第5話
端末の隅で、赤い数字が減っていく。
00:01:32――ワイプ予告。誰かが、こちらの「記録」を消しに来ている。
封緘袋の中身は、昨日拾った“事故”の残骸だ。
規格署名が微妙にズレたEセル。整備履歴の署名が空白の部品。――そして、発砲ログが「同期されない」よう細工された端末。どれも表向きは「現場の不手際」で済む。でも監査の目で見れば、全部が一本の線で繋がる。
「落ち着いて。こっちは落ち着けない状況に慣れてる」
俺がそう言うと、隣のエマ・ルクシアは息を整えた。白印候補の制服は汗で背中に張りついてるのに、目だけは逃げない。偉い。
「……ノア。今の、冗談ですか」
「冗談に聞こえるなら、まだ余裕ある」
「余裕がない時は?」
「俺がもっと感じ悪くなる」
封緘袋の表面に、青い光の糸みたいな紋が走る。封緘番号――七桁。エマが読み上げる。
「042・7719。封緘、確認。改竄痕、なし」
「声、もう一回。カメラにも聞かせて」
「042・7719。封緘、確認」
俺の胸元のボディカムが小さく震えた。監査塔への同期が、今まさに始まりかけている。ダンジョンの中で遅延したログは、地上に出た瞬間に「まとめて」流れ込む。だからこそ――ここから数分が、一番危ない。
エマが端末を覗き込む。
「……ワイプ命令、まだ生きています。切断しますか?」
「切るな。切ったら『消したい奴』の署名が取れない」
「でも、消されます」
「消され“ようとした”痕跡が取れる。こっちは“事実”より“手続き”で勝つ」
誰かが笑う声がした気がして、俺はわざと大きく欠伸をした。壁の監視カメラに向けて、だ。
「走る?」
「走りません。転倒は記録に残ります」
「じゃあ歩いて急ぐ。矛盾っぽいけど、まあいい」
◆
通路の角を曲がった瞬間、空気が変わった。
熱じゃない。匂いでもない。――「視線」だ。監視ドローンの視線と違う、人間のやつ。しかも複数。足音は消してるくせに、呼吸だけは隠せない。
俺はエマの前に半歩出て、声を落とした。
「相手は『時間』を取りに来る。俺らは『時間』を守る」
「守る、は?」
「同期が終われば、こっちの勝ち筋が太くなる。終わるまで持てばいい。勝ちたいなら、いま勝たないことだ」
赤い数字は、00:00:58。
黒い作業服の男が二人、非常階段の踊り場から降りてきた。顔はマスク。手にはジャミング棒。もう一人、床を這うように背後から来る。慣れてる動きだ。雇われ。
「そこまでだ。端末を――」
「端末じゃなくて封緘袋な。雑な仕事してると、雇い主に叱られるぞ」
男の肩がぴくりと動いた。刺さった。刺すのは簡単だ。相手が刺さる場所に、勝手に立ってくれるから。
「関係ない。渡せ」
「はいはい。質問。今のはお願い? 命令?」
「……命令だ」
「残念。命令権、君に無い」
俺は両手を見せて、一歩だけ下がった。攻撃する気はない、と見せる。見せたうえで、攻撃させる。
「ノア、挑発は――」
「挑発じゃない。確認だ。あと、君らの言い分をちゃんと録ってあげてる。優しいだろ」
男が苛立ってジャミング棒を突き出してくる。先に手を出した。ボディカムがそれを撮る。俺は棒を腕で受けて、体重を預けた。派手に転ぶ。痛い。けど、痛い方が映える。
「うわ、乱暴。いまの、規約的にどう思う?」
「抵抗するな!」
肘が擦れて血が滲む。エマが反射で手を伸ばしたけど、俺は首を振った。
「後で。今治すと、『最初から怪我してなかった』って編集される」
「そういう編集を前提にしないでください……!」
背後の男がエマに手を伸ばした瞬間、エマの手が白く光った。治癒じゃない。小さな結界。触れた指先が弾かれる。薄い膜なのに、意思だけは硬い。
「接触はおやめください。封緘物です」
彼女の声は、怒鳴らない。けれど、線は引く。……この子、ちゃんと怖い。
残り、00:00:37。
床を這っていた三人目が、俺の足元から端末に手を伸ばす。狙いは封緘袋じゃない。俺の腰の端末ホルスターだ。ワイプを確実にするために、物理で持っていく気だな。
「消す? 急げ? ……ほら、“消したい”顔してる」
「黙れ!」
