未知の瞬間を怖れるヒト
古 散太
未知の瞬間を怖れるヒト
一
いつの時代も、どんな人種でも、かならずヒトは死を迎える。
永遠に存在し続ける物質など存在せず、ヒトも肉体という物質で活動している以上、永遠に存在することはない。この世で唯一「絶対」と言い切れるのは「死」ぐらいのものだ。
その事実は誰もが知っている。知っているがわかっていない。知識として知っているだけでは他人事と同じで、わかっていないことと何も変わらない。だから多くのヒトが、自分の最後のときを病院や自宅で迎えると考えることができる。
実際に日本であれば、多くのヒトは病院や自宅のベッドの上で、家族に見守られながら、ヒトによっては手厚い介護を受けながら、この世に別れを告げるのだろう。ただすべてのヒトがそんな、この世との別れかたを迎えるわけではない。あくまでも多いというだけで、誰もが理想的な結末を迎えるわけではない。
考えてみてほしい。この世に存在する死に至る病気やケガ、不本意であっても巻き込まれる事件や事故、自然災害など、自分の行く末として予想できない、死に関わるような出来事がどれほど存在するのかということを。
ヒトの人生の傍らには、いつも唐突な結末が寄り添っているのはまぎれもない事実だ。逆に言えば、多少の体調不良などがあるにしても、今を生きているのは、天文学的な確率の奇跡なのかもしれない。
「死」について考えながら生きる、というのは、一昔前の世代のヒトからしてみれば、ただただ「縁起でもない」話なのかもしれない。しかしそれは、現実から目をそらして生きているだけである。
誰も逃れられない最終目的地だからこそ、目をそらしたり、考えないようにするという行為は、逆に人生を台無しにしてしまう可能性も出てくる。
この世に生まれることと、この世から去ることはセットであり、けっして切り離すことはできない。怖いからと言って考えないようにしたところで、その瞬間はかならずやってくる。この世に生まれた以上、どこにも逃げ場はない。
こういう言いかたをすると脅しのように受け取られるかもしれないが、この世に生まれてその瞬間まで生きていくということを考えると、死についてある程度でも知っておいて、受け入れて、そこに向かって生きていくという生きかたのほうが、日々を充実させることができるように思う。
何も知らずに生きていくことは、たしかに気楽だろう。しかしその気楽さは、年齢を重ねるごとに小さくなり、やがて巨大な不安へと姿を変える。
若いうちは大丈夫でも、ヒトには加齢という病がある。何もなくても肉体が不調を訴えてくることが多くなる。また、その不安のせいで、これまでの人生が台無しとまでは言わなくとも、後悔や反省でいっぱいになってしまう可能性もある。
「死」は宗教やスピリチュアル、オカルトといったジャンルで語られることが多いかもしれないが、本来であれば自然科学だ。
しかし残念なことに、科学はこの世の半分を支配しているが、残りの半分を無視しているために、どうしてもすべてを解明することができない。
無視している半分、「目に見えないものを認めない」という考えかたのせいで、幽霊や霊魂などはともかく、心や愛、人生や思考といった形のないものを解明することができずにいる。そのため、科学で解明できるのはこの世の半分、ということになる。
そもそも科学の世界は、「一+一=二」のように、誰が、どこで、どうやっても同じ答えになる、というのが基本だ。ひとりひとり違うもの、人生や生死、心や愛など、ヒトそれぞれの生活環境や人生体験から創られていく個人のあれこれを、科学では語れない。
生きることも死ぬことも、まったくおなじ状況や体験をするヒトはいない。そういう意味で、「死」は科学で語れなくなる。
本来、自然科学である「死」が、現在の科学の世界では、目に見える範囲、つまり肉体的な意味でしか語られないのは、そういう理由だ。ヒトそれぞれのものを語りようがない、解説しようがない、というのが本質だろう。
