第10話 計画

 それから1年半、私は徹底した。

 練習メニューは、常に限界ぎりぎりに設定した。いや、正確には限界を少しだけ超える負荷に調整した。週の走行距離は250km。月間では1000キロを超える。インターバルトレーニングの本数も、通常の1.5倍。LSDの時間も、回復を考慮しない長さに設定した。

 スポーツ科学の教科書に書かれた「適切な負荷」の概念を、私は意図的に歪めた。トレーニング理論を熟知しているからこそ、どこをどう歪めれば破綻するかが分かる。知識は武器にも毒にもなる。私は後者を選んだ。

「燈、これ、ちょっときつすぎない?」

 3ヶ月目、彼が弱音を吐いた。

 週6日、1日2回、朝夕の練習。休養日は週に1日だけ。身体が悲鳴を上げるのも当然だった。朝練習は午前5時から3時間。夕方の練習は午後4時から4時間。 彼の目の下には、濃い隈ができ始めていた。頬もわずかにこけている。体重は理想値から3kg落ちていた。だが、それでも彼の瞳には光があった。世界陸上という目標が、彼を支えていた。

「大丈夫」

 私は優しく言った。彼の手を取り、その冷たさを確かめる。

「世界陸上に出るには、これくらい必要。鈴都なら、できる」

「でも、疲れが抜けない。朝起きた時から、身体が重いんだ。昨日も階段を上るだけで息が切れた」

「それは、強くなってる証拠」

 私は彼の手を握った。その手は以前より硬く、皮膚は乾燥していた。

「筋肉が適応しようとしてる。超回復の過程で、一時的に疲労感が増すの。もう少しで、身体が変わる。そうしたら、楽になるから」

 嘘だった。

 身体は適応しない。適切な休養を取らなければ、疲労は蓄積する一方だ。超回復理論は、十分な回復期間があって初めて成立する。それは、スポーツ科学の基本中の基本だった。私は大学でそれを学び、卒業論文でそれを証明した。

 でも、彼は信じた。

「そっか。燈がそう言うなら」

 彼は、疑わなかった。私の言葉を、絶対的な真実として受け入れた。

 その信頼が、私の胸に甘い痛みを走らせた。


 

 6ヶ月目。

 彼の様子が、明らかに変わってきた。

 練習後の回復が遅い。ストレッチをしても、筋肉の硬直が解けない。食欲が落ちている。彼の好物だったカツ丼も、半分残すようになった。睡眠の質も悪化している。朝、起きられない日も出てきた。アラームを5回鳴らしてもなかなか起きられない。身体が鉛のように重いと彼は言った。

 安静時心拍数も上昇していた。通常は毎分45回だったのが、55回まで上がっている。慢性疲労の典型的な兆候だ。

「燈、俺、おかしいかもしれない」

 ある日の夕方、彼が練習後に相談してきた。声が震えていた。

「身体が動かない。気持ちは前に行きたいのに、足がついてこない。昨日のインターバルも、目標ペースより10秒も遅れた」

「オーバートレーニングかもね」

 私は冷静に答えた。医学用語を正確に使い、専門家としての信頼性を演出する。

「少し休んだ方がいいかも」

「でも、世界陸上まであと1年しかない」

 彼は焦っていた。その焦りこそが、私の計画を加速させる燃料だった。

「休んでる暇なんてないんだ。ライバルたちは毎日走ってる。俺が休んでる間に、差をつけられる」

「そうだね」

 私は頷いた。共感を示し、彼の不安を肯定する。

「じゃあ、練習の質を少し落とそう。量は減らさないけど、ペースを落とす。そうすれば、回復しながら走れる。」

 また、嘘だった。

 量を減らさない限り、回復はしない。ペースを落としても、総負荷は変わらない。むしろ、長時間の低強度運動は、回復を妨げる可能性すらある。

 でも、彼は信じた。

 私の言葉に縋るように、頷いた。


 

 9ヶ月目。

 彼の記録が、落ち始めた。

 5000mのタイムが、3ヶ月前より10秒遅くなった。10000mメートルも、20秒落ちた。ハーフマラソンの記録会では、自己ベストより2分も遅いタイムだった。ゴール後、彼は芝生に倒れ込み、十分間動けなかった。

