第3話

 端末が震えた。画面に浮いた差出人は、候補者育成財団——そのさらに上、寄進評議会の名札付きだ。

 要件は一行。「企業スポンサー連盟との面談。任意協力。参加推奨」。

 任意、推奨。便利な言葉だ。命令でもお願いでもない顔をして、責任だけは相手に押しつけられる。

 エマは寝不足の目をこすりながら、ぼくの端末を覗き込んだ。

「……また、呼び出しですか」

「呼び出しじゃないらしい。ほら、“任意”だってさ」

 ぼくが口角だけで笑うと、エマは小さく息を吐いた。彼女は“白印候補”だ。人気の顔。善意の象徴。だから狙われる。

 昨日の件で、さらに。

 財団の応接室は無駄に白い。清潔さで殴ってくるタイプの部屋だ。机の上には紙の契約書、卓上カメラ、そして“こちらの同意で録画します”という薄い笑顔。

 同席している事務官が言った。

「本日はスポンサー連盟のご厚意です。エマ様の活動——特に救療班の設備強化について、寄進のお話が」

「寄進はありがたい。で、条件は?」

 事務官の眉が一瞬だけ動いた。条件という単語が、ここでは汚れらしい。

「条件、というより……円滑な協力のための確認事項です」

「確認事項って言い換えると、条件になるやつだよな」

 エマが一歩前に出る。ぼくの毒を公的言語に翻訳する係だ。

「確認です。文書化できる条件のみ承ります。口頭の“期待”は、誤解の元になりますので」

 事務官は困った顔のまま、紙束を差し出した。

「ではこちらに——“協力覚書”として」

 ぼくは紙束を受け取らず、机上に視線だけ落とした。表題は柔らかい。中身は首輪の匂いがする。

「二択。書面に残すか、撤回するか。どっち?」

「撤回、というのは……」

「条件の話を撤回するのか、書面にするのか。どっち?」

 沈黙が落ちた。沈黙は便利だ。言い逃れの余地を残すから。

 だから、潰す。

「録画してるよな。この部屋のカメラ、財団の資産だ。つまり証拠は財団の責任で残る。なら、“言った/言わない”の遊びは今日で終わりだ」

 エマが頷く。

「記録は残ります。発言と行動に責任をお願いします」

 事務官は観念したように、端末を操作した。

「……分かりました。スポンサー連盟側にも“条件は文書化前提”で伝えます」

 よし。火種は置けた。あとは、相手が踏むかどうか。

 企業スポンサー連盟のフロアは、財団の白さと違って、眩しいほど“成功”の匂いがした。広告塔の窓面に踊るロゴ。受付の背後で流れる、白印候補の活動ハイライト。——エマの笑顔が、商品みたいに編集されている。

