第2話

 命令という言葉は、便利じゃない。言った瞬間、責任の矢印が自分に刺さるからだ。

 だから大抵の大人は「お願い」と言い換える。——そして都合が悪くなると「命令だった」と言い張る。

 俺の目の前の男も、同じ顔をしていた。

◆  臨時診療所は、清潔な白ではなく、消毒液の白い匂いで塗り固められていた。入口の上で監視ドローンが小さく旋回し、壁面の監査塔アンテナが淡い光を脈打たせている。

 列は長い。咳、熱、怯え、怒り。都市の呼吸がここに集まっている。

 その中心に、エマ・ルクシアが立つ。白印候補の腕章は眩しいほど白く、同時に首輪みたいに重い。

 彼女は今日も丁寧に頭を下げた。

「皆さん、順番に。症状を確認してから——」

「はいはい! その前に、こちらを向いてください! カメラ、寄ります!」

 メディア局の若い撮影員が、やけに馴れ馴れしく円形レンズを突き出してくる。俺は自分の魔導端末を胸ポケットから半分だけ見せた。録画灯が点く。相手のレンズと、こっちのレンズ。どっちが真実を残すかは、後で決まる。

「いいカメラだな。切り抜きしたら、元データで殴り返すだけだけど」

「え、い、いや、公共の利益で——」

「公共の利益なら、なおさら元データ要るだろ」

 撮影員が一瞬だけ笑顔を引き攣らせる。横から、スーツ姿の男が割って入った。企業スポンサー連盟——そのバッジが胸で光っている。

「ノア・クロフォードさん、ですね。随伴監査補助。……正直、場違いです」

「場違いな場所ほど、場違いが必要だろ」

 男は、俺じゃなくエマに笑いかけた。営業の笑顔。人を物として扱う笑顔。

「エマさん。今日の公開実習、スポンサー枠で押さえています。予定を前倒ししましょう。隔離区画の奥、いま“見せ場”ができている」

「見せ場って……患者さんのことですか」

「市民が安心する絵です。あなたが入って、救って、笑う。これで民衆点もスポンサー点も跳ねます」

 エマの目が揺れる。助けたい、という純粋さが先に立つ。だから、危ない。

 彼女は俺を見た。『行くべきですか』と、言葉にしないで訊いてくる。

 俺は短く首を振った。救いたいなら、なおさら手続きを踏め。事故の絵を撮られたら、救った人数ごと奪われる。

 エマは小さく唇を結び、頷いた。——よし。翻訳係だけじゃない。判断ができる。

 俺が前に出る。

「命令か? お願いか? どっち」

「……は?」

「命令なら命令って言え。お願いなら断れる」

 エマが息を吸い、俺の毒を、公的言語に薄めて差し出した。

「確認です。本件は命令として発令されますか。それとも、任意協力ですか」

 男の頬がぴくりと動く。命令と言えば、文書が要る。署名が要る。後から責任が逃げない。

 お願いと言えば、拒否の余地が残る。だから脅す。

「任意です。ただ——拒否した場合、評価に影響が出ますよ。現場の“協力姿勢”は見られていますから」

 俺は端末の録音を一本押した。エマも、静かに頷く。

「今の、もう一回言って。今度はハッキリ。録れてる」

「脅迫と評価操作の示唆は重大です」エマが淡々と続ける。「撤回されますか?」

 男は口を噤んだ。沈黙は、こちらの燃料だ。

「……時間がありません。市民のためです。あなた方も分かるでしょう?」

「分かる。だから、手続きで守る」

 男は笑顔を捨てた。代わりに顎で合図を出す。入口の警備員が二人、P1治安スーツの駆動音を鳴らして近づいた。

 ——ああ。来た来た。相手が先に“やらかす”瞬間を、俺は待っていた。

◆  警備員の一人が、エマの腕に手を伸ばした。

 その指が触れる前に、俺は間に入る。

「触るな」

「抵抗するなよ。スポンサーの指示だ」

 スポンサーの指示。便利な言葉だ。責任を空に投げる呪文。

 俺は肩越しに男を見た。

「今の、“指示”の発令者は誰だ。氏名と役職」

「……現場は緊急なんだ。細かいことを——」

「緊急ほど細かくする。嘘が混ざるから」

 エマが一歩、俺の横に並ぶ。視線は患者列へ向けたまま、声は俺にだけ届くくらい低い。

「ノアさん、あの奥……呼吸が荒い方がいます。今すぐ行けば——」

「行く。けど、連れて行かれない形で行く。違う形だと、戻れなくなる」

 彼女は理解した。少しだけ、肩の力が抜ける。俺たちは同じ方向を見る必要がある。甘い絆じゃない。生き残るための連携だ。

 警備員が苛立って、胸元の俺の端末に手を伸ばした。

 ——よし。そこまで来い。

「止める。痛くはしない。恥は残す」

