第二章 上層部という名の天気
第7話「明石市長室、平常運転」
淡路島行き連絡船乗り場前の喫茶店で、児玉と鷲尾が言い争っている――その頃。
明石市役所本庁舎、最上階の市長室。
60畳ほどの洋間の床には、えんじ色の絨毯が敷き詰められている。
明石海峡を一望できる大きな窓。その上には、先日児玉と鷲尾が目にした“あの紋様”が、赤く染め抜かれた白旗として掲げられていた。
窓を背にするように設えられた市長席。その両脇には、国旗と明石市旗がそれぞれポールスタンドに掲げられている。
市長席をはじめ、この部屋に置かれた什器はすべてウォールナット製。椅子は本革張り。
元・人口30万人規模の都市の市長室としては、どう考えても豪華すぎた。
さらに、部屋の一角には暖炉まで備え付けられている。もっとも、中身はガスストーブなのだが。
……予算の使い方、どこか盛大に間違っていないか。
そんな市長室で、市長と思しき男は後ろ手に窓際へ立ち、明石海峡を眺めていた。
その背後には、この市の助役、教育管理局長、そして明らかに場違いな「観光ハッピ」を着た男――計三名が控えている。
「揃ったか?」
窓際の男が尋ねると、「はい、市長」と返事が返った。
それを受け、男は「ほな、始めよか」と口にした。
さっきまでの威厳はどこへ行ったのかとでも言うように、口調は一気に“そこら辺のオッサン”に戻り、四人は応接セットのソファに腰を下ろした。
……が、座るなり市長は「あ、忘れとった」と立ち上がり、市長席へ戻って内線電話をかける。
「あ~、ワシや。麦茶ヤカンに入れて。それと、お菓子適当に持ってきて」
完全にそこら辺のオッサンである。
「すまんすまん」と平謝りしながら席に戻ろうとした。
「あ!」
また何かを思い出したよう再び内線電話をかけた。
「スマン!『コップ』4つも追加!」
……やはり予算配分がおかしい。それに「コップ」って。
やがて、ヤカン入りの麦茶と茶菓子、そしてどこから見ても百均で買ってきたとしか思えない「コップ」が4つ運ばれてくると、市長はようやく本題に入った。
「なんや、神戸の連中。ウチも編入しようって、また言い出しとるらしいで。『未回収の明石郡』とか何とか言うてな。どない思う?」
最初に口を開いたのは助役だった。
「東と北は陸地で神戸と接してますし、明石海峡を封鎖されたら……詰みですな。結局は『大久保』次第ですわ」
それに続いたのは、ハッピ姿の男だ。
「せやけど、また『大神戸構想』ですかいな。もうええやんか」
「大神戸構想」――その言葉が初めて出た時、明石市民、とりわけ市議会は猛反発した。
超党派で「大明石統一党」が結成され、神戸市の動きに対抗する構えを見せた。
児玉と鷲尾が目にした、あの「紋様」は、その党の党章である。
事態を不安視した兵庫県警が両市に介入し、県知事は自衛隊に「地域安全支援活動」を要請した。
だが、情報収集のため現地に向かった自衛官が確認したのは――ただのサバイバルゲームだった。
しかも、それは一日で終わった。
「停戦」のきっかけは、ある男の「晩メシ食べたい」という一言。
その瞬間、両陣営は揃って戦意を喪失し、あっさり停戦となった。
後に日本史の教科書で「一日戦争」と呼ばれることになるとは、その時、誰も思っていなかった。
帰還した自衛官は義務として上官に報告したが、返ってきた言葉はたった一言だった。
「アホちゃうか」
その場にいた全員が、無言で首を縦に振ったという。
とはいえ、また何かの拍子に関係が悪化しないとも限らない。
そこで、明石市大久保町全域を「非武装地帯」とし、双方が協議できる場所を設けることになった。
選ばれたのは、JR大久保駅事務室。
特別な意味はない。
単に、適度なスペースを探した結果、そこしかなかっただけである。
……せめて会議室ぐらい借りろや。
この場所も後に、「135度線」「明石の板門店」と呼ばれるようになるとは、この時点では誰も想像していなかった。
市長は当時を思い出したのか、ハッピ姿の男に向かって言った。
「大沢さん、もう『ドンパチ』だけは勘弁やで。あの時の市の予算、服のクリーニング代でほとんど消えたんや」
「サバゲで済んだだけマシですやん」
大沢はまるで懲りていない。
市長は小さくため息をつき、「もうええわ」と匙を投げた。
大沢を無視し、残る二人に視線を向ける。
「で、どないする?」
その時、今まで黙っていた教育管理局長が口を開いた。
「皆さん。ウチの職員が、こんなモンを見つけてきましてね」
そう言って、彼は二枚の写真をテーブルに置いた。
空気が、わずかに変わる。
そこに写っていたのは――。
「明石分裂譚」と「明石黙示録」。
そして、金色に輝くタコツボの写真だった。
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