転生少女のホムンクルス生活~今日も家族に愛され暮らしている
パパえもん
第Ⅰ部:失われた命と、与えられた居場所
第1話 生きていていい理由が、分からなかった
寒さは、痛みよりも先にやってきた。
冬でもないのに、床が冷たい。
外は、まだ暗い。
でも、完全な夜でもない。
どこか遠くで、車の音が一度だけ通り過ぎた。
朝に向かう音だと、
裸足の裏から、じわじわと体温が奪われていく。
紗凪は、壁に背中を押し付けて座っていた。
体育座りをすると、腹の音が聞こえてしまうから、膝は抱えない。
呼吸も浅くする。
音を、存在を、できるだけ消す。
このまま、時間も止まってくれればいいと思った。
朝にならなければ、
怒鳴られる理由も、増えない。
この家では──
子どもがそこにいるだけで、怒りの理由になる。
時計は止まっていた。
昨日なのか、今日なのかも分からない。
日付が変わるということが、
この家では、意味を持たなかった。
時間が分からないと、少し楽だった。
「あと何時間耐えればいい」という希望を持たなくて済む。
朝になると、最初に聞こえるのは足音だった。
目が合う前に、怒鳴られる。
理由を考える前に、叩かれる。
「起きてるなら、邪魔」
「寝てるなら、邪魔」
どちらでも、殴られた。
朝は、逃げ場がなかった。
夜は、まだ息を殺せたから──
喉が渇いていた。
でも、台所に行くと足音が鳴る。
コップを取る音が鳴る。
それだけで、殴られたことがある。
だから、待つ。
何を待っているのかは、分からない。
「……はぁ」ため息が、隣の部屋から聞こえた。
母親の声だ。
──名前は、呼ばれない。
この家で、紗凪の名前が口に出されることは、ほとんどなかった。
「おい」
「ちょっと」
「それ」
呼ばれるときは、いつもそれだけだった。
ただ──ため息ひとつの、その一音で心臓が跳ねる。
身体が勝手にこわばる。
──来る。
案の定、襖が乱暴に開いた。
「……まだ起きてたの?」
母、百合恵(ゆりえ)の目は赤く腫れていた。
泣いたあとか、酒のせいか、紗凪には分からない。
「邪魔なんだけど」
それだけで、理由は十分だった。
平手打ち。
避けられなかった。
耳鳴りがする。
視界が一瞬、白くなる。
「ごめんなさい」
反射で言葉が出る。
名前を呼ばれない代わりに、
謝る言葉だけは、何度も使われた。
心が追いつく前に、口が動く。
「何が?」
返事を間違えた。
お腹に鋭い衝撃と痛みが走る。
次は、蹴りだった。
息が抜ける。
声が出ない。
床に転がった紗凪を、百合恵は見下ろした。
その目には、娘を見る色がなかった。
「生きてるだけで迷惑なの、あんた」
おかあさんにとって、わたしは名前を呼ぶ必要すらない存在。
分かってる。
だから、何も言わない。
言えば、余計に長引く。
しばらくして、別の足音がして、男が部屋に入ってくる
榊原哲也(さかきばら てつや)、百合恵の内縁の夫だった。
酒の匂い。
不機嫌な空気。
「……またやってんのか?」
「だって、この子が」
理由を探す必要はない。
彼にとっても、紗凪は都合のいい的だった。
髪を掴まれる。
頭皮が引きつる。
「痛い」
言ってしまった。
次の瞬間、視界が反転する。
床に、叩きつけられた。
鈍い音。
骨が鳴った気がした。
涙が出る。
でも、泣き声は殺す。
泣くと、怒られる。
静かに壊れるのが、一番早い。
──私が悪い。
──私が、いらない子だから。
いつの間にかそう考えるようになっていた。
明日が来ても、たぶん何も変わらない。
生きている限り、私は勝手に年を取る。
それが、嬉しいなんて思ったことはなかった。
殴られながら、紗凪は思う。
空気が、少しだけ変わった気がした。
夜が、終わろうとしている。
でも──
その先に、行きたい朝はなかった。
もし、次があるなら。
生まれ変われるなら。
優しい人のところがいい。
怒鳴られない場所がいい。
名前を、
怒鳴るための合図でも、
呼び捨ての記号でもなく──
ただの音じゃなくて、
“呼びかけ”として、呼んでもらえる場所。
その願いが、叶うかどうかを考える前に。
強い衝撃が、頭に走った。
視界が、歪む。
音が、遠ざかる。
床が、冷たい。
さっきより、ずっと。
ああ──
これが、終わりなんだ。
不思議と、怖くはなかった。
悲しいとも、思えなかった。
ただ──
「やっと、おかあさんの迷惑じゃなくなる」
そう思って。
なにか慌てるような声と音を遠くに聞きながら──
意識が、──暗くなる。
