴染まない。貼られたプレートは小さく、黒文字でこう書かれていた。


 夢葬相談室


 案内係の女性はそこまで来ると、急に仕事の手を離したみたいに一歩引いた。扉の前に立つ時間が短いほどいい、と身体が判断しているような間合いだった。


「中、担当の方います。入って大丈夫です」


 言い方は丁寧だが、目線が扉の取っ手に近づかない。彼女はそのまま踵を返し、通路の角を曲がって消えた。


 扉の取っ手は金属製で、触ると冷たかった。冷たさが皮膚の表面だけに残り、指の腹が少し乾いているのがわかった。僕はノックをして、返事を待たずに開けた。


 室内は狭い。机が二つ、パーティションで仕切られ、カウンターのような受付台がひとつ。窓はない。壁は白く、天井の蛍光灯は四本。明るいのに影が薄い。床のカーペットは濃いグレーで、掃除機の跡がまっすぐ残っている。


 机の向こうに、係長らしい男性が座っていた。髪が短く、スーツの肩がきちんと合っている。机の上にファイルが積まれ、表紙に番号が書かれている。番号は手書きではなく、ラベルプリンターの文字だった。


「沖田さん?」


「はい。沖田です」


 自分の名字を名乗ると、係長は一度だけ頷いた。


「今日からですね。座って。説明は最小限でいきます。ここは臨時窓口です。来る人は少ないけど、来たら時間がかかる。対応は記録優先。感想や推測は入れない。質問されても、わからないことはわからないと言う」


 最後の一文が、注意というより規則に近かった。


 係長は僕に一枚の紙を渡した。A4で、上部に庁舎のロゴがある。タイトルは太字。


 夢葬相談室 受付対応マニュアル(抜粋)


 文章は箇条書きだった。読ませるというより、守らせるための構造。


 僕は椅子に座り、紙を読んだ。そこに書かれている内容は、福祉窓口の注意事項に似ている。来室者の安全、個人情報の扱い、他課への引き継ぎ、緊急時の対応。


 ただ、ひとつだけ異質な項目があった。


 ・相談者および第三者の氏名を、室内で大きく繰り返さない(必要最小限)


 理由は書かれていない。理由が書かれていない項目は、たいてい事故のあとに増える。


 係長は机の引き出しから受付票の束を出した。用紙の左上に「受付番号」と印刷され、その横に空欄がある。下に氏名、住所、生年月日、相談内容、添付資料。市役所のどこにでもある形式だが、右下に小さく「夢葬」と印刷されている。


「番号は自動で出ます。ここは、番号が先です。名前より先。受付番号が会話の軸。いいですか」


「はい」


 係長は僕の返事を確認するように一度だけ目を上げ、すぐに手元の書類に戻った。


「相談者が来たら、まず受付票。次に住基照会。該当が出るか出ないか。それで次の段取りが変わる。該当なしでも、追い返さない。該当なしの方が、ここに来る理由になる」


 そう言って、係長は電話を取り、どこかに短く報告した。言葉は断片で、名前は出さない。番号だけを言っているようだった。


 僕はマニュアルの紙を机の端に置いた。紙の端が、机の角から一ミリだけはみ出している。揃えたくなるが、揃えない。揃える行為に意味があるときは、後でわかる。


 相談室の壁に掛かった時計に目をやった。白い盤面に黒い数字。三時三十三分。秒針がない。動いていないのか、もともとないのか、どちらとも言えない。時計のプラスチックの縁に、埃が薄く溜まっていた。誰も触っていない時計の埃だ。


