嫌な予感
「美冬、大丈夫なのかなぁ」
ぽつりと、自分の後ろから呟きが聞こえた。
「あ、そのことなんだけどね……?」
椎菜ちゃんが、私を手招きして、麗眞くんからのメール画面を見せた。
そこには、こう書かれていた。
『夕食の時間、その、美冬ちゃんを俺のところに連れてきてほしい。
いつもの皆には、美冬ちゃんは先生に呼び出されたとか言ってよ。
本当は、先生じゃないけどね』
そんな文言が書かれていた。
「なるほどね。
やっぱりそうだったんだ。
そうだと思ってたけど」
華恋ちゃんが、分かったような口ぶりでそう言うから、彼女の次の言葉に私を含めた皆の注目が集まった。
「ほら、漫画とかでよくあるじゃない?
先生が呼んでるからって言って、実は呼び出したのは好きな人で、みたいなやつ。
それよ。
こうするように仕向けたのも、きっと麗眞くんじゃない?
椎菜だけにメールしたのもうなずけるしね」
少女漫画なんて全く読まないから分からないけれど、きっとそういうものなのだろう。
「ってことは、今、美冬が会ってるのって、その賢人くんなの?」
それを肯定するように、椎菜と華恋が力強く頷く。
「とりあえず、部屋で待ってようか」
皆で美冬の帰りをしばらく部屋で待つ。
誰も口を開かず、スマホを触るふりをしては落ち着かない視線を交わす。
時計の秒針の音だけがやけに大きく聞こえた。
先程までとは打って変わって顔を真っ赤にした
美冬がおずおずとドアを開けて部屋に入ってきた。
「美冬?
大丈夫だった?
どうかしたの?」
美冬の口から出てきた言葉に、一瞬、何て返せばいいのか分からなくなった。
口が開いたまま、言葉だけが出てこなかった。
「あのね、賢人に、美冬がその、今の男のこと本当に好きなら仕方ないけど、そうじゃないなら今の男から奪うって言われたの。
そんな男は美冬には合わないって。
昔の約束も忘れてるわけないって……!
どうしよ、華恋、椎菜!
私、どうしたらよかったの?」
「どうしたらよかったって!
美冬、アンタまさか、その幼なじみくんに何も言わずにこの部屋戻っちゃったの?」
「康太っていうんだけど……塾で“また別の子と歩いてた”って噂が、絶えないの」
そう言ったきり、美冬は視線を落とした。
言葉にした途端、その噂が一気に現実味を帯びたみたいに、肩が小さく震えた。
「レクリエーションのとき、同じ塾の子にも言われた。
『あの人はやめときな』って……」
そこまで言ってから、慌てたように首を振る。
「でもね、私、ちゃんと見たわけじゃないし。
噂だけで決めつけるのも違うって思ってて……」
美冬は一度、唇を噛んでから続きを探すように言葉を選んだ。
「だから、賢人にあんなふうに言われて……
嬉しかったのか、怖かったのか、自分でも分からなくなって」
指先をぎゅっと握りしめたまま、ぽつりと零す。
「……ごめん」
誰に向けた謝罪なのかも分からないまま。
小さく首を振った美冬に、見かねた椎菜が優しく彼女の頭を撫でる。
「謝らなくていいよ。
今は、分からなくて当然だと思う。
まずは落ち着こうか。
ゆっくり待ってるから」
彼女はしばらく椎菜の胸に顔を埋めていた。
そして、ぽつりぽつりと話し始めた。
「今は、何を言えばいいかわからないから、明日には返事するって、言った。
賢人は、わかった、って」
「そっか。
ちゃんと言ったのね。
向こうも、美冬が混乱してることは分かってると思うの。
だから、ちゃんと待ってくれるよ」
「美冬としては、その幼なじみくんのこと、ちゃんと好きなの?」
「待った、華恋。
そこまで言うのはまだ先だし早すぎる。
美冬はまだ混乱してるんだよ?
ここは一人にしてあげよ?」
深月のその言葉で、部屋から出た。
タイミングを見計らったように、椎菜の携帯が鳴った。
麗眞くんからのようだ。
『無理もないけど、本人もすっごい混乱してるところ。
だから1人にしてる。
え?