 エマは見ないふりをした。ぼくは、見て覚えた。敵の土俵は、まず把握する。

 案内された会議室には、二人の男がいた。ひとりは連盟の渉外担当、髪も声も整いすぎている。もうひとりは“法務”と名札に書いてあるが、目が監視カメラのそれだった。

「ノア・クロフォードさん。エマ・ルクシアさん。お忙しい中——」

「忙しいかどうかは、そっちが決めるな」

 言うと空気が固まる。ここで引き下がれば、今後ずっと“言いなり”だ。

 渉外担当が微笑を貼り直した。

「寄進は善意です。条件など——」

「じゃあ署名できるな。条件ゼロで」

 ぼくは机上の覚書に指を置いた。

「“条件が無い”って言った。なら、条件欄を全部白紙にして、今ここで署名しろ。できないなら、条件がある」

 法務が口を挟む。

「手続きとして、候補者の安全と信用を守るための条項が——」

「守る、ね。じゃあ確認。守るために“縛る”条項もある?」

 渉外担当の笑顔が、わずかに薄くなる。答え方を探している顔だ。

 ぼくは追撃を一回だけ入れ、着地点を用意する。

「はいか、いいえ。二択で。縛る条項があるなら“ある”。ないなら“ない”。」

 エマが補助線を引く。

「確認です。“候補の行動を制限する条項”はありますか。ある場合、その根拠条文番号を提示してください」

 法務の視線が渉外担当へ流れた。責任の押しつけ合いが始まる。その一秒が、ぼくの勝ち筋だ。

「……あります。ですが、これは“保護”で——」

「保護の名で囲うって、そう言えばいい。カメラの前で」

 会議室の隅にある連盟側のレンズに、ぼくは顎を向けた。ここは彼らの城だ。なら、彼らの記録で刺す。

「“囲い込み条項がある”って、今言ったな」

 渉外担当が慌てて言い換える。

「いえ、囲い込みではなく、円滑な協力の——」

「言い換えはいい。今の発言は残る。で、次」

 ぼくは紙束をめくり、該当ページを叩く。

「この条項。“拒否したら評価に影響する”って書いてあるけど。影響するの? しないの?」

 渉外担当の瞳が一瞬だけ泳いだ。

「スポンサー点は……透明性のある指標です。協力姿勢は、当然——」

「当然、何。下がる? 下がらない?」

 声の温度を上げない。上げるのは圧だけ。怒鳴ったら負けだ。煽るのは感情じゃなく、選択肢。

 エマが静かに釘を刺す。

「評価操作の示唆は重大です。発言を撤回しますか。それとも、“影響がある”と記録しますか」

 渉外担当は笑顔を維持したまま、喉だけが鳴った。

「……影響が、ある可能性は」

「ありがとう。今の一言で、監査が喜ぶ」

 法務が机上のペンを押し出した。

「では、必要部分を文書化し、双方署名で——」

「最初からそうしろって言ってんだよ」

 ぼくは条件欄を空白にした上で、代わりに“条文番号と提出先”だけを書き込ませた。曖昧な期待は消して、責任の線だけ残す。

 エマが横で、淡々と読み上げる。

「提出先は機構支部の監査受付。提出形式は封緘付きデータ。閲覧制限は条文番号を明記——」

 渉外担当が震える手で署名した。法務が続く。最後にエマ。ぼくはペンを置かない。置いた瞬間、相手が“勝った顔”をするから。

「これで終わり。合意内容は封緘して保管する。異議は?」

 誰も言わない。沈黙は、また記録に落ちる。

 ぼくは端末で封緘番号を発行し、紙の覚書をスキャンして暗号化パッケージに変換した。連盟側の端末にも同じ番号が同期される。触れれば触れたログが残る。逃げ道は、少しずつ塞がる。

 エマが小声で言った。

「……大丈夫ですか、ノア。今の言い方、また嫌われます」

「嫌われるのは慣れてる。嫌われて困るのは、規約違反をした側だけだ」

 会議室を出る直前、渉外担当が背中に投げた。

「“善意”に感謝はありませんか?」

 ぼくは振り向かないまま返した。

「善意は口で言うほど軽い。重いのは署名とログだ」

 エレベータの扉が閉まり、静寂が戻る。そこで初めて、エマが封緘パッケージを開いて確認した。

 エマの端末に、封緘番号が光る。指先で触れると、パッケージの中身——さっきの覚書、署名のタイムスタンプ、連盟側の確認ログ——が順番に展開された。

 そこまでは、想定通りだった。

「……え?」

 エマの声が、ほんの少しだけ尖った。彼女が人前で声を尖らせるのは珍しい。

「どうした」

「覚書の後ろに……知らないページがあります」

 “付帯規程”。その四文字が、やけに上品なフォントで並んでいる。目を滑らせるほど、胃が冷える。

 候補者育成財団・安全プロトコル改定案。発令主体:企業スポンサー連盟。——おい、誰の規程だよ。

 条文は短い。短いからこそ、刺さる。

『候補者の現場映像・端末ログ・発砲/治癒ログ等は、指定窓口を経由し封緘提出すること。直接提出を禁ず』

『違反時はスポンサー点の再評価を行う』

 ぼくは思わず笑った。乾いた笑いだ。人が笑うのは嬉しい時か、怒りが沸騰する直前か、どっちかだ。

「なるほど。さっき“善意は条件がない”って言った口で、これを付けてくる」

「……これ、発令されていないはずです。今日の面談は、任意協力の——」

「任意の顔をした命令だ。しかも“提出経路”を奪うタイプの」

 エマの指が震えた。白印候補は、人を救う手だ。その手を縛るのが“保護”だと言われたら、彼女は戦えなくなる。だからこそ、ぼくがいる。

「エマ。今の気持ちは後でいい。確認だけ。これ、さっきの渉外担当の端末署名が付いてる?」

 エマは画面を拡大し、息を呑んだ。

「……付いてます。法務の署名も」

「オーケー。言質は取れた」

 ぼくはエレベータの壁にもたれ、端末の封緘番号をもう一度なぞった。触れたログが増える。増えるほど、相手は嫌がる。嫌がるほど、相手はミスをする。

 次の一手は決まった。提出経路を奪うなら、こちらは経路ごと封緘する。

 そして——エレベータが一階に到着する直前、端末がもう一度震えた。財団からの自動通知。件名は短く、無慈悲だった。

 通知本文は、ぼくの胸に冷たい針を刺した。『安全プロトコル改定、即時運用。候補関連ログは“スポンサー連盟指定窓口”へ提出。機構支部への直接提出は禁止。違反時はスポンサー点を再評価。明朝八時までに端末を指定工廠で更新せよ。未更新者は寮外活動を停止する』。——明日から、証拠の蛇口は相手の手の中だ。エマが唇を噛む。ぼくは笑って封緘番号をもう一度押した。今夜のうちに、奪われる前に奪い返す。合法で、確実に。

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