目を閉じたのかどうかも、分からなかった。
夢なら、いいなと思った。
夢なら、起きたら全部なかったことになる。
そう思ったのに。
体が、どこにもなくなっていく。
痛みも、寒さも、遠くなる。
「……ねむい」
声に出たかどうかも分からないまま、
「……おかあ、さん」
呼んだつもりの声は、
どこにも届かないまま
紗凪の意識は、深いところへ落ちていった。
――――――――――
最初に分かったのは──
息ができているということだった。
おかしい、とすぐに思う。
息を吸っている感覚がないのに、苦しくない。
次に分かったのは、身体が分からないということだった。
腕も、脚も、指先も──
あるはずなのに、どこにも見当たらない。
重さも、輪郭も、存在の境目もない。
──なに、ここ。
視界はぼやけている。
白く、明るく、にじんだ光が揺れている。
まるで、水の中。
いや──
本当に、水の中みたいだ。
自覚した瞬間、恐怖が爆発する。
息をしようとして、肺が動かない。
叫ぼうとして、声が出ない。
身体がない。
逃げる手段がない。
閉じ込められている。
見えない膜に包まれ、ぬるい液体に満たされた、透明な世界。
心臓が跳ねる。
でも、その鼓動すら、どこで鳴っているのか分からない。
──死んだの?
その考えが浮かんで、すぐに否定する。
だって、怖い。
死んでいるなら、こんな恐怖はないはずだ。
記憶が、断片的に蘇る。
暗い部屋。
冷たい床。
怒鳴り声。
──あ。
思い出したくない。
でも、止まらない。
「……覚醒を確認」
声がした。
低く、落ち着いていて、
感情の温度が感じられない声。
視界の向こうに、影が動く。
人の形。
ガラス越しだと、すぐに分かる。
自分と、その人の間には、越えられない境界がある。
「脳活動、正常。
魔力循環も問題なし」
言葉が、理解できる。
でも、意味が追いつかない。
私は、何をされている?
涙が溢れた。
理由も分からず、勝手に。
でも、涙は頬を伝わない。
液体に溶けて、消えていく。
──いやだ。
──こわい。
──だれか、たすけて。
助けを呼ぶ声は、形にならない。
影が、少し近づいた。
若い男だった。
黒い髪。
鋭く、冷静な灰青の瞳。
その目は、
“生き物”を見る目じゃない。
成果を見る目だった。
――――――――――
カイル・ヴァレンティアは、
ガラス容器の中の個体を見下ろしていた。
成功だ。
そう判断していい。
魔力反応は安定している。
肉体構成も、理論値からの逸脱はない。
精神覚醒の兆候も、想定より早い。
「……覚醒を確認」
淡々と記録を取りながら、
冷静に事実だけを拾い上げていく。
ホムンクルス。
人工的に生み出された生命体。
感情を“模倣”する機構は組み込んだが、
情動が暴走する設計ではない。
──はずだった。
「……?」
ペン先が、止まる。
容器の中で、個体が微かに震えていた。
筋肉反応ではない。
防御反射とも、刺激反応とも違う。
透明な液体の中で、
まるで“怯えている”かのように。
「外傷なし……苦痛刺激も与えていない」
工程に、問題はない。
失敗の可能性は、低い。
それなのに。
個体の視線が、定まらない。
どこかを探すように、
逃げ場を求めるように、
ガラスの内側で彷徨っている。
「……怖い?」
思わず漏れた言葉に、
カイル自身が、わずかに眉をひそめた。
問いかける必要はない。
返事が返ってくるはずもない。
それでも。
“道具”を見る目では、
もう見られなくなっていた。
「……識別名が必要だな」
研究者としての判断。
個体を管理するための、ただのラベル。
番号でも、記号でもいい。
そういうもののはずだった。
だが──
ガラス越しに見返してくるその瞳が、
あまりにも――“人のそれ”だった。
カイルは、一瞬だけ言葉を探し、
そして、何も言わなかった。
名前は、まだ与えない。
理由は、はっきりしない。
理屈にも、ならない。
ただ──
今それを口にしてしまえば、
何かが取り返しのつかない方向へ
変わってしまう気がした。
記録用の魔道具が、淡く光る。
個体は、まだ震えている。
──泣いている?
そんな馬鹿な、と
頭では否定しながらも、
カイルは視線を逸らせなかった。
これは、“成功例”の挙動じゃない。
だが同時に。
失敗、と切り捨てるには、
あまりにも──
「……」
言葉にできない違和感だけを残して、
彼は静かに記録を続けた。
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