第7話 不発の誓約(アライアンス)、あるいは沈黙の処方箋

その日、漆原礼司は本拠地「ヤオヨロズ」を離れ、稀に利用する遠方のドラッグストア――即ち「薬事出張所」へと足を踏み入れていた。

彼の目的は、医薬品ではない。和菓子コーナーの隅で、真紅の「三割引き」シールを貼られ、静かに運命を待っていた「三食団子」である。

「桃色、白色、緑色……。この三色の階層(グラデーション)は、まさに世界の構成要素を象徴するトリニティ。これがわずか数十円で手に入るとは、今日という日は神々の祝福を受けていますね」

漆原は、うやうやしく団子のパックを手に取り、レジへと向かった。 しかし、彼の心中には三食団子の甘美な悦びとは別に、重く、粘りつくような「宿題」がのしかかっていた。

それは、この店を訪れるたびに繰り返される「儀式」である。

『メンバーズカードはお持ちですか?』 『……いえ、持っておりません』

この、わずか数秒の、しかし毛羽立った空虚なやり取り。 「持っていない」と告げるたびに、漆原の胸には、自分がこの店にとって「仮初の客」に過ぎないという、ノットエレガンスな疎外感が押し寄せる。ならばカードを作れば良い。だが、そこには鑑定士としての深い葛藤があった。

「カードを新規に発行する……。それは、この停滞を許さぬ決済の前線において、数分間もの『時間の静止』を強いる、大いなるブレイブ(無謀)。私の個人的な盟約(入会)のために、守護騎士(店員)の手を煩わせ、後方に並ぶ戦士たちの進軍を止めるなど、万死に値する蛮行でございます」

(……ヴァルキリーに『見て、あの男。たかだか数ポイントのために、世界の歯車を止めているわ』と指を差されるのは、耐えがたい屈辱でございます)

だが、今日こそはその連鎖を断ち切るのだと、漆原は白シャツの襟を正した。 「今日、もし聞かれたなら。私はすべてのリスクを承知で、『はい、契約を(作ります)』と告げる。それが、真のエレガンスというものでしょう」

漆原はレジの前で、かつてない緊張感と共に立っていた。 脳内では、入会申込書に署名する際のスムーズな筆運びまでシミュレート済みである。

いざ、決戦の刻(とき)。

「……お願いします」

漆原は、三食団子を祭壇(カウンター)へと捧げた。 守護騎士の手が動く。バーコードが読み取られ、金額が表示される。 漆原は、いつでも「誓約の言葉」を吐き出せるよう、喉を整えた。

「……六十八円になります」

静寂。

「……」 「……?」

店員は、淡々と、しかし機械的な迅速さで会計を進めていく。 漆原が待ち望んでいた「あの問い」――カードの有無を確認する、いつものルーチンが、発動しない。

店員はただ、一刻も早くこの決済を終わらせることだけを正義としているかのように、無慈悲にレジを叩き、小銭をトレイへと置いた。

「……ありがとうございましたー、次の方どうぞー」

漆原は、三食団子を手に、店外へと押し出された。

「……聞かれない、だと……?」

冬の乾いた風が、彼の頬を虚しく撫でる。 彼があれほどまでに悩み、決意を固め、世界の理を止める覚悟までした「聖なる誓約」の機会は、あまりにもあっけなく、無言のうちに霧散したのである。

「……ふむ。これは、神々が私に『まだその刻ではない』と告げているのでしょうか。あるいは、私の立ち振る舞いがあまりに流麗であったため、カードの有無などという世俗的な問いが、不敬に感じられたのか……」

彼は、手に持った三食団子を見つめた。 カードは作れなかった。やり取りを無くすという目的も果たせなかった。 だが、彼はどこか、晴れやかな顔をしていた。

「……まあ、良いでしょう。強制された契約ではなく、沈黙の中で守られた秩序。それもまた、一つのエレガンス。三食団子の色が、心なしかいつもより鮮やかに見えますね」

漆原は、メゾン・ニヴルヘイムへの帰路についた。 団子を串から抜くその瞬間にこそ、真のラグナロクの回避が待っているのだと信じて。

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漆原礼司の慎ましきラグナロク メロンパン @MelonePan

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