 練習日誌を見ると、彼の走行フォームも崩れていた。着地時の衝撃吸収ができず、膝への負担が増している。足首の可動域も狭くなっていた。

「どうして……」

 彼は混乱していた。記録会から帰る車の中で、何度もその言葉を繰り返した。

「こんなに練習してるのに、タイムが落ちてる。むしろ、練習量は増やしてるのに」

「一時的なものだよ」

 私は運転しながら言った。ハンドルを握る手に力を込めて、感情を抑える。

「身体が、新しいレベルに適応しようとしてる。その過程で、一時的にパフォーマンスが落ちることがある。でも、そこを乗り越えれば、一気に伸びる。スポーツ生理学ではプラトーと呼ばれる現象だよ」

 専門用語を使って、もっともらしく説明した。「プラトー」「ピリオダイゼーション」「テーパリング」。

 すべて、本来とは違う文脈で使った。正しい理論を、間違った状況に当てはめた。知識の悪用。それは、無知による過ちよりも罪深い。

 でも、彼は納得した。

「そうか。じゃあ、もう少し頑張れば……」

「うん。もうすぐ、ブレイクスルーが来る」

 来ない。

 ブレイクスルーなど、来るはずがない。

 このまま行けば、彼の身体は確実に壊れる。筋線維は回復せず、腱は炎症を起こし、骨には疲労骨折の兆候が現れる。血液検査をすれば、炎症マーカーが異常値を示すだろう。

 私はそれを知っていた。予測していた。計画していた。


 

 1年目。

 彼は、時折弱音を吐くようになった。それは頻度を増し、内容も深刻になっていった。

「燈、本当に大丈夫かな」

「燈、俺、間違ってないよね」

「燈、このままで、世界陸上に間に合うの?」

 そのたびに、私は優しく言った。彼の頭を撫で、背中をさすり、温かい飲み物を用意する。

「大丈夫」

「間違ってない」

「必ず、間に合う」

 そして、もう一つの言葉を添えた。

「ここまで来れたのは、私が支えてきたからだよ」

 責めるでもなく、誇示するでもなく。ただ、事実として。淡々と、しかし確実に。

「高校の時、鈴都は最下位だった。大学の時、補欠だった。一度も試合に出られなかった。でも今、世界陸上を目指せるところまで来た」

 私は彼の目を見つめた。その瞳は疲労で濁っているが、まだ私への信頼を失っていない。

「それは、鈴都が頑張ったから。誰よりも、努力したから。でも」

 私は言葉を区切った。

「私がいたからでもある。私の指導があったから。私の支援があったから。私の愛があったから」

 その言葉は、彼の心に深く沈み込んだ。

 金銭面でも精神面でも、私にどっぷりつかり切っている彼は、私に逆らえなくなっていった。私が練習メニューを決め、食事を管理し、スケジュールを組む。彼の生活は、すべて私の手の中にあった。

 私の言うことが、絶対になっていった。

 それは支配ではなく、愛だと私は思っていた。歪んだ、病んだ、壊れた愛。だが、愛には違いない。

 そして、選考レースの一つである福岡国際マラソンに挑んだ。

 世界陸上マラソン日本代表の選考。選考レースで参加標準記録を越した上位2名と、選考レース全体を総合的に見て好成績を残した1名の、計3名が選ばれる。

 私たちの作戦としては、選考レースで最も早い時期に行われる福岡国際マラソンで参加標準記録を越した好記録を残し、来年9月に行われる世界陸上まで疲労を抜くために軽い練習を重ねることであった。

 だが、それはあくまで表向きの目標であった。

 彼に説明した計画と、私の真の計画は、異なっていた。

 ここで高順位を取って世界陸上まで疲労を抜いてしまえば、私の計画は破綻する。彼の身体が回復し、本当に世界陸上で輝いてしまう。それでは意味がない。

 裏向きの計画としては、福岡国際マラソンに立て続いて、来年3月に行われる東京マラソンにも出走する。4ヶ月の間でフルマラソンを2つこなして溜まった疲労は半年の間隔では、完全な回復は不可能だ。そうすれば疲労が抜けきらない中で世界陸上に挑むこととなる。

