第4話 黄金時間の陥穽、あるいは聖なる不時着
休日の正午。 外界(シャバ)は、空腹という本能に突き動かされた群衆が、飲食店という名の「聖域」に殺到する狂乱の刻(とき)を迎えていた。
漆原礼司は、アイロンがけされた白シャツの襟を正し、窓の外に広がる喧騒を静かに見下ろした。
「正午ちょうどに暖簾を潜る……。それは、獅子の群れの中に素手で飛び込むが如き、あまりに『ブレイブ(無謀)』な選択でございます」
彼にとって、満席の店内で隣人の咀嚼音をBGMに食事を摂ることは、生活美学(エステティクス)に反する重大な過失だ。かといって、ラストオーダー(最終宣告)の数分前に滑り込むのも、また「ノットエレガンス」。
「閉店間際に駆け込み、守護騎士(店員)から『この忙しい時に新規かよ』という無言のプレッシャーを受けるなど、戦士として万死に値します。ヴァルキリーに『見て、あの男。閉店間際に滑り込んで、厨房の掃除を遅らせているわ』と指を差されるのは、末代までの恥でございます」
漆原が導き出した「黄金比(ゴールデン・レシオ)」。 それは、昼の営業終了(ラストオーダー)の十五分前。 波が引き、店員も「あともう少しで一息つける」と心の平穏を取り戻しつつある、あの凪のような時間帯。
計算に基づき、彼は午後一時三十五分、満を持して「メゾン・ニヴルヘイム」を出陣した。
目的地は、以前から目を付けていた洋食屋「エリュシオン」。 そこのオムライスを、彼は今日、自分への「勲章(ご褒美)」とするつもりであった。
「……ふむ。風向き、足取り、共に良好。これぞ、エレガンスな進軍というものです」
軽やかな足取りで、彼は街を横切る。 やがて視界に入ってきた目的地の扉。しかし、漆原は十メートル手前で不自然に足を止めた。
「……な……」
扉の前に立てられた、小さな木製の看板。 そこには、漆原の全宇宙を否定するかのような残酷な文字列が刻まれていた。
『定休日:日曜・祝日』
静まり返る路地裏。 漆原の脳内で、築き上げてきた黄金比が音を立てて崩壊していく。
「定休日……。なんという、なんという……情報の秘匿。いや、私のリサーチ(索敵)不足というわけですか」
彼は慌てて時計を見た。 午後一時五十五分。 近隣の個人経営店は、この「エリュシオン」と同じく、次々とラストオーダーの刻限を迎えている。今から別の「聖域」を目指したところで、到着する頃には扉は固く閉ざされているだろう。
「この私が、休日の昼食に難民となる……。これはもはや、精神的なラグナロクでございます」
腹の虫が、容赦なく「ノットエレガンス」な音を立てる。 彼は街を彷徨った。もはや高潔なオムライスは望めない。かといって、何も食べずに撤退するのは、戦士の誇りが許さない。
ふと、彼の視界に飛び込んできたのは、煌々と輝く黄色い看板。 年中無休、二十四時間営業。 あらゆる階層の民を平等に受け入れる、巨大チェーンの牛丼店であった。
「……ふむ。背に腹は代えられぬ、ということですか。いえ、これは『中立地帯(ニュートラル・グラウンド)』への避難。戦略的な不時着に他なりません」
漆原は、断腸の思いで自動ドアを潜った。 店内には、昼のピークを過ぎた倦怠感が漂っている。彼はカウンターの隅に腰を下ろし、端然とした姿勢で「牛丼・並盛」を注文した。
運ばれてきたのは、陶器の皿ですらない、どこにでもある量産型の丼。 しかし、漆原は動じない。彼は懐から丁寧に畳まれたキッチンペーパーを取り出し、それを膝の上に広げた。
「器は違えど、食に向き合う魂に貴賤はございません」
彼はチョップスティックス(箸)を構え、紅生姜を一点の狂いもなく中央に配置した。 牛丼という名の「混沌」を、自らの礼節によって「秩序」へと書き換えていく。
「……ふむ。この効率化された旨味。実にブレイブ(勇敢)な味わいです」
一杯の牛丼を、まるで晩餐会のフルコースのように優雅に食し終え、彼は静かに席を立った。
店を出ると、外界の空気は少しだけ冷たくなっていた。 予定していたオムライスには届かなかったが、漆原の背筋は、アイロンの効いたシャツと共にピンと伸びている。
「敗北を知ってこそ、真のエレガンス。……さて、帰ってリベンジの戦略を練るとしましょうか」
彼は、誰もいない路地裏で、自分だけが知る勝利の凱歌を小さく口ずさみながら、再び「メゾン・ニヴルヘイム」への帰路についた。
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