一切唯心造、されど魂は躍る

SHIROKI

第1話 邂逅

「――本当に大丈夫なんだな、何かあったらお前を消すぞ」


「平気平気、任せておいてよ。さて、始めるよ」


遠くで話し声がする、先程投与された薬剤のせいで上手く聞き取れない。


暗い。


椅子に座らされている。

腕が重い。指先の感覚が、どこか遠い。


視界の端で、白い光が瞬く。

数値。波形。意味のわからない言葉。


「――意識トレース、開始」


誰かの声。


頭の奥を、掴まれる感覚。

引き剥がされるような、ぞわりとした寒気。


――銃声。


鼓膜を叩く乾いた音。

誰かの悲鳴。味のする血。砂と鉄の匂い。


視界が跳ぶ。


地面。

空。

倒れた影。


自分の声なのか、他人の声なのか、わからない叫び。


「動け!」


命令。

反射。

身体が、勝手に動く。


次の瞬間、また暗闇。


椅子。

光。

数値。


「――トレース、安定」


誰かが、満足そうに息を吐く音。


――これは、俺か?


問いが浮かんだ瞬間。


すべてが、ぶつ切りに切断された。


────


軽トラックのエンジンを切ると、灼熱の夏の世界と音が一斉に迫ってきた。

燃え上がるような空気が肌にまとわりつく。アスファルトの照り返しが、視界をわずかに歪ませる。蝉の鳴き声、遠くの国道を走る大型車の低い唸り、道の駅の軒下に吊るされた風鈴の、乾いた音。


浅葱 九郎は運転席から降り、額に浮かんだ汗を袖で拭ってから、荷台の幌をめくった。

むっと、土と青い葉の匂いが立ちのぼる。


荷台の中には、今朝収穫したばかりの茄子とピーマンが、丁寧に箱詰めされている。茄子は黒紫に艶があり、指を滑らせるとひんやりとした感触が残った。ピーマンは張りがあり、指で軽く押すと、ぱつんと弾くように戻る。どれも形がいい。


九郎は一つ手に取り、無意識に重さを確かめてから、箱ごと台車に乗せた。

この重さ、この感触が基準だ。違和感があれば、すぐにわかる。


「おはようございます」


声をかけるより早く、道の駅の奥から顔なじみの女性たちが現れる。


「あら、九坊じゃないの。今日は早いわねえ」

「ほら見て、この茄子。九坊のとこのはツヤが違うのよ、ほんと」

「ピーマンも来てる? あんたのは苦くないから好きなのよ」


九郎は少し困ったように笑って、軽く頭を下げた。


「おはようございます。今日は茄子が多めです」

「はいはい、わかってるわよ。どうせまたすぐ売り切れるんだから」


慣れたやり取りだった。

帳簿に数を記し、受領印をもらい、箱を奥へ運ぶ。相変わらずおばさまたちは手際がいい。茶化してはいるが彼女らはプロだ。九郎が何も言わなくても、どの棚に並べるかまで決まっている。