 係長は僕の視線に気づいたのか、何も言わずに椅子の背にもたれた。目線は時計ではなく、僕の顔のあたりに置かれている。反応を見る顔だった。


 そのとき、廊下側のチャイムが鳴った。相談室の扉に付いた小さなスピーカーから音が出る。庁舎の他の窓口で聞く音と同じはずなのに、ここでは一段低く聞こえた。


「来たね」


 係長は立ち上がらず、顎で受付台を示した。僕が行く番だという合図。


 受付台の向こうに、扉が開く音がした。誰かの足音が二歩、三歩。止まる。呼吸の間。


 入ってきたのは若い男性だった。三十代前半に見える。ジャケットの肩が少し落ちている。ネクタイは締めていない。髪は整っているが、寝癖を直すための力が入っていない。手に紙袋を持っていた。紙袋の口が折り返され、何度も開け閉めした跡がある。


 男性は僕を見たあと、係長を見た。係長の机の前まで行くのを迷って、受付台の前で止まった。


「すみません……」


 声は小さく、謝罪の形をしている。用件はまだ出ていない。


「受付はこちらです」


 僕は椅子を引き、立たないまま言った。立つと、距離が詰まる。距離が詰まるほど相手が話す内容が変わることがある。窓口では距離の管理が一つの仕事だ。


「お名前と、ご住所を」


 男性は一瞬だけ口を開きかけ、閉じた。息を吸い直す。僕の視線は彼の顔ではなく、紙袋に落ちていた。紙袋の端が、指で潰されている。


「……名前は」


 男性はそう言って止まった。止まったまま、唇が少し動く。声にならない音を喉の奥でつくっている。


「お名前、書けますか」


 僕は受付票とペンを差し出した。口で言えないなら、書く。書けないなら、番号で進める。マニュアルの行間にそう書いてある気がした。


 男性はペンを受け取り、受付票の氏名欄を見た。ペン先が紙に触れる前に、手が一度だけ止まる。紙袋を置こうとして置けず、膝の上に置いた。紙袋が膝からずれ、慌てて押さえる。


 氏名欄に、苗字と名前が書かれた。住所も書かれた。筆圧は一定ではないが、字は読める。生年月日が書かれ、電話番号が書かれる。相談内容の欄に来たところで、ペンが止まった。


 僕は受付票の上部にある受付番号の空欄に目をやった。ここは自動で出ると言われたが、目の前の紙は空欄のままだ。係長の机の横にある小さなプリンターが、その役割を持っているらしい。僕は視線で係長を探った。


 係長は自分の机の端を指で叩いた。音は出ないが、合図が出た。机の上に置かれたタブレット端末が光る。そこに「受付番号発番」と表示されている。僕は受付票を持って係長の机の横に行き、タブレットのボタンを押した。


 プリンターが短く動き、ラベルが一枚出てきた。黒い数字。


 0


 ゼロだった。数字の前後に何も付いていない。ゼロ単体の受付番号。僕は一瞬、見間違いかと思ってラベルをもう一枚出そうとしたが、係長が指を止めた。


「それでいい」


 係長の声は小さい。小さいが、判断の揺れがない。


 僕はラベルを受付票に貼った。受付番号:0。紙の上でゼロが軽い。


 男性はまだ相談内容の欄で止まっていた。ペン先が紙の上に浮いたまま。


「今日は、どうされましたか」


 僕は受付票を自分の側に戻し、声を落としすぎない程度の普通のトーンで言った。窓口の声は普通が一番強い。普通にしているときほど、相手は異常を話す。


 男性はペンを置き、紙袋の口を指で広げた。中から折り畳まれた小さな毛布の端が見えた。毛布は子ども用の柄で、淡い色が付いている。紙袋の中身を全部出すことはせず、口だけ開けたままにした。


「娘が……眠ったまま、消えました」


 言葉がそのまま落ちた。飾りがない。語尾が伸びない。泣き声もない。僕はその言い方に、状況の切迫ではなく疲労を感じた。疲労は、出来事を説明する力を奪う。


 係長が椅子から立ち上がった。立ち上がりながら、僕の隣に来た。来るのは、監督の位置に置くためだ。


「いつのことですか」


 係長が聞いた。声は窓口職員の声だ。事実を取る声。


「昨日の夜です。寝かしつけて、僕も一緒に寝て。朝起きたら、いなくて。布団は……」


 男性は紙袋を押さえ、言葉を続ける。


「布団は、凹んだままです。寝てた形のまま。シーツも、ちゃんと。なのに、いない」


 僕は受付票に要点を書いた。昨日夜、寝かしつけ。朝、子がいない。布団の凹み残る。持ち物は? 僕の頭の中で質問が並ぶが、口には出さない。まず聞くべきは、身元の確認だ。