誰の身にもかならずやってくるその瞬間について、科学が語れないということは、常識でも語れないし、社会通念でも語れない。常識や社会は、科学を元にしているものがほとんどだ。その中に死を加えると、多くのヒトが嫌な顔をしたり、嫌悪感をあらわにするのは、科学で解明されていないことは常識ではないと信じているためで、その結果、何も知らないままその瞬間を迎える。
それでもヒトは、年齢を重ねてその瞬間が近づいてきていることに気づくと、急に「死」について知りたくなる。そこに「未知」という恐怖を感じているからだ。
知らないことは多くの場合、恐怖の対象になる。安全や安心を担保されていない未知は、誰にとっても、どこまでも恐怖の対象なのだ。
二
生きるのは多くのヒトにとって大変な行為だ。さまざまな問題が毎日のように立ちはだかる。ただでさえ病気やケガ、事件や事故、自然災害といった問題があるのに、日常の中には金銭的な問題、人間関係など、思ったとおりならないことも多々あり、それに比例して否定的な気持ちになる瞬間も増えていく。
たしかに不可抗力という面はあるだろう。
自然災害ともなれば、気象庁などでも予測できないことが多い。台風のコースが予測できても、その中で起こるさまざまな被害は予測できない。土砂崩れが起こる場所をピンポイントで知り得ないのが現実だ。
また事件や事故なども、極端に言えば自然災害と同じように、ただ巻き込まれてしまう場合もある。
病気やケガについては、自分で抑制できる部分があるかもしれない。とは言え、すべての病気やケガをコントロールすることはできない。生活習慣からそうなる未来がわかっていた、とか、単純な不注意で大きなケガをしてしまった、などということは自業自得であり「自分が選択した未来」ということになので、自らの意志でコントロールすればいい。
そういう意味では、自分の思ったとおりにならないことによって否定的な気持ちになる、という点については、すべての責任が自分にある。
それは、「生きる」とは何かを知らないまま生きているから起こることだ。
ここで言う「生きる」とは、食事をし、睡眠をとり、運動していたら成長する、ということではない。そのとおりにしていれば、肉体的な成長はできるが、大切なのは、「外側」だけではなく「内側」も学んで、真の「生きる」を知ることだ。
長い時間をかけて学校で学んできたさまざまな知識は、社会の労働力としての知識であり、ヒトが人生を歩んでいくための知識ではない。本当に「生きる」というのは知識ではなく、体験から「わかる」ことだ。
「わかる」というのは言葉にはできない。たとえば鉄棒での逆上がりのコツや、自転車に乗るコツなど、体験したヒトにしかわからないことがある。人生で起こるいろいろなコトを体験して身体で知る、というのが、本当の意味で「わかる」ということだ。
もちろん、肉体的な成長も大切だが、それではヒトは半分しかできあがらない。一般的な言葉で言えば、体を鍛えると同時に心も鍛える、というと伝わりやすいだろうか。
多くのヒトが国の方針に倣って、体はしっかり鍛えられ、脳も鍛えただろう。その反面、どこかで心を学んだことがあるだろうか。学校の授業に道徳という科目があった気がするが、あれも結局は頭で理解しているだけで、何かのきっかけになる可能性はあるが、「わかる」ということではない。
「外側」だけを鍛えているせいでヒトは、五感にばかり頼る。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚の五つの肉体センサーだ。
生きるのに必要な五感だが、現代では頼りすぎて、それ以外を無視してしまっているのではないか、と思う。五感に、心の動きや愛情といったものは入っていない。ひらめきや発想も入っていない。そして直感もだ。
五感は「外側」であり、たとえば、見たものを理解することはできる。しかしその理解はどこまでも見た目だけだ。見たものの本質を理解することはない。理解する能力は誰にでも備わっているが、それを利用する術を知らない。