男がホルスターに指をかけた瞬間、俺は膝で腕を挟み、手首に拘束帯を巻きつけた。金属じゃない。繊維の束が、噛みつくみたいに締まる。暴れるほど絡む、現場用の結束。派手なモード名なんて要らない。縛れれば勝ちだ。
「――っ、離せ!」
「無理。俺、性格悪いから。暴れると余計きつくなるやつ、選んだ」
残り、00:00:21。
もう一人がジャミング棒を振り上げる。俺は拘束した男を盾にした。盾にした、って言うと聞こえが悪いが、彼が勝手に俺の盾の位置に来た。そういうことにしておく。
「やめろ!」
「やめないと、君の仲間が痛いぞ?」
「脅すな!」
「脅してるのは君らだろ。今、誰に脅された? 答えろ。誰が『消せ』って言った」
エマが横から、いつもの“翻訳”で刺す。
「事実確認です。誰から、いつ、どの手段で指示を受けましたか。氏名か、所属か、連絡経路だけで結構です」
残り、00:00:12。
拘束された男の瞳が揺れた。迷う。迷う時間が、こちらの勝ち。――時間稼ぎって、こういうことだ。
「……俺らは……『評議会』の下請けだ。連絡は――」
「続き。名前」
「……『メディア局』の、切り抜き担当……ハンドルは《グラス》……!」
そこで、端末が震えた。赤い数字がゼロになり、画面に別の通知が走る。
《外部ワイプ命令:実行失敗/封緘モード移行》
《命令署名:検出》
よし。命令の“署名”だけは残った。消しに来た証拠が、消せなかった証拠として残る。皮肉で最高だ。
「エマ、今の供述、録れた?」
「はい。音声・映像・時刻、三点で。……ノア、血が」
「まだいい。あと二分は“怪我したまま”が強い」
俺は拘束帯の端を引き、男を床に押さえつけたまま、もう片方の男に目を向けた。
「まだやる? やるなら先に言え。『証拠妨害』って単語、ログにしてあげる」
男は歯噛みして、逃げた。賢い。賢い敵は嫌いだけど、今は助かる。
問題は、ここからだ。
逃げた奴が“外”に合図を飛ばす。現場の治安が来る。その治安が、スポンサーの顔色で「保護」を口にする――いちばん嫌な展開。
俺はエマに囁いた。
「救援が来ても、封緘袋は渡すな。渡すなら、受領サインと時刻と立会いを取れ」
「……はい。受領、封緘、提出。順番は崩しません」
遠くでサイレンが鳴り、白いライトが通路に流れ込んだ。治安員の声が響く。
「武器を捨てろ! こちらは治安局――」
「捨てない。こっちは封緘物護送だ。必要なら“あなたの氏名”から先に言え」
「は?」
「名乗れ。名乗らない奴に渡す物はない」
エマが一歩前に出て、俺の毒を合法にした。
「封緘物護送です。受領は立会いと書面が必要です。担当官の氏名・部署・時刻をお願いします」
治安員が舌打ちし、端末を操作する。その動きまでログだ。俺は笑ってやった。焦るほど、余計な手が増える。
――なんとか、支部の建物までは辿り着いた。監査支部の受付は、白くて冷たい。空気まで規約で固めたみたいな場所だ。
俺たちは封緘袋と端末をカウンターに置いた。エマが封緘番号を再度読み上げる。俺は自分の血を指で拭い、ついでにカウンターのカメラに見せつけた。編集しにくい“現物”は、正義だ。
受付の法務員が、笑っていない目で言った。
「その資料は没収します。こちらで保管しますので」
俺は即答した。
「やってみろ。証拠妨害の現行だ」
エマが一歩前に出る。
「没収の根拠条文を提示してください。条文番号と、命令者の署名を」
法務員は少しだけ眉を動かし、こちらの背後を見た。――来る。来るな。
薄い封筒がカウンターに置かれる。紙の角に、見慣れない押印。スポンサー系の匂いがする。
そして、法務員は言い切った。
「“緊急保護”です。あなた方は口を出せません。白印候補――エマ・ルクシアは、この場で待機」
背後で制服警備が靴音を揃えた。法務員の指が封筒を叩き、赤いランプが点滅から点灯へ切り替わる。無線が短く鳴った。
「ルクシア候補、こちらへ」
伸びた手が封緘袋に触れかける。エマの指が震えたまま、離さない。
俺は録音ボタンを押し、笑って言った。
「その“緊急保護”、根拠条文番号。――今、読み上げろ」
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