「警察には」


 係長が聞いた。


「行きました。来てもらって。家も見てもらって。近所も。防犯カメラも。……何も」


 男性は「何も」と言ったとき、視線が床に落ちた。床のカーペットの掃除跡に視線が沿う。


「学校や保育園は」


「保育園です。昨日は普通に送って、迎えに行って。先生も普通で」


 男性はそこまで言い、口を閉じた。次の言葉を出す前に、喉が一度動く。飲み込む動き。水を飲む動きではなく、言葉を引っ込める動きだった。


 係長は視線を僕に向けた。僕が住基照会をする番だという合図。僕は受付票を持ち、机に戻り、端末にログインした。


 画面に「住基照会」のフォームが出る。氏名、住所、生年月日。男性が書いた字をそのまま入力する。入力の最中、係長は男性に質問を続けていた。質問は事実だけ。娘の身長、髪の長さ、服装。最後に見たときの状況。


 男性は答える。答えるが、娘の名前だけは出さない。出しそうになるたびに、口が止まる。止まるたびに、舌が上顎に当たる音が小さく聞こえた。


 入力を終え、照会ボタンを押す。画面が一瞬白くなり、次の表示が出る。


 該当なし


 表示は短い。短いほど強い。僕の指が一瞬止まり、次にマウスを動かそうとしたが、どこに動かすべきかが薄くなった。画面の白さが、机の上の光と重なって境界がなくなる。


 係長が僕の横に来て、画面を見た。係長は何も言わず、もう一度だけ照会条件を見直した。入力ミスがないか。漢字の違いがないか。生年月日の数字が正しいか。係長の指が画面の端をなぞる。手つきに焦りはない。


 係長は「該当なし」の表示を見たまま、男性に言った。


「住民票上、該当が確認できません」


 男性の顔が一瞬だけ上がった。目の奥が少し白くなる。白くなるのは、光の反射か、血の引きか、どちらとも言えない。


「ふざけるな」


 男性の声が少しだけ大きくなった。机を叩かなかったのは、叩く場所がわからないからだ。受付台の上は透明な仕切りで区切られ、叩いても音が逃げる。


「昨日までここに……」


 男性は言いかけて止まった。口の形は続きの言葉を作っているのに、音が出ない。喉が詰まったわけではない。言うことを、身体が拒んだような止まり方だった。


 係長は「確認できません」ともう一度言い、同じトーンのまま付け足した。


「こちらの端末では、該当が出ない、という意味です。だからといって、いない、と断定するものではありません」


 断定しない。倫理や正しさを断定しない。マニュアルの温度がここにある。係長は言い切らないことで、火を小さくする。


 男性は息を吐いた。吐いた息が乾いている。乾いた息は音がする。紙袋の口が少し震えた。紙袋を押さえる指が白くなる。


 僕は机の上の時計を見た。壁時計だ。三時三十三分のまま。今は朝なのに。数字の意味が時間の意味から外れて、記号になる。秒針がないことが、ようやくはっきりした。秒針がない時計は、秒を刻まない。秒を刻まないということは、今が動かないということだ。


