第2話
意外と混乱こそしなかったものの、それからはとにかく大変だった。初めて救急車に乗ったこと、祖母が一命をとりとめたこと、苦手な母と連絡を取らねばならないこと、様々な事象が怒涛の勢いで押し寄せた。しかし、こうなってしまえば僕の感情など差し挟む余地もなく物事は進んでいく。
寒さは厳しさを増し、二度目の大学受験が迫る。僕の技術はどんどん高まり、かつて祖母がのびのびした感じが好きだと言った僕の絵は、いわゆるアカデミックな風合いとなり、その完成度を高めていった。
僕は、救急車で運ばれて以降入院した祖母の元へ、なるべく通いながら自己の研鑽に努めた。はじめのうちは祖母も元気な素振りを見せていたが、僕の未熟な観察眼でも、それが彼女の強がりであることは分かった。ともに暮らしていたからこそわかる、入院により一度は持ち直した祖母の体力が少しずつ落ちていくのは明白だった。
最も祖母の近くにいた僕なのに、医者がその病名を伝えたのは母であった。僕は、今まで没交渉だった母に、頼み込んでその病名を聞いた。助かる見込みのない病気であった。僕は、親に代わり僕を育ててくれた最大の理解者を喪うことを悟った。
病院と家、予備校を行き来する途中、思わず叫びそうになる瞬間もあったが、どうにか堪えてみせた。だが、僕がどれほど自分を抑えても、どう絵を学んでも時が止まるわけでもない。
藝大の試験を控えた二月初旬、祖母の容態が悪化した。
病室に入る前に鏡を見る癖をつけた。悲痛な表情を、どうあっても祖母に見せたくはなかったからだ。静かに入室し、簡単な道具で絵を描き始める。はじめ祖母は眠っていたが、僕が来たことに気づき目を開けた。
「……潤ちゃんごめんね、大事な時に」
ベッドに横たわる祖母が静かに呟いた。時には騒がしいとさえ思ったことがある祖母の声は、病室のカーテンに吸い込まれてしまうように小さかった。あれほど溢れていた生命力は翳りを見せ、僕は恐れる瞬間が近いことをひしひしと感じた。
「大丈夫だよ、ばあちゃん、今年は自信あるんだ。それに病室でいくらでも描けるから」
自分の中の不安を隠すように、気丈に振舞う。
日々衰弱していく祖母を前に、病室で看病と受験の準備をする生活に限界を感じてはいたものの、僕が絵を描く姿を眺め、満足そうな表情を浮かべる祖母を見るのが好きだった。
「潤ちゃんは上手だねえ、本当、画家になるのが楽しみ……」
祖母に描きかけの花瓶を見せる。僕は、このように自身の消耗を無視して、できるだけ祖母の前で絵を描く時間を作った。
「うん、頑張ってみるよ……、絶対受かるから」
祖母がまた、寝入るのを確認した後、静かに後片付けをして椅子を立った。病室を出て、家まで帰ろうとそのした矢先、僕は母と、今の父とすれ違った。
「潤、お母さんどうだった?」
面会に来ただけあって母は普段より地味な服装ではあったものの、香水はいつものを使用していたため、僕の脳裡に一瞬トラウマが蘇った。
「潤一郎君、君も受験が忙しいだろう。あまり無理しないようにね。お義母さんのことは僕たちに任せてくれていいから」
継父がそう言った。これまでの生活や、長期化した入院の世話から彼が悪い人ではないことは知っていたものの、やはり三番目の父親となれば、あまり父として慕う気にもなれなかった。
「ありがとうございます、でも、祖母も長く一緒にいる僕の方が安心だと思うので」
僕は、僕より頭一つ以上小さい継父と視線を合わせ、思ったままを口にした。どことなく自分の言葉に棘があったことにばつの悪さを感じ、ろくに母の方を見ずに足早にその場を去った。
僕は、祖母と僕の家に帰った。主のいない家は気温以上に寒く感じた。明かりをつけると、居間のあちこちに飾られた僕の作品たちが照らし出された。
祖母が飾ってくれた僕の絵は、祖母と暮らし始めた小学生の時のものから今のものまで飾られている。
「絶対画家になるから……」
僕は祖母からの信頼の証を前に、改めて目標を口にした。それは僕の夢でもあり、祖母の夢でもあった。ただ、そのあとの言葉が続かなかった。「待っていてくれ」と続けることは、あまりに無責任に思えた。
母と継父と行き違った見舞いから数日後、僕は藝大の滑り止めとなる私立大学の入試のため、東京へと向かった。地方にも良い美大はあるのだが、僕の目には藝大と東京近郊の有名美大しか映ってなかった。
どちらも現役生の時には落ちていたが、この一年間で僕は確かな技術と、受験上のテクニックを身に着けていた。美術予備校では常に高い評価を得ていたこともあり、今回は自信があった。
三日間の日程の受験が終わり、僕は急いで故郷へと帰った。名古屋で新幹線を降り、そのまま五十鈴川行きの急行へと乗ると、時間としてはそこまでかからないのだが、やはり祖母の衰弱や、藝大受験のような最難関の試験を前にすると、何かと煩わしい手間ではあった。
また、祖母が倒れて以降、金銭的にも何かと不安がつきまとった。受験費用や宿泊費は当然節約できないのではあるが、食事等はおろそかになりがちだった。
そのまま、祖母が入院している病院へ向かう。最終日の筆記試験は早い時間に終わるので、面会時間に間に合った。ある程度の覚悟を持っていたが、やはり受験により離れているうちに、祖母の衰弱は進行していた。
「お母さん、潤が来たよ」
祖母に付き添っていた母が、入室した僕を見るなり、祖母へと声をかけた。僕は母が祖母のことを恥ずかしげもなく「お母さん」と呼ぶことに抵抗を感じながらも、祖母に要らぬ心配をかけないように、病室に入る前に作った柔和な表情を保った。
「潤……」
更に小さくなった声が聞こえた。僕は駆け寄りたい気持ちを抑えて、病床へと静かに近づいた。
祖母の目はうつろだった。継父から届くメッセージを確認していて予備知識があったのだが、祖母は痛み止めとして服用している薬の副作用で、いわゆる「せん妄」という症状が出ているようだった。
医療用ベッドの機能で上体を起こしていた祖母の視線は、僕の腰あたりを彷徨っている。
「ねえ、智子、潤はどこ」
祖母の声が不意に大きくなった。まるで僕の姿が見えていないように、驚きの声を上げたのである。
「ばあちゃん、試験から帰って来たよ。うまく描けたから、今回は大丈夫だと思うんだ。このまま藝大まで気を抜かないようにするから――」
僕は祖母と視線を合わせ、この数日間の様子を語った。すると茫然としていた祖母の瞳に生気が宿った。
「ああ、良かった。潤ちゃん帰ってきたのね」
「うん、帰ってきたよ」
祖母は、僕を「今の僕」として認識できたようだった。必死で涙を堪えながら返事する。祖母の先ほどの視線の位置、僕が祖母の家に預けられた時、僕はちょうど、あれくらいの身長だったのだろう。
祖母にとって小さく可愛かった孫は、一八〇㎝以上の身長と、それなりの絵の技術を持ったわけだが、結局はまだ浪人生のままだった。僕は、今、祖母が望んだ道へと歩めていないことを強く恥じた。間に合わせることができなかった自分の不足が、たまらなく悔しかった。
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