わかった、じゃあ行く。
せっかくだし皆も連れて』
椎菜の提案で、男子グループの部屋に行くことになった。
椎菜がドアを開けると、麗眞くんが笑って迎えた。
誰かが「麗眞の彼女さんか」と冷やかす。
その声に彼は即座に否定する。
「彼女じゃねぇよ。
今はまだ、な」
少しだけ、声が裏返っていたのは気のせいだろうか。
「で、何するの?」
野川ちゃんが腕を組んで言う。
「枕投げ」
即答だった。
「高校生にもなって?」
「だから楽しいんだろ」
そう言いながら、男子たちは枕を配り始めた。
「ルールは簡単」
麗眞くんが言う。
「当たったらアウト。
それと――」
彼は少しだけ間を置いた。
「各チーム一回だけ、使える切り札がある」
「切り札?」
椎菜が眉をひそめる。
「『先生来たぞー!』って叫ぶ」
「は?」
「言われた方は、十秒間、動いちゃダメ」
「最低」
「褒め言葉?」
嫌な予感しかしない。
始まると、案の定、部屋は一気に戦場になった。
枕が飛び、布団が盾代わりに持ち上がる。
笑い声と悲鳴が入り混じる。
油断した瞬間だった。
華恋が床に落ちていた枕に足を取られ、よろける。
その隙を逃さず、枕が飛んできた。
「今の大人げない!」
「サイテー!
やってること、オリエンテーションの女子たちと一緒じゃん」
ヤジが飛んだ、そのとき。
コンコン、とノックの音がした。
茶色い髪色と背の高さが相まって、女遊びが派手そうに見えなくもない。
でも、あの茶色い髪をかき上げる仕草の奥に、
誰かを気にかけているような影が見えた。
その“誰か”が美冬なのは、言われなくても分かった。
その暗めの茶髪が、例の拓実くんと被って見えたということは、私の胸の内にだけ秘めておくことにした。
「先生来たぞー!」
麗眞くんの声だった。
一斉に、動きが止まる。
「……え?」
「何、今のノック……
ちょ、待って、本気?」
次の瞬間、動けない私たちをよそに、男子たちが一気に枕を回収していく。
「最低すぎる!」
「だから言ったろ」
笑いながら、麗眞くんが肩をすくめた。
「フェイクだよ」
そう言われて、全員が一斉に息をついた。
「本物だったら、もう終わってるだろーが」
その言葉が、妙に頭に残った。
勝敗は、男子チームの勝ち。
「悔しー!」
「次は絶対リベンジ!」
陽花ちゃんと華恋のそんな声が飛び交っている中――
ドンドン、とドアが叩かれた。
今度は、誰も笑わなかった。
「こらー!
もうすぐ就寝時間だぞ!
いつまで騒いでる!」
担任の声。
本物だった。
「こらー!
もうすぐ就寝時間だぞ!
「やば!」
女子たちは皆、手近なカーテンの裏や押し入れの中に隠れたり、布団に潜ったりした。
それを男子たちがカモフラージュするという見事な連携プレーだ。
「まったく、明日も早いんだ。
帰りのバスの中で寝るなよ。
早く寝ろよ?」
担任が鈍くて助かった。
出て行って、足音が遠くなったのを確認してから各々が隠れた場所から出てきた。
しかし、椎菜は顔を真っ赤にしている。
麗眞くんに何か言われたかされたか、なのだろう。
部屋に戻って、彼女を問い詰めることにしようか。
ふと見まわすと、美冬の想い人である幼馴染くんがいないのだ。
さっきまでいたのに。
「宿泊オリエンテーションのしおり持って部屋出てったよ。
きっとその、未来の彼女さんのところじゃない?
1人にしておけないんじゃないかな。
自分があんなことを言ったから、彼女を混乱させたっていう罪悪感があるんだろ」
麗眞くんの言葉に、妙に納得してしまって、部屋に戻るのは少し後にしようと思った。
そのときはまだ、彼がいれば大丈夫だと、誰もが疑っていなかった。
その考えが、どれほど甘かったのかも。
その時、先生が麗眞くんのいる男子部屋に入ってきた。
「うわ、いたのバレたし……」
布団の間から顔を出しながら、華恋が言った。
「ごめんなさい、すぐ自分たちの部屋に戻ります!」
華恋が言うと、先生は怒るどころか、次に衝撃的な言葉を放った。
「関口美冬、知らないか?」
私は、ドアのそばで立ち尽くしたまま、その名前を聞いた。
「部屋にいるはずですけど」
先生が首を振りながら答える。
「部屋のすべてがオートロックで外からは開かないだろ?
マスターキーで開けたが、関口美冬はいなかった」
どこ行ったのよ、美冬……!
華恋と深月が、走って部屋を飛び出す。
その時、麗眞くんが電話で話し始めた。
「はあ?