 係長は壁時計を見ない。見ないことで、そこに意味を与えない。


「添付資料はありますか」


 係長が聞いた。


 男性は紙袋の中から、小さなボイスレコーダーを出した。黒い。市販の安いものに見える。角が擦れている。使い込んだというより、握りしめた跡。


「娘の声が入ってるはずでした。……最初は入ってたんです。家で」


 男性はそこまで言い、レコーダーを握り直した。手のひらの汗でプラスチックが少し光る。


「今は、誰にも再生できない。警察も、妻も。僕も。音が出ないか、ノイズだけ。……でも」


 男性の目が僕に向いた。係長ではなく僕。窓口の新人を見る目だ。慣れた人より、慣れていない人のほうが壊れやすいと知っている目。


「ここなら、と思って」


 係長は受け取らず、僕に顎を向けた。僕が扱う。僕が記録する。


 僕はレコーダーを受け取った。軽い。軽いのに、落とすと壊れる気がした。電源ボタンを押す。液晶が点く。再生ボタンを押す。


 スピーカーから、砂嵐の音が出た。ザー、と短く、途切れる。音量を上げても同じ。何かが入っている気配はあるが、言葉にならない。波形が断続的に動き、すぐ止まる。止まるたびに、空気が戻る。


 係長が言った。


「スマートフォンに取り込めますか」


 僕はレコーダーの端子を見た。USB接続ができる。僕のスマホは個人端末だが、ここでは個人端末が最短の道になることがある。係長は許可を出した。目線だけで。


 僕はUSBケーブルを引き出し、レコーダーとスマホを繋いだ。画面に「データを転送しますか」と表示される。転送。音声ファイル。ファイル名は日付と時間だけ。昨日の夜の時刻。


 転送が終わる。僕はイヤホンを出さず、スマホのスピーカーで再生した。相談室の空気にその音を乗せる。記録は共有されるべきだと、係長の手つきが言っている。


 再生ボタンを押した。


 最初は、子どもの息が入った。近い。マイクのすぐそばで吸っている。次に、衣擦れの音。毛布か、服か。どちらでもいい。生活の音だ。


 それから、子どもの声。


「ねえ」


 声は小さいが、はっきりしている。泣いていない。笑ってもいない。呼びかける声。誰かが隣にいる前提の声。


「夢の中で、名前を呼ばないで」


 言葉は途切れない。言い間違いもない。子どもが誰かに注意するときの言い方だった。優しくもなく、怒ってもいない。規則を伝える言い方。


 係長の顔が動かなかった。係長は録音を聞く顔をしていない。記録を聞く顔だ。


 男性の喉が一度動いた。唾を飲み込む動き。目線がスマホに固定される。視線が画面に刺さると、画面のガラスが少し曇ったように見えた。


 音声は続く。子どもの声が一拍置き、少しだけ距離が変わる。マイクから遠ざかったのか、部屋の音が混じる。


 そして、囁きに近い声で言った。


「……しず、」


 僕の名だった。僕の名前を呼ぶ音。正確な音。苗字ではなく、短く切った呼び方。親しい人間が呼ぶ呼び方。


 僕は再生を止めた。指が勝手に止めた。止めるべきだと判断したわけではない。止めないと、次の音が何かを決める気がした。


 相談室の空気が少しだけ重くなる。重さは、息を吸ったときにわかる。吸った空気が喉の奥に引っかかる。引っかかるが、咳は出ない。咳が出ない引っかかりは、別の種類の障害物だ。