学校教育では、心やひらめき、直感について何も教えてはいない。教えられないという面もあるだろうが、この世が目に見えるものだけで出来ていると勘違いしている大人たちの、傲慢さの結果とも言えるだろう。科学で手に入る答えがすべて、という思い込みが招いたのだ。
「わかる」とは、五感では感じ取れない本質の部分を理解すること、と言えるかもしれない。それが自分に向けて「わかる」という状態になったとき、ヒトは自分の本質を知る。それが禅の思想で言う「悟り」、あるいはスピリチュアルや瞑想の世界で言われる「ワンネス」だ。
「悟り」や「ワンネス」という言葉を使うと、一気に胡散くさく感じてしまうかもしれないが、見方を変えれば心の教育だ。学校では決して教えることのできない、五感だけでは得られないもの。多くのヒトが学んでいない、もう一方のヒトの本質だ。
肉体的な教育と、精神的な教育。両方が揃ってはじめて「生きている」と言える。
三
一般的な意味で「生きる」ことは、ほとんどの人が学んできている。だが、心について学ぶという機会がないままなので、物質的な肉体面ばかりが成長している。
それは、片翼で空を飛ぶ飛行機のようなものだ。実質的に最初から飛べない。それでも飛ぼうとするからこそ、心の調子を崩したり、深く傷ついたりしてしまう。
スピリチュアル的な話になるが、心はそもそも調子を崩さないし、傷もつかない。なぜなら心は魂であり、魂に上り調子とか下がり調子といったものも存在しない。つねに不動で安定していて、揺らぐことはないためだ。
では何が調子を崩したり、傷ついたりしているのか。
それは心と思考のズレだ。ズレが大きくなるほど心の調子を崩していると感じる。
心は不動で安定している。揺らぐのはいつも思考である。
「思考」は言うまでもなく、そのヒトが考えたり思ったりしていることである。
ここで簡単な注釈となるが、「考える」は意図的にある目的に向かって思考すること。「思う」は何かの体験に対して反射的に思考することである。「思う」ことについて「心で思う」と考える人もいるが、心は何も考えない。考えるのはいつでも脳である。
思考はそのすべてが脳内の作業であり、考えるのはもちろん、ふいに思ったりすることも同じだ。思ったことを言語化できるようなら、言語野が言語化しているので脳の仕事だ。心に言語野などないのだから、「心で思う」ということはあり得ない。
話を戻そう。心と思考のズレというのは、心は不動で安定し、思考はフラフラと「今・ここ」で体験していることに反応している。ここにズレが生じるのだ。
そしてもう一つ特徴がある。心には「ポジティブしかない」ということだ。
本当の最初、心が生まれた瞬間からポジティブしかないのだ。
生き物は基本的に平穏に生きたいと考えている。ヒトも含めて生物は本来、「今・ここ」を平穏無事に生きること、それがすべてだ。言葉を変えれば、「今・ここ」という瞬間さえ平穏無事であればいい、とも言える。
ヒトはよくできた脳を持っているがゆえに、「未来を想像する」ことができる。
危機管理能力としての発達と考えれば素晴らしい機能だが、現代においてその多くは、未来を想像することに使われている。それも「何かあったらどうしよう」とか「上手くいかなかったらどうしよう」といったネガティブな予想だ。もちろん脳の機能なので、これは思考だ。
もし、意図的なネガティブ予想ができなかったらどうなるか。おそらく「今・ここ」が平穏無事であれば、未来など何も考えずに生きている、ということにならないだろうか。
何か難しいことを考えることもなく、ただ「今・ここ」を生きる。野生生物の多くは、本能的にそうなっているように思う。
ポジティブとは日本語で肯定的、前向き、積極的などと訳される。TPOによって意味は変わってくるが、ここでは「肯定的」という意味で話を続ける。
肯定的である、というのは、意訳だが、「受け入れる」ということだ。「今・ここ」で体験していることを、感情や思考を抜きにして、ありのまま受け取る、ということだ。