ちょ、なんでそんなことに……
あ、なるほど。
了解。
車は相沢と南に頼んだ。
伊藤先生も連れてすぐ行く」
電話を切りながら、そんな言葉を、彼は小さく繰り返していた。
「気付かなかった」
「うかつだった」
――麗眞くんが、こんな言い方をするのは珍しい。
いつもは、もっと早く判断する人なのに。
「……賢人のやつ、美冬ちゃんを探して屋上まで行ったらしい」
麗眞くんの声は、いつになく低かった。
「そこで、美冬ちゃんが……自分を傷つけようとしてて」
一瞬、誰の声も聞こえなくなった。
「止めようとして揉み合いになった。
賢人くんの肩に……はさみが刺さった。
「はさみは携帯用の小さいやつだったし、軽傷らしい。
一応椎菜が午前中までいた病院に運んでる最中だそうだ」
美冬、なんで、なんでリスカなんてバカなことを!
美冬は何も悪くないのに!
エレベーターホールにいたのは、さっき部屋を飛び出していった、華恋と深月だった。
華恋が話し出す。
その内容に、皆開いた口が塞がらなかった。
「皆。
言ってなくて、ごめんね。
美冬はパニック障害なの。
そのことは、私も、幼なじみの賢人くんも知ってるわ。
症状が出始めたら、屋上とか、その時に思いつく、1人になれる場所に行くのが定番だった。
だからこそ、彼はすぐにわかったんんだと思うわ、美冬の居場所が」
深月がその後を続ける。
この手の話題には、彼女の方が明るい。
「……パニック障害」
深月がそう言った瞬間、廊下の空気が目に見えて重くなった。
「何の前触れもなく、急に息が苦しくなったり、胸が締めつけられたりする。
このまま死ぬんじゃないかって、本気で思ってしまう」
誰かが小さく息を呑んだ。
夜の病院で、その言葉を聞くのが、怖かった。
「……自殺を考える率自体は、すごく高いわけじゃないわ」
一瞬、深月の声が詰まった。
「……あの子、怖かったんだと思う」
深月の声が震えた。
「返事をしなきゃって焦って、でも決められなくて……。
その苦しさから逃げたくて、あんなことを」
それ以上、彼女は言わなかった。
言葉を足さなくても、十分すぎるほど伝わっていた。
深月の的確な解説に、この場いた誰しもが二の句が継げずにいた。
さすが、カウンセラーの娘……
「椎菜、伊藤先生呼んできてくれる?」
頷いた彼女。
次の瞬間、私達の目に飛び込んできたのは、廊下を小走りでこちらに向かう伊藤先生だった。
「麗眞くんの執事さんから事情は聞いたわ。
行きましょ!」
皆で、ホテルの外に停まっていたワゴン車に乗り込んだ。
麗眞くんが仲良さげに喋っているところを見ると、乗っている人も宝月家の知り合いなのだろう。
ワゴン車が病院に着いた頃、病院の外から凛さんが出てくるのが見えた。
「凛さ……凛先生!」
「美冬ちゃんは?」
「大丈夫。
貴女のお友達と、その幼馴染さんも無事よ。
手首の傷もためらい傷みたいだったし。
幼馴染さんのは、思ってたよりちょっと深く刺さってたの。
出血の割に傷は浅いわ」
「よかった……」
凛さんの言葉に、皆がパタパタと駆け込んできて、彼女に向かって頭を下げた。
「ありがとうございます。
美冬が無事で良かったです」
「美冬ちゃんも、その幼馴染さんの方も、意識は戻ってるわ。
幼馴染さんの方は、肩の傷が少々、痛々しいけど。
包帯も明日には取れるから心配ないけどね。
若いと傷の治りも早いのよね、羨ましいわ。
さあ、様子を見に行ってあげたら?」
凛さんの言葉に、真っ先に華恋が早足で美冬のいる病室に向かった。
病室のドアを、音を立てないように開けた瞬間だった。
乾いた音が、私の耳に突き刺さる。
華恋の手が、美冬の頬から離れた。
私の視線は、自然と二人に釘付けになった。
「……約束、忘れたなんて言わせないから」
華恋の声は低く、でも震えてはいなかった。
私の目に、美冬の指先がシーツをぎゅっと握るのが映る。
「美冬、学級委員だったときのこと、覚えてる?」
華恋は答えを待たずに続ける。
「テストでカンニングした人をちゃんと注意したよね。
そのあと、アンタが濡れ衣着せられて、いじめられたことも」
美冬は小さく肩を震わせている。
私は息を飲んだ。
華恋は一度唇を噛んでから、カーディガンのポケットに手を入れた。
その手に、小さく折り畳まれた紙が現れる。
折り目だらけで、何度も開かれてきたことがわかる。
「……それ」
美冬の喉が、小さく鳴った。
私も思わず視線を強く向ける。
華恋は何も言わず、紙を開く。
文字は歪で、幼い字だった。
美冬の目が、紙から離れられない。
「小学校の屋上で……覚えてる?」
華恋の声は静かだ。
美冬はうなずけず、首を横に振ることもできなかった。
私は胸が締めつけられる思いだった。
「そのとき、約束したよね」
華恋は紙を畳み、握りしめた。
「もう、こんなことはしないって」
少し近づき、そっと美冬の肩に手を置く。
「口約束でも、約束は約束だから」
美冬の肩が小さく震え、目に光るものが滲んでいるのがわかった。
「きらいに、なった?
