第一章 封筒の中の街
第1話「1本の電話から」
それは、児玉孝雄にとって朝の記憶が曖昧になるほど、夢とも現実ともわからない状況だった。
なぜか児玉はある男の引っ越しを手伝っていた。その男の頬には大きな傷があり、一見「その筋の人」のようだった。
最後の荷物と思われる洋服ダンスを運び終えると、男は「お疲れさん。ありがとうな」とそのイカつい顔には似合わない満面の笑みでこちらを見た。
「なんせ助かった。こんな荷物一人で運びきれんわ。今晩お礼にメシおごるわ。言ってもこっちも金ないからファミレスか回転寿司でこらえてくれな」そう男は続けた。
「人を見た目で判断してはいけません」とよく言われるが……無理だ!
あの洋服ダンスにも、何かヤバいものが入っていたのではないか――男の風体も相まって、児玉の想像は「恩を売って後から……」と、勝手に深みへとはまり込んでいった。
世間で言うところの「沼にはまる」というやつだろうか……。
だが「労働の対価」と額面通りに受け取ることもできる。児玉はしばらく(といっても2~3秒だが)悩んで「労働の対価」として受け取るようにした。
「ありがとうございます」
「プルルルル」と電話の呼び出し音が鳴り、そこで無理やり現実に引き戻された。だが先ほどの夢が抜けきれず、この電話の呼び出し音ですら夢ではないかと思うぐらいだった。
「はい児玉です」と寝ぼけた声で電話に出た。
電話越しからは聞き覚えのある中年男性の声が聞こえた。ここで児玉ははっきりと目が覚めた。聞き覚えのありすぎる声。
「おぅ!鷲尾や。おはようさん。実はお前に頼みたいことがあってな」
児玉はため息と悪態を同時についた。
「よりによってコイツかよ」
この鷲尾という男の「頼み事」にロクなことはない。「鷲尾」という名前が出た瞬間に電話を切るべきだった。コイツの頼み事を列挙すればキリがない。思い出すだけでウンザリする。
・「魚の棚商店街」の通り抜けに要する平均時間(買い物目的なしの場合)。
・明石市民のうち「天文科学館の時報をまだ目覚まし代わりにしている人」の割合。
・「阪神が負けた翌日に明石市民が飲みすぎて後悔するまでの時間」統計。
……全部どうでもええ。特に鷲尾、お前「明石新報」のデスクだろうが!
「で、何ですか?」ぶっきらぼうに児玉は答えた。
鷲尾はそんな児玉の態度になど無視するかのように話を始めた。
「電話では説明できんから明石駅前のファミレスで話をしようや」
アホか。それならメールで送れ。思わず口からその言葉が出そうになるのを何とか児玉は抑えた。
「あ~わかりました。で、何時にします?こっちは昼飯ついでに話をしたいんですがね」
「そうやなぁ。じゃあそうしよか。11時ならどない?」
「はい、そうしましょうか」
「わかった。じゃ。明石駅改札口前の『信楽焼のタヌキ』の前な」
そう言うと鷲尾は電話を切った。
「はあ~」
電話が切れると同時に再び大きなため息をついた。
時計を見ると午前7時。
「アイツの時間感覚はどうなってるんだ?あと2時間ぐらい寝られたのに」
児玉は思い浮かぶ限りの悪態をついた。そして最後に……。
「ダボ(バカ)か」
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