SF短編 『星間』
夢夢夢
星間
粘着質な吐き気と共に、アベルは世界を取り戻した。
肺にこびりついた冷凍ガスを咳き込みながら吐き出す。視界が明滅し、耳鳴りがハウリングを起こしている。
「システム……状況は」
掠れた声で問うと、即座に無機質な音声が返ってきた。
『ポッド・4022、冷却ユニットの致命的損壊により緊急解凍を実行。目的地到着まで、残り199年と11ヶ月です』
アベルは弾かれたように顔を上げた。
「なんだって?」
ここは家族のために用意された居住空間だ。隣には妻のリサ、その隣には娘のマリーのポッドが並んでいる。二つのポッドは正常な青い光を湛え、厚いガラスの向こうで、愛する者たちが安らかな表情で時を止めていた。
アベルのポッドだけが、赤黒い警告灯を点滅させていた。
「間違いだ。そんな馬鹿なことがあるか」
アベルはよろめきながら壁の通信パネルを叩いた。
「ブリッジ! 船長、聞こえるか! 緊急事態だ、ポッドが故障した!」
ノイズすら返ってこない。ただの沈黙。
「誰か! 乗務員、医療班!」
『無駄です』
AIが淡々と告げる。
『本船は現在、深宇宙巡航モードにあります。船長を含む全クルーはコールドスリープ中であり、ブリッジへのアクセス権限は凍結されています。外部への通信も、目的地到着まで物理的に遮断されています』
「じゃあ、俺はどうすればいい! 再冷凍してくれ!」
『本船に予備のポッドはありません。また、現在覚醒している人間に、他者のポッドを操作する権限、およびクルーエリアへの立ち入り権限は付与されていません』
アベルは膝から崩れ落ちた。
完全に、切り捨てられたのだ。
システムのエラー一つで、たった一人、深宇宙の真ん中に放り出された。
彼はふらふらと部屋を出た。廊下には数百の客室ドアが並んでいる。
最寄りのドアパネルを叩いた。反応は冷ややかだ。『アクセス権限がありません』。向かいの部屋も、その隣も同じだった。何千人もの乗客が壁一枚向こうで眠っているというのに、アベルのIDでは誰の顔を見ることも許されない。
だが、共有エリアへのゲートは音もなく開いた。
そこには、異常なほどの「自由」が広がっていた。
五千人を収容するメインダイニング、最新鋭の音響を備えたシアター、無重力プール、そして人工太陽が降り注ぐ広大な中庭。
『乗客ID 4022。共有施設の利用制限はありません。快適な船旅をお楽しみください』
アベルは呆然と立ち尽くした。
あと二百年。人間の寿命など、この航海の半分にも満たない。
誰も助けに来ない。誰にも声が届かない。
彼はこの巨大な宇宙船の王であり、到着を見ることなく朽ち果てる運命にある囚人だった。
最初の数日間、アベルはこの絶望的な状況を認めようとしなかった。
彼は「王」として振る舞おうとした。
誰もいないメインダイニングで最高級のワインを開け、酔っ払って大声で歌った。シアタールームの最前列でコメディ映画を流し、腹を抱えて笑った。
「見ろよ! 全部俺のものだ! 並ぶ必要もない、金を払う必要もない!」
誰も咎める者はいない。この楽園は彼一人のためにある。
だが、一週間が経つ頃、その享楽は急速に色あせた。
映画の中の登場人物たちが笑い合うたび、画面の外の静寂が鼓膜を圧迫した。ダイニングに並ぶ五千脚の空席が、まるで五千人の死者に見えてきた。
自分が笑えば笑うほど、その乾いた反響音が、ここには「自分以外に誰もいない」という事実を突きつけてくる。
「……誰か、頼むよ」
ワイングラスを落とす。赤い液体が床に広がるが、誰も拭きに来ない。
「怒らないから、出てきてくれよ……」
アベルは恐怖に駆られ、逃げるように自室へ戻った。
この狭い部屋だけが、唯一「人の形をしたもの」がある場所だったからだ。
部屋に入ると、彼はリサのポッドにすがりついた。
ガラス越しに見る妻の顔は、あまりにも美しかった。結婚した日のように穏やかで、幸せそうだ。
マリーは、大好きな熊のぬいぐるみを抱いて眠っている。
アベルはガラスに額を押し付け、声を上げて泣き出した。
「リサ、怖いんだ……寂しいんだよ……」
涙がガラスを濡らすが、向こう側の彼女には届かない。
「なんで俺だけなんだ。なんで俺を置いていったんだ」
大の大人が、子供のように嗚咽を漏らす。
温かい肌に触れたい。声が聞きたい。名前を呼んでほしい。
その欲求が、彼の視線をポッドの側面へと誘導した。
そこには、最大の「誘惑」があった。
赤い緊急解除レバー。
電子ロックが故障した際の物理的な強制開放スイッチだ。これを引けば、ガスが抜け、ハッチが開き、彼女たちは目を覚ます。