そもそも事象に意味はなく、その瞬間の個人的な感情や思考が意味をつけている。その意味付けをやめればいい。
事象をありのまま受け入れたら、そこから派生していくさまざまな思考や感情の動きは止まる。
たとえば、食べていたソフトクリームを落とした、という事象の場合、ありのまま受け入れれば、ソフトクリームを落とした、で話は終わり、そのあとで何か建設的な解決法や対処法を考えるという段階になる。ここに思考や感情が入ってくると「一口しか食べてない」とか「値段、高かったのに」などの後悔の思考が生まれる。そこから悲しい気持ちや切ない気持ちなど、ネガティブな気分に陥ってしまうのだ。
結局は思考が、不安や心配、怖れ、後悔などを生み出しているだけで、思考が動かなければ、ありのままを受け入れるしかない。心だけになったときそれがポジティブな状態、ということになる。
調子を崩したり傷ついたりする根っこは、心ではなく思考だ。思考の中にある個人的な信念や思い込みがそのとおりにならず、ネガティブな思考が生まれ、ポジティブな心と折り合いが悪くなり、ズレが生じる。その結果、心の調子が悪くなったり、心が傷ついたように感じるのだ。
このことがわかれば、肉体的な面だけが成長することが問題になる、ということを感じてもらえるのではないかと思う。
四
心は不動で安定し、ポジティブしかない。逆に思考は、目の前の事象に対して反応し、その後の展開を予想してしまう。
本人が気づいていなくても、ヒトはいつも思考をしている。ネットを見てみると、その数、一日に一万二千回から六万回とも言われているようだ。そのうちの九五パーセントは昨日の思考の繰り返しであり、無意識に思考している。この九五パーセントの中の八〇パーセントはネガティブ=否定的な思考をしているらしい。
ヒトは、未来を予想するという能力と引き換えに、自分を不安に陥れるという能力も身につけてしまったのだ。
不安や心配といった思考は、「今・ここ」には存在しない。すべてが未来についての予想である。まだ何が起こるかわからないからこそ、自分にとって不都合な想像をして、不安になっている。しかも、意識的に思考して不安になっているならまだいい。無意識のうちに何かしらの不都合な未来を想像し、不安になっているのだ。いわば、何もなくても不安になったり、心配している状態だ。
思考をポジティブに切り替えればいい、そう考えても、長年にわたり積み重ねてきた信念は、そう簡単には変わらない。
多くのヒトは、学校教育の中で目に見えるものについてだけ学んできた。それらの基本は「一+一=二」であり、誰が、どこで、どんなふうにしても答えは同じ、結果は同じ、というのが現代の科学の基本だ。
当然だが、そこに心情や愛情、縁などは入る隙もない。
しかし人生は、心情や愛情、縁なども含めて構築されているので、科学だけで答えを出すことはできない、ということになる。
だからこそだ。ヒトは「死」を科学的な根拠の積み重ねや、いろいろな理論を並べて自分の頭でも理解できるようにしようとはするが、科学だけでは答えにたどり着かないので、極端に不安を感じてしまう。
そもそも生物学的に、死は肉体の全機能停止状態だ。心停止や脳死などいろいろな言いかたはあるが、基本的に肉体機能すべてが停止すれば、それは間違いなく死だ。
しかしそれだけではやはり不安はぬぐえない。たしかに、心臓が止まり、脳機能が止まれば死んだということになるのはわかっていても、「死」がどういうものなのかを説明しているわけではない。それは動いていた肉の塊が動かなくなった、ということを説明しているにすぎない。
こういったことからヒトは、科学的な理屈だけで存在しているわけではない、ということが理解できるのではないだろうか。
論理的には理解できる。それでも何か腑に落ちない、モヤモヤした気分になる、というのは、論理的に導いた解答にある意味、本能的な納得ができないためだろう。
では科学的な理屈以外に何があるのかと言えば、「心」だ。気分、気持ち、心持ちなど、言いかたはいろいろあるが、言葉にならない感情のことである。
