第6話
監査支部のロビーは、怒鳴り声より静かな殺意で満ちていた。
白い床。白い壁。白い天井。白い光。――汚れが目立つ色は、最初から選ばれていない。
俺の腕には、封緘された黒いケース。番号札が二枚、赤い糸で結ばれて揺れる。
隣のエマは、同じ色のケースを両手で抱え、息を整えていた。治癒と防疫の“白印候補”が、ただの提出で緊張する世界。笑える。
「……ノア。ここ、空気が重い」
「そりゃそうだ。ここは“事実”じゃなく“手続き”で人が死ぬ場所だからな」
エマが眉をひそめる。俺は肩をすくめた。
死ぬのは肉体じゃない。信用と資格と補給と保険――全部まとめて、社会的に。
入口のゲートを抜けると、受付のガラス越しに、制服の女がこちらを見た。視線が封緘ケースに一度落ち、すぐに戻る。嫌な慣れ方だ。
「ご用件は?」
「提出。昨日の件」
「予約は?」
「ない。急ぎだ」
女は端末を二回叩き、ため息だけ丁寧に吐いた。
「監査受付は予約制です。本日の飛び込みは――」
俺はケースの封緘タグを、ガラスに軽く当てて見せた。
「封緘済み。三点突合に回すだけ。あなたの端末に受理ログを一行増やせば終わる」
「……その封緘形式、候補者育成財団の規格ではありません」
「規格が違うのは分かってる。だから監査支部に来た。で、受理できない根拠条文は?」
女の指が止まる。目だけが動く。
エマが一歩前に出て、声を落とした。
「確認です。不受理の根拠条文を提示してください。条文番号を」
“条文番号”。この言葉は、たいていの人間から血の気を引かせる。
感情で拒否できる範囲が、急に狭くなるからだ。
女は一瞬だけ上を見る。――カメラ。監査塔の視線。逃げ道はそこにない。
「……権限者が不在です。後日、改めて」
来た。時間稼ぎの常套句。
俺は笑ってやった。
「誰が不在にした? 代行は誰」
「……」
「今の沈黙、回答拒否として記録する。異議ある?」
エマが、俺の言い方を“公的”に塗り替える。
「離席・保留の理由を文書化してください。署名付きでお願いします」
女は唇を噛み、操作を再開した。数秒後、ディスプレイに番号が出る。
「相談室、第三。十五分だけです。——ただし、候補者の方は保護のため同席者制限が――」
「命令か?お願いか?どっち」
「……お願い、です」
「なら拒否できるな」
エマが軽く目を閉じた。俺たちは番号札を受け取り、白い廊下へ進む。
曲がり角に、派手なスーツの男が立っていた。胸元のピンが、寄進評議会の下部――スポンサー連盟の紋章を主張している。
笑顔が綺麗すぎて、逆に汚い。
「やあ。噂の“煽り屋”さんと、“白印候補”さん。今日は穏便に――」
「ここは監査支部だ。穏便じゃなく、正確にやる」
「正確、ね。スポンサーは“空気”も買うんだよ?」
エマが言葉を挟む前に、男は相談室のドアをノックもせず開けた。
誘導? 同席? 圧力? どれでもいい。答えは一つだ。
――誰の指示だ。
◆
相談室は、狭い箱だった。机、椅子、監視カメラ。壁の向こうに“記録”がいる。
こちら側にいるのは、俺とエマ、それからさっきの男。さらに遅れて、灰色の制服の女が入ってくる。受付の主任らしい。
「候補者育成財団・連絡担当のミラーです」男が名刺を置く。「本件、財団として立会いを――」
「立会いはいい。邪魔するな」
受付主任が咳払いをした。
「本件は、候補者の安全保護の観点から――」
「保護名目で縛る? 便利だな。監査が喜ぶ」
エマが、淡々と続ける。
「重点監査の要件に該当する可能性があります。証拠保全のため、封緘物の受理と保管を求めます」
主任の眉が動いた。ミラーの笑顔が薄くなる。
俺はケースを机に置き、封緘タグを指で弾いた。カツン、と軽い音。軽いが、重い意味。
「昨日、端末の遠隔ワイプ未遂があった。捕獲した端末と、スーツログのコピー。映像は端末に署名付きで入ってる。三点突合に回せば終わる話だ」
「“未遂”の段階では、重大度分類が――」
「上げるか?上げないか? 今ここで」
「……」
「態度の話をするなら帰る。受理する?しない?」
ミラーが割って入る。
「ノアさん、あなたの態度が世論に与える影響を――」
「世論はメディア局の飯だ。監査の飯じゃない」
エマが視線だけで俺を叱り、言葉を整える。
