漆原礼司の慎ましきラグナロク

メロンパン

第1話 骨付鳥(ローストチキン)の聖別

十二月。 外界は「フィンブルの冬」の如き冷気に包まれていたが、築四十年の城砦「メゾン・ニヴルヘイム」の一室には、厳かな熱気が満ちていた。

漆原礼司は、百円均一ショップのリメイクシートで大理石風に装飾された文机の前に、端然と座している。彼の纏う白いシャツは、襟首こそ擦り切れてはいるが、親の仇を討つような勢いでアイロンがけされており、一点の曇りもない。

「……本日もまた、過酷なレイド(買い出し)でございました」

漆原は、机上の中央に鎮座する「獲物」を見つめ、静かに呟いた。 そこにあるのは、近所の補給基地「ヤオヨロズ」にて、午後七時を告げる鐘――即ち店員の持つラベラーの打刻音と共に守護騎士(店員)から奪取した、骨付きローストチキンである。

透明なプラスチック容器には、誇り高き「半額」の真紅の紋章が、逆光を受けて聖痕のように輝いている。

「しかし、これほどの『タレ』……。実に、ノットエレガンス。これはもはや、ソースという名の泥沼(ムスペルヘイム)でございますね」

漆原は眉をひそめた。 黄金色に焼かれた皮の上には、粘度の高い甘辛いタレが、これでもかと「べっちょり」と乗っている。いい年をした大人がこれを手に取り、頬に泥を塗るが如くかぶりつく様は、彼に言わせれば「ブレイブ(無謀)」が過ぎる蛮行であった。

彼は立ち上がり、棚から一枚の陶器の皿を取り出した。 プラスチックの容器のまま食すなど、彼の生活美学(エステティクス)が許さない。チキンを皿へ移し、傍らに一本のキャンドルを灯す。

次に彼が手にしたのは、漆塗りの「チョップスティックス(箸)」――彼の主武装である。

「未だヴァルハラへの切符を得られぬ身。ヴァルキリーに『あいつ、顔がタレまみれだぞ』と指を差されるような失態は、万死に値します」

漆原の孤独な闘争が始まった。 まず、彼はレフトハンド(左手)に一枚の紙ナプキン――実際は丁寧に四つ折りにしたキッチンペーパー――を装備した。これで骨の末端を包み込み、物理的な守りを固める。

「骨のない部分の肉と皮が剥離した瞬間、それは敗北を意味します。皮は肉のドレス。ドレスを脱がせるのは、すべてを食し終える最後の一瞬でなければなりません」

彼は漆塗りの「チョップスティックス(箸)」を閃かせ、肉の繊維に沿って垂直に、かつ静謐に刃(箸先)を入れた。

タレが黄金色の糸を引く。彼はそれを、精密機械が微細な回路を走査するかの如き慎重さで、肉の表面に丹念に巻き取っていく。この粘性こそが最大の敵。ひとたび制御を失えば、タレは重力に従い、彼の「聖域」である白いシャツへと非情な侵攻を開始するだろう。

「ふむ……。ここが、世界の理の衝突地点というわけですか」

肉と皮、そして骨。それらを繋ぎ止める結合組織の急所を見極め、一口分をミリ単位の精度で切り分ける。

咀嚼は静かに、かつ厳かに。エレガンスを維持したまま、脳内では自称・生活美学鑑定士としての矜持が、この一皿の価値を測定し続ける。世間はこの安価な惣菜を単なる「半額の鳥」と呼ぶだろう。だが、彼にとっては、これこそがフィンブルの冬を越えるための聖遺物に他ならない。

レフトハンド(左手)で骨の端を固定し、チョップスティックスで肉を解体する。 それはまるで、複雑なコードを一本ずつ解いていく爆弾処理班のような、あるいは古の封印を解く賢者のような緊張感であった。頬を汚さず、指を汚さず、ただ高貴なる味覚の真実だけを享受する。

骨のない部分の肉と皮が剥離することなく、すべてが彼の口内へと、秩序を保ったまま消えていく。

最後の一片を端麗に口にし、彼は静かに箸を置いた。 皿の上には、不自然なほど綺麗に磨き上げられた一本の骨が、勝利のトロフィーのように転がっている。

「……パーフェクト(完璧)。今回も、ヴァルキリーに後ろ指を指される隙はありませんでしたね」

漆原は満足げに頷き、ナプキン代わりのキッチンペーパーで唇をわずかに押さえた。 一万八千円の城砦「メゾン・ニヴルヘイム」に、しばしの静寂と、勝利の余韻だけが満ちていた。

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