アベルの震える指が、レバーにかかった。
あと数センチ。たったそれだけで、この発狂しそうな孤独は終わる。
悪魔が耳元で囁く。
『引いてしまえ。どうせ二百年だ。お前が死んだ後、彼女たちが無事に到着できる保証なんてどこにもない。なら、今ここで起こして、家族として時間を共有する方が幸せなんじゃないか? リサだって、お前一人を死なせたくないはずだ』
金属の冷たい感触が指に伝わる。
アベルは力を込めた。ガチャリ、とレバーが動く音がした。
その時、マリーの寝顔が視界の端に入った。
出発の前日、彼女は言っていた。
『あたらしいおうちについたら、パパとママと、おはなばたけをつくるの』
アベルの動きが止まった。
二百年。ここで起こせば、彼女たちは船の中で老い、目的地に辿り着くことなど到底できず、虚空の中で死ぬことになる。
新天地の風も、土の匂いも、未来のすべてを奪い、道連れにする行為だ。
アベルはマリーの顔を見た。
そしてリサの顔を見た。
涙で視界が歪む。
「……ごめん。ごめんな」
アベルは悲鳴に近い声を上げ、レバーから手を離した。
彼は自分の手を壁に何度も何度も打ち付けた。血が出るまで叩きつけた。
愛しているからこそ、拒絶しなければならない。おはようと言いたい喉を、鉄の味のする唾で飲み下す。
それからの日々は、緩慢な拷問だった。
アベルは日中、誰もいないプールで泳ぎ、誰もいない映画館でコメディを見て笑おうとした。ダイニングでは向かいの席に誰もいないのに「いただきます」と言った。
そして夜になると部屋に戻り、赤いレバーの前で膝を抱えた。
「寂しい」という感情が発作のように襲ってくる。引いてしまえ、と悪魔が囁く。
彼は眠る時、自分の手をベルトで縛るようになった。夢遊病のように、無意識にレバーを引いてしまうことを恐れたからだ。
十年、二十年、五十年。
アベルの髪は白くなり、背中は曲がり、肌は乾燥した紙のようになった。
船内は相変わらず清潔で、新品同様の輝きを保っている。清掃ロボットが完璧な仕事を続けているからだ。ただ一人、アベルだけが朽ちていく。
彼は老体に鞭打ち、船内を歩き回ることを日課にした。
図書館の本を整理し、中庭の草木を剪定した。リサが好きだった白い花を、船中のプランターに植え替えた。
彼女たちが目覚めた時、少しでも美しい場所であるように。自分が土に還ったあと、さらに百年以上もこの船は飛び続けるのだとしても。
覚醒から八十年。
アベルはもう、自室から出ることができなくなっていた。
視力は衰え、手足は鉛のように重い。
彼は一日中、ポッドのガラスを磨いていた。ガラスの中の妻と娘は、出発の日と変わらず、残酷なまでに若く、美しい。
鏡に映る自分は、もはや別の生き物だった。
ある日、アベルは最後の力を振り絞り、工具箱を開けた。
そして、リサとマリーのポッドの側面にある赤いレバーにレンチをかけた。
金属が軋む音がして、レバーが根元から折れた。
カラン、と乾いた音が床に響く。
これで、もう二度と起こせない。いかなる発作が起きようとも、寂しさに負けようとも、物理的に不可能になった。
アベルは床に転がった赤い金属片を見て、喉の奥で笑った。
勝ったのだ。二百年の誘惑に。
彼はポッドの間の狭い床に横たわった。
ここが一番落ち着く場所だった。右を見れば妻、左を見れば娘。
冷たいガラスに額を押し付ける。
体温は伝わってこない。けれど、彼は満足だった。
アベルはゆっくりと目を閉じた。
彼の呼吸が止まったあとも、船は静寂の中を飛び続けた。さらに百年以上の時を掛けて。
惑星セレスティア軌道上。
二百年の航海を終え、船内システムが全乗客の覚醒シークエンスを開始した。
無数の排気音と共に、リサのポッドが開いた。
彼女は身を起こし、長い眠りの気だるさに頭を振りながら周囲を見渡した。隣ではマリーが欠伸をしている。
部屋の空気は古びていたが、どこか懐かしい、土と植物の匂いがした。
リサはポッドから這い出し、足元に何かが転がっているのに気づいた。
それは、切断された二本の赤いレバーと、風化して衣服の中に散らばった白い人骨だった。
骨は、二人のポッドの真ん中で、何かを守るように丸まっていた。
その指の骨の間には、錆びついたロケットペンダントが埋もれている。
窓の外には、新しい惑星の青い光が満ちていた。
その光が、かつて人間だったものの残骸を静かに照らしていた。
SF短編 『星間』 夢夢夢 @yumeyumeyume12
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