辻にて迷わず
山の下馳夫
第1話
無機質な電子音が、教室内に鳴り響いた。
イーゼルへと倒れ込んでいた上体を起こすまでもなく、周囲の生徒の空気が緩んだのがわかる。僕は既に鉛筆を置いていたが、自分の作品の出来栄えを最後まで観察したかったこともあり、しばらく姿勢はそのままだった。
周囲の生徒が動きだしたのに合わせて立ち上がった。仕上げたばかりのデッサンを最後にまた一瞥し、予備校の教室の前方へと持参した。そこには、講評台と呼ばれる三段の台が備え付けられていた。
講師に作品を手渡すと、彼は「今回も良い」と呟いた。僕の作品に教室内の注目が集まるのが分かった。
これから、講評の時間が始まる。今しがた生徒たちが制作していたデッサンに順位をつけ、改善点などを指摘するのである。三段に分かれた講評台の上の段に置かれれば良し、下段であれば悪し、というある種の残酷な催しではあるのだが、画家の道を歩もうと思うなら、他者からの品定めや比較は避けられないものでもある。
講師による作品の位置の変更が行われ始めると、制作が終わり弛緩していた空気がまた緊張していった。今のうちにと休憩に立つ者もいたが、僕は特に疲れてもいなかったので、クロッキー帳を取り出し、短いドローイングを繰り返しながら講評を待った。目の端で、僕の作品が上段の左に行くのを見て、少し安心した。
「辻君、今回も良いね。今年になってから安定しているよ、これならいけるんじゃないかな」
ほどなくして始まった全体講評で、僕のデッサンは一位と評価された。後方で、今年入ってきた生徒の一人が「天才」と呟いていたのは少し大げさだと思ったが、確かに今、この教室内であれば僕の作品は優れているのかもしれないと思い直し、その評価をありがたく受け取った。
講評が終わり、僕は教室校を出る前に、先ほど賞賛と多少の嫉妬を集めたデッサンをスマホで撮影した。講師に指摘された改善点を後で見直す以外にも、この成果を見せたい相手がいた。
「――辻さん、このあと皆で息抜きにカラオケ行くんですけど、一緒にどうですか?」
帰る際、予備校の廊下で一人の女子生徒に呼び止められた。視線を下げ、彼女を見る。制服を着ているということは現役生だろう。なるほど、彼女たちからすれば先ほどの講評会は一大イベントであったに違いない。僕は少しの間、どう断るかを迷った。
「……誘ってくれてありがとう。でも一人で反省会をしたくて、今日はやめておくよ」
本当はいくつか違う理由もあるのだが、なるべく自分の事を理由にしたくて言葉を選んだ。とはいえ紡いだ断りの言葉は全くの嘘ではなかった。この予備校で一番だとしても、日本最難関と言われる東京藝大の試験を前に、その評価はどこまで役立つかはわからない。自分を磨く時間は、可能な限り多く取りたかった。
予備校を出て駅へと向かう。途中ハンバーガーショップに入っていく高校生を見て空腹に気づいたが、時間とお金が惜しいので足早に通り過ぎた。僕が住む家まで、ここから50kmある。僕は売店で一番安くて腹に溜まりそうなパンを買い、五十鈴川行の急行へと飛び乗った。車内の暖房がありがたい季節になっていた。
「帰ったら洗濯機を回して……、ご飯を食べて」
空いた席に座る。外気との温度差でぼやける思考を保つため、帰ってからのいつものルーチンを、頭の中で繰り返す。
僕は今、祖母と二人暮らしをしている。藝大を目指し浪人しているということもあり、炊事等の家事は祖母に任せきりだった。日々の暮らしは罪悪感の募る部分もあったが、今日は吉報を届けられることもあり、少し気分が軽くなった。
乗客が少なくなったタイミングでパンの袋を開けた。口もとに静かに運び、僕は祖母のスマホへメッセージを送信した。反応がなかったが、時折こういうこともあるので気にしなかった。
祖母からの返答もないので、僕はそのままスマホでアート関連のニュースを見た。利き腕を休ませるために、こういう時には左手を使っていた。
(あ、原田さん、また賞に入っている……すごいな)
ニュースサイトでは、原田さんという藝大を卒業したばかりの青年の入賞が報じられていた。彼は在学中から既に頭角を現していたが、卒業後もまた順風満帆に活動しているようだ。仮に僕が現役で入学していたとしても在学期間が被らなかったのであるが、やはり彼のような傑出した人物を輩出する藝大に対する憧れが募る報道だった。
「なれるかな」
実際には声にならない、本当に微かな呟きが口から漏れた。
来年入学して、それから四年、どれだけ順調にいったとしても、卒業する頃には祖母も後期高齢者になっている。恩返しをするならばやはり早い方が良い。
才覚ある者なら、原田さんのように在学中に画家として芽を出す者も多いのだから、僕もまた努力次第で――、自己の才能を問う、それは何よりも恐ろしい自問であったが、僕は最近、祖母の通院の回数が増えたことを思い出し、その問いから逃げないようにしていた。
「……少しでも、描かないと」
わずかばかりの休憩を経て、僕は電車に揺られながらもクロッキー帳を取り出した。先ほど、予備校で指摘された点を一度文字で書き出し、少しだけ目に写るものを描いてみたら、ざわついた心が僅かに落ち着いた。僕の頭の中には、原田さんを起点にして、若くして画才を発揮した天才たちの肖像が思い浮かんだ。25歳にして日本人初のサロン・ド・パリ入選を果たした五姓田義松、僕をこの道へ誘った夭折の天才佐伯祐三、誰も彼も距離を感じるが、それだけに止まってはいられなかった。
一時間弱かけて、僕は実家のある街へと戻った。電車から降りると、寒風が身に染みた。
「東京はもっと寒いよなあ」
僕は駅の改札を出ながら、そんなことを思った。この街は暮らしやすいが、少々以上に複雑な思い出があった。それらの記憶が良いものか悪いものかは、古くからの街道が交差するこの町の地理のように、言葉で説明するのは難しい。
ただ、一度家に帰ってしまえば、どれだけ悲しかったことも、過去に抱いた激しい憤りも、別の想いで塗り替えることができた――
「早く、ばあちゃんに見せないとな」
信号待ちの際に、先ほどのデッサンをスマホで見直す。これを見て喜ぶ祖母の顔が想像でき、自然と駆け足になった。何度か道を曲がった先にある家に着き、古い玄関を開けた。
「ただいま、帰ったよ」
家の中に自分の声が木霊する。今日の成果を早く祖母に見せたくて、図らず大きな声となった。
「あれ……、ばあちゃん」
返事はなかった。妙だと思った。電気は点いているのだが、まだ暖房をつけてないのか部屋の中は寒いし、いつもと違って家の中には匂いがない、祖母は必ず夕飯を用意して待っていてくれるはずなのに……、僕は急いで靴を脱いで部屋に上がった。
台所の机に伏している祖母を見た瞬間、僕は彼女が寝ているのではなく、何か身体に異常をきたしていることをすぐに悟った。祖母に駆け寄りながら、119番をした。幸か不幸か、祖母にデッサンを見せるために、スマホはずっと握ったままだった。
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