第3話「明石分裂譚」

 児玉は自宅に戻ってから、鷲尾の顔を思い出しながらしばらく考え込んでいた。

「いくら甲子園のチケットが『手付金』だとしても、今までのアホみたいな依頼内容を考えると内容がおかしくないか。どう考えても」


 まあ、いいか。と考え直し、夕食までまだ時間があるのでしばらく横になっていた。

「プルルルル」……また電話の呼び出し音が鳴った。


 しかし、今朝の鷲尾といい、なんでいつもこうタイミングが悪いんだ。ただ、鳴っているのは児玉が「業務用」に使っている携帯電話だった。――仕事か?


 とにかく児玉は機嫌が悪そうに電話に出た。電話の向こうは若い女性と思われる声だった。


「児玉孝雄様の携帯電話でよろしいでしょうか?」

「はい、そうですが。……で、何です?」

 セールスの電話なら無慈悲にガチャ切りするところだが、どうも雰囲気が違う。


「わたくし、明石市教育管理局の『水谷』と申します」


 え?教育管理局が何の用事?しかし、発信元の電話番号を見ると明らかに教育管理局のそれだ。一体何事?


「実は、児玉様にお願いしたいことがございまして、先ほどメールをお送りいたしましたのでご覧いただければ……」


 児玉はすかさずメールを開いた。確かに教育管理局からのメールは届いている。明石市教育管理局は、児玉にとって昔から付き合いのある「お得意様」の1つだった。しかし、メールの中身までは見ていなかったので、あとでじっくり見ようと思い、水谷という名の女性にその旨を伝えた。


「着信は確認いたしました。詳細はこれから読ませていただきたいと思いますので、少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」とりあえず横になってから読もう。


 水谷は「かしこまりました。では午前9時から午後5時までの間にお電話をお願いします」


 ……まさに「お役所時間」じゃねぇか。


 児玉は「承知いたしました」としぶしぶ答え、電話を切った。そして「はぁ」とため息をついて、先ほどの教育管理局からのメールを開いた。


 児玉はベッドに仰向けになったまま、天井を見つめていた。

 教育管理局から届いたメールは、いかにも役所らしい定型文で埋め尽くされている。だが、問題は本文ではなかった。


 添付ファイルの一覧に、見慣れないタイトルがあった。


「……『明石分裂譚』?」


 縁起でもない名前だな、と思いながらも、結局そのファイルを開いてしまう。

 そこに書かれていたのは、児玉にとって決して他人事ではない話だった。


 神戸市がかつて周辺自治体を広く編入しようとした構想があったことは、地元にいれば誰でも耳にする。

 ――またこの話か、と児玉は思った。


 だが、その手が明石市域にまで及んだ時、話はそう単純ではなくなった。

 大久保、魚住、二見――一度は神戸市に取られかけ、結局は明石市に編入された3つの町。今の明石市の輪郭は、その綱引きの結果にすぎない。


 資料を読み進めながら、児玉は鼻で笑った。

 神戸市は結局、西への拡張を諦めていなかったのだ。明石市全域の編入が住民投票で否決されると、今度は「交通」を理由に話を持ち出してきた。


 西神中央から西明石への延伸が頓挫。

 次に浮上したのがJR大久保駅への延伸。理由は単純だ。「JRとつながらなければ意味がない」。


「……で、行き着く先が編入かよ」


 資料には、淡々とそう書かれていた。

 大久保町を、魚住・二見とまとめて神戸市に編入し、「神戸市明石区」を名乗る。新快速停車と地下鉄延伸を公約に掲げて。


 だが結果はどうだ。

 新快速は止まってもドアは開かず、代わりに本数の少ない特急が停まり、しかも特急料金を取る。1時間に4本普通電車が来るのが救いなのだが。

 ページをめくる指に、自然と力が入った。


 ――後に「大久保事件」と呼ばれる騒乱が発生。


 短い一文だったが、その裏にどれだけの怒りが積もっていたかは、想像に難くない。

 そして最後に、住民たちはこう宣言する。


「もう神戸でも、明石でもない」


 兵庫県直轄大久保特別行政区。


 画面に表示されたその名称を見て、児玉は静かに息を吐いた。


 こうして、この地域には「3つの明石」が生まれた。

 そして自分が住んでいるのは、そのうちの1つ――分裂以前から続く、今では「東明石市」と呼ばれる場所だ。


 ……なるほど。

 教育管理局が、こんな資料を抱え込むわけだ。


 児玉は折り返し電話をかけ、資料に目を通したことと「詳しい話を聞きたい」旨を伝えた。


 児玉は電話の向こうの水谷の容姿を勝手に想像(妄想?)し、屋外であれば変質者として警察に通報されかねない顔をしていた。


「これが仕事じゃなくてデートだったらなぁ……」

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