第9話 処刑エンド令嬢、前世の罪を知る
体育の授業――
場所は、学校のグラウンド。
ジャージに着替えた一年一組の生徒が、大きな楕円を描いた白線の前に集う。
「今日はグラウンドを五周回ったら終了です。簡単な体力測定なので、無理せず、自分のペースで走りましょう」
体育教師の号令とともに、生徒たちは一斉に走り出す。
グラウンド一周は、およそ三百メートル。
五周すれば、一・五キロになる計算だ。
ジェーン・グレイ――
が、しかし――
スタートして一周もしないうちにその足は明らかに減速し、みんなとの距離がみるみる離されていく。
「……はぁ……はぁ……」
やや内股で上品さはかろうじて保っているが、それは走っている、というより、歩いていると言った方が正しい。
呼吸は荒く、顔色も悪い。
(ホワィ……なぜ人は走らねばなりませんの……?)
哲学的な問いが、頭の中を駆け巡る。
前世のジェーンは、ほとんど運動らしい運動をしたことがない。
庭園の散歩ですら、わざわざ馬車を引かせていたくらいである。
とはいえ、それは前世での話。今の彼女の体は、
(この苦しみは、ナデシコさんの不摂生のせいであり、ワタクシのせいではありませんわ……)
そんな言い訳を考えているうちに――
「ナデシコ、ガンバっ!」
背後から、元気な声。
気づいたときには、
――周回遅れである。
「……」
ジェーンは、絶望のあまり立ち止まりそうになる。
(ジーザス……。ワタクシ、まだ一周も走り終えてないのに……もう周回遅れですって……?)
その後も次々と追い抜かれていき、
「おっせーなぁ」
今度も、聞き覚えのある声。
振り向くと、ギャル女と、その取り巻き二人が並んで走ってきていた。
「今日中にゴールできんのかよ?」
けらけらと笑いながら、あっさり追い抜いていく。
ジェーンは、歯を食いしばり、
「……屈辱、ですわ……」
青息吐息で、そう漏らすのが精一杯だった。
*
体育の授業が終わり、休み時間。
拷問のような仕打ちを受けたジェーンは、廊下をとぼとぼと歩いていた。
「足が……棒のようですわ……」
そのとき、前方に見覚えのある背中を見つける。
「あら……先生」
担任の
(そうだわ)
用を思い出し、そちらに歩み寄る。
「
呼び止められ、振り返る。
「あ、
ジェーンが話すよりも先に、
(
それが、あのギャル女のことであると分かると、さっきの体育の時間、からかわれた光景が一瞬よぎる。
それでも、あえてジェーンは首を横に振った。
「いいえ。何もありませんわ」
「……そうですか」
「それで……先生に、ひとつお聞きしたいことがあるのですけれど」
「はい、何でしょう?」
ジェーンは、ためらいがちに言葉を選んでから言った。
「先生は、歴史の先生ですのよね?」
「ええ、そうですよ」
「では……ジェーン・グレイのことは、ご存知なのでしょうか?」
「ええ。たしか”
「……彼女について、どう思われます?」
真剣な眼差し。
「一般的には、政争の道具として利用された、悲劇のヒロイン……として認識されていると思います」
「そうではなくて」
ジェーンは、きっぱりと言った。
「先生個人の見解を、お聞きしたいのですわ」
彼女がなぜそのようなことを聞くのか、その真意が分からず困惑する
やがて、慎重に口を開いた。
「……そうですね。確かに、彼女は悲劇のヒロインかもしれません」
一拍置き、
「ですが、もし彼女に過失があるとしたら――それは”無知”かもしれません」
「……無知?」
ジェーンは、首をかしげる。
「もし彼女が、国の状況や、世界の実情を知っていたなら――。もし、自分が置かれている立場を、正確に理解していたなら――」
「あのような無謀な賭けに出ることも、なかったのかもしれません」
その言葉が、胸に突き刺さる。
(……無知)
思い当たる節しかなかった。
世界を知らず。
自分が特別だと信じ。
承認欲求を満たしたいがために、権力者の甘言に乗り。
結果、誰にも受け入れられず、破滅した。
ジェーンは、自身の指先が震えていることにも気づいていなかった。
「……無知は、罪でしょうか?」
すぐにでも消えてしまいそうな、か細い声で問う。
「無知そのものは、罪ではありません」
きっぱりと。
「知らないこと、分からないことに対して『知らない』、『分からない』、と答えるのは、何も悪いことではありません」
しかし、と続ける。
「知りもせず、知った風な顔をしていい加減なことを
その目は、真剣そのものだった。
「無知が悪いのではなく、無知であることから目を背け、自らの無知と向き合おうともしない。それこそが、罪なのです」
ジェーンは、ハッと頭を上げ、そして深く息を吐いた。
そして、深々と頭を下げる。
「……ありがとうございます、ですわ」
顔を上げ、
「ハッキリと言ってくださって、スッキリしましたわ」
「はぁ……」
結局よく分からないまま、
「……やはり、聖職者はご立派ですわね」
ジェーンの見る目が変わり、そう言った瞬間だった。
「いえいえいえいえ! とんでもないですよ!!」
「教職員なんて地獄ですよ? 上からも下からもプレッシャーを掛けられる、中間管理職の辛み! 時間外労働も休日出勤も日常茶飯事なのに、給料は薄給っ!」
天を仰ぎ、腕を突き上げ、まるでひとり芝居のように声を上げる。
「ちょっとでも生徒に厳しくすれば、パワハラ! 生徒が問題が起こせば、こちらの責任問題! モンスターペアレンツの襲来! 日和見主義の教〇委員会!」
その独演はやがて
「教師が聖職者だなんて、ただのファンタジー! これは、もはや下僕っ! マゾヒストの極みですよっっっ!!」
廊下に、哀れな公畜による魂の叫びが、虚しくこだまする。
ジェーンは冷眼を向け、
(イッツホープレス。……やっぱりこの方、根っからのダメ人間ですわ)
ほんの少しだけ見直した気持ちは、あっという間に霧散したのだった。
処刑エンド
走っても、学んでも、人生は思いどおりにはいかない、と感じた瞬間であった。
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