 係長が言った。


「添付資料として、こちらで保管します。データも控えます。受付番号はゼロ。あなたは受付番号ゼロの相談者です」


 係長は男性に向けて言い、僕に向けては言っていない。僕はその言い方で、ここでは番号が人の顔より強いことを再確認する。


 男性は頷いた。頷いたが、首が最後まで下がらない。途中で止まる。止まるところに抵抗がある。


「娘は……」


 男性は言いかけて止まった。口の形が名前を作ろうとしたところで、舌が引っ込む。喉が閉じる。目が一度だけ瞬く。瞬きが遅い。


「娘の名前は」


 係長が聞いた。必要最小限の確認だ。


 男性は唇を開き、閉じ、開き、閉じた。言葉が出ない。手が紙袋の口を握りしめる。紙袋の紙が、くしゃ、と短く鳴った。


「ここで、言うと」


 男性はそれだけ言った。理由は言わない。理由を言うと、理由が現実になる。


 係長は「わかりました」と言い、それ以上追わなかった。追わないことが手続きになることがある。


「今日はここまでです。次回、必要な資料をこちらから連絡します。連絡先は受付票にあります」


 係長は事務的に言い、僕に目線を向けた。僕が受付票をファイルに綴じる。僕がスマホの音声ファイルを所定の端末に移す。僕が、ゼロの記録を作る。


 男性はレコーダーを渡したことを思い出したように一度だけ手を伸ばしたが、途中で止めた。返ってこないとわかっている手の伸ばし方だった。男性は紙袋を抱え直し、立ち上がった。椅子はない。立って入って、立って帰る。窓口はそういう場だ。


 扉の前で、男性は振り返った。僕と係長の顔を見比べ、僕の胸の名札を見る。名札には「沖田」とある。名札は苗字しかない。下の名前はない。


 男性の唇が動いた。声は出なかった。出なかったが、口の形は短い二音を作っていた。僕の下の名前と同じ形だった。


 係長が一歩だけ前に出た。大きく出ない。扉と男性の間に、薄い仕切りを作る距離。


「お帰りの際、他課の窓口でこの件を話す必要はありません。必要な連携はこちらで行います。受付番号ゼロとして、こちらで管理します」


 係長の言葉は、慰めではない。手続きの説明だ。


 男性は頷き、扉を開けて出ていった。廊下の蛍光灯の白さが一瞬だけ室内に流れ込み、扉が閉まると消えた。消えるまでの時間が短いほど、残像が濃くなる。


 係長は席に戻り、僕に言った。


「今の音声、記録に残す。受付票も。データは庁内端末に移す。個人端末には残さない」


「はい」


 僕はスマホを操作し、音声ファイルを一度だけ確認した。再生しない。確認だけ。ファイル名は昨日の時刻のまま。中身は、さっき聞いた声のまま、そこにあるはずだ。


 係長の机の横にあるUSB接続端末にスマホを繋ぎ、庁内の記録フォルダに移した。フォルダ名は「夢葬相談室/受付番号別」。その中に「0」というフォルダがあり、すでに空ではなかった。空ではない、ということは、ゼロは初めてではない。


 僕は画面を見た。フォルダの中に、テキストファイルがひとつ。日付だけのファイル名。中身は開かなかった。開くのは手順だ。手順を飛ばすと、後で何かが欠ける。


 受付票をファイルに綴じ、ラベルを貼る。受付番号:0。ラベルのゼロが、ファイルの背のところで目立つ。数字の列の中に置くと、ゼロは境界になる。始まりにも終わりにも見える。


 係長が言った。


「今日の資料パート、作る。受付票の写しと、音声の概要。あと、住基照会結果。該当なし」


 係長は「該当なし」と言うときだけ、ほんの少しだけ声が硬くなった。硬くなるのは、意味を感じているからではなく、硬くならざるを得ないからだ。硬くしないと、柔らかくなる。


 僕は端末でテンプレートを開いた。夢葬相談室 記録票。項目は淡々としている。相談者の属性、相談内容、添付資料、照会結果、対応方針。最後に「注意事項」があり、そこに例の項目があった。


 氏名を大きく繰り返さない。


 僕は記録票に、事実だけを書いた。父親。娘。寝かしつけ。朝、消失。布団の凹み。警察対応済み。防犯カメラ異常なし。住基照会:該当なし。音声ファイル:子どもの声「夢の中で名前を呼ばないで」。最後に「しず」と呼ぶ音あり。


 呼ぶ音あり。


 音あり、という書き方が正しいかどうか迷った。音声は言葉だった。言葉は意味を持つ。意味を持つものを「音」と書くと、意味が削れる。意味が削れると、記録として冷える。冷えると、扱える。