先述したが、心に言語野はない。つまり言葉にはできない。言葉にならない感情の動きこそが、心が発しているものだ。
思い出してみてほしい。何か美味しいものを食べたとき、その味の成り立ちを解明する前に美味しいと感じていないだろうか。美しい景色を見たとき、何がどう美しいかを考える前に美しいと感じていないだろうか。ここに科学的な理屈は存在しない。これが感情であり、心の動きである。
心は不動で、ポジティブなのだから、嫌な気分や暗い気持ちなど、ネガティブな感情は起こらない。ネガティブなあれこれに対する受け皿がそもそもないのだ。
だとすると、「死」に対する不安や怖れのようなものは、心ではなく思考で生み出しているということになる。
思考で生み出した恐怖を心が処理することはできない。そもそも恐怖というネガティブな発想がなく、受け皿もない。頭で考えている不安と、つねに肯定する心が出会ったとき、そこにズレが生じ、ことさら激しく不安になるのだ。
禅の思想やスピリチュアルの中でよく、「心のままに生きる」という文言が出てくるが、それは、そういったムダな不安をなくすための第一歩になっているためだ。
「死」に対して、過剰な恐怖を感じるあまり、多くのヒトが遠ざけるようにして生きている。論理的に説明がつかないからだけではなく、「心のままに生きる」ということができていない、ということもあるのだろう。
だが、遠ざけることで、なおさら「死」は不明瞭になり、想像がその恐怖を巨大化させてしまう。そんな負のスパイラルに、現代人はハマっているように見える。
五
まず間違えてはいけないこと。それはこの世に存在するすべてに対して、いつかかならず「死」は訪れるということだ。この決定に例外はない。死や崩壊は、物質である以上避けられない。この世に永遠など存在しない。
このことをしっかりと踏まえた上で「死」を見つめる。そうすると、どうしようもないことに対して、過剰に怖れている自分に気づくのではないだろうか。
「死」という事象をありのまま受け入れてみれば、物質的にこの肉体が機能しなくなる。それだけのことだとわかる。
物質的に肉体が機能しなくなるというのは、自分の意識があってこそ認識できるものである。この世に誕生する前も、眠っているときも意識はないのだから、肉体が機能しているかどうかなど、認識することはできない。それと何が違うだろう。
そう考えれば、ヒトは自分が思っているより、「死」を身近に感じて生きているのではないか。だが「死」に対する怖れから、認めない。知ろうとしない。
「死」を認めれば、せめてその片鱗だけでも知れば、今ほどに怖れることはなくなる。怖れることがなくなった「死」は、ただの強制的なゴールでしかない。強制的なゴールがいつ自分の身にやってくるのかは誰にもわからないが、早かれ遅かれやってくるのだと認めていれば、「死」に対する恐怖よりも、今をどう生きるのかということに人生のポイントを置くようになるだろう。
「死」を怖れるがあまり、未来はいつも不安と心配と恐怖で埋め尽くされるが、しょうがないとあきらめたときから、未来への不安や心配は激減する。なぜなら、ヒトが恐怖を感じることの根っこにはかならず「死」があるためだ。
「死」は避けられない。ならば、この人生での体験をより幸せに、より楽しく、より良くすることに思考も心持ちも持っていくことができるようになる。
では、すこし考えたを変えてみよう。
ヒトが「生」と信じていること、「死」と信じていること、それぞれに付随する思い込みがもし、逆だったとしたらどう思うだろう。
生や死という言葉、それに付随する意味は、すべてこの世に生きている人間が考えたものだ。生者からの視点で、「生」は良きもの、「死」は悪しきものと決めているだけで、ヒトは死の先を知らない。つまり、どちら良きものかなど誰も知らない。
霊的なチャネリングや、臨死体験などで語られる死の先の話もあるが、あくまでも個人の視点=主観であり、誰にでも当てはまるとは言い切れない。人生は誰もが違うのと同じことだ。
