第3話 迂回する美学、あるいは無為なる聖巡
夕刻。補給基地「ヤオヨロズ」は、生活という名の戦場に身を投じる人々で溢れかえっていた。
漆原礼司は、戦利品である「三割引きの食パン(六枚切り)」をレフトハンドに携え、決済の祭壇(レジ)へと進軍していた。彼の足取りは、まるで戴冠式に向かう王のように堂々としたものである。
しかし、彼の視界に飛び込んできたのは、予想だにしない絶望の光景であった。
「……なんという、嘆かわしい。これはもはや、蛇の神ヨルムンガンドの如き長蛇の列ではありませんか」
レジの前には、特売の卵や洗剤を抱えた群衆が、重なり合うように列を成していた。最後尾のプラカードこそないが、その停滞感は漆原の「流麗なる生活リズム」を真っ向から否定するものであった。
「この列に加わり、じっと魂を摩耗させる……。それはノットエレガンス。あまりに無為、あまりにスタティック(静的)な時間でございます」
漆原は、一歩手前で足を止めた。 もし今、この列の最後尾に並べば、彼は「たった一袋の割引パンを握りしめ、数分間の空虚に耐える男」として定義されてしまう。その姿は、飢えに耐えかねて里に降りてきた人狼の如く、惨めなものに映るに違いない。
(……いけない。ヴァルキリーに『見て、あの男。たかだか百円足らずの決済のために、人生の貴重な数分間をドブに捨てているわ』と嘲笑される失態は、万死に値します)
漆原は、電光石火の判断を下した。 彼は踵を返し、何食わぬ顔で乾物コーナーへと「タクティカルな後退(戦術的転進)」を開始したのである。
「……ふむ。こちらの高野豆腐、実にブレイブ(勇敢)な乾燥具合。しかし、今夜の私のポートフォリオ(献立)には、少々重厚が過ぎるかもしれませんね」
彼は買う気もない高野豆腐を手に取り、あたかも「究極の選択」を迫られているかのような険しい表情で吟味し始めた。これこそが漆原の護身術。彼は列から逃げたのではない。より良き品を求めて、店内を「聖巡(ピルグリメイジ)」しているだけなのだ。
彼はそのまま、二周目の航路へと漕ぎ出した。 鮮魚コーナーで値の張る本マグロを遠巻きに眺め(「貴公の輝きは、今の私には眩しすぎる」)、精肉コーナーでは高級和牛のサシに敬意を表し(「実にノットエレガンスな脂の暴力」)、優雅に時間を稼ぐ。
だが、彼の意識は常に、背後のレジ状況を索敵(サーチ)していた。
(……今か? いや、まだ前線の膠着は解けていない。あちらの主婦がカゴに盛った大量の冷凍食品は、レジの守護騎士(店員)にとって強大な障壁となるはず)
二周目、三周目。 漆原の歩みは、回るごとに研ぎ澄まされていく。もはや彼は、ただの「レジ待ちを嫌う男」ではない。このヤオヨロズという小宇宙において、最適な決済の瞬間(モーメント)を待つ、孤高の観測者であった。
そして四周目。 ついに、運命の刻(とき)が訪れる。
「……今です。レジの霧が晴れ、道が拓かれました」
漆原は、待機していた調味料コーナーから滑らかに発進し、誰も並んでいないレジへと、まるで最初からそこを目指していたかのような自然さで滑り込んだ。
「お願いします」
短く、重厚な一言。 決済を終えた彼は、戦利品を手に店を後にした。
メゾン・ニヴルヘイムへの帰路、冷たい夜風が彼の頬を撫でる。 結局、店内を彷徨った時間は、列に並んでいたであろう時間よりも遥かに長かった。しかし、漆原の胸には、何物にも代えがたい勝利の凱歌が響いていた。
「……無駄こそが、エレガンス。私は時間を浪費したのではありません。美学を守り抜いたのでございます」
彼は、アイロンの効いたシャツの襟を正した。 たとえ胃袋の中身が三割引きのパンであろうとも、その精神だけは常に、ヴァルハラの高みにあらねばならないのだから。
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