第5話 焦熱のムスペルヘイム、あるいは水盤の規律
公衆浴場、サウナ。 そこは漆原礼司にとって、肉体を浄化し、精神を研ぎ澄ますための「焦熱の試練(ムスペルヘイム)」であった。
漆原は、最上段の端という、熱気の奔流が最も激しい「聖域」に鎮座していた。アイロンの効いたシャツは脱ぎ捨てているが、腰に巻いたタオルの折り目ひとつにも、彼の生活美学(エステティクス)は宿っている。
「……ふむ。体内のマナが沸点に達しつつありますね。そろそろ、冷たき安らぎの地(ニヴルヘイム)へ転進すべき刻限でしょうか」
額を伝う汗の一滴すら、彼は無作法に拭わない。指先で優雅に受け流す。 彼が立ち上がろうとした、その時であった。
一人の先客が、彼より一歩早く出口へと向かった。
「……おっと、これは失策(ミステイク)。一旦、待機(ホールド)でございます」
漆原は、浮かしかけた腰を再び、熱く焼かれたベンチへと沈めた。 彼がここで直ちに後を追えば、扉は二度続けて開かれる。それはサウナ内の熱気を外界へと漏らし、室温の均衡を乱す「ノットエレガンス」な蛮行に他ならない。
「扉を連続で開くなど、世界の防壁を無為に損なうブレイブ(無謀)が過ぎる。ヴァルキリーに『見て、あの男。自分の熱を冷ましたい一心で、世界の理(設定温度)を下げているわ』と嘲笑される失態は、万死に値します」
さらに、戦術的懸念は他にもあった。 今、先客を追えば、外界にある「水風呂(ウルドの泉)」の利用タイミングが被る。狭き泉の中で、見知らぬ男と肩を並べて浸かるなど、彼にとっては品位を損なう「密」の極致であった。
漆原は、サウナ室の小窓から外界の戦況を索敵(サーチ)した。
「先陣を切ったあの御仁が水風呂を脱するタイミング……。そして、私より先に入室していた古参の戦士たちの動向。……ふむ。あちらの老騎士は、まだ発汗の極致には至っていないようですね」
彼は焦らない。たとえ心臓が激しくビート(鼓動)を刻み、喉が渇きに焼かれようとも。 やがて、先客が水風呂から上がり、体を拭いながら「外気浴」の扉へと消えていくのが見えた。
「今です。完璧なるインターバル(合間)でございます」
漆原は満を持して立ち上がり、音もなく扉を開閉した。 最小限の開口、最短の通過。サウナの熱量を守り抜く、生活美学鑑定士としての意地。
彼は流麗な所作で掛け湯をし、水風呂へと滑り込んだ。 「……おお、これぞニヴルヘイムの抱擁」
だが、安らぎの最中でも、彼の思考は次なる「戦術目標」を捕捉していた。 彼の視線は、外気浴コーナーの「椅子」――即ち「神々の玉座(アスガルド)」へと向けられている。
(……先ほど外へ出た者が、今、浴室へ戻ってまいりましたね。即ち、外気浴エリアにある唯一のデッキチェアが空席となったことを意味します)
漆原は、水風呂を出るタイミングをミリ単位で調整した。 早すぎれば椅子はまだ埋まっている。遅すぎれば別の者に奪われる。
「三……二……一……。チェックメイト(王手)でございます」
彼は端然と立ち上がり、体を一分の隙もなく拭き上げると、外気浴の扉を開いた。 案の定、そこには彼を待っていたかのように、無人のデッキチェアが鎮座していた。
漆原は、勝ち誇ることなく、あくまで静かにその椅子へと身を預けた。 夜風が、火照った肌を優しく撫でる。
「……戦略的な耐え忍びの果てに掴み取る、この静寂。これこそが、サウナにおける真のラグナロクの回避でございますね」
目を閉じれば、脳裏には微笑むヴァルキリーたちの姿が……。 いや、今の彼に見えるのは、ただただ心地よい虚空(ととのい)だけであった。
一万八千円の城砦へ帰る前の、ささやかな、しかし高潔なる勝利の余韻。 漆原の休日は、こうしてエレガンスに更けていくのである。
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