 僕は「呼称あり」と書き換えた。呼称。名前ではない。意味を一段だけ遠ざける。


 書き終え、保存する。保存のボタンを押す指先が乾いている。


 係長は壁時計を見た。三時三十三分。係長は何も言わず、視線を戻した。時計は動かない。動かないことが普通であるかのように、ここでは扱われる。


 僕は自分の席に戻り、椅子の背にもたれた。背中に椅子の布が当たり、摩擦が起きる。背中の汗は出ていない。汗が出ていないのに、シャツの内側が少しだけ冷たい。冷たいのは、空気のせいか、さっき聞いた声のせいか、どちらでもいい。


 机の上に置いた自分のスマホの画面は暗い。暗い画面には、室内の蛍光灯が映る。映った光の中に、僕の顔の輪郭が薄く浮く。輪郭は自分のものだ。自分のものだが、確認したくなる輪郭だった。


 再生を止めたはずの声が、止めた場所のまま耳の内側に残っている。耳の内側に残るのは、音ではなく距離だ。声がどれだけ近かったか。近い声は、止めても近いまま残る。


 僕は端末のフォルダをもう一度開き、「0」の中にある古いテキストファイルをクリックした。クリックするまでの間に、やめる理由を探した。理由は見つからなかった。


 テキストファイルが開く。日付。内容。短い。


 「前回の受付番号0は、本人申告の氏名が不一致。住基照会該当なし。音声記録、再生不可。担当者名の記載なし」


 担当者名の記載なし、という一文だけが、記録の中で浮いていた。担当者名は通常書く。書かないのは、書けないからだ。書けない理由は、手順では説明できない。


 僕はファイルを閉じた。閉じたところで、閉じたことにはならない。


 自分の名札に触れた。名札のプラスチックが硬い。硬さは現実の硬さだ。


 そのとき、相談室の固定電話が鳴った。呼び出し音は短く、二回目がすぐ来る。係長は出ない。出ないというより、僕を見た。僕が出る番だ。


 受話器を取る。耳に当てる。耳に当てた瞬間、外の空気が一段だけ遠くなる。


「夢葬相談室、沖田です」


 名乗る。苗字だけ。下の名前は言わない。言う必要がない。


 電話の向こうは、無音だった。無音だが、回線が切れている無音ではない。通話が繋がったままの無音。誰かが息をしている無音。機械のノイズが薄く混じる無音。


 僕は「はい」ともう一度言わなかった。相手が何かを言うまで待つ。窓口でも電話でも、先に言葉を増やすと、相手の言葉が変わる。


 無音が続く。秒針のない時計のなかで、音がない時間が伸びる。


 それから、子どもの声がした。スピーカーではなく、受話器の奥から。


「夢の中で、名前を呼ばないで」


 声は、さっき聞いた音声と同じ距離だった。近い。近い声は、耳の内側に直接触る。


 僕は受話器を握る手に力を入れた。力を入れるとプラスチックが少し軋む。軋む音は自分の側から出る。自分の側から出る音は、現実に置ける。


 声は続いた。


「……しず」


 僕は受話器を置こうとした。置く場所は受話器台だ。受話器台の黒い溝。そこに置けば通話は切れる。


 置く前に、係長が僕の手首を掴んだ。掴む力は強くない。強くないが、動きを止めるには十分だった。


 係長は受話器に向かって、短く言った。


「受付番号を言ってください」


 係長の声は、窓口の声だった。事実を取る声。


 無音。次に、機械のような声。子どもの声ではない。男でも女でもない。音の高さが一定で、言葉だけがある。


「000」


 係長は僕の手首を離した。僕は受話器を置いた。受話器が台に戻る音は、思ったより小さかった。


 係長は何も言わず、端末を開いた。僕も端末を開き、記録票を新規作成した。受付番号の欄に、ゼロが三つ並ぶ未来が見えた。未来は見えたが、まだ入力はしない。


 壁時計は三時三十三分のままだった。


 僕は自分の喉に指を当てた。喉は動いている。動いているなら、息は出ている。息が出ているなら、声も出る。


 出る声で、名前を呼べばいいのかどうかは、どこにも書かれていない。


 受話器を置いても、声の距離だけが耳の内側に残った。

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