どうしたって死の先を知ることができないのに、どうして「生」は良きものとされているのか。
仮に霊が存在するとした場合、彼らは時間や空間に束縛されない。重力にも縛られず、空腹も感じない、暑い寒いも痛いも痒いも感じない。すでに肉体はなく、五感が存在しないためだ。
肉体という物質を抱えて、時間に追われ、移動に労力をかけ、腹を空かし、真夏の暑さに耐え、偏頭痛に頭を抱えているのと、それらから解放されてい状態。どちらが幸せに見えるだろうか。どちらが良きものに見えるだろうか。
ここで一つ注意を。詳細は省くが、自ら命を絶つのは得策ではないし、お勧めしない。死んだら終わりとか、死ねば楽になるという考えは、この世に生きている者の主観でしかない。老衰をはじめ、自然災害、病気やケガ、事件や事故など、自らの意志ではなく亡くなるときを寿命と考え、自ら命を絶つことはやめておいたほうがいい。
話を戻そう。一般論的に世に広がっている「生」は良きもの、「死」は悪しきものという考えは、かなり偏見があるのではないかと思う。
生死の善悪が正しいものではないとした場合、過剰に「死」を怖れる理由はまたひとつ減る。死後には死後の良さがあるかもしれない、と考えることができるからだ。
ひとまずこれまでの「死」に対する固定観念を横に置いて、あるがままの死を見つめてみると、それはもはやイベントのようなものに感じてはこないだろうか。
日本には義務教育があり、ほぼすべての子供が小学校や中学校に通う。またすべてのヒトではないかも知れないが、多くのヒトが二十歳になる。さらにすべてのヒトではないかも知れないが、ほとんどの男女が性行為をする。それらと同じように、ヒトはこの世に肉体を用意して誕生し、「死」を体験する。
ヒトはひとりで生まれて、ひとりでこの世を去っていく。それは誰もがもれなく体験する、この世で最大かつ唯一のイベントなのだ。そう考えれば、「死」は恐怖の対象ではなく、あきらめに変わる。そう、どうしようもないことなのだ。
ではどうするか。「死」をあきらめて、これからどう生きるか。
「死」をあきらめれば、ネガティブな思考をしなくて済むと考えてほしい。先述しているが、不安や怖れなど、ネガティブ思考の根っこにはかならず「死」がある。それをあきらめたのなら、未来に不安や心配をする必要はなくなる。
そうなるとヒトは強くなる。これまで、幼少期以外のほとんどを「死」への対抗策のようなもので消費していた人生が、「今・ここ」を生きることだけに使えるようになる。言葉を変えれば、「死」を迎えるまでの時間を、どれだけ幸せに、楽しく、面白く過ごすか、ということに集中できるということだ。
生きるために生きることしか見ていなければ、どうしても理解のない未知に対する恐怖を感じい、それをどうにかするために「今・ここ」を生きてしまう。
「死」のすべてを知ることは生者にはできないが、仮説であれ、個人的な体験談であれ、宗教やスピリチュアル的な思想であれ、何かしらの片鱗を知ることはできる。その中から、自分が納得するものを寄せ集めて、あくまでも自分なりに、ということになるが、「死」を組み立てることで、未知のまま恐怖に怯えて生きるよりは、何十倍も人生は充実するはずだ。
いつ、どんな形でその日が来るのかは誰にもわからない。わからないものに怯えて暮らすことに何の意味があるだろうか。怯えて過ごす「今」という瞬間は、二度と戻っては来ない。ヒトはいつも「今・ここ」にだけ存在しているのだ。
漠然とした未知の瞬間はいつかかならず訪れる。それは間違いない。だからこそ、その瞬間に「あれをしておけばよかった」とか「あのように生きておけばよかった」という後悔をしないことを考えて、「今・ここ」を生きてほしいと願う。 完
未知の瞬間を怖れるヒト 古 散太 @santafull
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