わたしの、こと」
小さな声が、破れそうに聞こえた。
華恋は首を振る。
「そんなわけないじゃん」
少し笑おうとして、途中で止まる。
「私は、ずっと美冬の親友だよ」
華恋は一歩近づき、そっと抱き寄せる。
私は思わず視線を逸らす。
美冬は華恋のカーディガンの裾を掴んだまま、何度も頷いていた。
やがて、美冬の病室から出ていった華恋を追いかけようとした私に、麗眞くんが声をかけた。
「追うな、落ち着かせてやれ。
感情的にいろいろ言った後で頭冷やしたいんだと思う。
俺は、ホテルに残した椎菜たちに、事情を話してくる」
そう言って、電話が出来るスペースに向かった彼。
深月の拳が床を叩く音が、廊下に乾いて響いた。
私は一度だけ息を吸い、言葉を選ぶ時間をつくった。
「深月。
……もう終わり。
これ以上は言うな」
「なによ……!」
声が震れていた。
「私の、バカ……。
自分が、許せない……。
カウンセラーの娘なのに……!」
言葉が途切れ、深月は唇を噛んだ。
「美冬がパニック障害だったなんて……
全然、気づかなかった……。
知識はあるって、思ってたのに……」
拳が、また床に落ちる。
「気づいていれば……
美冬も、賢人くんも……
こんなことには……」
声が、潰れた。
その姿を見て、胸の奥がきしんだ。
あの日、母の葬儀のあと。私は家の柱を殴り続けた。
拳の感覚がなくなるまで。
――同じだ。
「ねえ、深月」
私は一歩、近づいた。
「あなたのお母さんは、プロだよ。
でも、あなたはまだ高校生だ」
深月が顔を上げる。
「二十歳にもなってない。
それで全部できたら……天才だよ」
一拍、間を置く。
「ここに、あなたのお母さんはいなかった。
私だって……凛さんに頼るしかない」
自分の声が、少し低くなる。
「資格も、経験も、知識も。
追いついてないから」
「だから――」
深月を、まっすぐ見る。
「自分を責めるな」
強く言い切らなかった。
それでも、言葉は落ちた。
「未熟だって分かったなら、進めばいい。
追いつこうとすればいい」
「深月も。
美冬も。
言えなかった華恋も」
首を横に振る。
「誰も、悪くない」
深月の肩が、小さく揺れた。
「泣くな、とは言わない」
声を、少しだけ落とす。
「でも、自分を壊すな。
自責の言葉を、吐き続けるな」
私はそこで言葉を切った。
「この話は……ここまで」
気がついたら、同じ病棟にいた人の視線が、一斉に私の方に向いた。
ちょっとした演説のようになってしまった。
言い過ぎたみたいだ。
気付いたら、呼び捨てにしてしまっていた。
いや、あの女湯で呼び捨てでいいと決めたからいいのか。
「その熱さ。
いつもの論理的な思考はどこにいったの?
そう言いたくなるくらい、情に熱くなるの。
正しいことは正しい、間違っていることは間違っている。
ちゃんと自分なりに判断できる強さ。
医療従事者として、大事な素質よ。
そういうところも、鞠子さんにそっくりよ?
そういう素質を、ちゃんと見抜いていたのね。
さぁ、皆、早く屋上に向かいなさい。
皆をホテルまで送るための車が来てるわ」
凛さんが、拳に血が滲んだ深月ちゃんの手に包帯を巻きながら、そう言ってくれた。
そして、麗眞くん以外の皆は、リムジンに乗せられた。
麗眞くんとは、ここでお別れらしい。
華恋ちゃんの姿は見当たらないままだ。
「華恋ちゃんなら、ドクターヘリを出発させるところだった南さんに頼んで先に送らせた。
俺は相沢の車で研修センター戻るから。
おやすみ」
リムジンに乗って、ホテルに戻った。
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