 俺は手首を払って、警備員の肘を逆方向に折り、膝を床に落とす。スーツの補助筋が呻いて、相手のバランスが崩れた。

 もう一人が拳を振り上げる。俺は掌の制圧パッドを押し当てる。ぱちん、と乾いた放電音。スーツのログが跳ねる。相手の瞳孔が一瞬だけ開き、膝から崩れた。

「……っ!?」

「今のは制圧。抵抗をやめろ」

 周囲がざわめく。列の中から悲鳴が上がり、誰かが携帯端末で撮り始める。ドローンが旋回高度を下げ、レンズがこちらを向いた。メディア局の撮影員が、興奮した声で囁く。

「これ、撮れてます……!」

「元データもな。逃げるなよ」

 スポンサー男が叫んだ。

「何をしている! そんな乱暴は——! 端末を没収しろ! 今すぐ!」

「言ったな」

 俺は笑いそうになった。助かる。現行で刺さった。

 エマが一歩前に出る。声は柔らかい。だが言葉の刃は正確だ。

「没収は手続きが必要です。根拠と立会い、そして受領記録を提示してください。提示できない場合、証拠保全の妨害として記録します」

 男は苛立ちで顔を赤くした。良い。感情はログに残る。

「市民のためだと言っている! あなた方は——」

「善意の暴走って言葉、知ってる? 今のがそれだ」

 俺の口は悪い。だからエマが続ける。

「現場判断は尊重します。しかし規約の範囲内でお願いします。患者の安全と、手続きの安全は両立できます。——今、最優先で救うべき方がいるなら、救うための手順を示してください」

 “示せない”。それが答えだ。男は視線を逸らした。視線の先にあるのは、カメラと、スポンサーの面子。

 俺は倒れた警備員の胸元のIDを引き抜き、端末で読み取る。スーツの個体番号、位置ログ、心拍の急上昇。全部、こちらの味方だ。警備員が呻きながら言う。

「……俺らだって、命令されて——」

「じゃあ救う。指示者の名前」

 警備員は、スポンサー男を見た。——視線だけで、系統が割れる。

 俺は男のバッジを指差した。

「氏名。今。役職。今。言えないなら“言えない理由”を文書で書け」

「……ギルバート。連盟広報調整官だ」

「はい、確定。ギルバート広報調整官が、記録の没収を口頭指示。映像・音声・時刻付き。ありがとう」

 エマが端末を開き、封緘手続き画面を出す。彼女の指が迷いなく動くのを見て、俺は少しだけ安心する。彼女は“守られるだけの人形”じゃない。学ぶ。

「封緘します。番号、読み上げますね」

「読め。大きな声で。カメラにも入れろ」

「封緘番号、A-0-7-4-……。提出先は監査支部受付。閲覧権限は候補者育成財団と、機構監査官に限定します」

 ギルバートが呻く。たぶん、こういう時は“メディア局に渡す”のが正解だと思っていたのだろう。切り抜きと炎上で、形だけ正義を作れるから。

 でも、俺たちは手続きを握っている。事実より、手続き。後から裁ける形にする。それが、この世界の勝ち筋だ。

 エマは、列の奥で呼吸が荒くなっていた男のもとへ移動した。俺は警備員を壁際に座らせ、逃げないように距離を取る。暴力は嫌いじゃないが、殺す気はない。殺さない方が、相手の人生を長く燃やせる。

 エマが膝をつく。掌が淡く光る。白印候補の治癒は、派手じゃない。けれど確実だ。呼吸の引っかかりが滑らかになり、男の目から焦点が戻る。

「……すみません、怖くて……」

「大丈夫です。息を、私に合わせて」

 周囲の空気が少しだけ温度を下げる。市民点とかスポンサー点とか、そういう数字の前に、目の前の人間が生きている。

 それを利用しようとする連中がいる。俺はそれが許せない。

 ギルバートが小さく毒を吐いた。

「……あなたが協力しないから、救える人数が減るんです」

「違う。お前が“責任から逃げる形”を選んだから減る」

 俺は封緘済みデータの送信準備を押した。送信ログが立ち上がる。——これで終わりだ。

 終わりのはずだった。

 端末が、短い警告音を鳴らした。

 画面に、候補者育成財団からの赤い通知が点灯する。

『通達:本案件はメディア局管理下へ移管。現場で取得した元データは“広報保護”のため回収する。ノア・クロフォードは提出を停止し、端末を持って直ちに財団車両へ。同意なき送信は規約違反として処理する。違反時、エマ・ルクシアの遵法点に直結——』

 ……は?

 俺が顔を上げると、診療所の外に黒い車列が滑り込んできた。財団の紋章。後部ドアが開き、手袋の人間がこちらへ歩いてくる。

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