 この裏向きの計画を遂行するためには、福岡国際マラソンでそこまでの好成績を残させないことが重要だ。代表確定ラインぎりぎりの記録。それが理想だった。

 マラソン前の1週間は、通常、練習量を大幅に減らし、テーパリングを設けて疲労回復に努めるのが理想的だ。一部の選手は2週間前から段階的に負荷を落とす選手もいる。

 だが、私は適当な理由をつけてテーパリングの日を削り、練習を詰め込んだ。

「レース1週間前こそが、最終調整の要だから」

 私は説明した。

「ここで身体に刺激を入れておかないと、本番でキレが出ない」

 逆だった。レース前に疲労を残せば、パフォーマンスは確実に落ちる。

 彼は怪訝な顔を浮かべた。これまでの常識と違うことを、彼の本能が察知したのだろう。

 だが、私の指示にはもう逆らえなかった。

「分かった。燈を信じる」

 その言葉を聞いた時、私の胸に何かが走った。罪悪感ではない。もっと甘く、もっと暗い感情。

 そして、福岡国際マラソンでの結果は、2時間8分55秒。日本人2位。

 参加標準記録を越した決して悪くない記録だった。でも、代表に選ばれるには、ギリギリのラインだった。

 計画通りであった。

 これで、詰め込んだレースプランを選択せざるを得なくなった。

「次で決める」

 彼はレース後、私の目を見て言った。その目は充血し、唇は乾燥で切れていた。

「次の東京マラソンで、2時間7分台を出す。そうすれば、確実に代表に選ばれる」

 その目には、まだ光があった。

 疲労で曇っているが、まだ完全には消えていない光が。希望という名の、儚い炎が。

 それを実感すると、彼を追い続けてきてよかったと思う一方、これが音を立てて崩れる瞬間は壮観だろうとどこか他人事に思う自分もいた。それほどまでに、彼にかける私の想いは増幅していた。高揚が高まっていた。愛が、狂気の領域に達していた。

 私は彼を愛している。だからこそ、壊したい。



 そして迎えた、最後の選考レース、東京マラソン。

 前日の夜、彼は眠れなかったと言った。緊張ではなく、身体の痛みで。膝が、腰が、足首が、絶え間なく痛んだ。

 レース当日の朝、彼の顔色は悪かった。それでも、スタートラインに立った。

 35km地点まで、彼は粘った。意志の力だけで、身体を動かしていた。

 だが、38km地点で、彼の走りが明らかに乱れた。

 それでも、彼は走り続けた。

 ゴール。2時間8分10秒。日本人2位。

 そして、総合的な評価から日本代表に選ばれたという連絡がすぐに来たそうだ。

「やった……」

 ゴール後、彼は私に電話をかけてきた。

「燈、代表に選ばれた。世界陸上、行けるよ」

 その声は、疲労で掠れていた。でも、喜びが滲んでいた。達成感と、安堵と、そして深い疲労が混ざり合った声。

「おめでとう、鈴都」

 私は静かに答えた。

「よく頑張ったね」

「燈のおかげだよ。燈がいなかったら、ここまで来れなかった。本当に、本当に、ありがとう」

 彼は泣いていた。

 嬉し泣きだろうか。

 それとも、疲労の涙だろうか。

 あるいは、無意識の救援信号だろうか。

「あと半年。最後まで、支えてほしい」

「もちろん」

 私は答えた。

「最後まで、一緒にいる」

 その言葉に、嘘はなかった。

 最後まで、見届ける。

 彼の光が消える瞬間を、最も近くで。

 彼が壊れる瞬間を、この目で。

 それが、私の愛の完成形。

 歪んでいるだろうか。狂っているだろうか。

 きっと、そうだ。

 でも、これが私の愛だ。

 彼を手に入れられないなら、せめて彼の輝きが消える瞬間を、私のものにしたい。

 世界陸上まで、あと半年。

 最後の、最も美しい破滅へ向けて。

 私たちの物語は、終わりへと加速していく。

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