第2話 混迷する理、あるいは指先のノスタルジー

「メゾン・ニヴルヘイム」の夜は、常に静寂と妥協なき規律に支配されている。

漆原礼司は、アイロンの効きすぎた袖口を丁寧に折り返し、机上に鎮座するコントローラーを、さながら聖遺物を扱うような手つきで手に取った。 今夜、彼は新たな「異世界(新作ゲーム)」へと足を踏み入れようとしていた。

「……またしても、この時が来てしまいましたか」

漆原は、画面に表示された『操作設定』を凝視し、重々しく吐露した。 彼にとって、ゲームごとに異なるボタン配置は、単なる仕様変更ではない。それは昨日まで信じていた重力や慣性の法則が、一夜にして書き換わる「世界の理(ことわり)の崩壊」に他ならない。

「先代のユニバースにおいて、この『右側の円(〇ボタン)』は、風を切って駆けるための『疾走(ダッシュ)』を司っておりました。しかし……」

漆原の指先が、微かに震える。

「この新天地において、同じボタンに割り振られた役割は『跳躍(ジャンプ)』。……なんという冒涜。なんというノットエレガンスな設計(デザイン)でしょうか」

彼は深く、深淵を覗き込むような溜息をついた。 もし、かつての理を身体が記憶したままこの世界に臨めば、彼は敵から逃れようと走り出した瞬間に、その場で「ぴょん」と無防備に跳ねることになる。

「想像もしたくありません。ヴァルキリーに『あいつ、死の間際に喜びのダンス(跳躍)を踊っているぞ』と指を差され、笑い種にされるような醜態……。それは生活美学鑑定士として万死に値します。神々に棄てられたこの地で、唯一守るべきは私の品位(プライド)なのですから」

漆原は、厳かな所作でコントローラーを構え直した。 彼はまず、実戦(プレイ)に入る前に「素振り」を行うことに決めた。画面を見ず、新たな理を脳に刻み込むための、孤独な儀式である。

「×ボタンで疾走し、〇ボタンで跳ぶ。……×で疾走、〇で跳ぶ。良いですか礼司、かつての栄光(〇ボタンダッシュ)を忘れなさい。過去に執着する男に、明日の朝食をエレガンスに味わう資格はありません」

端から見れば、擦り切れた白いシャツを着た男が、虚空を見つめて無機質なクリック音を響かせ続けているだけの光景である。 しかし、彼の脳内では、銀河規模の秩序再編が行われていた。

数十分後。 額に薄っすらと汗を浮かべ、漆原はついに「スタート」の刻印を押し下げた。 画面の中の騎士が動き出す。彼は慎重に、かつエレガントに指を滑らせた。

「ふむ……。理の書き換えは、概ね成功したようですね。×ボタンで疾走……完璧です。実にブレイブ(勇敢)かつスムーズな進軍ではありませんか」

漆原の口元に、勝利の予感に満ちた微かな笑みが浮かんだ。 だが、その平穏は長くは続かない。画面の端から、一体の醜悪な怪物が牙を剥いて飛び出してきた。

「突発的な遭遇(エンカウント)! ここは一旦、タクティカルな撤退(ダッシュ)を――!」

漆原の右親指が、長年の修練による反射速度で、かつて「疾走」を司っていた『右側の円(〇ボタン)』を力強く叩き出した。

直後。 画面の中の騎士は、逃げるどころかその場にどっしりと踏みとどまり、垂直に、かつ軽快に「ぴょん」と跳ね上がった。

迫りくる怪物の目の前で、無力に宙を舞う騎士。 静まり返るメゾン・ニヴルヘイム。

「……ああ……」

漆原は、コントローラーを握ったまま石像のように硬直した。 怪物の爪が迫る中、彼の脳裏には、雲の上で腹を抱えて笑い転げるヴァルキリーたちの姿が、鮮明に浮かび上がっていた。

「……やはり、旧世界の理は、魔物より恐ろしいというわけですか」

漆原は静かに画面を消した。 敗北の苦さを噛み締めながら、彼は立ち上がり、キャンドルの火をそっと吹き消した。 たとえ世界の理に裏切られようとも、明日の朝にはまた、ピシッとアイロンの効いたシャツを着なければならない。それが生活美学鑑定士としての、最後の防衛線なのだから。

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