「しかし九坊、あんた本当に結婚しないわねえ」

箱を運びながら、誰かが言った。


「この前も言ったけど、うちの姪っ子どう?」

「こんな良い野菜作る人、なかなかいないわよ」


九郎は苦笑して、首を横に振る。


「畑が相手で手一杯ですから。それに最近、猫が住みつきましてね」

「まったく、独身で猫なんて飼ったら結婚できないわよ」


笑い声が上がる。

床に落ちた氷水の雫が、乾いたコンクリートにじゅっと音を立てて消えた。


「でもまあ、九坊はそういうとこがいいのよね」

「変に都会に染まってないし」

「帰ってきてくれて、ほんと嬉しいわ」


九郎は曖昧に笑って、その場をやり過ごした。

昔から、こういう場面は得意ではない。否定も肯定もせず、ただ受け流す。それが一番、波風が立たないと知っている。


用事を終えると、軽トラックに戻る。

ドアを閉めると、外の喧騒が一段、遠のいた。


エンジンをかけ、道の駅を後にする。

ミラー越しに、手を振るおばさまたちの姿が、陽炎の向こうで小さくなっていく。


九郎はアクセルを踏み、国道を横切り、細い農道へとハンドルを切った。


――平和だ。


そう思った瞬間、胸の奥が、わずかに軋んだ。


しばらく走り、細い直線に入ると、視界の端で畑の緑が流れていく。

茄子の葉の重なり、ピーマンの低い背。どれも自分が手を入れた場所だ。土の感触、水の量、日の当たり具合。考えなくても、身体が覚えている。


ふと、ハンドルを握る自分の手に視線が落ちた。

日焼けした、生身の手。節くれだった指。土も油も、簡単には落ちない。


――そうだ、これは、俺の手だ。


その考えが、なぜか確信にならず、九郎は小さく息を吐いた。


遠くで、低く、腹の底に響くような音がした。

雷ではない。記憶の奥から引きずり出される、あの音。


――爆圧。

――地面を叩く衝撃。

――身体が勝手に伏せる感覚。


九郎は、思わずブレーキを踏みそうになり、すぐに力を抜いた。


――大丈夫だ。ここは、戦場じゃない。


農道は続いている。

軽トラックは揺れながら、変わらず前へ進む。


それでも胸の奥では、別の自分が目を覚ましたような気がしていた。

あの時、確かに―同じ判断を、同時に下していた“もう一人”の感覚。


九郎は前を向いたまま、低く呟く。


「……大丈夫、もうあの場所じゃない。」


誰からの返事はない。

ただ、突き抜けるような夏の空が、どこまでも青かった。


────


家に戻る頃には、太陽はもうずいぶん高くなっていた。今日も暑くなりそうだ。

軽トラックを車庫に停めると、エンジン音に反応したのか、縁側の下から黒い影がぬっと現れる。


「ただいま」


返事はない。

代わりに、短く鳴いて、九郎の足元にすり寄ってきた。


いつの間にか居ついていた、黒と白の混じった猫だ。首輪もない。どこから来たのかもわからないが、今ではすっかり、この家の顔をしている。


「腹減ってるか」


そう言いながら勝手口を開けると、猫は当然のように中に入ってくる。

器に餌を入れてやると、無心で食べ始めた。その様子を眺めながら、九郎は靴を脱ぎ、帽子を壁に掛ける。なんだかんだ、器を買わせるとはこいつもずるいヤツだ。


時計を見ると、まだ午前中だ。

出荷が終わっても、仕事は山ほどある。


軽く昼の支度を済ませ、再び畑に出る。

太陽は容赦がなく、照りつける日差しはジリジリと肌を焼く。空には雲一つないが、午後にはまた夕立があるだろう。


まずは誘引を行う。

伸び始めた茄子の枝を、支柱に沿わせて麻紐で固定する。強く締めすぎないよう、指の感覚で加減する。風で揺れても折れない程度、それでいて、実の重さに負けない位置。


次に芽かき。

不要な脇芽を、指先で折る。小さな音とともに、青い匂いが立ち上る。放っておけば、栄養を食われてしまう。残すものと、捨てるものを選ぶ作業だ。


葉かきも進める。

下の方の古い葉を落とし、風通しをよくする。葉の裏には、昼間でもじっとしている虫がいることがある。九郎は慣れた手つきで払い落とした。


汗が、首筋を伝って背中に落ちる。

シャツはとっくに湿っていた。


水分を取りながら、潅水。

ホースから出る水が、乾いた土に吸い込まれていく。表面だけでなく、根まで届くよう、時間をかける。土の色が変わるのを見ながら、次の畝へと進む。


最後に追肥。

量を間違えれば、逆に弱らせる。九郎は指先で肥料を量り、株元から少し離した位置に撒いた。


すべて、身体が覚えている動きだった。

考えなくても、順番も手加減も、自然と出てくる。


ふと、視線を上げると、畑の端の日陰で、猫が丸くなっていた。こちらを見ているのか、ただ目を細めているだけなのかはわからない。


「まったく…楽でいいよな」


声をかけると、尻尾だけが、ぱた、と動いた。


気づけば、遠くの空に大きな入道雲が現れていた。

陽もいつの間にか頂点を超え、空の色が、少しずつ、柔らかくなる。


一日の作業を終え、手を洗う。

水に流れていく泥を見ながら、九郎は深く息を吐いた。


疲労はある。

だが、それは確かで、確かなものだった。生きている証みたいな疲れだ。


夕方の風が、畑を渡る。

葉が擦れ合う音が、静かに響いていた。


九郎は空を見上げる。

一陣の風が駆け抜けた。


────────────────────────


その夜、雨が降った。

夕立らしい、短く強い雨だったらしく、気づいた時にはもう上がっていた。


窓を開けると、湿った空気が家の中に流れ込んでくる。畳が少しだけ水気を含み、木の匂いが強くなっていた。


九郎は座卓に肘をつき、湯のみを手に持ったまま、ぼんやりと虫の声を聞いていた。

雨に洗われた夜は、音が近い。草の中で鳴く虫の声が、すぐそこにあるように感じられる。


猫はというと、いつの間にか九郎の膝の横に陣取り、丸くなっている。

撫でると、喉の奥で低く鳴いた。


「今日は降ったな」


独り言に、返事はない。

それでいい。


時計を見ると、もう二十一時を回っていた。

普段なら、とっくに床についている時間だ。


そろそろ寝るか、と腰を上げかけた。


その時。


――ピンポーン。


一瞬、音の意味が理解できなかった。

こんな時間に、来客?


九郎は立ち上がり、玄関に向かう。

戸の向こうには、外灯に照らされた、二つの影があった。田舎だが物騒な世の中だ、警戒は怠らない。


ゆっくりと戸を開ける。


そこに立っていたのは、見知らぬ二人だった。


ひとりは、金髪の幼女。

年の頃は十歳前後だろうか。ヒラヒラとした、場違いなほど軽やかな服を着ている。雨上がりの夜だというのに、濡れた様子はない。


もうひとりは、背の高い女性。

黒髪をきっちりとまとめ、軍服に身を包んでいる。表情は硬く、片手には、人一人入るのではないかと思うほど大きなスーツケースを持っていた。


一瞬の沈黙。


九郎は、何も言わずに戸を閉めた。


――誰だ。


頭の中で、必死に状況を整理する。

こんな時間に、こんな組み合わせ。知り合いのはずがない。強盗にしては…あまりにも…。


それなのに。

胸の奥が、ざわついていた。


次の瞬間。


――ガンッ!


強烈な音とともに、戸が開けられた。

玄関戸が壊れるほど半端ない勢いで、戸が開く。


「――隊員整列!」


幼女の発したその一言で。


九郎の身体は、考えるより先に動いていた。

背筋が伸び、踵が揃い、視線が正面に固定される。


心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。


見た目がどうであれ、関係ない。

この声、この圧、この空気。


魂に刻まれた記憶が、一瞬で蘇る。


「…大佐…ですか」


絞り出すように呟いた、その名に。


幼女は、にやりと笑った。


「久しぶりだな、九坊」


その声は、間違いなく――

かつて、自分の上官だった人物のものだった。


玄関に、湿った夜風が吹き込む。

虫の声が、途切れたように遠ざかる。


九郎の平穏な一日は、そこで、終わった。

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