第2話 正体

玄関に吹き込んだ夜気は、雨の匂いをまだ濃く残していた。

湿った風が畳を撫で、裸電球の光をわずかに揺らす。


九郎は、背筋を伸ばしたまま動けずにいた。


幼女――そう見える存在は、玄関の上がり框に片足をかけ、腕を組んで立っている。

その仕草だけで、場の空気が支配される。


「――休め。ふふ、久しぶりだな九坊。よく分かったな」


その一言で九郎は体から力を抜く。


「お久しぶりです……そりゃ分かりますよ。それで…その御姿は、一旦どういうことですか?」


九郎が絞り出した言葉に、幼女――元上官の閑院 千歳は肩をすくめた。


「失礼なヤツだな。これでも合理性の塊だぞ」

「合理性で幼女になる軍人がどこにいます」


言ってから、遅れて現実が追いつく。確か、以前の姿は自分と変わらない位の身長であったはずだが。

そして軍人という言葉。

この言葉が、今の生活からどれほど遠ざかっていたか。


「とりあえずお話は中でしましょう。田舎は夜でも目がありますから…。」


九郎は一度、視線を外した。


「相変わらずいい判断だ、九坊」


幼女は、わずかに目を細める。


その時、玄関先の道路を一台の車が通過する。あの車は二件先の和田さん宅の…。

終わった…あそこの奥さんは超がつくほど噂好きだ。


目が泳ぐ九郎を見てくすくす笑う千歳。

その背後で、もう一人の女性――黒髪の軍服姿、無言で立ち尽くしこちらを見ている。


────


家に上がらせると、場違いな存在感はいよいよ際立った。


古い木造家屋、低い天井、湿気を吸った畳。

千歳は、座卓の前に正座しその後ろに謎の女性は控えている――


黒髪の女――軍服のままの女は、部屋の隅に座り、背筋を伸ばしたまま動かない。

視線は室内全体を把握している。


瞬間、二人の視界が猫を捉える。


「……」


二人はじっと猫を見つめている。

実は九郎は密かに猫に好かれている自信があった。

あいつは訪問者に対しては素っ気ない態度を取るが、自身に対しては擦り寄ってくるその態度が、九郎の中で密かな自慢であった。


九郎が気づいた時には、黒白の猫が千歳の膝に両前足をかけて膝の上に乗ろうとしている。


「ふふ、可愛いヤツだな。お前にそっくりだ。」


「…この、裏切り者め…」


九郎は憎らしそうにそう呟く。

恋人を寝取られたらこんな気持ちになるのだろうか…。


「すみません、この生物はなんでしょうか?人とは異なるようです、全身が体毛に覆われています。あと…なんだかメモリを揺さぶるような…なにか…得体の知れない感覚です。」


不意に千歳の後ろに控えていた女性が身を乗り出して会話に割って入る。どうやら猫に興味津々な様子だ。


「なんだお前、猫を知らないのか?」


「ね…こ…ですか?すみません、存じ上げません。情報収集をしたいので、スマートフォンを貸していただけますか?」


千歳は懐からスマートフォンを取り出し、女性に渡す。

女性は凄まじい勢いでスマートフォンを操作し、猫について調べているようだ。

眼球が上下左右に動き、情報を取り込んでいる。


間違いない、あれはアンドロイド、それも戦闘用。

なのにスマートフォンで検索?


「……お茶を淹れますね」


普段、農業をして生活している自分には些か情報量が多すぎる。

少し場を離れることにした。


────


湯が沸く音を聞きながら、九郎は考える。


なぜ、今。

なぜ、ここに。


世界は、もう何十年も“常時戦争中”だ。

とある国同時の衝突はやがて世界に広がり、その火種は今も燻っている。

テレビでは毎日のように、どこかの戦線が映る。

義体兵、無人兵器、局地紛争。


それでも、何十年の戦争の世界の中で、日本は北海道の北、ロシアとの局地戦のみで済んでいる。


こんな片田舎までは戦争の足音は来ないと思っていた。

いや、日本に戦線を広げる商業的価値が無いのか。


沸いた湯を急須に入れ、茶を入れる。甘みのあるお茶の香りが鼻腔を擽る。湯呑みは…二個でいいな。


お盆に湯呑みを乗せ、今に戻るとアンドロイドの女性と猫が横になって戯れている。軍服が毛だらけだ。


あいつ、また裏切りか。


気持ちを落ち着けて湯呑みを置き、座卓の前に座る。

そこで、千歳が言った。


「で、見ての通りだ」


小さな手で、自分の身体を示す。


「全身、義体だ」


さらりと。


九郎の喉が鳴る。


「……冗談にしては、質が悪いですよ。義体はせいぜい末端部位のみ、内臓系はまだ実用段階ではないのでは?」


「表向きはな、誰がやったと思う?…あいつだよ。いや、あいつ意外こんなこと出来やしない。」


千歳は、口元だけで笑った。


あいつ――思い当たる節は一人しかいない。

研究棟で、いつも楽しそうに倫理を踏み越えていた、あの男だ。


「内臓系も神経も、全部置いてきた。脳と脳幹だけ残ってる。」


「…で、体調はどうなんです?腕の義体化だけでもそう容易いことでは無いはずですが…」


そう、自分の生身の身体ではないのだ。まして出力は生体のそれとは比べ物にならない。全身義体化なんて…常識なら耐えられないはずだ。


「九坊、私を舐めるなよ。この程度の義体操作など私にとっては容易い。それに内臓系と脳の連動も問題ない。つまり、生身とほぼ同じように食事もできる。ドクの技術には全く驚かされるな。」


お茶を啜りながらそう答える。全身義体化しているのに食事をしている。こんなの世の科学者が見たら卒倒してもおかしく無い。


「ちなみにお前、幼女趣味があるか?」


「ありません」


即答だった。


「知っている、お前は背が高くて尻が…」


「で、そちらのアンドロイドは?」


無理やり話を遮った。

この人には自分のありとあらゆることを知られている。


九郎が視線を向けると、軍服の女が、ぴたりと動きを止めて居直る。よほど猫と戯れたのだろう、服も毛まみれ、結っていた髪もボサボサだ。


「最新鋭の戦闘用アンドロイドだ、正式名称は…忘れたが、末尾がNo.081、レイと呼んでやってくれ」


「初めまして、浅葱様。千歳様より様々なお話は聞かせて頂いております。正式名称はプロジェクトに関わるためお話しできませんが、レイ、そうお呼びいただければ幸いです。」


「…やはりアンドロイドでしたか」


混乱が、ついに限界を超える。


「で、なんで、ここに?」


九郎の問いに、千歳は再度湯のみを手に取った。

一口飲み、息を吐く。


「逃げてきた」


その一言で、空気が変わる。


「軍と、軍事会社と、思想家連中からな」


視線が、真っ直ぐ九郎に刺さる。


「匿え」


命令ではない。

だが、拒否を想定していない目だった。


外では、虫の声が鳴き続けている。

いつもと変わらない、夏の夜。


だが九郎は悟った。


――あぁ、ここは戦場になる、色んな意味で

銃も砲もないが、魂が削られる戦場だ。

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