「本日は手続きの確認に限定します。受理可否の判断をお願いします」
主任は端末を弄り、わざとらしく首を傾けた。
「規格署名の確認が必要です。封緘物は“汚染”の可能性が――」
「汚染って言葉、便利だよな。じゃあ確認。汚したのは誰? 封緘に触った手は?」
「それは……」
「アクセスログ出せ。出せないなら、汚染は主張できない」
ミラーが笑顔を戻す。
「手続きは理解しますが、候補者の端末やログには個人情報が――」
「機密でいい。監査にだけ出せ」
「その権限は――」
「誰にある?」
「……支部法務を通す必要が」
「支部法務の名前」
俺は机に肘をつき、顔を近づけた。煽りじゃない。確認だ。
「独断?上司命令? どっちが嘘だ」
主任の喉が鳴った。ミラーの指が名刺を押さえる。
エマが、刃を丸めて刺す。
「事実確認です。指示系統を示してください。どなたの指示で保留されますか」
主任は一瞬、“外”を見る。カメラ。監査塔。
逃げるなら、カメラに向かって逃げろって話だ。
「……保留ではありません。適正な手続きのための――」
「延期理由を文書化して。署名付きで」
「……」
俺は端末を机に置き、録音を開始した。音は出ない。表示だけが小さく点滅する。
ミラーが、その点滅に気づき、顔色をほんの少し落とした。
「録ってるのか」
「当然。ここはログ社会だ」
主任がようやく口を割る。
「……上から、受理を一旦留保するように……口頭で」
「上。誰」
「……均衡……いえ、」
言い直しの途中で、主任はハッとした。言ってはいけない単語が混ざった顔だ。
ミラーが急に強い声を出す。
「主任。言葉に気をつけろ。こちらは“保護”の名で配慮して――」
「配慮の名で妨害してるだけだ」
俺は指を一本立てる。
「追撃は一回だけにする。今、責任者の名前。一語で」
「……支部法務、クロイツ……です」
「役職」
「法務官。受理留保の口頭指示は、その……クロイツ法務官から」
エマが息を吸い、すぐに吐いた。
「供述として記録しました。指示者はクロイツ法務官、でよろしいですね」
主任は小さく頷く。ミラーの笑顔が消える。
俺は頷き返し、態度を変えた。怒鳴らない。ここからは“殺す手続き”だ。
「じゃあ受理しろ。受理できないなら不受理の根拠条文と、クロイツ法務官の署名を添えて返せ」
「……この場で署名は――」
「無理なら、受理。選べ」
机の上で、エマが封緘タグの番号を読み上げる。淡々と、逃げ道を塞ぐ声。
「封緘番号、A-17-09-4。こちらはB-17-09-4。封緘状態、破断なし。立会い者は主任、ミラー氏、ノア・クロフォード、エマ・ルクシア」
主任は観念したように端末を操作した。数秒後、受理画面が表示される。
俺は画面を指差し、確認を取る。
「受理番号」
「……R-03-1182」
「読み上げ」
「受理番号、R-03-1182。受理日時――」
エマが頷く。俺も頷く。これで“後から無かったこと”にはできない。
ミラーが机を軽く叩いた。
「あなたは分かっていない。スポンサーが動けば、彼女の評価は――」
「それも指示系統があるだろ。誰が“動く”? 名前」
ミラーは口を噤んだ。出せない名前は、出せない弱みだ。
主任が気まずそうに書類を封緘袋に入れ、ケースに貼り付けた。
「……保管庫へ移送します。以上です」
「ありがとう。今ので“物証”が生きた」
俺が立ち上がると、エマも立つ。背筋は真っすぐだ。白印候補の仮面じゃない。彼女自身の、決意の姿勢。
廊下に出た瞬間、エマの端末が震えた。短い電子音。
画面には、財団の通知が赤枠で表示されている。
『実習派遣先変更。明日06:00集合。資源ノード第七区・採掘護送実習。スポンサー連盟指定の護送隊に同行せよ』
……早すぎる。露骨すぎる。
俺が笑うと、エマは青ざめたまま頷いた。
「ノア、これ……報復、ですよね」
「たぶんな。――だから行く。ログが残る場所で、もう一回“正しく”キレてやる」
通知の最下段に、同行責任者の欄があった。
『護送隊指揮:ミラー』
さっきまで俺たちの前で“空気”を売っていた男の名前が、やけにくっきり光っている。
エマが小さく息を呑んだ。――つまり、明日は最初から喧嘩を撮りに来る。
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