第6話 未完の供物、あるいは審美眼の凱歌
その日、漆原礼司は稀に見る「ブレイブ(勇気ある冒険)」を敢行していた。 補給基地「ヤオヨロズ」での半額争奪戦をあえて避け、街の路地裏に佇むカレーショップへと足を踏み入れたのである。
「たまには外界の『香辛料(スパイス)』に身を委ね、魂の調律を図るのもまた、生活美学鑑定士の務め……」
注文したのは、黄金色に輝くチキンカツカレー。 運ばれてきた一皿を前に、漆原は背筋を伸ばし、主武装たる「スプーン」を正しく装備した。しかし、一切れ目のカツを口に含んだ瞬間、彼の全神経に戦慄が走った。
「……? このテクスチャ(食感)は、一体……」
咀嚼するごとに返ってくる、異様な弾力。それは衣のサクサク感とは程遠い、まるで「グミ」のような、生々しくも頼りない抵抗。
(……なんということだ。これはもしや、焦熱の洗礼が中心部まで届いていない、即ち『生』……「未完のムスペルヘイム」ではありませんか?)
漆原の額に、嫌な汗が浮かぶ。 鶏肉の生焼け。それは現代日本において、最も容易に腹部へ「ラグナロク」を招き入れるバイオハザードに他ならない。しかし、一方で彼の「内なる礼節」が囁く。
(……いけない。もしこれが私の神経質ゆえの誤認であったなら? 丹精込めて揚げられた供物を残すなど、作り手への『ノットエレガンス』の極み。ヴァルキリーに『見て、あの男。ちょっと食感が気に入らないだけで、戦利品を放棄しているわ』と蔑まれるのは、死よりも辛い屈辱でございます)
彼は苦悩した。 もう一口食すべきか、それともこのまま撤退すべきか。 胃壁を襲うであろうサルモネラ菌の軍勢(死者の軍勢)と、鑑定士としての矜持が激しく火花を散らす。
結局、彼は「タクティカルな部分破棄」を選択した。 カレーとライスという安全地帯のみを完璧に平らげ、その中心に、不自然なほど手付かずのチキンカツだけを孤島のように残したのである。
会計を済ませ、逃げるように店を出た漆原の胸中には、言いようのない敗北感が渦巻いていた。
「……私は、逃げたのでしょうか。己の直感を信じきれず、かといって完食もできぬ中途半端な臆病者として……」
重い足取りで「メゾン・ニヴルヘイム」に帰還した彼は、震える手で電脳の鏡(スマートフォン)を取り出し、件の店の口コミ情報を索敵した。
すると、そこには驚くべき「福音」が記されていた。
『カツが半分生だった』 『鶏肉に火が通っておらず、腹を壊した』 『低評価:衛生管理がノットエレガンス』
次々と現れる、彼の疑念を裏付ける「戦友」たちの叫び。 その瞬間、漆原の暗く沈んでいた表情に、神々しいばかりの輝きが戻った。
「……ああ、正しかった。私の審美眼は、世界の理(食中毒の危機)を正確に捉えていたのですね」
彼は椅子に深く身を沈め、満足げに独白した。
「駄目な店で、本当にありがとう。食品以下の『毒物』を提供してくれたおかげで、私の正しさが証明されました。あのお店が『徹底的に駄目』であったからこそ、私の判断は『絶対的な善』へと昇華されたのです。他者の欠落によって己の完成を確認できる……これほど贅沢な悦びが他にあるでしょうか」
漆原は、安価なキャンドルに火を灯した。 損をしたはずの数百円など、もはやどうでもよかった。彼は今、揺るぎない「正解」という名の、何物にも代えがたい精神的資産を手に入れたのだから。
「……パーフェクト(完璧)。今日もまた一つ、私は私であることを肯定できました」
彼はアイロンの効いたシャツの襟を、慈しむように撫でた。 外界がどれほど混迷し、不潔な供物が蔓延しようとも、彼の鑑定眼さえ曇らなければ、この慎ましきラグナロクは永遠に回避され続けるのである。
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